自然と風土

●ドイツへようこそ!Willkommen in Deutschland!

 あなたが日本から乗ってきた航空機も10時間をこえるフライトを経て空港への着陸態勢に入った。だんだんと接近してくる町並みの向こうに市内の中心が見えるかも知れない。
 あなたがフランクフルト(Frankfurt am Main)に降り立ったのであれば、かなり高層ビルの目立つ近代的な都市が視界に広がっている。だが視線をいったん遠くに移すと商工業地区だけでなく農耕地が垣間見えてくる。あるいは観光拠点のミュンヒェン(München)に直行する路線だったら、アルプス(Alpen)を背景にシュタルンベルガーゼー湖(Starnbergersee)を目にする機会に恵まれる可能性もある。われらが鴎外(1862-1922)の『うたかたの記』の舞台となった湖が眼下の大地に抱かれている。かれはルートヴィッヒU世(Ludwig der Zweite, 1864-1886)変死体で発見されるとの報をいちはやく自分の小説に取り入れた。あなたは駅で借りた自転車で自分が風光明媚なバイエルン王終焉の地を一周している姿を思い描いている。
 またスイスから陸路でドイツに入っても面白いかも知れないが、たとえばスイスのバーゼルでさえ独語(Basel)と仏語(Bâle)の二重表記となっているので注意しようPaß auf! たった一歩足を踏み入れただけで言葉が変わるのならまだしも、おなじ国でさえ複数の言語を用いている複雑さがヨーロッパを形成してきた。なにしろ現代ヨーロッパにはロシア語を筆頭に67の言語が知られているが(ドイツ語は2位で英語が3位である)、かならずしも言語の境界が国境と重なっているわけではなく、また同一の言語が複数の国々の公用語になっていても不思議ではない。まあいずれにせよ無事に到着したのだからWillkommen in Deutschland!
なんとか入国の手続きを済ませてICE (Intercity-Express)に乗り込むことができたと想像してみよう。あなたがフランクフルトからミュンヒェンに向かっているなら、かわいらしい居城の点在するライン河(Der Rhein, 865km)の景観が存分に楽しめるはずだ。だがしばらくしてあなたはふと思うかも知れない − なんだかフランクフルト以外は都市の規模がどれも小振りだな、なにしろ車窓をときおり流れる丘陵を除くと起伏というものが感じられない。あながち以上の印象がドイツの風土の一部をなしていると言って過言ではない。たしかに国土のほとんどが山地で覆われている日本とは違って、ドイツではアルプス前方丘陵地帯(Voralpen)まで行かないと山らしい山は見られない(写真2・4)。むろん古生代からの褶曲と堆積の組み合わせがアルプスを押し上げたスイスのような地形は望むべくもない。だけれど北海(Nodsee)やバルト海(Ostsee)は数千bの厚さの氷河が削り取った爪痕だというから、おもに北ドイツに見られる湖沼も壮大な浸食作用の忘れ形見なのかも知れないが。
 たしかにドイツの都市がどれも小規模なのにもそれなりの理由があるようだ。おのおのの地方が比較的独立していた色彩を現在も16の州政府が守っており、あなたが車でオーストリアからバイエルン州(Bayern)に入る予定なら、「ドイツ」の国境で「バイエルンへようこそ」という表示を目にするだろう。あくまでも「バイエルン」であって「ドイツ」でない点に連邦制の矜持が感じられる。さらに東京と比べられるような規模をもった都市はベルリーンぐらいしかない(写真15)ので、ミュンヒェンでさえ列車で20分も走ると平べったい田園風景に変貌するのもドイツの特色である。ただし興味深いことにバイエルン北西部を担当する農村整備局長によると、6年前に比べ農村部の人口も3lは増えている(朝日新聞、98年10月5日)とのことだから、なるほどドイツの都市部も郊外に膨張しつつあることは認められよう。だけれど西ドイツ政権時代の1968年には住宅不足解消宣言が出されているし、また余暇開発センターが1980年に提出した古いデータだけど、当時のEU9カ国の通勤労働者の70l以上までが自宅から勤務先まで10`以内に住んでいるところを見ると、なにも住宅地を求めて都市が無闇に拡大しているわけでない。だから1時間ぐらい電車に乗ったぐらいでは都市部と郊外の境目がほとんどない東京と比較するのは土台から無理な話しなのだ。なにしろドイツから来た友人は東京を見て「混沌としている」と驚いていたが、かれの住宅は都市計画によって屋根の向きから外壁の色まで決められているとのことだから、ドイツと日本との違いはいやでも目につくにちがいない。
 だとしたらドイツの自然だとか風土の特色とは一体何なのだろう。だがドイツの地理と一言で言ってもドイツだけで成立しているわけでなく、あくまでも周辺国との関係(9カ国と接している国境は総長3767`である)のなかで産み出されたものだ。なにしろドイツ人が「父なる河」と言って自分たちの誇りにしているライン河からしてスイスを水源にフランスとオランダにまでおよんでいるし、さらにヨーロッパ第2位の長さを誇るドナウ河(Die Donau)にいたっては黒海に注ぎ込むまでに2888`を旅する「民族興亡の歴史の舞台」なのである。なおこれに北海やバルト海を経由して結ばれる国々を加えると「隣人」が多くなることは言うまでもない。

●「中部ヨーロッパ」のなかのドイツ

  「わたしたちほど多くの隣人を有しているヨーロッパの国はない。あらゆる国境を隣人への架け橋とせねばならない。これがわたしたちの意志なのである」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、1990年)
 あなたの降り立ったドイツが位置しているのは端的に言って「中部ヨーロッパ」(Mitteleuropa)と呼ばれる地域である。たしかにフランスの哲学者デリダが形容したようにヨーロッパはユーラシア大陸から突き出た「岬」にすぎないが、また同時にヨーロッパが世界史のなかで「先端」の働きをしてきたことも事実である。およそ40を数えるヨーロッパの国々のなかで様々な方角に突き出る「半島」の「基幹部」として、またロシアを代表する東ヨーロッパとイベリア半島など西ヨーロッパの「中間」として、ドイツはオーストリアやスイスとともに「中部」という地理的な位置を占めている。
 この事実は1990年10月3日に統一がなされてからは一段と重みが増すようになり、ある記述によればドイツは文字どおり東西のあいだの「転車台」とさえなっている。なかでもロンドンとミラノを南北に結ぶ帯域は「青いバナナ」(Blaue Banane)と呼ばれ、ヨーロッパのなかでも商工業の高度に発達した地域を指すことがあるが、およそこの「バナナ」がドイツの西側半分を覆っていると見て差し支えない。なお「連邦村」(Bundesdorf)と揶揄されるボン(Bonn)もEUの統合と通貨ユーロ誕生のシンボルだったオランダのマーストリヒト(Maastricht)も、「青いバナナ」のなかに位置していて100`ほどの距離しか隔たってない。また「青いバナナ」にはパリもベルリーンもヴィーンも含まれてはないが、オイレギオ・プロジェクト(Euregio-Projekte)という隣接地域による経済ブロックが、まるで房のように「青いバナナ」の周辺に貼り付く格好となっている。たとえばドイツのメクレンブルク・フォアポンメルン州(Mecklenburg-Vorpommern)とブランデンブルク州(Brandenburg)とポーランドとが構成するオイレギオ・ポメラニアが一例である。かくしてドイツは結果的にヨーロッパで最も恵まれた経済の中心となっている(EU全体のGDPの26.0l=1位を占めてフランスの17.0l=2位を大きく引き離す)ことが分かるだろう。だがドイツが地理的にも経済的にもヨーロッパの中心に位置していると言っても、またこれは多くの点で周辺諸国とのあいだに複雑な歴史をもたらす要因ともなってきた。
 たとえばドイツ人たちが一般に自分たちの風土と言ったときに抱く表象は、かならずしも今日の発展とは直接関係のない記憶がにわかに加わってくる。あのゲーテ(Goethe, 1749-1832)をはじめとする詩人と哲学者が想像的な故郷として憧れたギリシャやローマのことを言っているのではない。さながら昨日のことのように思い出される具体的な光景が風土をめぐるドイツ人の原風景となっている。まさか戦前まで国歌(囲み記事)の1番に歌われていたように、「一致団結」すれば「マース川(Die Maas)からメーメル川(Die Memel)まで」「エッチュ川(Die Etsch)からベルト海峡(Der Belt)まで」が、「世界に冠たる」(Über alles in der Welt)ドイツ本来の版図だと考える人は皆無だろう(地図1)。なお付け加えて言うとマース川にちなんだオランダの都市の名前がマーストリヒトだから、かつての国歌が周囲におよぼした牽制力の大きさたるや推して知るべしであろう。なるほど1945年のポツダム会談のさい連合軍によって決定されたオーデル=ナイセ線(Oder-Neisse)とライン河とのあいだにドイツも安住している(地図2)。まさに近代国家揺籃のさいに河川や山脈によって国境を定めた「自然国境説」が今日でも遵守されているように見えるかも知れない。だけれど数世代にわたる定住ドイツ人が300万以上もいたチェコのドイツ側国境地帯ズデーテン地方(Sudeten)や、あるいは現在のポーランド南西部とチェコとドイツにまたがるオーデル川中上流域のシュレージエン(Schlesien)などをめぐる想いは依然として複雑である。かつての共産政権の時代には水面下に隠れていたドイツ系住民が統一後にドイツ人であるとこぞって表明し、かれらに本国への帰還とドイツ語の再教育を促すことにドイツ政府も積極的な予算を組んだため、かえってドイツ国内にいたトルコ系移民らの反発を買う結果となったり、ドイツが東西統一の承認を周辺国に求めたさいズデーテン問題の最終的精算を、チェコ側に譲歩せざるをえなかったゆえんである。あれだけナチスが併合と略奪を繰り返したにもかかわらず、ドイツ系住民を強制的に追放したことではチェコにも言い逃れのできない罪責感があって、おたがいのあいだに息の長い確執を醸していたのである。
 たびたび「ブランデンブルク辺境領」をモティーフに描いて失われた中世以来の領土への郷愁を煽るアンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer, 1945-)は、ドイツ人が土地に寄せる隠れた想いを最も的確に視覚化してきた画家であると言ってよい。かれは挽き起こされたばかりの畝が無数に露出した畑地を圧倒的な大きさのキャンバスに再現するだけでなく、ごていねいにも実際の土や藁や羊歯をコラージュすることで喪失感をいよいよ増大させようとする。おまけに陳腐な鬼火があちらこちらに尤もらしく描き加えられているといった念の入れようだ(図版1)。あまりにも歴史的な感傷にたちどころに感染してしまうドイツ人の風土をめぐるメンタリティー。あたかも以下のような押し殺したような呟きが画面から聞こえはしまいか−−。おまえたちは代々にわたってライ麦とジャガイモぐらいの農業に携わっていた。おまえたちはやがて自分たちの夢と野心に駆られて東へ東へと開墾していく。だからバルト海沿岸にはドイツ語の地名を冠した都市があれほどあったではないか。なにもプロイセンの軍事強権だけを後ろ盾にして略奪していったのでない。なぜなら東方植民は12世紀に遡る時代から立派に行なわれてきたし、また現地の経済を近代化させることにも確実に寄与したではないか。おまえたちの努力はだがナチスの悪夢とともに文字どおり根こそぎ奪われてしまった。あのドイツ語の都市名は歴史の文献に姿を留めているにすぎない。おまえたちの労働の痕跡は記憶の闇のなかに永久に失われてしまった。おまえはたちは自分たちの出発点を見てもう一度思い出すがよい、まさに寒風吹き荒れるこの土地が出発点だったのだということを......。
 あなたが降り立ったドイツには空間的な条件ばかりでなく時間の沈殿物もたっぷり染み付いている。だからヴァイツゼッカー前大統領の冒頭の言葉もリップ・サーヴィスなどでなく、かなり重い響きのこもったものであることが少しは想像できるであろう。あなたが観光シーズンに目にするお気楽な田園風景や季節ごとに見られる祝祭的な都市の佇まい(写真7)だけがドイツの風土なのではない。だけれどドイツにせっかく来たんだから歴史の教科書みたいな硬い話しはやめて、トーマス・クック(Thomas Cook)の国際時刻表を片手に鉄道の旅行してみては如何だろうか。
 ある学生が鉄道だけを使ってパリからモスクワまで旅行したときの日程表がある(表1)。なんならトルコのイスタンブールに行く列車もドイツ国内から出ているから、あなたも若いうちに一度挑戦してみればGute Fahrt!、きっと「中部ヨーロッパ」というドイツの占める地理条件が体感できよう。またトーマス・クックをたよりに自分で旅行の日程をヴァーチュアルに立てるのも面白いかも知れないし、かつて二葉亭四迷が病を得て急遽帰国せねばならなかったさいにペテルブルクからリヴァプールまで辿った行程や、あるいは鴎外が『舞姫』で描いている日本までの足取りを追ってみることもお勧めする(谷口ジロー+関川夏央のマンガ『秋の舞姫』双葉社を参照されたい)。

●ドイツを一日で縦断する−−北海からアルプスへ

 さあドイツの自然と風土を実感するためにここらへんで鉄道による縦断をしてみよう。なお参考までに主要な都市の場合にかぎって人口と標高、および1/7月の気温と年間降水量を併記しておくので、ドイツを南下することで気象がどう変化していくか読みとってほしい。
 きのうはドイツの北端に位置する北海のジュルト島(Sylt)に滞在していた。なおバルト海は太古の氷河が作った巨大な爪跡だと言われており、だから北ドイツ低地(Norddeutsches Tiefland)の湖もほとんどは氷河の名残らしい。わたしたちはハンブルク(Hamburg, 171万=ドイツ2位, 14m, 0℃, 17℃, 714mm)を8時25分に出発するシーズン列車ALPEN-SEE-EXPRESSに乗り込むところだ、Bitte einsteigen, Vorsicht am Zug! なんのアナウンスもなく列車はプラットホームをゆっくりと離れていく。おのおのの土地ごとに優劣を競っているビールを車内で求めて楽しむのも一興かも知れない。まだしばらくは長い直線コースを走ることになるが、あちこちに広がる穀物の畑地と牧草地が車窓を流れていく。
 まだ出発してから1時間半も過ぎてはいないだろうか、ちょうど2000年に「水と世界」をテーマに173カ国と14の国際機関が参加する、エキスポの開催地ハノーファー(Hannover, 52万, 53m, 0℃, 17℃, 661mm)を通過したところだ。たしか98年にドイツ鉄道(Deutsches Bahn)が引き起こした悲惨な事故の場所として記憶に新しいエシェルデ(Escherde)も Gott sei Dank! 無事に通り過ぎたようだ。ここからドイツ中部山岳地帯(Deutsches Mittelgebirge)が始まる。あのハルツにある名高いブロッケン山(Der Brocken)でさえ1142bの高さしかないが、さながら箱庭のなかに設えられたような丘陵と森林と市街を列車は駆け抜けていく。かつてケルト人の「漁港」として人が住み始めたヴュルツブルク(Wurzburg)はマイン川(Der Main, 524km)にまたがる都市で12時42分に到着した。わたしたちはもう南ドイツにさしかかったと言ってよい。ちなみにフランクフルト(65万=ドイツ5位, 103m, 1℃, 19℃, 629mm)はマイン川の100`ほど下流に位置した、ドイツのみならずEU11カ国の経済を担う金融の一大中心地である。
 あたかも波打つような緑の絨毯が目の前に開けてくる、さきほど渡ったドナウ川あたりからアルプス前方丘陵地帯が始まるのだ。さすがにここらへんの湖になると冬には凍結してしまうのだが、なんとドイツ人は氷上を平気で散策したり自転車で走ったりする。わたしたちはミュンヒェン(124万=ドイツ3位, 518m, -2℃, 17℃, 904mm)には15時に、さらに16時30分にはガルミッシュ・パルケンキルヒェ(Garmisch-Parkenkirche, 715m, -3℃, 15℃, 1296mm)に到着した。ここから2963bの高さのドイツ最高峰ツークシュピッツェ(Die Zugspitze, -11℃, 2℃, 2390mm)が展望できる。おとなりのオーストリアとスイスとに250`の長さで接している国境も目と鼻の距離しかない。およそ910`の距離と1300bの高低とを8時間5分で移動する旅が終わったのだ。
 さらにドイツの自然と風土を物語る興味深いデータを最後に付け加えておこう。はたしてドイツの春はいつ始まるのかというデータである。たとえば日本の場合は桜前線の北上が春の訪れとして挙げられるが、ドイツ語には「やっと5月がきた」という言い回しがあるし、わざわざゲーテも「5月の歌」なる詩を書いて親しまれているように、かねてよりドイツでは5月をもって春の開始とする考えが圧倒的だった。だけれど春の到来を具体的に指し示すものとして「リンゴの開花」が、ある出版社から出されたドイツの地理の教科書に載っている。なぜならワイン栽培でさえボン近郊のケーニッヒスヴィンター(Königswinter)が北限で、ほぼドイツ全土で栽培されているのはリンゴぐらいだからだ。まずリンゴの開花は4月の15日から20日にかけてドイツ南西のフライブルク(Freiburg)周辺で始まる。さらに10日ほどのあいだに開花前線はライン河を一気に北上するかたちでルール地方におよび、またチェコやオーストリアに接するドナウ川流域のほうにも飛び火する。だが北部のほうでは早くとも5月10日過ぎにならないと開花しないし、デンマークとの国境付近や山岳地帯では20日まで待たねばならない。
 あの「5月の歌」を書いたときゲーテはどこに滞在していたのだろう。だけどフランクフルトのザクセンハウゼン(Sachsenhausen)という一角ではアップル・ワインが好んで飲まれている。あなたも当地を訪れたさいはドイツの人たちと一緒に戸外のテーブルで楽しんでみてください、Prost!

●なぜいまさら「ライン河」なのか

 なにもいまさら「ライン河」でもないじゃないかScheißegal!という意見もあるだろう。わたしたちが求めているのはドイツのリアルタイムなイメージなんだから。たしかに表面上は中立を装っている表象が他面で代理的な機能をおのずから帯びてしまうのは当然である。かくして日本だったら富士や花見や紅葉の写真を載せたガイドブックが溢れる結果となり、あるいはドイツであったらラインが観光のスポットとして定着することになる。だけれど暗黙の了解と化した記号は多くのものを切り捨てて一人歩きしてしまう危険をつねに孕んでいる。
 わたしたちが「ローレライ」(表2)や「ライン下り」などによって親しんできた文学的なイメージとは対照的に、あくまでもドイツ人の抱くラインの姿は過去から現在にかけて変化を続てきたし、また今後も必然的に流動的にならざるをえないと思われる。たとえロマンティックなメルヒェンとの組み合わせであろうと、あるいは原子力発電所といった今日的なテーマとの組み合わせであろうと、あらゆる表象を満足させるアメーバーのような記号としてのライン。まさに人工的な護岸計画や近年の異常気象のおかげで氾濫したと言ってはラインであり、たまに氷が張るとフランスとドイツを猪が行き来する(フランスから来た猪のほうが旨いというおまけつきで)と言うのもラインである。
 たとえばライン沿いにはルートヴィッヒスハーフェン(Ludwigshafen)という地名があるが、「ハーフェン」とは英語の「ハーバー」に相当する単語で文字どおり港を意味している。だけれど当の都市は北海よりもスイスに近いラインラント・プファルツ州(Rheinland-Pfalz)に位置している。なんでよりによってドイツのほぼ中央に「港」なんかがあるのだろうか。あなたも地図を見れば分かるようにドイツは極端に海岸線の乏しい国である。だから河口から内陸部に入ったところに「内陸港」が設けられているといったたぐいのことは、およそドイツにかぎらずヨーロッパでは意外でもなんでもない。おのおのドイツで2位と10位の人口を擁する独立した行政府をもつハンブルクもブレーメン(Bremen)も、さらにはオランダだったらアントワープもロッテルダムもまた立派な「内陸」の「港」なのである。だからルール地方(Ruhrgebiet)の入り口に位置する欧州最大の内陸港デュースブルク(Duisburg)やケルン(Köln)までなら4000dの、スイスの輸出入の半分以上を扱うバーゼルまでなら2000dの積載量をもつ船舶が頻繁に行き来している(写真5)。
 なにしろカール大帝(Karl der Große, 742-814)が西暦793年に計画の指示したという言うから、ライン・マイン・ドナウ運河が1992年に正式に完成するまで12世紀もかかっているが、ライン河とドナウ川を運河で繋いで北海から黒海までを貫通する交通網の建設は長年の夢だった。かようなまでにドイツ経済の大動脈の役割を演じてきた証拠にラインの河岸には、デュッセルドルフ(Düsseldorf)を中心とした重工業の一大拠点ルール地方を指摘するまでもなく国際企業が林立している。さきに挙げたルードヴィッヒスハーフェンのバーデン・アニリン・ソーダ工業会社(BASF)、バーゼルを本拠地としたノヴァルティス(かつてのチバガイギー)など。だがトラックなどによる運輸手段の発達とともに船舶輸送の地位が低下したうえ、さらには場所を選ばないハイテク産業が成長するにつれ、なにもラインに頼らなくとも産業が成り立っていくようになったのは時代の皮肉であった。かつては経済の推進役を果たしてきたラインが結果として他面で犠牲者のような姿を晒している。まずはバーゼルのプラントから流出した30dの化学物質のため50万匹の魚が死んだ86年の事故が筆頭に挙げられる。さらにはワインの一大産地カイザーシュトゥール(Kaiserstuhl、フランス側の対岸にあるのが有名なアルザス地方である)近郊のウィル村(Wyhl)で反原発の運動が1970年代に開始される。このときの運動は当時の学生運動(Studentenunruhe)と合流してブント(Bund)と呼ばれる環境保護団体を築くきっかけとなり、ラインラント・プファルツ州)のミュールハイム・ケルリッヒ巨大原発(70億マルクを投入したあげく13ヶ月たらずの送電ののち見事に廃炉となった)や、ノルトライン・ヴェストファーレン州(Nordrhein-Westfalen)のカルカー高速増殖炉(なんと脱原発のテーマ・パークとして再生した)への反対運動の嚆矢となった(表3)。ちなみに日本でも知られている環境都市フライブルクの政策はブント(http://www.bund.netも参照されたい)の申し子だが、おなじバーデン・ヴュルテンブルク州(Baden-Württemburg)に拡がる、「黒い森」シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)には酸性雨による「森林枯死」(Waldsterben)が襲うことになる。
 ただしシュヴァルツヴァルトからしてが石器時代に樹木を燃料として伐採し尽くしてしまったために、あとで樅の木を植林したことが端緒となっているとも言われているから、なんともドイツ人は太古の昔から自然との忙しい付き合いをしながら風土を作り上げてきたとも言えそうだ。あれほど苦労して育ててきた森林を自分たちの手でまたもや破壊するなんて。あくまでも自然は支配すべき対象だとしてきた考え方と保護すべ対象だという反対意見との目まぐるしい交代の繰り返し。たとえば「シムシティ」のようなシミュレーション・ゲームに「ライン河」ヴァージョンがあっても不思議ではない変化であろう。あなたなら最初っから森林なんか切り倒さないというオプションを選べるだろうか、あるいは反原発の住民団体に門前払いを喰わせるアイコンをうっかりクリックしたりはしないだろうか。
 おそらくドイツとラインの自然にまつわる表象の慌ただしい変化は21世紀も続くのだろうが、あまりにも肥大化してしまったライン像が自分をどう取り戻すのかが次の課題となるかも知れない。ありがちな「ドイツの自然と風土」のなかの項目から「ライン河」といった見出しが無くなっていたというほうが案外とドイツも幸せだと言えまいか。

[参考文献]
木内信蔵編『ヨーロッパT』朝倉書店、1990年
永井清彦『国境をこえるドイツ』講談社現代新書、1992年
吾郷慶一『ライン河紀行』岩波新書、1994年
広瀬隆+橋口穣二『ドイツの森番たち』集英社、1994年
平井正『パロディーの世界』朝日出版社、1989年
Tatsachen über Deutschland. Societats-Verlag. Franfurt/Main. 1992.
Kleine Deutschlandkund. Ein erdkundlicher Überblick. Ernst Klett. Stuttgart. 1989.
Ingo Hölscher 写真提供


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