マンスフィールド訪問

私は1998年の8月14日にミズーリ州マンスフィールドを訪れました。エルヴィス・プレスリーの故郷、メンフィスからグレイハウンド(1)のバスを使いましたが、「メンフィス→マンスフィールド」はジョーンズボロ(Jonesboro、アーカンソー州)経由で約6時間です。なお、マンスフィールド最寄の飛行場のある街は(ミズーリ州)のスプリングフィールドで、グレイハウンドのバスで約一時間です。「スプリングフィールド→マンスフィールド」も「マンスフィールド→スプリングフィールド」も一日にだいたい一本ずつです

マンスフィールドが近づくにつれて、うねうねとした丘とうっそうと茂った森が広がります。マンスフィールドは、ローラもその噂を聞いてやって来たのですが、「赤いリンゴがなる豊かな土地」として有名なオザーク丘陵の中にあるのです。

マンスフィールドの中心部のB&Bに荷物を置き一息ついてから、私は岩尾根農場へと向かいました。だいたい15分くらいの道程だったと思いますが、途中、道の両側に広がるのは牛の放牧地です。ローラとアルマンゾの生活は掘建て小屋から始まりましたが、現在、ローラ・インガルス・ワイルダー・ホーム協会によって大切に保管されている家は、協会のホームページを見ても分かる通り、裕福な農家の家という印象です。イギリスはヴィクトリア朝の装飾品で彩られ、台所にはローラが家事を能率的にこなすために施した工夫の跡が見られます。例えば、台所と食堂を隔てる壁には窓があり、調理大から食卓へすぐに料理を出せるようになっています。ローラは『ミズーリ農民』(Missouri Ruralists)という農業誌に、このような生活のちょっとした工夫を紹介して、農家の主婦が少しでも生活にゆとりが持てるよう提案していたのです。

この家の居間の片隅には、ローズの本だながあります。ローズが何を読んだかはたいへん興味あるところですが、本棚のあるコーナーが低い壁で仕切られているため、残念ながら本のタイトルがよく見えず、確認できたのはルソーと分厚いギリシャ語の辞書だけでした。後から思えば、協会の人に頼んで見せてもらえば良かったのですが、私はローラの家に来たというだけで満足して切っていたのか、よく見えないけど、いいや、と簡単にあきらめてしまったのでした。

この家の一部は博物館になっていて、多くのローラやその家族ゆかりの品々が納められています。私が特に見たかったのは、とうさんのヴァイオリン(2) と、「日々の糧を与えよ」(Give us the Day of our Daily Bread)という浮き彫りのほどこされたガラスの皿(3)でした。ヴァイオリンは一定の温度と湿度が保たれたケースにしっかり保存されていて、その音色が聞けるのは、毎年10月半ばに開かれるロッキー・リッジ・デイ(Rockey Ridge Day)というお祭りの日だけだそうです。ガラスの皿はローラとアルマンゾが結婚して始めてのクリスマスの記念として購入したもので、彼らがその2年後に見まわれた火事を逃れ、ローズの死後、その持ち物の中から発見されたのだそうです。ローラが結婚式に着たものではないかと思われる黒いドレスや、ローズが高校の卒業式で着たレースのドレスも展示されていますが、どちらもとても小さくて、身長は150cmくらいしかなかったのではないかと思われます。そういえば、家の天井もとても低かったのです。

岩尾根農場の中には、ローズが両親に送ったイギリス風の石造りの家もあります。高校入学と同時に両親の家を離れたローズですが、38歳の時(1924年)に年老いた両親の傍にいた方がいいのではないかと考えてマンスフィールドに一時帰郷します。しかし、ローズは両親と同居する気にはどうしてもなれず、両親をこの石造りの家に住まわせ(1928-36)、自分は一人で母家に住んだのです。

ローラが「小さな家」のシリーズを書き始めたのが、ちょうどこの頃です。ローズはかねてから母親に子供時代の思い出を本にするよう勧めていましたが、1929年のウォール街の株の大暴落で持ち株を失い、ローズ自身経済的に行き詰まり両親を経済的に自立させる必要性を痛感したころから、本気で出版を考えるようになり、ローラも執筆する決心をしたのです。

しかし、あくまで事実に忠実であろうとするローラと、読者に広く受け入れられる作品を書かせようとするローズは、本の構成や文体などについてしばしば意見を衝突させます。また、ローズは補佐役に徹するうちに作家としてのフラストレーションを感じるようになり、「小さな家」の設定そのままに彼女が自由に発想したLet the Hurricane Roar(1933)を執筆するのです。この作品はたいへん評判になりましたが、事実を曲げたものとしてローラの怒りを買い、ローズはマンスフィールドを飛び出してしまいます。ニューヨーク・シティーのアパートに住み、後にコネチカット州、ダンベリーに居を構えたローズは、二度とマンスフィールドに住むことはありませんでしたが、それでも、母親から求められるままに「小さな家」を世に送りだす補佐役を続けています。

さて、マンスフィールドの町は、ローラや「小さな家」の思い入れがなければ、何てことはないアメリカの田舎町です。雑貨屋やカフェ、銀行が並ぶメイン・ストリートを端から端までほんの数分という感じです。広場のあたりで話し掛けてきた中学生くらいの女の子二人組に、彼女たちの名前を紙切れにカタカナで書いてやると、「学校に持っていって先生に見せよう」と、嬉しそうでした。

宿泊したB&Bは、ローラの旧友ニータ・シールがかつて住んでいた家です。ローラはアルマンゾの死後、2月7日の誕生日は必ずここで過ごしたといいます。ベッド・ルームが全部で5部屋ほどある大きな家で、岩尾根農場のローラの家と同じくヴィクトリア朝の家具で装飾されています。庭も木々や草花の自然な姿を楽しむイギリス風のものです。現在のオーナーは、年老いて家や庭の手入れができなくなったニータから1980年にこの家を購入しています。彼らはニータの親族でも何でもないのですが、この家の歴史を大切にし、一年を通じてやって来るアメリカ内外の「小さな家」愛好者を暖かく迎えては、共にローラが訪れていた昔を偲んでいるのです。

ローラとニータの交流は、ニータの夫サイラスが経営していたガソリンスタンドを、アルマンゾが客として訪れ親しく言葉を交わすようになったことに始まり、1938年には、4人で西海岸で休暇を過ごしてもいます。アルマンゾが運転していた車は、年老いた両親が行動範囲を広げられるように、という願いを込めてローズから送られたものです。ローラは、ローズと同年代のニータに、特に信仰の面で共感を覚えたといいます。実際、ニータの信心深さを示すかのように、彼女のかつての家には、聖書からだと思われる一節が額に入れてられたり、クッションに刺繍されていたり、ここかしこに見られます。

この家で頂いた朝食は、ローラの頃と同じやり方で塩漬けにした豚肉を焼いたもの、ジャガイモにグレイヴイをかけたもの、卵料理、ビスケット、手作りの木苺のジャム等などの豪華なものでした。子供の頃、「小さな家」を読んでは、「グレイヴィ」っていったいどんなものだろうか、と想像したものです。「小さな家」には食べ物に関する記述が多く、それが魅力の一つであるように思われますが、「グレイヴィ」には特に心惹かれたのです。随分以前にイギリスで「グレイヴィ」を頂く機会があり、ああこれが、と思いはしましたが、ここで頂いたものの方がドロリとしていながら、以外にあっさりして美味しかったです。ここで頂いたビスケットはイギリスのスコーンよりもさっくりした感じで、「ケンタッキー・フライドチキン」のビスケットに似たものでしたが、もしかしたら、多少の違いはあっても、英米の人たちは「スコーン」と「ビスケット」を同意で使用するのもしれません。ローラがサンフランシスコでたくさん食べたという "Scotch scone"というのは、また全然違うものなのでしょうか。気になります。




(1)  自分で運転せずしてアメリカを旅するのに、一番便利なのがグレイハウンドのバスでしょう。映画『ティファニーで朝食を』でも、オードリー・へプバーン扮するホリーの元夫ドクがグレイハウンドのバスでニューヨークを後にする場面あります。20世紀のアメリカの代表的な公共の交通期間と言えそうです。グレイハウンドのホームページ(http://www.greyhound.com)で簡単に運行スケジュールや運賃が調べられて便利です。もっとも、ローカルな路線は掲載していない場合が多いので、利用する前にフリーダイヤルのインフォメーションや、各ステーションで確認する必要があります。数ヶ所を旅する場合、アメリパスという周遊券がいちいちチケットを購入しなくていい分便利ですが、必ずしも、アメリパスを使った方がお得、というわけではありません。私はニューオーリンズからシカゴまで、メンフィス、マンスフィールド、ミズーリ州のスプリングフィールド(アメリカには各地にスプリングフィールドという地名があるのです)、セントルイスに立ち寄りながら、アメリパスで旅をしましたが、アメリパスの金額よりも、私が利用した各路線の運賃の合計の方が安かったのです。なお、ニューオリンズからメンフィスに向かう途中に立ち寄ったミシシッピ州、ジョーンズのグレイハウンド・ステーションのカフェテリアのフライドチキンが美味でした。

※ 2006年3月の段階で、グレイハウンドはMansfield MOを通っていません。(Wさん、情報、ありがとうございました。)

(2) ドナルド・ゾカート氏の伝記、131-2ページによると、とうさんはこのヴァイオリンをイタリアのアマティ作の高級ヴァイオリンだと信じていたようですが、実はにせものでした。19世紀のアメリカに、アマティのヴァイオリンの偽物がおそらくドイツから大量に流入したとのこと。アマティ家はヴァイオリン制作にたずさわる名家で、ニコロ・アマティはアントニオ・ストラディヴァリの師匠なのだそうです。

(3)  岩波少年文庫『はじめの四年間』の裏表紙と172ページに、ガース・ウィリアムズ氏によるこの皿のイラストが載っています。


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