『子牛』のまわりにいた人たち
―ある歌の来歴をめぐるさまざまな問い―

2 ショローム・セクンダの位置12)

 わたしたちがこんにち『子牛』という歌に親しんでいるのは、ショローム・セクンダ(Sholom Secunda, 1894-1974)の作曲のおかげである。かりに『子牛』がただの詩のままであったとしたら、これほど流布することはありえなかったはずである。だけれどもセクンダという作曲家はどのようにして『子牛』の歌詞に出逢ったのか。かれも歌詞の作者と同様にアメリカに渡ってきた東欧系ユダヤ人だった。ただしツァイトリンがすでにワルシャワで相当量の活動をしていたのとは対照的に、セクンダが本格的なキャリアを積んだのは移住先のイディッシュ語演劇の世界だった。13)
 かれはすでにオデッサで過ごした幼少のころから、シナゴーグで聖歌を朗唱する「ハズン」(Khazn)――キリスト教の「カントール」に相当する――の見習い「メショイラー」(Meshoyrer)をしていた。ちょうどアレクサンドル2世が申し訳程度の寛容策を打ち出し、ユダヤ人たちも大都市で教育を受けることが可能になった時代である[HS 21f]。かれらはそれまで「ペール」(Pale)という地区だけに居住が制限され、たがいに身を寄せ合うようにして「シュテートル」(Shtetl)という離ればなれの小島のような村落で、自分たちの宗教的伝統を遵守する生活を送っていた。14)かくしてキリスト教徒ともあまり交渉をもつことはなく、移動や教育の自由もほとんどなかったと言ってよい。かつては「クレズマー」15)と言えば音楽学校にも行かずに、職業一家や組合組織(ギルド)のなかで父祖伝来の音楽技術を、親から子へと伝えていくのが基本的な習わしで[HS 14]、アメリカへ渡ったナフチュール・ブランドヴァイン(Naftule Brandwein, 1884-1963)のように、楽譜を読むことができずにもっぱら記憶と即興に頼る演奏をしていた。だけれども1868年に設立されたペテルブルグの音楽院への門戸がユダヤ人にも解放され、1870年代のオデッサでは芸術学校の学生の6割をユダヤ人が占めるようにもなった[HS 21f]。おなじような背景から進出してきた音楽家にはヴァイオリン奏者だけでも、ペテルブルグでレオポルド・アウアーを師に仰いだミッシャ・エルマンとハイフェッツがいるし、そしてナタン・ミルステインやオイストラフを輩出したオデッサ音楽院の教師、ソロモノヴィチ・ストリアルスキもそうだ[HS 25]。16)ちなみにヴィテブスクのシュテートルで絵を学んでいたシャガールが、1907年にペテルスブルグの帝室美術奨励学校に入ることができたのも同様の寛容策による。ただしセクンダの場合はクレズマーに触れる機会がたとえあったにせよ、あくまでもユダヤ教の教会音楽の教育を受けたという点が、かれの将来のキャリアにとって決定的だったと思われる。なぜならセクンダが渡米後に選んだのはポピュラー音楽の作曲だったからで、かれにはクレズマーを経由してクラシックの演奏家になる道などはなかった。
 かれは1907年のアメリカ移住後はジュリアードの前身に当たる音楽校で、エルネスト・ブロッホなどから作曲のための正規の教育を受けている。なぜセクンダがやがてアメリカのイディッシュ語劇の作曲家になったかというと、それはイディッシュ語の娯楽を求めるマーケットがあったからであり、あるいはそれがビジネスとして成立するシステムがすでに確立していたからである。なによりもポピュラー音楽が成立する条件とはそれを流通させるシステムであり、演劇(とのちのトーキー映画)もまた音楽を伝えるという点で立派な役割をしていた。このアメリカにイディッシュ語演劇を本格的に導入するのに貢献したのがアブラハム・ゴールドファーデン(Abraham Goldfaden, 1840-1908)で、かれがアメリカで演出しはじめたばかりのイディッシュ語劇に出演するなどして、スターに登りつめたのがボリス・トマシェフスキー(Boris Thomashefsky, 1867-1939)である[HS 44-6]。なにしろニューヨーク全体で123の映画館があった1908年当時、東欧系ユダヤ人の多くが暮らしていたロウアー・イースト・サイドには42の映画館が、そしてイディッシュ語劇場のほうは1910年に13を数えるほどの盛況ぶりであった[HS 39, 44]。かれらはまた一足先にアメリカに渡っていたドイツ系ユダヤ人と著しい対照をなしてもいた。たとえば改革派(ハスカラ)のユダヤ教を信仰する後者は英語も習得してすでに急速にアメリカ化をはたし、社会的進出をする者も出はじめていた「アップタウン」のユダヤ人だった。おもに1881年のアレクサンドル2世暗殺前後のポグロムを避けるためにアメリカに逃れてきた東欧系は、あいかわらず正統派のユダヤ教徒としての戒律とイディッシュ語を守り、「テネメント」と呼ばれる劣悪な住環境の雑居住宅に押し込まれ、「搾取工場」とも訳される「スェット・ショップ」で、過酷な裁縫の下請け業に従事する「ダウンタウン」のユダヤ人であった[HS 51]。およそ郷土を懐かしむ気持ちを癒やしてくれるような文化事業、すなわち演劇や音楽そして出身地別の「同郷者団体」(Landsmanshaft)が発達した所以である。かれらはロシアなどで展開していた労働者の運動団体ブンド(Bund)をアメリカに持ち込む働きもし、イディッシュ語劇場の俳優やクレズマーの演奏家も労働組合を組織するか、あるいは少なくともそれらと提携する必要があった。17)あたりまえだが同化したドイツ系移民にとってイディッシュ語演劇は脱出すべき場であり、東欧系の移民にとってそこは共同体への繋がりを確かめる場のひとつであった。ちなみに1923年には黒人音楽を聴かせる「コットン・クラブ」がハーレムに開業し、デューク・エリントンやキャブ・キャロウェイらが白人客たちをおおいに沸かせたが、おなじころにセカンド・アヴェニューのイディッシュ語劇場のほうも活況を呈し、影響を受けたキャロウェイやスリム・ゲイラードがイディッシュ語の曲を歌うほどであった[HS 139]。18)
 かような流れとはまったく別個に展開していたユダヤ人の音楽業界もあった。かつては「シート・ミュージック」と呼ばれる楽譜が音楽流通の重要なメディアを担い、ニューヨークの「ティン・パン・アレイ」(Tin Pan Alley)という地区がその中心的な発信源となっていた。このブロックに「ご注文の作曲承ります」の看板が掲げられるのが1885年19)、ハズンの息子で自身もメショイラーだったアーヴィング・バーリン(Irving Berlin, 1888-1989)が、シベリアから渡ってきて『アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド』(Alexander's Ragtime Band、1911)をヒットさせる、ビジネスのシステムはすでに早くから準備されていたのである。かれが当初働いていたのがハリー・フォン・ティルツァーの楽譜出版社で、ハリーの弟アルバートこそメジャー・リーグのテーマ曲『テイク・ミー・アウト・トゥー・ザ・ボールゲーム』(Take Me out to the Ballgame, 1908)の共作者であった。20)かれらの例からも分かるように20世紀初頭のアメリカではユダヤ系の少なからぬ移民が音楽産業に携わっていた。なんとか黒人のリズムを取り込もうとしたバーリンやガーシュインの音楽からは、しかしユダヤ音楽からの影響などまったくと言っていいほど聴き取れないかもしれない。21)なにしろバーリンはやがて『ゴッド・ブレス・アメリカ』や『ホワイト・クリスマス』を作曲した人物である。だがにわかには信じられないかもしれないが、当時は反ユダヤ主義と黒人差別とが奇妙に絡まり合うかたちで、ジャズはむしろユダヤ人の音楽であるとさえ議論される面もあったのである。

ジャズにおけるユダヤ的要素は、強調してもしすぎることはあるまい。ジャズ音楽の少なくとも90パーセントはユダヤ人が書いたという事実から、ジャズの奇妙な質の悪さ――ユダヤ人の芸術には典型的である――一般のフォックストロットのほとんど嗜虐的な憂鬱さなどが判然と説明されよう。(…中略…)ユダヤ人がニグロの雷鳴を盗んだにもかかわらず、そしてアル・ジョルソンの野蛮な嘆きとしての吐き気を催す泣き顔の仮面にもかかわらず、またティン・パン・アレイが商業化された嘆きの壁となったにもかかわらず、技術的な重要性をもつ唯一のジャズ音楽は、純粋に黒人系の小さな部分にある。22)(傍点:黒田)

なおアル・ジョルソンは世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(Jazzsinger, 1927)で、ハズンの息子でありながらジャズの世界に進もうとして、父との葛藤に苦しむ役を演じた当時の有名な歌手であり俳優である。かれが演じた主人公のようにアメリカへの同化とユダヤの伝統との境界に期せずして位置していたのがセクンダだった。
 おなじユダヤ系出身でセクンダの同時代にもっとも成功をおさめた音楽家にベニー・グッドマンがいる。かれがスイング・ジャズを認知させるうえで転換点となったのが、1938年のカーネギー・ホールでのコンサートであった。あたかも自分がユダヤ人であることが明るみになるのを恐れて、改名どころか改宗するのさえ不思議でなかった時代である[HS 140]。たしかにジャズ・ミュージシャンやスタジオ・ミュージシャンには少なからぬクレズマーがいたのだが、たとえば「ナット」・シルクレットは1917年から25年までに演奏したイディッシュ語の歌に軍楽隊風の演奏を取り入れる一方で、わずかでもクレズマーのスタイルが混ざることを同時に恐れてもいた[HS 72]。かれらにとって新世界の音楽にユダヤ風のアクセントを加えることは禁忌だったのだ。だとしたらベニー・グッドマンが当日のコンサートで、イディッシュ語のミュージカル『できるならば、そうしたいんだけど』(M'ken Lebn nor m'lazt / I Would If I Could, 1932-3年上演)からの曲で、ジェイコブ・ジェイコブス(Jacob Jacobs)の詩とセクンダの作曲による、『バイ・ミーア・ビスト・ドゥー・シェーン』(Bei Mir Bist Du SheynないしBei Mir Bist Du Schon, 1932,邦題は『素敵なあなた』だが、以下『バイ・ミーア』と記す)を演奏したことはどう考えたらよいのか。
 あきらかに「スイングの王」としてメイン・ストリームに君臨しようとしたグッドマンも、そのために自分のユダヤ人としての出自を極力隠そうとしていた。かれはまずシナゴーグでクラリネットの最初の教育を受け、18歳ですでにグレン・ミラーのバンド・メンバーとなっている。23)なるほどクラリネットはクレズマーのなかでリード的な働きをする楽器だが、グッドマンのクラリネットからはクレズマー色が完全に払拭されている。かれのバンドに在籍してクレズマーの代表的レパートリー『シェーア』を取り入れた『かくて天使は歌う』(And the Angel Sings, 1939)の作曲をし、アベ・シュヴァルツ(Abe Schwartz, 1881-1963)作曲の『ブブリチュキ』(Bublitchki)をスイングに翻案したジギー・エルマンや、カーネギーのコンサートでも『バイ・ミーア』のトランペット・ソロ――実際にクレズマーの間奏が入る――をとって、それこそ完全にクレズマーのフレージングを披露しているハリー・ジェームズのほうが、むしろグッドマン以上にクレズマーに近い演奏をしていると言えよう。だとしたらグッドマンは自分がユダヤ人であることを『バイ・ミーア』によってカミング・アウトしたのであろうか。おそらくはそうでもあったと言えるだろうし、逆にそうではなかったとも言えるだろう。なぜならカーネギーに集まっていたユダヤ人の聴衆にとって『バイ・ミーア』はもちろん、自分たちの同朋の書いたユダヤの音楽ではあったろうが、ジェイコブ・ジェイコブスによるイディッシュ語の歌詞をサミー・カーン(Sammy Cahn)とサウル・チャップリン(Saul Chaplin)が英語に替え、アンドリュー・シスターズ(Andrew Sisters)が1937年のクリスマス最大のヒット曲にさせた段階で、それはオリジナルにあった地方色の強いイディッシュ性(Yiddishkayt)がきれいに脱色され、むしろ新世界の移民を象徴する多言語的な雰囲気に合致する歌となっていたからである。なにしろ歌詞の主人公はイディッシュ語の母語話者からドイツ語のそれにすり替わってもいる。

I could say "Bella, bella", even say "Voonderbar,"
Each language only helps me tell you how grand you are,
I've tried to explain, “Bei Mir Bist Du Schon,”
So kiss me and say you understand.
24)

きみには(イタリア語で)「きれいだ、きれいだ」って言えるし、(イディッシュ語で)「素敵だ」とも言えるよ、
なんの言葉であろうと、(英語で)なんてきみは素敵なんだ、ってぼくが言うのを、ただ助けてくれるためにあるんだ、
(ドイツ語で)「きみはぼくにとって素敵だ」、ってずっと説明しようとしてきた、
だからキスして分かったと言ってくれ。


さらに皮肉なことにセクンダは『できるならば、そうしたいんだけど』の成功が長続きしなかったため、作詞をしたジェイコブスの取り分も含め『バイ・ミーア』の著作権を1937年にたったの30ドルで売ってしまった。25)ちょうどアンドリュー・シスターズが爆発的なヒットをさせる2ヶ月前である。おまけに宣伝用の写真にセクンダと一緒に収まっているアンドリュー・シスターズは十字架のネックレスをつけているという有様であった(写真を参照)[HS 137]。なにしろ英語の歌詞を書いたカーンが最初に『バイ・ミーア』を、ハーレムのアポロ・シアターで黒人がイディッシュ語で歌うのを聴いたのは1935年、かれはフランク・シナトラを発掘したトミー・ドーシーにレコード化を持ちかけたが断られ、マネージャーの見つけてきたアンドリュー・シスターズにレコードをようやく録音させ、翌年1月までの短期間に25万枚も売り上げてしまったというのが事の顛末であった。26)かくしてグッドマンがカーネギー・ホールで『バイ・ミーア』を演奏したときは、民族的な感情を煽ったり逆撫でしたりする危険は回避できる態勢が整っていたのである。
 あらためてセクンダというのは新旧の両世界のあいだを揺らいだ音楽家であったということがつくづく痛感させられる。おそらくは生地ウクライナに残っていればハズンとして身を立てていくことも立派にできたのに、イディッシュ語演劇という決してメイン・ストリームとはなりえない舞台で音楽を書きつづけ、たとえ成功をおさめても自分の与り知らないショー・ビジネスにまんまとそれを横領されてしまう。かれはジャズにすぐさま反応したガーシュインやグッドマンの嗅覚など持ち合わせてはいなかったし、クラシックに転向したミッシャ・エルマンやハイフェッツの変わり身の速さもあいにくなく、あえて言うとすれば時代に乗り遅れた愚鈍な作曲家であったのである。だけれども逆に愚鈍さがなければ生まれえなかったのが『子牛』という歌ではなかったか。おなじようにアメリカでも愚鈍なまでにイディッシュ語で書きつづけたツァイトリンが、バーリンやガーシュインなどの作曲家と出逢うような場面などは考えられない。かれがモーリス・シュヴァルツに依頼されて書いたのが『エスターケ(小さなエステル)』(Esterke, 1940-1年に上演)という芝居で、それに『子牛』などの作曲をしたのがセクンダだったという事実は歴史の因縁めいたものを感じさせないだろうか。
 わたしには残念ながら決定的な資料が不足しているために、さいしょに『子牛』を歌ったのがだれなのかは分からない。だけれども『子牛』のきわめて早い段階の録音が幸い残されている。さまざまな録音資料をヘンリー・サポズニクが蒐集および編集して、1930年代から50年代当時のイディッシュ語によるラジオ放送を再現した、『イディッシュ・ラジオ・プロジェクトの音楽』というCDに収録された録音である。かれのキャプションによるとその録音はニューヨークのWEVDから1941年に放送されたもので、歌手としてモイシェ・オイシャー(Moishe Oysher, 1907-58)の名前がクレジットに見られる。27)なおWEVDはセクンダが音楽監督をしていたイディッシュ語のラジオ放送局である。おもしろいことにサポズニクは『ドナ・ドナ』(と表記されている)のつぎにWEVDによる「スタントン・ストリート衣服店」のコマーシャル・ソング――やはりセクンダによる作曲である――を紹介している。おなじオイシャーがブランドヴァインと並ぶクレズマーの第一人者デイヴ・タラス(Dave Tarras, 1897-1989)の演奏をバックに歌っている。ちなみに『バイ・ミーア』を舞台で歌ったのはイディッシュ演劇のトップ・スター、アーロン・レベデフ(Aaron Lebedeff, 1873-1960)であったが、セクンダが最初にその楽譜を見せた相手こそWEVDに居合わせたオイシャーであった。28)
 あまりわたしたちには馴染みのないユダヤの宗教音楽ではあるが、『ジャズ・シンガー』でハズンの朗唱を聴いた経験のある方はいるかもしれない。この映画の主人公の父は5世代にわたるハズンの一族に連なり、自分の臨終を目前にして息子に『コル・ニドレ』を歌ってもらうことを切望するのだが、父親の吹き替え部分を歌ったり当の映画に自分も実名で出演したりしたのが、ヨーゼフ・ローゼンブラット(Joseph Rosenblatt, 1882-1933)という当代随一のハズンで、そして当時の映画界でローゼンブラット以上に露出度の高かったのがオイシャーである。たしかにウクライナのベッサラビア出身のオイシャーも立派なハズンだったのだが、ローゼンブラットとは異なり宗教だけでなく世俗の音楽界にも出入りしていた。あくまでも神聖な職と見なされていたハズンがポピュラーやコマーシャルに進出することなど、『ジャズ・シンガー』の父のようにそれまでの世代にとっては言語道断である。かれは1940年までに数本の映画に出演したことの報いとして、ユダヤ人学校での公演で憤った信者からピケを張られたり[HS 149]、節回しを省略しないできちんと「安息日」の朗唱ができるか試されたりした29)。あきらかにオイシャーもまたユダヤの伝統とアメリカへの同化に引き裂かれた移民であった。 ■3につづく■