ローラとローズ――各々の略歴と「小さな家」の執筆について

ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)は、南北戦争が終結した2年後の1867年、ウィスコンシン州の「大きな森」で、いわゆる西部開拓者のチャールズ・インガルスとその妻キャロラインの次女として生まれ、カンザスやミネソタの大草原を転々としながら少女時代を過ごします。幼い頃のローラは、先生になることを夢見ていた優等生の姉メアリーにある種のコンプレックスを感じていたように思われますが、メアリーが熱病がもとで失明してしまった頃から、自分がメアリーのために何ができるかを真剣に考え、家族の一員としての責任を果たすことを通じて、自分に自信を付けていったようです。

ローラが12歳の頃、インガルス一家はサウス・ダコタ州、デ・スメット近郊の払い下げ農地(自営農地法参照)に移住します。ローラは時にはデ・スメットの町でお針子として働きながら家計を助け、15歳の終わりには教員試験に合格し、16歳になると開拓小屋の学校で教えるようになります。この頃のローラの夢は、勉強好きのメアリーをアイオア州にある盲人学校(こちらを参照)に行かせてやりたいということでした。ちょうどこの頃、ローラは、近くの払い下げ農地に住んでいたアルマンゾ・ワイルダーと出会い、18歳で結婚、農家の主婦としての生活が始まります。翌年には、長女ローズが生まれますが、その三年後に生まれた長男は急死し、アルマンゾはジフテリアにかかって一生杖が手放せなくなります。フロリダ州、ウェストヴィルへの移住もうまくいかず、辛い数年間を過ごしますが、27歳の時にに永住の地となるミズーリ州、マンスフィールドへ移り住み、少しずつ豊かな安定した生活を築いていきます。

娘のローズ(Rose Wilder Lane、1886-1968)は、マンスフィールドで多感な少女時代を過ごした後、ルイジアナ州、クラウリーの伯母(1)の家に下宿しながら高校に通います。卒業に必要な4年間の課程をわずか一年で修了すると、カンザス・シティーのウエスタン・ユニオン社で当時の女性の憧れの職業である電信技士の職に就きます。優秀な彼女は、管理職として各地を転々とした後、22歳の時にサンフランシスコへ行き、そこでカリフォルニア初の不動産ウーマンになると、仕事仲間のジレット・レインと結婚しますが、10年後には離婚しています。この間に『サンフランシスコ・ブリュテン』(San Francisco Bulletin)に記事を書いたり、自動車王ヘンリー・フォードの伝記を執筆して、ジャーナリストであり、かつ、作家としての第一歩を踏み出していますが、本格的な活動は、離婚を機にニュー・ヨークへ移住し、離婚体験を基に処女小説『わかれ道』(Diversing Roads)を執筆した後といえそうです。1920年から1923年にかけて米国赤十字の特派員として第一世界大戦後のヨーロッパに滞在し、数々の記事や小説をアメリカへ書き送り、1922年には短篇小説 "Innocence" でオー・ヘンリー賞を受賞しています。

娘のローズがアメリカを代表する作家でありジャーナリストとしての地位を確立していった頃、ローラはマンスフィールドの岩尾根農場(Rocky Ridge Farm)で安定した生活を送りながら、地方紙『ミズーリ農民』(Missouri Ruralists)に寄稿し、忙しい農家の主婦が能率よく家事をこなし、余った時間を利用して文化的に豊かな生活を送るよう、様々な提案をしています。もっとも、ローラに記事を書くよう勧め、文明の利器である自動車をローラとアルマンゾに贈って、娘に頼らずとも自分たちの力で行動範囲を広げ精神的に自立するよう仕向けたのはローズの仕業のようです。

そんなローズも38歳になると、年老いた両親の面倒を見る必要性を感じてマンスフィールドへ戻ります。それでも、彼女の両親から独立していたいという気持ちは強く、農場内に英国風石造りのコテージを作ると両親をそこへ住まわせ、自分は母家で一人生活します。ローズはまた、両親が老後も経済的に自立できるように、かねてから母親のローラに子供時代の思い出を本にするよう勧めていました。長い間躊躇していたローラでしたが、1929年にウォール街で株が大暴落し、ローズが持ち株の多くを失ってしまったことを機に執筆を決意し、1932年に、「小さな家」シリーズの第1冊目である『大きな森の小さな家』(Little House in the Big Woods)がハーパー・アンド・ロー(Harper & Row)社から出版されたのです。

「小さな家」の執筆はローラとローズの共同作業を通じて進められています。つまり、ローラが執筆した原稿をローズがチェックし、言葉遣いなどを読者に親しみやすいものに直させたのです。出版社側との交渉もローズの役割でしたが、作家として経験を積んだ彼女と、あくまで事実に忠実であろうとするローラは、ストーリー等に関してしばしば衝突したといいます。ローズは母親の補佐役に徹するうちに作家としてフラストレーションを感じるようにもなり、「小さな家」の設定をかりて自由に発想した『嵐よ、ほえろ』(Let the Hurricane Roar)を執筆します。『大きな森の小さな家』同様、ベストセラーとして広く受け入れられたものの、ローラはこの作品を事実を曲げたものとして激しく非難し、ローズは岩尾根農場を飛び出し、再びニューヨークで生活し始めます。しかし、その後も「小さな家」をめぐる母と娘の共同作業は進められ、また、1941年にアルマンゾが亡くなった後、ローズは新しく居を構えたコネチカット州、ダンベリーとマンスフィールドの間をしばしば往復しています。

ローラは90歳の誕生日を迎えた3日後に、岩尾根農場で静かに息を引き取ります。ローズは老齢になっても休むことなく仕事を続け、79歳の時にはアメリカ最年長の記者としてヴェトナムに派遣され、戦時下の庶民の様子をレポートしています。糖尿病を患いながらも各地を旅行し続け、世界一周旅行の実現を目前にした1968年、ダンベリーの自宅で一人静かに息を引き取っています。



(1) アルマンゾの姉、イライザ・ジェインのこと。
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