研究の背景

 我々のグループはTrypanosoma brucei(日本語ではトリパノソーマ ブルセイと発音,英語ではトゥリパノソーマ ブルシアイと聞こえる)という学名の原虫(*1)を研究対象としている.T. bruceiは「単細胞」の真核生物であり,ウシなどの哺乳動物に寄生して増殖する.T. bruceiに寄生された動物(=宿主:しゅくしゅ)はT. bruceiの増殖とともに衰弱し,ついには死亡する.T. bruceiの亜種であるT. brucei gambienseT. brucei rhodesienseはヒトに寄生し,アフリカ睡眠病もしくはヒトアフリカトリパノソーマ症(HAT:human African trypanosomiasis)と呼ばれる致死性の病気をひき起こす.

 T. bruceiは,宿主の細胞内には侵入せず,皮下組織,血液,リンパ液中で二分裂で増殖する.増殖したT. bruceiはやがて,血液脳関門を突破して中枢神経系に侵入し,睡眠周期の乱れや昏睡をひき起こして,最終的に宿主を殺してしまう(アフリカ睡眠病).この原虫による感染はハエが媒介する.T. bruceiに寄生された動物の血液を,ツエツエバエ(*2)が吸血すると,T. bruceiはハエの消化管(中腸)に運ばれ,そこで分化して分裂増殖を続ける(*3).その後はハエの唾液腺に移動してエピマスティゴート型(*4)で増え,再び感染可能なメタサイクリック型に分化すると,ハエが吸血する際に唾液とともに新しい宿主に侵入し,感染域を広げる(*5).また,宿主が妊娠中の場合は胎盤を経由して胎児に感染が及ぶこともある.

 感染当初は末梢(血液,リンパ液,皮下組織)で増殖し,一過性の発熱や頭痛,関節痛といった他の病気にもみられる症状をひき起こす(第1ステージ).この時点で,患者の症状がT. brucei感染によるものであることを特定し,原虫の亜種を判別できれば薬物治療が可能で,T. b. gambienseの感染にはペンタミジンが,T. b. rhodesienseの感染にはスラミンが使用される.一方,感染が中枢神経系にまで及んでいる(第2ステージ)場合は,T. b. gambiense感染にはエフロルニチンとニフルチモックスが,T. b. rhodesiense感染にはメラルソプロールが治療薬として使用されるが,第1ステージよりも治癒が難しくなる.上記薬物のうちペンタミジン以外は強い副作用を持ち,特にヒ素を含むメラルソプロールは5%程度の確率で致死的な脳炎をひき起こす.そのため,安全で効果が高く,投与の容易な薬を開発することが,アフリカ睡眠病の治療に必要とされている.

 アフリカ睡眠病治療薬の開発は経済的な理由などから積極的には進められず,この病気は顧みられない熱帯病(NTDs: neglected tropical diseases)のひとつに数えられていたが,最近ではいくつかの財団やコンソーシアムがNTDsの治療薬開発を後押しするようになり,状況は変わってきている.


 多くの原虫は宿主の細胞内に隠れて存在する.例えば,マラリア原虫は赤血球や肝細胞に侵入して増殖する.また,T. bruceiに近縁でシャーガス病の原因となるT. cruziは様々な細胞に侵入して増殖する.宿主細胞への侵入は免疫システムからの攻撃を避けるのに有効な手段である.なかには免疫細胞そのものに侵入する原虫もいるが,T. bruceiはそのような生存戦略をとっていない.T. bruceiは宿主免疫からの攻撃を回避するために自身の細胞表面を変異表面糖タンパク質(variant surface glycoprotein, VSG)と呼ばれる単一種類の糖タンパク質で密に覆って,物理的な障壁を作っている.VSGをコードする遺伝子はT. bruceiのゲノム上に1000種類以上存在しており,あるVSGが免疫システムから攻撃を受けるようになると,別のVSGで自身を覆った原虫(=抗原性が異なる原虫)が増殖し,宿主体内で生き延びる.VSGやその他の膜タンパク質はN-結合糖鎖で修飾されているが,その役割については不明な点が多い.T. bruceiが作るN-結合糖鎖にはポリN-アセチルラクトサミン鎖を含むものもあり,単細胞生物が作る糖鎖としてはかなり複雑な構造である.また,VSGはGPIアンカー(glycosyl phosphatidyl inositol anchor)を介して細胞膜に係留されており,そのGPIアンカーにも特殊な糖鎖修飾が施されている.これら糖鎖はT. bruceiが外界と接する場所に存在する分子であり,原虫の生存に必要な役割を担っていることも予想されるが,その機能はよく分かっていない.T. bruceiの糖鎖の機能が明らかになれば,それを標的とした抗トリパノソーマ薬の開発も期待できる.

注釈

*1 「原虫」は,病原・寄生性と運動性を有する単細胞真核生物を指す単語として慣用的に使われている.例えば,トリパノソーマ原虫,リーシュマニア原虫,マラリア原虫,トキソプラズマ原虫のように使われる.一方,「原生動物」といった場合は,ミドリムシやゾウリムシ,テトラヒメナなど非寄生性の単細胞真核生物も含むことが多い.

*2 ツエツエバエ.浸み出した血液を舐めるのではなくて,ストロー状の口を動物の皮膚に刺し込んで血管を傷つけ,皮下にできた血液貯まりから血液を吸う.メス,オスともに吸血する.
T. brucei

*3 T. bruceiは生活環境に合わせて形態と代謝経路を変化させる(分化する).哺乳動物の血液中では血流型(BSF: bloodstream form)で増殖するが,ハエ中腸内ではプロサイクリック型(PCF: procyclic form)で増殖する.両者は細胞表面を覆う糖タンパク質の種類が異なるほか,原虫内での生化学反応も異なる.

*4 エピマスティゴートは,鞭毛の起点(フラジェラポケット)が核の前方に位置する形態.トリポマスティゴートはフラジェラポケットが後端に位置する形態で,哺乳動物中の原虫(血流型,bloodstream form)やハエ中腸での増殖型(プロサイクリック型,procyclic form)はこの形態をとっている.
masti

*5 T. bruceiのライフサイクル.血流型T. bruceiは哺乳動物血液とともにツエツエバエに取り込まれてハエ中腸(midgut)へ移動し,プロサイクリック型に分化する.次に前胃(proventriculus)を経由して唾液腺(salivary grand)に至り,エピマスティゴート型で上皮細胞に接着する.その一部が遊離・分化して,哺乳動物に感染可能なメタサイクリック型となって唾液中に含まれ,吸血時に新しい哺乳動物に侵入する.
Life
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