ローラやローズ、ゆかりの土地


※ 以下で言及している「小さな家」シリーズの邦題は、恩地三保子氏、谷口由美子氏のものを参考にしています。

ウィスコンシン州のペピンと「大きな森」カンザスの大草原ミネソタのプラム・クリークアイオワ州、バー・オークミネソタ州、ウォールナット・グローヴサウス・ダコタ州、デ・スメットアイオワ州、ヴィントンミネソタ州、スプリング・ヴァレーフロリダ州、ウエストヴィルミズーリ州、マンスフィールドルイジアナ州、クラウリーサンフランシスココネチカット州、ダンベリーニュー・ヨーク州、マローン

ウィスコンシンのペピンと「大きな森」

ペピンは、ミシシッピ河の源であるペピン湖畔の小さな町です。ローラが生まれ、幼い日々を過ごした「大きな森」に一番近い町でもあります。(『大きな森の小さな家』)

私が2000年に、ペピンと「大きな森の小さな家」を訪れたときの話はこちら


カンザスの大草原

ローラは2歳の時に家族と一緒にカンザスの大草原に移り住みますが、『大草原の小さな家』では、6歳のローラがオクラホマ州で体験したものとして語られています。ドナルド・ゾカート氏の伝記によると、オクラホマは州になるまで「インディアン・テリトリィ」と知られていましたが、「インディアン・テリトリィ」はオクラホマだけではなくカンザスにも少し土地があったことを見逃されていたために、「大草原の小さな家」が実際にはカンザスにあったにも関わらず、長い間、ローラ自身までがオクラホマ州にあったと考えていたようです。

本やNBC制作のテレビシリーズでは、政府から立ち退きを迫られて一家はここを後にしますが、これまたドナルド・ゾカート氏の伝記によると、「大きな森」のとうさんの家を買った人から、家と農場を引き取って欲しいという手紙が来たことがきっかけとなって、一家はここを引き払ったとのことです。


ミネソタのプラム・クリーク

一家がここにやって来たのは、『プラム・クリークの土手で』の最初では、インディアン・テリトリィからの立ち退きを迫られた後ということになっていますが、実際には、カンザスの大草原から一旦ウィスコンシンの「大きな森」に戻った後のことです。

ウォールナット・グローブから約20マイル。ウォールナット・グローブのローラ記念館のページ(英語のみ)もご参照ください。

私が2000年に、プラム・クリークを訪ねたときの話はこちら


アイオワ州、バー・オーク

ミネソタで小麦の栽培を始めたインガルス一家でしたが、イナゴの害や干ばつで十分な収穫が得られなかったため、アイオワ州のバー・オークにある「マスターズ・ホテル」に住みこみで働くことになります(1876-8)。とうさんはホテルの仕事に馴染むことができず、また、ここに来る途中に1875年に生まれたチャールズ・フレデリックは急死しています。ローラがここでの出来事を本にしなかったのは、そんな悲しい思い出のためだと思われます。


ミネソタ州、ウォールナット・グローブ

バー・オークを去り、一家は再びミネソタで小麦の栽培を始めますが、うまくいかず、また、メアリーは脳炎にかかり失明してしまいます。なお、テレビの『大草原の小さな家』が主な舞台としているのが、このウォールナット・グローブです。

ウォールナット・グローブのローラ記念館のホームページはこちら(英語のみ)。

私が2000年に、ウォールナット・グローブと周辺の町(トレーシー[『シルバー・レイクの岸辺で』の第3章でローラが汽車を降りた町]とサンボーン)を訪ねたときの話はこちら


サウス・ダコタ州、デ・スメット

思うような小麦の収穫をあげられないとうさんは、サウス・ダコタ州の鉄道工事現場で働く決心をします。ローラたちも後からとうさんに合流し、シルバー・レイク湖畔の「測量技師」の家で一冬過ごします。翌年の春、とうさんは開拓農地を手に入れ、デ・スメットの町の建設にも多いに貢献します。(『シルバーレイクの岸辺で』『長い冬』『大草原の小さな町』)

その後、ローラはここでアルマンゾ・ワイルダーと出会い、結婚します。(『この楽しき日々』)開拓農民として生活し始めますが、不作や家事に見まわれたり、ジフテリアにかかったり、生まれたばかりの長男を亡くしたりで苦しい数年間を過ごします。(『はじめの四年間』)

こちらに、デ・スメットの Laura Ingalls Wilder Memorial Society のホームページがあります。(英語のみ)

私が2000年に、デ・スメットを訪れたときの話はこちらからどうぞ。


アイオワ州、ヴィントン

1881年から1889年までメアリーが通った盲人大学(Iowa Braille and Sight Saving School)があります。


ミネソタ州、スプリング・ヴァレー

結婚後「はじめの四年間」の苦い経験の後、ローラ、アルマンゾ、ローズの三人は、ここにあるアルマンゾの両親の農場に一時身を寄せています。

私が2000年に、スプリング・ヴァレーを訪れたときの話はこちら


フロリダ州、ウエストヴィル

アルマンゾのジフテリア療養のため、1890年から1892年まで、アルマンゾ、ローラ、ローズはフロリダに移住し、ピーターの農場で働いています。しかし、南北戦争終結後、30年にもならないこの南部の土地に、北部出身のローラとアルマンゾは馴染むことができませんでした。ローラが護身用のピストルを持っている写真さえ残っています(例えば、A Little House Sampler の41ページの写真。残念ながら、たいへん分かりにくいのですが、ローラは左手に確かにピストルを持っています)。この時の両親の体験をもとに、ローズは"Innocence"という短篇小説を書き、1922年にオ・ヘンリー賞を受賞しています。


ミズーリ州、マンスフィールド

フロリダへの移住の失敗を経て、デ・スメットに戻ったローラたちは、45日間の幌馬車の旅(『わが家への道――ローラの旅日記』)を経て、「赤いリンゴのなる豊かな土地」(the Land of the Big Red Apple)マンスフィールドへやって来ます。(1894年)

ここでローラとアルマンゾは土地を手に入れ、岩のごろごろした土地だったので「岩尾根農場」(Rocky Ridge Farm)と名付けると開墾を始めます。掘建て小屋から始まった彼らの生活も少しずつ豊かになり、生涯を終えるまで幸福に暮らしています。ローラが「小さな家」のシリーズを執筆したのも、このマンスフィールドです。

こちらは現在はローラとローズの記念館になっている、岩尾根農場のホームページ(英語のみ)です。私が1998年にマンスフィールドを訪れた時の話はこちら。ローラの親友だったニータ・シールやローラとローズの母娘関係にも言及しています。


ルイジアナ州、クラウリー

マンスフィールドの学校を卒業したローズは、伯母のイライザ・ジェインの家に下宿しながら、高校に通い、卒業に必要な4年間の過程をわずか1年で修了しています。


サンフランシスコ

高校卒業後、電信技士として各地を転々としながらキャリアを積んだローズは、22歳の時(1908年)にサンフランシスコへやって来ます。ここで彼女はカリフォルニア州初の女性不動産ウーマンとして働き、仕事仲間のジレット・レインと1909年に結婚しますが、1918年には離婚し、ニューヨークで作家として、また、ジャーナリストとして本格的な活動を始めることになります。なお、ローラは、1915年の万国博覧会()の時にローズのサンフランシスコのローズの家にしばらく滞在しています。この間、ローラはマンスフィールドにいるアルマンゾに多くの手紙を書いていて、それをまとめたのが、West from Homeです。

ローラは、サンフランシスコの海岸ランズ・エンドで、生まれて始めて太平洋を見、海水に足を浸しています。彼女は、中国や日本の海岸を浸しているのと同じ海水に、自分の足も浸っているのだという感慨に耽っていますが、少女時代に西へ西へと移動しつづけた彼女が、50代を目前にして、ついにアメリカの西の果てにやって来た、という感じです。なお、彼女は、列車を使って、マンスフィールドから、スプリングフィールド(MO)、カンザス・シティー、デンヴァー、ソルトレイク・シティー、オグデンを経由して、サンフランシスコへ至っていますが、デンヴァーとソルトレイク・シティーの間では、始めて砂漠を見ています。

私が1997年にローズの家を探しに行った時の話はこちら。サンフランシスコの歴史については、こちらの"The History of San Francisco"(英語のみ)をどうぞ!

 Panama-Pacific International Exhibition。パナマ運河の開通を記念したもの。


コネチカット州、ダンベリー

ローズが1938年から1968年に亡くなるまで住んでいたのが、ここです。


ニューヨーク州、マローン

アルマンゾが少年時代を過ごし、農夫として生きる決心をしたのがここです。(『農場の少年』)


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