『子牛』のまわりにいた人たち
―ある歌の来歴をめぐるさまざまな問い―

3『子牛』をめぐるさまざまな問い

 わたしたちが追ってきたのは『子牛』をめぐる云わば正史であり、その成立についてはこんにちさまざまな異論も提出されている。

−『子牛』はヨーロッパの「ゲットーで生まれた」「ユダヤ人の運命を子牛にたとえて歌った抵抗歌」であり、「ショローム・セクンダによって現代風にあらためられ」たにすぎない。ただし作詞はあくまでもアーロン・ツァイトリンによる。30)
−『子牛』の歌詞はそもそもアーロン・ツァイトリンによるのでなく、かれとおなじようにワルシャワにいたイツハク・カツェネルソンのものである。31)
−「ドナ・ドナ」の「ドナ」はヘブライ語およびイディッシュ語で「主」を意味する「アドナイ」を暗示している。32)

わたしが本論の最後で取り上げてみたいと思うのは、だけれども以上のような異論の是非を問うことでない。

 さほど発表当時には注目もされなかった『子牛』が知られるようになったのは、ジョーン・バエズが1960年のファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』に、英語による『ドナ・ドナ』(Donna Donna,クレジットはツァイトリンとセクンダ)の収録をしたことを嚆矢とする。かのじょが誕生したばかりのニューポート・フォーク・フェスティヴァルに、予告なしに出演して一躍脚光を浴びたのが前年の1959年、これがプロデューサーの目にとまって録音したのが上記のアルバムで、『ドナ・ドナ』はその後も機会があるたびに好んで歌われている。33)ただしバエズが『ドナ・ドナ』にどのように逢着したかという経緯については、比較的大部な『ジョーン・バエズ自伝』(And a Voice to Sing with: My Story, 1987)も詳らかにはしていない。だけれどバエズの一年前にイディッシュ語の『ドナ・ドナ』(Dona Dona)を出していたフォーク・シンガーがいた。
 かれはセオドア・ビケル(Theodore Bikel, 1924-,テオドール・ヘルツルにちなむ名である)で、シオニストだった両親のあいだに生まれたため生地のウィーンで早くから、シオニズムのプロパガンダ映画をとおしてヘブライ語の歌に親しみ、13歳のときに両親とともに当時のパレスチナに移住してからはキブツで生活、さらに戦後は演劇を学ぶかたわらに訪れたロンドンやパリのカフェでフォーク・ソングに触れ、なかでもソヴィエトの退役兵士からジプシーの音楽を教えてもらったという経歴の持ち主である。さすがに幼少のころから環境に恵まれていたためでもあろう、ビケルはすでに1955年の段階で『イスラエルのフォーク・ソング集』(Israeli Folk Songs)を出している。かれが『ドナ・ドナ』を収めたアルバム『さらなるユダヤ・フォーク・ソング集』(More Jewish Folk Songs)は、したがってユダヤ関係の音楽を扱ったものとしては実に4枚目のものであった。さきに見たバエズと同様にビケルもツァイトリンとセクンダを『ドナ・ドナ』の作者としてクレジットしている。かれはバエズが出演したニューポート・フォーク・フェスティヴァルの設立者であったから、『子牛』が二人のあいだの交友をとおして媒介された可能性も十分にあるかもしれない。34)わたしたちには幸いなことにビケルが『子牛』に遭遇した様子が、セクンダの実娘ヴィクトリアによって伝えられている。おそらくは伝聞によるためかデータに正確さの欠ける点もあるが、きわめて重大な指摘が含まれているので少し長めに紹介してみよう。

1964年(ママ)にセオドア・ビケルはエレクトラ・レコードのために、『さらなるユダヤ・フォーク・ソング集』を録音した。このアルバムには『ドナ・ドナ・ドナ』が含まれているが、ビケルは第二次世界大戦の終結時にヨーロッパの難民キャンプを訪れたさい、収容されていた人たちがそれをイディッシュ語で歌っているのを聴いていた。この歌をビケルは伝統的な(著作権の消滅した)フォークソングと推測し録音をした。
(…中略…)
ビケルの録音がショロームの関心を喚ぶことになって、かれ(セクンダ:黒田注)はその歌の本当の著者がだれなのか知らせる手紙を、旧友でもあった歌手に宛てて書いた。かれの歌が古くからの伝統的なメロディーと見なされることは、ショロームにとって別段目新しいことではなかった。おなじような間違いはブルックス・アトキンソンが『ベーグルとヨックス』を評論したときに犯していた。
35)(傍点:黒田)

あらためてヴィクトリアの証言を検討してみるとき、ビケルが『子牛』を聴いたのが「大戦の終結時」の「ヨーロッパの難民キャンプ」であったことは、『子牛』の来歴を考えるうえでさまざまな問いを投げかける。

−なぜなら大戦直後の「ヨーロッパの難民キャンプ」で『子牛』が歌われるためには、なんらかのかたちで1940-1年上演の『エスターケ』が、それまでにヨーロッパに伝わっていなければならないからである。さきに紹介した『イディッシュ・ラジオ・プロジェクトの音楽』は『ドナ・ドナ』の録音を1941年としているが、そのラジオ放送ないしはレコードがヨーロッパに届いていた可能性はあるのだろうか。あるいは当時はまだシート・ミュージックが流通していただろうが、それがヨーロッパに渡っていた可能性ははたしてあるのだろうか。
 たしかに二つの大戦のあいだは誕生して間もないレコード産業によって、ユダヤ系の音楽を録音した大量のレコードが大西洋を行き来していた。なぜならローゼンブラットのような一流のハズンたちがアメリカに渡ってしまったため、ヨーロッパのユダヤ人が突如として巨大なマーケットとなったからであり、あるいはまたヨーロッパの現地録音がアメリカへ輸出されたからでもあり、ワーナー社――あの映画『ジャズ・シンガー』の製作もした――を筆頭にユダヤ系の資本によって経営されたレコード会社は、アメリカとヨーロッパを問わず想像以上に多かったのである[HS 54-68, 117f]。たとえばセクンダの曲を録音した1932年ごろの『ユダヤの歌』、カツェネルソンの詩に曲をつけた1936年の『泉にいるラケル』など、ドイツでも複数の会社がユダヤ系音楽のレコードを盛んにリリースしていた。36)
 なお難民キャンプにいたのがたとえユダヤ人だったとしても、ワルシャワなどのゲットーに地下活動によるものは別にして外部との通信手段があったとは考えられないが、ヴィクトリアの言うように「イディッシュ語」で歌われていたのだとしたら、かれらがユダヤ人以外の難民だったとはまず考えられないし、1937年から1940年代初めにモーリス・シュヴァルツの「イディッシュ・アート・シアター」が、アメリカとヨーロッパでイスラエル・ジョシュア・シンガー(Israel Joshua Singer, 1893-1944)――アイザックの兄――の『兄弟のアシュケナジー』(Brider Ashkenazi, 1937)の興行をしたという記述37)があるだけに、なんらかの関係で『子牛』がヨーロッパに伝わっていた可能性も捨てきれない。
− かりに『子牛』の歌詞がカツェネルソンによるものであったとしても、こんどはカツェネルソンの詩のほうがアメリカに伝わっていなければ、1940年の『エスターケ』の挿入歌として歌われることなどありえないが、かれのようなワルシャワに在住するユダヤ人がゲットーへ、強制的に移住させられたのは1940年の11月である。あくまでも推測の域を越えないがポーランドのユダヤ人文学者として、カツェネルソンとツァイトリンが交友関係にあったと想像してみよう。なるほどカツェネルソンはアーロン・ツァイトリンの父ヒレルのことを、『滅ぼされたユダヤの民の歌』のなかで書いてもいた。だとしたらカツェネルソンの詩をアメリカに持ち込んだ人物として、アーロン以上に相応しい者はさすがに見当たらないであろうが、そのような可能性が実際にはたしてあったのであろうか。ただしアーロンがモーリス・シュヴァルツによってニューヨークに招かれるのは1939年、カツェネルソンが100キロ以上離れたウーチからワルシャワに到着したばかりの時期である。
− さきに挙げた異論のように『子牛』が「ゲットーで生まれた」もので、かつ「ユダヤ人の運命を子牛にたとえて歌った抵抗歌」であり、アーロン・ツァイトリンが詩を書いたのだとすれば、1939年に渡米したかれはなにに「抵抗」するために『子牛』を書いたのか。かれは早い段階から「虐殺」をテーマにした詩を書いてはいるが、おなじように早い時期から「ユダヤ人の運命を子牛にたとえて」いたのだろうか。だとしたらその「ゲットー」とはユダヤ人が強制移住させられる1940年11月以前からあった「ゲットー」一般のことなのか。たとえそうだったとしてもツァイトリンがなにに「抵抗」していたのかがやはり問題となってくる。
  おまけに『子牛』が「ショローム・セクンダによって現代風にあらためられ」たとしても、あれほど『バイ・ミーア』の著作権問題で苦渋を強いられていたセクンダに、かりにも他人の曲の作者を僭称するような真似ができたであろうか。

なかなか容易には結論を下すことのできない難問ばかりであるが、カツェネルソンが『子牛』を書いたとする説の論拠だけは見ておこう。

 わたしたちがカツェネルソンを『子牛』の作詞者として云々するようになったのは、ツプフガイゲンハンゼル(Zupfgeigenhansel)という当時西ドイツのバンドが、1985年に出した『イディッシュ歌集』(Jiddische Lieder)に拠っている。かれらのレコードはクレズマーなどの情報が現在ほどなかった録音当時(1979年)にしては、アベ・シュヴァルツ作曲の有名曲『新参/青い顔の従姉妹』(Di Grine Kuzine, 1921)を、詩も曲も「トラディショナル」とするような間違いはあるものの、かなり入念で意欲的な選曲がなされていてライナー・ノートも要領を得ている。ちなみにバンド名の「ツプフガイゲンハンゼル」も伊達に付けられた名前ではない。おそらくこんにちではもはや想像できないであろうがドイツのユダヤ人は、1933年に政権を握ったナチスからすぐさま弾圧されるようになったにもかかわらず、ホロコースト直前の最後のぎりぎりまで文化活動を行なっていた。たしかにナチス政府から許された範囲内だったとは言え、「ユダヤ文化ブント」(Judischer Kulturbund)をすでに1933年から全国各地に組織し、ドイツ人に禁じられていたメンデルスゾーンからマーラーやエルネスト・ブロッホにいたるユダヤ系の作曲家を取り上げ、ドイツ人のオーケストラを凌ぐコンサート――ソ連亡命後にショスタコーヴィチで鳴らしたクルト・ザンデルリンクなどが指揮に当たった――さえ催されるようになった。38)さらにはユダヤの民族音楽にかんする当時最高の成果を集めた歌集『ハヴァ・ナシラ、さあ! 歌おう!』(Hawa Naschira− Auf! Laßt uns singen!)が、1935年にヨーゼフ・ヤコブセンなどによってハンブルクで出版されているが、それがお手本としたのが世紀末以来盛んになったワンダーフォーゲル運動と連動し、1909年から1933年までに87万の発行部数を数えた歌集『ツプフガイゲンハンゼル』に他ならなかった。39)なお『ツプフガイゲンハンゼル』は現在でも版を重ねて売られている。
 さらにはツプフガイゲンハンゼルの『イディッシュ歌集』が、「プレーネ」(pläne)というレコード会社から出されたことを記しておこう。たとえばサポズニクなどはプレーネが当時の西ドイツ共産党によって運営されたもので、ツプフガイゲンハンゼルも東ベルリンに招かれて政治的な歌を演奏していたと述べている[HS 275]。おまけに録音と製作を手掛けたコニー・プランク(Conny Plank, 19??-87)は、ホルガー・シューカイ(Holger Czukay)を含むカン(Can)やクラフトワーク(Kraftwerk)などドイツのロックだけでなく、アンビエント・ミュージックのブライアン・イーノ(Brian Eno, 1948-)とも協力し合うあいだがらで、ジャーマン・テクノの云わば源流を生みだしたプロデューサーであることもぜひ指摘しておきたい。かような情況から総合的に判断するとツプフガイゲンハンゼルはカウンターカルチャーの流れにいたバンドで、ユダヤ系の音楽も左翼や反戦の文脈から取り上げるようになったのではないかと推測される。おなじような気分は政治運動に深く関わり「フマニタス国際人権委員会」などを立ち上げたジョーン・バエズも共有している。たしかにビケルは親譲りのシオニズムを現在も熱烈に信奉しているとは言え、かれにとってもユダヤの「フォーク・ソング」を歌うことは少なくとも1967年の第三次中東戦争ぐらいまでは、イスラエルを支持する世界の同情的な論調との連帯を意味したはずである。たとえばピート・シガーの『花はどこへ行った』やボブ・ディランの『風に吹かれて』のように、「フォーク・ソング」が反体制を烈しくアピールした時代があったのだ。
 だからツプフガイゲンハンゼルの『イディッシュ歌集』のライナー・ノートでも、カツェネルソンがワルシャワ・ゲットーの抵抗勢力の一員だったことなど、かれの政治的な面も含めた経歴が簡単に紹介されてはいるのだが、あきらかに以下の箇所だけは完全に誤解に基づいた勇み足であろう。

1942年にかれの妻と11歳と14歳の息子たちは「強制移住」をさせられて殺された。ワルシャワ・ゲットーからアウシュヴィッツ絶滅収容所への、このときの移送の印象のもとでイツハク・カツェネルソンは子牛の歌を書いたのである。40)(傍点:黒田)

さすがに『エスターケ』の上演が開始するのは「1940年」のことだから、かれが「このとき」すなわち「1942年」の家族の移送のあとに『子牛』を書いた、とする解説は時期的に言ってもどだい無理な話しであり、妻たちが送られた「アウシュヴィッツ」というのも実はトレブリンカであった。だからと言ってわたしの以上の議論もカツェネルソンがそれ以前に『子牛』の歌詞を書いていた可能性までは否定できない。
 さらにカツェネルソンと『子牛』との関係を扱ったものとしては、この詩人を精力的に紹介してきたヴォルフ・ビーアマン(Wolf Biermann, 1936-)のコメントがある。かれ自身も統一前に東から西に亡命した戦後ドイツの代表的な詩人だが、ビーアマンは『子牛』の作者がカツェネルソンとツァイトリンのどちらだったのかという問題に、むしろ積極的には関わるまいという姿勢を見せている。かれにとってそんな問題は「どうでもよい」のである。なぜなら、

愚かな(blöd)子牛にむかって、事もあろうに二倍も愚かな農夫が、燕の幸運を説いているその酷薄な歌は美しいし、ショアーにおける牛たちの問題に、とてもよく当てはまるようにわたしには思われる 41)(傍点:黒田)

ことが重要だからだ。おそらくは決定的な資料が欠けているだけに、『子牛』の作者がだれだったのかという問題は、現段階で決着をつけることが結局は不可能なのである。
 おもしろいことにセクンダの歌『子牛』は、英語の歌詞が付けられてヒットした段階で、作者の意図に関係なく「フォーク・ソング」となったのである。おそらく「フォーク・ソング」というのはそれを厳格に理解しようとすれば、「だれが作者なのかということ」(ドイツ語で言うAutorschaft)とは根本的に相容れないジャンルであろう。42)たとえばユダヤの宗教音楽もクレズマーもそうしたジャンルである。だれが作者なのか問題とはならないそうした世界とそれが問題になる記名性の世界の境界線上にセクンダは立っている。かれはそれが問題とはならない世界を去ってきたはずなのに、われ期せずその世界に何度も何度も押し戻されてしまう。かくして『子牛』は「フォーク・ソング」として広く歌われるようになったとき、時代的な雰囲気とも合致して「子牛」をユダヤ人とする大衆的な(パブリック)イメージが広まっていき、セクンダの「作者性」(Autorschaft)もツァイトリンのそれをも揺るがしかねなくなったのである。さまざまな布置がたえず変化していく時代の万華鏡のなかで、『子牛』はついに作家自身の手に負えない歌となったのである。あるいは『子牛』そのものがこう言ってかまわないとすれば、自分で自分を取り戻すことがもはやできないような、再自己固有化の不可能な領域に達したと言うべきだろうか。

 おわりにあたって「ドナ」を「アドナイ」だとする説を検討してみたい。
 なるほど「ドナ」(Dona)は「ダナ」(Dana)であったとする有力な説もすでに提出されている。43)わたしが考えてみたいのはだがそういった表記や実証の問題ではなく――それはそれできわめて重要である――、かりに「ドナ」が「アドナイ」だったとしたらどのような光景が、わたしたちのまえに立ち現われてくるかという問題である。
 わずかでもいいから想像してみていただきたい。かりにカツェネルソンがそうした歌詞を書いたのだとしたら。さらにはその歌詞をゲットーにいた同朋たちが聴いたのだとしたら。かれらは自分たちをやはり「子牛」(そして「牛」)に同一化させて聴いたのだろうか。かれらはビーアマンの言うような「愚かな子牛」に自分たちを同一化させただろうか。あるいはこの場合の「愚かな」は「無垢な」と言ってかまわないだろうが、たとえそうだったにせよ「無垢な子牛」に自分たちを同一化させたのか。かれらはそしてまた「ドナ」に「アドナイ」を仮託して歌ったのだろうか――。かりに『子牛』がカツェネルソンによるものだと仮定したとき、なにが帰結されるのかという避けては通れない問いである。かれが『子牛』の作者としてどのような思いを託したのかということ、かれの同朋たちがユダヤ人として集合的にどのような思いを抱いたかということも重要な問いである。だがそれ以上に重要なのは絶対的な単独者としての同朋のひとりひとりが、かりに死の直前というやはり絶対的に一回的な出来事において、『子牛』を聴いたり歌ったりしとしたらどうなったかという問いである。
 きっと「子牛」は「農夫」の言うような「翼」をもった「燕」に憧れるだろう。だが「縛」られたり「屠」られたりする「子牛」ないし「牛」に同一化したユダヤ人が、なにかに憧れたとしたらその憧れの対象とはなんだったのか。かれらは死を目前にして「縛」られたり「屠」られたりすることのない者たち、ユダヤ人でない者たちにすなわち憧れはしなかったであろうか。かりにそうだとしてユダヤ人でない者に憧れるユダヤ人が、「ドナ」=「アドナイ」と呼びかけることはなにを意味するのか。あまりにもそうした光景がグロテスクにすぎるということであれば、ユダヤ人がユダヤ人でない者に憧れつつ「アドナイ」に呼びかけることはありえない。かれらはそのように呼びかけては断じてならないはずだ。だとしたらユダヤ人であることが最後まで揺らぐことのなかったユダヤ人の祈りが、「ドナ」という呼びかけによって「アドナイ」に向けられたのであろうか。ただしいずれにせよ以上のことはあくまでも推測でしかないことは断らねばなるまい。かれらがユダヤ人でない者たちに憧れながら「アドナイ」と呼びかけなかった保証も、かれらの信仰が一瞬たりとも揺らがなかったという保証もまたどこにもないのだ。
 あの改革派ユダヤ人や同化ユダヤ人がさまざまな事情に余儀なくされて、イディッシュやクレズマーを捨てたりユダヤ教からさえ離れていったように、おそらく信仰というのはある意味でとても脆いものなのであろう。だがそれとはまったく逆にそれでもかれらの生活のなかに、イディッシュやクレズマーを含むユダヤ教の伝統が残っているだけではなく、なによりもアイデンティティー危機に陥った現代の同化ユダヤ人が、そうした伝統に自分から積極的に回帰していっているように――1970年代以降のクレズマー・リヴァイヴァルもそのひとつである――、信仰はまた同時にきわめて揺るぎないものでもあるのだろう。かりに信仰というものがたんなる盲信でないとしたら、それは揺るぎないけれども脆いものであるのと同時に、脆いけれども揺るぎないものなのではないだろうか。だとしたら『子牛』を聴いたカツェネルソンの同朋たちは、はたして「ドナ」=「アドナイ」のリフレインの部分に、あるいはそうした葛藤を一瞬たりとも覚えなかったであろうか。
 わたしたちが第三者としてそれらのことを問うことは端的に簡単であろう。あるいはそれらのことをわたしたちが問うことはむしろ、生者と死者とのあいだの絶対的な非対称性を背景にした、生者による死者へのある種の厚かましさをすでに含んでいるのではないか。わたしたちはそれらのことをおずおずと問わねばならないのではないか。わたしたちはさらにはそれらのことを問うことが、わたしたちにそもそもできるのかということを、真に問わねばならないのではないだろうか――。わたしが議論の関係で順序を逆にせざるをえなかったが、本来的には真っ先に問わねばならなかった自分への問いである。
 わたしたちが『子牛』にさまざまな意味を事後的に加えようとするとき、かような問いにたちどころに直面せざるをえないというようなことだけは、あとしばらくはまだ考えてもみる必要があるのではないだろうか。

[注]
1) Aaron Zeitlin: Gezamlte lider (in 2 Bänden). New York (Farlag Matones) 1947, 2. Bd. S. 496. Ders.: Tekst. In: Sarah Zweig Betsky (Hrsg. und Übers.): Onions and Cucumbers and Plums. 46 Yiddish Poems. Detroit (Wayne State University Press) 1981, S. 14f.この『テキスト』はもともと詩集『1933年の歌の束』(A bintl lider fun 1933)に含まれていた。ただしベチュキーの上掲書は出典をまったく明らかにしていない。なおヘブライ文字によるイディッシュ語のローマ字への転換はベチュキーに従っている。
2) Vgl. dazu Hans Blumenberg: Die Lesbarkeit der Welt. Frankfurt am Main (Suhrkamp) 1989, S. 22-35, vor allem S.27f.
3)アーロン・ツァイトリンの経歴についてはウェブ・サイト: http://www.atjt.com/Archives/Diamonds_Background.htmおよびYechiel Szeintuch: Aaron Zeitlin and Yiddish Literatur in Interwar Poland.An Analysis of Letters and Documents of Jewish Cultural History. Jerusalem (The Hebrew University Magnes Press) 2000, S. iii-viiを参照した。
4)ヒレル・ツァイトリンの経歴についてはEncyclopedia Judaica. Jerusalem (Keter Publishing House Jerusalem Ltd.) 1972を転載したと思われるウェブ・サイト: http://motlc.wiesenthal.com/text/x35/xm3542.htmlを参照した。
5)西成彦「声の宛先、あるいは二人称の廃墟」(イツハク・カツェネルソン(飛鳥井雅友・細見和之訳)『滅ぼされたユダヤの民の歌』みすず書房、1999年所収)136ページ。
6)イツハク・カツェネルソン:前掲書、77ページ。
7) Aaron Zeitlin: Oysleyz.In: Sarah Zweig Betsky, S. 206f.さきの注1)に挙げた理由からベチュキーがなにを出典にしたのかは不明である。
8)ホルヘ・ルイス・ボルヘス(野谷文昭訳)『七つの夜』みすず書房、1999年、161ページを参照されたい。
9)ここでの議論はノース・キャロライナ州立大学のデボラ・ワイリック(Deborah Wyrick)が開設しているウェブ・サイト:http://social.chass.ncsu.edu/wyrick/debclass/tayzei.htmに負っている。さらにカバラの「ゲマトリア数」についてはジョン・キング(好田順治訳)『数秘術――数の神秘と魅惑』青土社、1999年の第5章「カバラ、それを越えて」および第6章「ゲマトリア、それを越えて」161-248ページに詳しい。
10)テキストはヘブライ文字とローマ字を併記したウェブ・サイト:http://perso.cybercable.fr/vattevil/yiddish/dona.htmlに拠った。なるほどAharon Vinkovetzky, Abba Kovner, Sinai Leichter (Hrsg.): Anthology of Yiddish Folksongs. Volume Four. Jerusalem (The Hebrew University Magnes Press) 1987, S. 45fも含め、『子牛』は異文もかなり存在するがこんかいは問わないことにする。なお『エスターケ』を収めたAaron Zeitlin: Drames. Tel-Aviv (I. L. Peretz Publishing House) 1980には、『子牛』をはじめ挿入歌がいっさい記載されていない。あらためてこの戯曲については報告する機会をいつかもちたい。こんかい資料を取り寄せていただいた高本美佐子さんに感謝申しあげます。
11)高階秀爾『ゴッホの眼』青土社、1984年、なかでも第5章「刈入れする人」141-59ページに詳しい。
12)ここからはヘンリー・サポズニクによるクレズマー入門書、Henry Sapoznik: Klezmer! Jewish Music from Old World to Our World. New York (Schirmer Book) 1999を頻繁に参照するが、煩雑さを避けるため同書からの参照箇所は本文中に [HSページ数]のかたちで挙げることにする。
13)ショローム・セクンダについては遺族から資料「ショローム・セクンダ・ペーパーズ」を寄贈されたニューヨーク大学のウェブ・サイト:http://dlib.nyu.edu:8083/servlet/SaxonServlet?source=secunda.xml&style=saxon01f2.xslに詳しい。
14)野村達郎『ユダヤ移民のニューヨーク――移民の生活と労働の歴史』山川出版社、1995年、ツヴィ・ギテルマン(池田智訳)『ロシア・ソヴィエトのユダヤ人100年の歴史』明石書店、2002年を参照。
15)「クレズマー」とは「東欧系ユダヤ人(アシュケナジー)」のポピュラー音楽一般を指すジャンルだが、このテーマについては他日論じる機会をぜひとも設ける予定である。
16) Vgl. dazu auch Yale Strom: The Book of Klezmer: The History, the Music, the Folklore from 14th Century to the 21st. Chicago (A Cappella Books) 2002, S. 124.なおサポズニクがアメリカでのクレズマー・シーンをポピュラー音楽との関係で詳述しているのにたいし、ストロームは東欧でのフィールド・ワークによって歴史資料を丹念に検証しているという点で好対照になっている。かれらの研究はいずれにしてもクレズマーについて語るうえで将来欠かせないものとなろう。おなじようにクレズマーの家系の出身でありながら、クラシック界に進出した音楽家として、ロマン・ポランスキー監督による2002年の映画『戦場のピアニスト』の主人公、ウワディスワフ・シュピルマン(Wladyslaw Szpilman, 1911-2000)がいる。Vgl. Ritta Ottens + Joel Rubin: Klezmer Musik. München (Bärenleiter-Verlag) 1999, S. 124-6.かれの叔父ルービン・シュピルマンはトレブリンカで殺されたポーランド有数のクレズマーであった。
17) Vgl. dazu James Loeffler: Di Rusishe Progresiv Muzikal Yunyon No. 1 fun Amerike: The First Klezmer Union in America. In: Mark Slobin (Hrsg.): American Klezmer.Its Roots and Offshoots. Berkeley (University of California Press) 2002, S. 35-51.
18) Vgl. auch Cab Calloway & His Orchestra: UTT-DA-ZAY (That's the Way) und Slim Gaillard & His Flat Foot Floogie Boys: Matzoh Balls. In: Henry Sapoznik (Hrsg.): From Avenue A to the Great White Way. New York (Sony Music Entertainment) 2002 (Audio CD).
19) Vgl. Bob Blumenthal: The Sidewalks of New York .Tin Pan Alley− Uri Caine u. a. (Audio CD). München (Winter & Winter) 1999 (Liner Notes).
20)青木啓『ポピュラー音楽の200年』誠文堂新光社、1977年、68-73ページを参照。
21)ただしユダヤの音楽に接近する可能性がガーシュインにあったことも事実である。かれはその活動の初期にはセクンダとイディッシュ劇用の作曲を行なわないかという依頼を、本文中に紹介したボリス・トマシェフスキーから実際に受けてもいる。だけれどセクンダはガーシュインにユダヤ音楽と作曲の素養がないことを指摘し、トマシェフスキーも自分の提案を結果的には引っ込めてしまう。かような接触から数年してすでに成功もおさめたガーシュインは、たまたま路上でセクンダと出くわすとそのたびに、「自分をイディッシュ劇場から救い出してくれた恩人」として、4歳年上の作曲家を大声で感謝するのがつねだった[HS 108]。
 かれは1929年にメトロポリタン・オペラから『ディブック』(The Dybbuk, 1914-9)のための作曲を委嘱される。あたかもロシアのシュテートルが崩壊へと突き進もうとしているちょうどその時期、イディッシュのフォークロアのための本格的な調査団を組織したS・アンスキー(S. An-sky,本名Shloyme-Zanvl Rappoport, 1863-1920)が、フィールド・ワークの成果をインスピレーションに書いたのが『ディブック』という戯曲であるが、その版権が別の作曲家に渡っていたことが判明したためガーシュインによる作曲は結局実現せず、かれが準備していたスケッチも兄で作詞家だったアイラによると現存しないという[HS 110]。
 なるほど『ラプソディ・イン・ブルー』冒頭のクラリネットや、『ス・ワンダフル』『イット・エイント・ネセサリリー・ソー』に、ユダヤ音楽からの影響を聴き取る研究者もいないことはないし、たんにガーシュインはそれを「リサイクル」しただけだという説もあるが[HS 110]、それ以上に興味深いのはアイラの詩に曲を付けた『ミッシャ、ヤッシャ、トッシャ、サッシャ』(Mischa, Yascha, Toscha, Sascha, 1932年に作曲され出版は1932年)であろう。かれらが座興で歌っているのはいずれもロシア出身のユダヤ系ヴァイオリニストである。

  ミッシャ・エルマン(Mischa Elman)
  ヤッシャ・ハイフェッツ(Yascha Heifetz)
  トッシャ・ザイデル(Toscha Seidel)
  サッシャ・ヤコブセン(Sascha Jacobsen)

たとえば「…おれたちゃ暗黒ロシアの /ど真ん中生まれ、/暗黒ロシアで / 3歳ぐらいからフィドルの演奏を始めた。/あるお方(レオポルド・アウアー)が /音をどう詰め込むか /カーネギー・ホールで /おれたちみんなに教えてくれるまで、/おれたちの音は調子外れ…」というように、かつてはクレズマーの系譜に連なっていた音楽家がクラシックに進出していった様子を、たぶんにガーシュイン兄弟は自分たちの境遇を重ね合わせてもいるのであろう、かなり自嘲気味な曲――調子外れなヴァイオリン演奏が入るという念の入れようだ――に仕立て上げている。なかでも以下のリフレインからはクレズマー的な世界とクラシックの世界とのあいだを揺らいでいる自己理解が聞こえないか:

  We're not high brows,
  we're not low brows…
  we're He-brows…

 おれたちゃお高い知識人(ハイ・ブラウ)でもなし、
 おれたちゃ低俗(ロウ・ブラウ)でもなし…
 おれたちゃヘ・ブラウ(ユダヤ人)なのさ…


だとしたらユダヤ音楽との関係云々は別にしてガーシュイン兄弟が、自分たちの位置について複雑な感情を抱いていたということを、『ミッシャ、ヤッシャ、トッシャ、サッシャ』は笑いにまぶして物語っているのではないか。Vgl. The Funnyboners: MISCHA-YASCHA-TOSCHA-SASCHA. In: Henry Sapoznik (Hrsg.): From Avenue A to the Great White Way. New York (Sony Music Entertainment) 2002 (Audio CD).ちなみに『ディブック』はレナード・バーンステインも作曲をしている。
22)ジョーン・スペンサー(小藤隆志訳)『もうひとつのラプソディ――ガーシュインの光と影』青土社、1994年、347-8ページ。
23) Darryl Lyman: Great Jews in Music. New York (Jonathan David Publishers, Inc.) 1986, S. 77.
24) Victoria Secunda: Bei Mir Bist Du Schön.The Life of Sholom Secunda. New York (Walker & Company) 1982, S. 148.
25) Vgl. A.a.O., S. 144.
26) Vgl. A.a.O., S. 144-9.
27) Vgl. Moishe Oysher, Sholom Secunda: Dona Dona und Moishe Oysher: Stanton Street Clothier's Theme Song. In: Henry Sapoznik (Hrsg.): Music from the Yiddish Radio Project. American Recordings from the Golden Age of Yiddish Radio 1930s-1950s. New York (Sound Portraits Productions, Living Tradition) 2002 (Audio CD).
28) Vgl. Victoria Secunda, a.a.O., S. 130.
29) Vgl. Mark Slobin: Chosen Voices. The Story of the American Cantorate. Urbana und Chicago (University of Illinois Press) 2002, S. 74.
30)水野信男『ユダヤ音楽の歴史と現代』アカデミア・ミュージック、1997年、271-3ページ、および同著者の『ユダヤ音楽の旅』ミルトス、2000年、60-2ページを参照されたい。
31)細見和之『アドルノ――非同一性の哲学』講談社、1996年、12-26ページ、なかでもその16ページ、および同著者の『訳者あとがき』(イツハク・カツェネルソン『滅ぼされたユダヤの民の歌』所収)152-3ページを参照されたい。
32)細見和之『アドルノ――非同一性の哲学』12-26ページ、なかでもその19-26ページ、小岸昭『マラーノの系譜』みすず書房、1994年、295-7ページ、同著者の『離散するユダヤ人』岩波書店、1997年、189-210ページを参照されたい。さらにはアメリカのウェブ・サイト上での議論:http://shamash.org/listarchives/jewish-music/010225も参照のこと。ただしエレノア・ゴードンとジョーゼフのムロテック夫妻は『ドナ・ドナ』について、「ベン・ヨメン(Ben Yomen)のもの(1946)を筆頭にいくつかの歌集では歌詞が間違って、ワルシャワ・ゲットーの地下活動をしたヘブライ・イディッシュ語の詩人イツハク・カツェネルソンの作とされている」(傍点:黒田)としている。Eleanor Gordon Mlotek, Joseph Mlotek: Pearls of Yiddish Song. Favorite Folk, Art and Theatre Songs. New York (Workmen's Circle) 1988, S. 175.
33)バエズの経歴についてはかのじょ自身のウェブ・サイト:http://baez.woz.org/に拠っている。
34)ビケルの経歴についてはかれ自身のウェブ・サイト:http://www.bikel.com/に拠っている。
35) Victoria Secunda, a.a.O., S. 226f.
36)おそるべき執念で当時のレコードを11枚のCDと1枚のDVDにコンピレーションし、欧米の研究家による517ページにおよぶ「ライナー・ノート」を加えた、Hirsch Lewin, Moritz Lewin, Beer Maiblatt, Georg Engel, Helmar Lerski (Hrsg.): Vorbei ... Beyond Recall: Dokumentation judischen Musiklebens.Hamburg (Bear Family Records) 2002のなかでセクンダとカツェネルソンに関するものについてのみ、クレジットを以下に挙げておきたい。
 CD 1
  8.ピンカス・ラヴェンダー(Pinkas Lavender,テノール)
   マックス・ヤノウスキ(Max Janowski,グランドピアノ伴奏)
   『わたしには友人がいない』(Mir fehlt ein Freund)
   (音楽:ショローム・セクンダ)
  12.カントール長・ボアス・ビショッフスヴェルダー(Oberkantor Boas Bischofswerder,テノール)
   オーケストラ伴奏付き
   ダヴィド・ドイチャー(David Deutscher,アレンジ)
   『ユダヤの歌、第1部』
   (フォークソング、音楽:ショローム・セクンダ)
  13.カントール長・ボアス・ビショッフスヴェルダー(Oberkantor Boas Bischofswerder,テノール)
   オーケストラ伴奏付き
   ダヴィド・ドイチャー(David Deutscher,アレンジ)
   『ユダヤの歌、第2部』
   『贖罪の日(ヨム・キップール)の夜に』(『コル・ニドレ』)を含む
   (フォークソング、音楽:ショローム・セクンダ)
 CD 8
  22.モルデカイ・ロート(Mordechai Roth,テノール)
   オーケストラ・シャブタイ・ペトルーシュカ(Orchester Shabtai Petruschka)
   パレスチナのフォーク・ソング選1
   b.『泉にいるラケル』(Rachel amda al ha-Ajn [Rachel an der Quelle])
   (音楽:民謡、テキスト:イツハク・カツェネルソン)
37)上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』三省堂、1996年、187-90ページに簡潔な紹介がある。
38)長木誠司『第三帝国と音楽家たち』音楽之友社、1998年、163-74ページを参照。
39)かなり詳細な「用語集」を付けた復刻版がZew Walter Gotthold, Rainer Licht, Jochen, Wiegandt (Hrsg.): Hawa Naschira. Auf! Laßt uns singen! München (Dolling und Galitz) 2001のタイトルで出されている。Vgl. A.a.O., Lexikon Band, S. 281.
40) Zupfgeigenhansel: Jiddishe Lieder. 'ch hob gehert sogn. (Audio CD). Dortmund (pläne) 1985 (Liner Notes).
41) Wolf Biermann: Jizchak Katzenelson. Dos lied vunem ojsgehargetn jidischn volk. Groser Gesang vom ausgerotteten judischen Volk. In: http://www.kath.de/akademie/lwh/kultur/biermann/katzen.htm.
42)かような「フォーク・ソング」というジャンルとその名称の混乱は、それだけですでに詳細な分析に値する問題であろうが、クレズマーを論じるときにあらためて取り上げることにしたい。
43)きわめて充実したウェブ・サイトをお作りになっている渡辺美奈子氏は、さきの注13)にも挙げた「ショローム・セクンダ・ペーパーズ」を管理するニューヨーク大学の、ウェブ上の「デジタル博物館」(ただし当のウェブ・サイト:http://www.yap.cat.nyu.edu/は現在休止中)で、セクンダによる草稿から自筆譜やパート譜までを含む資料を見たことから、セクンダ自身は”Dona“を“Dana“と綴っていたことを確認し、1956年にアーサー・ケヴェス(Arthur Kevess)とテディ・シュオーツ(Teddi Schwartz)――いずれもツァイトリンおよびセクンダと並んで『子牛』の著作権者となっている――が、ツァイトリンのイディッシュ語による詩を英訳したさい、シュオーツが「デイナ」と発音されるのを恐れて“Dana“を“Dona“に変更したとする推測を紹介されている。さすがに余人ならいざ知らず“Dana“と記したのがセクンダ自身であるだけに、「ドナ」を「アドナイ」とする説は言語学的にはいささか苦しいかもしれない。ただし以上の指摘も「ドナ」を「アドナイ」の「擬態」だとする説は否定できない。細見和之『アドルノ――非同一性の哲学』12-26ページを参照。ちなみに渡辺氏は「ダナ」(Dana)の意味をさまざまに調査なさっている。http://www.be.wakwak.com/~seimirgegruesst/DonaDona.htmを参照。