かれにとって1939年にモーリス・シュヴァルツ(Maurice Schwartz, 1888-1960)という、ニューヨークのイディッシュ語劇場のディレクターから、アメリカに招かれたことは人生最大の転機となった。なぜならそれはワルシャワ在住のユダヤ人がゲットーに強制移住させられる直前だったからである。3)かれはポーランドでも詩に書いていた「虐殺」と「信仰」のテーマをその後も引き継ぎ、1967年にはページ総数999の二巻本『虐殺と信仰をめぐるすべての歌と詩』(Ale
lider un poemes. Lider fun khurbn un lider fun gloybn)――『ヤヌシュ・コルチャクの最後の歩み』と題する「散文詩」がそのなかに含まれる――を出版している。おそらくは冒頭に挙げた詩からもその一端が窺えるように、聖なるものの要素(「夜」「星々」)と世俗のそれ(「石」「日向のガラスの破片」「缶」「猫」)が、奇妙に同居するスタイルをもった詩人である。
かれがそうであったように父のヒレル(Hillel Zeitlin, 1871-1942)もまた詩人であったが、ヒレルは同時に思想家としての側面を持ち合わせていた。このベラルーシ生まれの父親は正統派(ハシディーム)の教育を受けたのち世俗的な研究へと進んでいったが、宗教と信仰の問題に悩まされるようになってからは厭世的な作品やスピノザやニーチェの論文を出すようになる。かれは世俗の文化に失望してユダヤの教義にいよいよ没頭、カバラを体系化した書『ゾーハル』を初めてヘブライ語に訳すなどし、さらにはホロコーストを予見してパンフレットや講演などで警告した。4)
聞くんだイスラエル! 叫ぶんだユダヤ人! おまえの神に叫べ、世界に叫べ
/かたわらにいる神に、おまえの神に /遠くの異郷の世界に / (…中略…) /神よ、わたしたちはもう待てない!
/今でなければ―いったいいつだというのか? 5)
かれは新年(ローシュ・ハシャナ)の前夜にトレブリンカへの途上、祈祷衣(タリート)と経札小箱(テフィリン)を身に付けたまま殺された。たとえばイツハク・カツェネルソンは『滅ぼされたユダヤの民の歌』で証言している。
ヒレル・ツァイトリン――かれはタリートを纏(まと)ったまま、積荷交換プラットホームへと引きずられ、そこで射殺された 6)
かような事情を知ったうえで冒頭の詩をあらためて読んでみるとき、「像あるものたちは死んだ四肢のように落ちていく」、「死の風が深い草むらのなかからわき上がり、/雲の押し上げた
/像あるものたちを西から一掃してしまうと」といった詩行は、なにか禍々しい連想をにわかに喚び寄せはしないだろうか。ちなみに『テキスト』は1933年に書かれたことを合わせて指摘しておく。
わたしが以下に挙げる詩は神秘的な色彩を一層強めている。
"Oysleyz"
Feldgril hamert: gey'mir, gey'mir.
Mide beymer− zun derbrent.
S'oyg
dayns flemlt. Shlefrik dremlt
shvakher
vint oyf dayne hent,
S'falt ot bald di nakht− un demolt? . . .
Vayte
lonke, tunkl grint zi.
Got,
gey oyf in undzer mit.
Zest?
Dort shteyt der toyt. Ahintsu
lomir
tsugeyn zalbedrit.
Er,
der ferter vil undz bentshn.
Dort
in sidur fun di shotns
gliyen naye shtiker traf.
Shvarts-topolish shtart der ferter,
er, der zin fun dayn bashaf.
Lider shtarbn, s'platsn verter. 7)
『救済』
エンマコオロギたちが地面を足で叩いている:進もう、進もう、と。
疲れた木々−太陽が照りつける。
おまえの眼が炎をあげる。眠たそうに
かよわい風がおまえの手のなかで夢をみている。
夜がじきに降りてくるだろう−そしてそのとき?……
遠くの牧草地、それが濃い緑に染まる。
神よ、わたしたちのまっただ中で立ち登りたまえ。
おまえに見えるか? あそこに死が立っている。あそこへ
三人で行こう。
かれ、第四のものがわたしたちを祝福しようとしている。
あそこでは影の祈祷書のなかで
新たな字母(アルファベット)が煌(きら)めいている。
黒さを二倍に増して第四の字母が現われる、
かれが、おまえの創造の意味が。
歌は死ぬ、言葉が迸(ほとばし)る。
なにしろボルヘスの言うように『創世記』冒頭の「初めに(ベレシート)、神は天地を創造された」が、ヘブライ語第二の字母「ベート」で始まっているのは、聖なるテキストはおなじ「ベート」で始まる「祝福(ベラハー)」とともに始まらなければならないからだ、と解釈するような伝統をも生みだした宗教である。8)おそらくユダヤ神秘主義のカバラを一瞥しておくこともあながち無駄ではない。
おのおのの字母がヘブライ語では具体的な意味とゲマトリア数(gematria number)とを同時に備えている。たとえば「第四」の字母「ダレット」はそのかたちの示しているように、幕屋へと通ずる開かれた「扉(ダレット)」を文字どおり表わし、さらには施しを求めて「扉」を叩く「貧者」を暗示するものであり、したがって「贖罪」に達するための「聖なる慈悲」でもある。おそらくは「貧者」を「人間一般」と読み替えれば「聖なる慈悲」とはたちまち「神の慈悲」となろう。さらに「ダレット」はゲマトリア数4を有しているため、世界を「生命の樹」に見立てて解釈するカバラの書、『セフェル・セフィロート』の言う「四つの世界」に相当する。だけれども創造された世界から遡ってその世界の創造以前の神の純粋精神――神の王冠「ケテル」のうえで燃えさかる炎で表わされる――へと立ち返るために、あらゆる数の神聖で究極的な根源「アレフ」=
1を目指していくカバラの釈義では、アルファベットが逆に配列されるために後ろから数えて「第四」の字母がこんどは「クフ」となり、神の「無限」の「聖性」を表わす100というゲマトリア数をもつことになる。だとしたら最終行の「歌は死ぬ、言葉が迸る」の意味するところは、人間の営みでありながら同時に「無限」の「聖性」が充満した「歌」の領域から、『創世記』冒頭の神が「光あれ」と「言葉」を発した地点へとさらに舞い戻ってきたということか。あるいは「エンマコオロギたち」が「進もう」としている地点もそうした「創造」の始源ということであろうか(「第四の字母が現われる、/かれが、おまえの創造の意味が」)。おそらくその場合には「エンマコオロギたち」という意外な表象こそが「救済」を求める「人間」の姿だということになる。きっと「エンマコオロギたち」が「地面」を這いつくばりながらあげる「進もう」という掛け声が「人間」の「歌」なのであり、かれらが「救済」に到達したあかつきには「歌は死」んで神の「祝福」の「言葉が迸る」のであろう。なお「クフ」は季節と宗教儀式の循環ないしは犠牲の観念と結びつき、神の「聖性」を学ぶことのできない「猿」ないしはそれと同等の「人間」とも関係づけられる。9)
なるほど父のヒレルは『ゾーハル』まで訳した思想家であったし、息子アーロンにも大天使「メタトロン」を扱った同名の著書(1922)があるだけに、この詩のなかにカバラ的な要素を読み取ることはさして困難ではない。かくしてアーロン・ツァイトリンの詩にすぐれて神秘主義的な性格のあることだけはすでに分かるだろう。
だとしたら肝心の『子牛』のほうはどのような歌詞なのか。かような詩人の作風を知ったうえで見比べてみたい。
"Dos Kelbl"
1.
Oyfn
furl ligt dos kelbl,
Ligt
gebundn mit a shtrik.
Hoykh
in himl flit dos shvelbl,
Freyt
zikh, dreyt zikh hin un tsrik.
Lakht
der vint in korn,
Lakht
un lakht un lakht,
Lakht er op a tog a
gantsn,
Mit
a halber nakht.
Dona,
dona, dona, dona,
Dona,
dona, dona, don.
2.
Shrayt
dos kelbl, zogt der poyer :
Ver
zhe heyst dikh tsu zayn a kalb?
Volst
gekent tsu zayn a foygl,
Volst
gekent tsu zayn a shvalb?
3.
Bidne
kelber tut men bindn,
Un men shlept zey,
un men shekht.
Ver s’hot fligl,
flit aroyftsu,
Iz bey keynem nisht keyn knekht. 10)
『子牛』
1.
荷車に子牛が横たわってる、
縄で縛られ横たわってる。
空高く燕が飛んでる、
喜んで、くるくる輪を描いて飛んでいる。
風が麦畑で笑ってる、
笑って笑って笑ってる、
一日中笑って、
夜半まで笑ってる。
ドナ、ドナ、ドナ、ドナ、
ドナ、ドナ、ドナ、ドン。
2.
子牛が呻く、農夫が言う:
だれがおまえに子牛になれって命じた?
おまえは鳥になりたかったんじゃないか、
おまえは燕になりたかったんじゃないか?
3.
あわれな牛たちを人は縛ったり、
かれらを引きずったり屠(ほふ)ったりもする。
だが翼あるものは空高く翔(かけ)て、
だれの奴隷にもなりはしない。
たしかに『子牛』に出てくる事物はどれも身近なものだ。だけれど『テキスト』や『救済』と同様に「風」が、『子牛』でもまたとても印象的に扱われている。さきに挙げた『テキスト』の「死の風」にはポグロムの雰囲気が漂っていたし、『救済』が神によってなされた世界の「創造」への遡行をテーマにしているとすれば、「かよわい風」とは『創世記』で「光」が創造されるまえに水面を覆っていたとされる神の「ルアハ」、すなわち「風」「霊」「気息」かもしれない(『創世記』1:2「地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊(ルアハ)が水の表を動いていた」)。たぶん「風」が「麦畑」で「笑」うとするならば、それは麦が黄金に輝く収穫のときだからであろう。さらには「風」が「夜半」まで「笑」いつづけているのは、そこで日が入れ替わって翌日の「刈り入れ」を迎えるからであろう。わたしたちと違って宗教的な儀礼を重んじるユダヤ人ならば、「安息日(シャバット)」がそうであるように時間の観念が厳格だったはずだ。おなじような「麦畑」の光景はゴッホが繰り返し描いた『麦畑』『刈り入れする人』にも求められる。かれにとって「麦」を「鎌で刈る」ことは「種まく」ことすなわち「生」とは反対に「死」の象徴だった。11)なるほど「風」――そして「燕」も――は「麦畑」のもたらす「豊穣」を喜んでいるのだが(「笑って笑って笑ってる」、「喜んで、くるくる輪を描いて飛んでいる」)、他方で「豊穣」が「死」に近いことも知っているのである。おそらくは「麦畑」も「子牛」もその運命にほとんど違いはない。
だがそれ以上に興味深いのはいずれの詩にも共通する水平の動きと垂直のそれとの微妙な交錯である。たとえば『子牛』のなかで確実にそれに相当するのは「風」「麦畑」と「燕」「鳥」「空高く翔て」の対比だけだが、『テキスト』であれば「死の風」「深い草むら」「西から一掃してしまうと」と、「雲の押し上げた」「像あるものたちは死んだ四肢のように落ちていく」がそれで、『救済』では「(エンマコオロギたちの)進もう(としている方向)」「牧草地」と、「夜がじきに降りてくるだろう」「死が立っている」「神よ、(…中略…)立ち登りたまえ」など頻出している。かりに水平の運動が地上での生の営みだとすれば、垂直の動きはそれが上昇であろうと下降であろうと、なにかやはり神的なものの働きを暗示しているにちがいない。ただし「麦畑」という水平の場に垂直の運動が介入していることは、地上でも聖なるものの垣間見られる瞬間があるということを示している。なによりもツァイトリンが『子牛』の詩のなかで結構させている二つの運動は、たがいに排他的な関係になっているわけでは決してなく、おなじひとつの空間を構成していることを強調しておきたい。わたしたちが冒頭の『テキスト』という詩のなかで確認した世俗のものと聖なるものの並置である。
ただし以上は『子牛』の歌詞はツァイトリンが書いた、という前提にあくまでも立ったうえでの比較にすぎない。さしあたり詩が歌となった経緯も見ておく必要があるだろう。
■2につづく■