ドイツ語リーディング


 以下はドイツ語リーディング(2001年度)の学生が書いたレポートです。


 人は死んでしまったらどうなるのだろう。誰でも1度は考えたことがあるとだろう。なにもない闇に放りこまれてしまうのか、それとも天国、ましてや地獄がまっているのかもしれない。これを証明することは永久に不可能なことだ。しかし、僕は天国があると信じて生きていきたい。ベルリン天使の詩という映画の人と天使のやりとりを見て、最近、よく生死について考えるようになった。映画のなかで天使は全知全能であり、永遠の命を授かっている。子供を除き、目で見ることができない。ひとことでいえば、SOULで生きているといえる。一方、人間は覚えていたことも忘れるし、この先何が起こるかも分からない。寿命もあれば、目で見ることもできる。人をひとことでいえばBODYという言葉がぴったりだ。天使と人は全く反対の存在だと僕は思う。
 映画の始まりの子供は子供だったころ…という詩にはかなり考えさせられた。人によってとらえかたが違うとおもうが、この詩がベルリン天使の詩そのもの。つまり、天使の気持ちを歌っている詩だといえる。何回かこの詩は出てくるが、それぞれ違った意味をもっている。ここで歌われている子供は人間になろうと願望をいだく前の天使なのではないかと思った。とにかくこの映画は謎だらけなのだ。はっきりとした答えがないので自分でこうではないのかと考えていかなければならない。でもそれがこの映画のおもしろいところだ。
 まず僕がドイツという国について考える時、真っ先に思い浮かんでくるのは映画の舞台にもなっているベルリンにある、ベルリンの壁だ。この壁によって、東と西に分けられ、ドイツの人々は何十年にもわったって苦しめられてきた。しかし、天使にとって壁は何の障害にもならなかったはずだ。なぜなら、空をに飛ぶことができ、東西を自由に行き来することができるのだ。しかし、天使のすることはだだ起こったこと、見たことを他の天使と報告し合うだけなのだ。全知全能、永遠の命を授かるのは憧れるが、僕は生まれ変わってもまた人間になりたい。もしも、天使になれるとしても、感情もなく、スリルも味あえない天使になりたいとは思わない。
 映画監督ベンダースにとってベルリンとはどういう場所だったのか。彼の作品にはパリテキサスやイージーライダーなどアメリカを舞台としたアメリカ映画が多かった。しかし、そんななか、ベルリンという舞台を選び、ベルリン天使の詩という映画を作ったのには彼自身のなかで大きな意味があるものだったのではないだろうか。今まで国という枠を越えて作ってきた映画とは違う。人と天使という存在を通してベルリンの街の素晴らしい風景を伝えたかったのだと思うし、ベルリンの人々が何を考えながら日々生活しているのかも世界の人々に伝えたかったのだと思う。(木下 源真)

 ベルリンという街は、非常に歴史が古く、様々な人々の思いが詰まった街である。第一次世界大戦に敗北したドイツは、東と西に分断され、そして首都であるベルリンも東西に分けられた。そしてその後、経済格差によって、東ドイツの人々が西ドイツの逃亡するのを防ぐために、ベルリンの壁が築かれた。その悲しみの多かった歴史のなかで、人々のさまざまな思いを、天使は記録し続けてきたのだろう。天使は世界で起こったありとあらゆる出来事を、作主である神様に報告するためにいるのである。地球が創造されてから現在に至るまでずっと、天使は霊的な存在として私たちを見守り続けている。そして、それはこれからもずっと続いていくのである。
 ベルリン・天使の詩のなかで、天使はいつも高い教会の上から、そして空を飛びながら、人々を見下ろしている。私は、'天使ってどんな気分なんだろう'と思い、少しだけでも天使の気分に近づくために、屋上にのぼってみることにした。屋上にのぼり、下を見てみると、街じゅうが見渡せ、人々がとても小さく見えた。今まで自分が歩いていた道も場所もこの中の一部だったんだなぁ、としみじみとした気持ちになった。しかしまた、自分が今こうして街を見下ろしていることを誰も気づかないことに、少し寂しい気持ちにもなった。天使とは実体がなく、霊的な存在である。人々は天使に気づくことはない。(赤ちゃんや純粋な人間は例外だが。)天使が天使でいることを嫌になり、人間と同じように実体を得て、そして、自分の存在に気づいてほしいと思ったその気持ちが、少し分かったような気がした。そして天使がやってみたいと思ったこと、例えば食べ物をおいしいと感じたり、寒さに凍てついたり、嘘をついて人を騙したり、そして人を愛したりすることは、私たちは普段当り前だと思っているけど、とても素晴らしいことなんだ!と気がつきました。それは、人として存在し、今を生きているからこそ味わえる、特別な感覚であると分かりました。
 天使は永遠で、そして全てを知っています。それは素晴らしいことだと思うけど、全てを知っていて、未来も分かってしまうのは、私はつまらないと思います。今日生きていて楽しいのは、明日何が起こるか分からないから、そして人間には限りがあるからだと思います。私は《今》という時が大切なのだと思う。
天使という見えない存在、見えざる存在は、それを私たちに気づかせてくれるためにいるのではないでしょうか。また、子供や純粋な人たちも、同じような理由で存在しているのではないか、と思いました。(高松 千恵)

「Wim Wenders が映画で描く天使とベルリン」
 Wim Wendersが「ベルリン天使の詩」という映画において訴えようとしたのは、平和ではないだろうか。そして映画の舞台がBerlinであることと、主人公を天使としたことには関連があるのではないだろうか。
 この映画で映像として興味深いのは、天使から見た風景が白黒で表現されていることである。白黒の映像は、天使が色彩を知覚できない、精神的・霊的存在であることと同時に、Berlinという、映画に選ばれた都市の色を表現していると私は思う。この映画には、天使がBerlinを見つめる映像を通じて、歴史や思想を印象づけている。また冒頭のわらべ歌は、詩的で芸術的なイメージがある。
 当時のベルリンは、「壁」によって街が分断されていた。そして映画の途中では、第二次世界大戦の実写フィルムが映しだされている。また、カイザーヴィルヘルム記念教会、戦勝記念塔、そしてベルリンの壁といった、Berlinの「戦争」を連想させる建築物が登場する。すなわち、暗い過去をかかえたままの、「戦争」を色濃く残したBerlinの街を白黒の映像で表現しているのだろう。
 また、天使の住みかである国立図書館は、思想の宝庫である。映画のなかには、クレー(Paul Klee)やベンヤミン(Walter Benjamin)の本を登場させている。
 天使はそんなBerlinの街にずっと住んでいる。そしてよく、戦勝記念塔のてっぺんで羽根を休め、上空から人間を見守り続けている。天使である限り、時代を超えて、永遠に。天使にとってベルリンの壁は「壁」ではない。自由に空を飛べるからだ。彼らにとっての「壁」は人間との間に生じている。天使は全知である。人間のように、わくわくしたり、思い切り泣いたりできない。人間が経験するささいな出来事のひとつでさえ、味わうことができないのだ。そして大人の人間は天使の存在に気づかない。天使は人間の女性に恋をした。永遠に報われない恋を。しかし天使は、ついには人間との「壁」を越えた。なにもかもが未知で新鮮な世界へ飛び込んだ。
 天使が人間との壁を越えたいと願う気持ち、平和を願う気持ちが、この映画で「ベルリン」と「天使」によって描かれているのだろう。(合田 まどか)

 ダミエルが人間になることは、もしかすると予期されたことかもしれない。天使たちは、永遠に天使のままで、自分たちの仕事を続けなければならない。しかし人間になること(死ぬこと)は、唯一神の与えた選択肢だったのだ。そして神はきっと、そんな彼らの姿を見ている。いつ人間になるのか。いつ、自分の与えたチャンスを手にするのか。チャンスの期限は永遠である。だが、今人間になったダミエルにしても、他の天使にしてもこれまでの長い長い間そのチャンスをつかむことができなかった。なんと長い間、人を愛することをしなかったのか。人間になりたいとも思わなかったのか。いや、きっとそうではなく、彼らはこれまで何度も人間になりたいと思ったのかもしれない。人を愛しかけたかもしれない。だが、自分にセーブをかけてきた。人を愛することは天使の死であって、人間になるということを知らないから。また、永遠という力を失うこと、世界が見える力を失うことを恐れた。彼らにとってその力が全てであり、自分の存在を証明する唯一のものだった。つまり執着する以外にできなかったのだ。きっと天使たちの多くは、永遠ではなく一瞬を感じたいと思ったはずだ。
 ところでダミエルが人間になる姿をカシエルは見ている。すると、天使が死ぬと人間になることを知ったことになる。だがこれは少しおかしい。これまでの永遠のなかで何人かは人間になっただろうから、天使たちはそのことを知る機会は何度もあったはずだ。だが、彼らは知らない。なぜだろうか。もしかすると、ダミエルが人間になった時点で、天使たちは彼の天使としての存在を忘れているのかもしれない。ただ一人の人間として見ている。きっとこれは神がしたことだろう。きっと神は気づいてほしいのだ。自ら人を愛し、人間になりたいと願えば、永遠という代償をを払ってかなうことを。果たしてカシエルが人間になる日はいつ来るだろうか。もしかすると今度は、ダミエルが刑事コロンボのようにカシエルを誘うかもしれない。
 天使たちにとっての壁(境界)は、人間と天使、永遠と一瞬、であった。私たちにも沢知恵さんの "The Line" という曲のようにそれぞれ壁がある。それは、ベルリンの壁のような見えるものもあり、私たちのなかで無意識のうちにある壁もある。だが、壁を全て取り除くことはできないのかもしれない。一つの壁を壊せば、また別の壁が現れる。人間はきっとそれを繰り返して生きるしかないのだ。
 「沢 知恵さんの "The Line" という曲」
 Where's the line between love and hate
 Where's the line between nouth and south
 Where's the line between man and woman
 Where's the line between you and me
   There's a line , invisible line
   Everywhere in this world
  ♪ Everyday of our lives
   And it's you , to go over the line
   It's easy if you try
   'Cause the line is you
 Where's the line between here and there
 Where's the line between adult and child
 Where's the line between black and white
 Where's the line between yes and no
  ♪ repeat
   The line is me , the line is you 〜(真部 妙子)

 今やドイツが世界に誇る映画監督であるヴィム・ヴェンダース。彼が創り出す独特の映像と演出は世界中に大きな衝撃を与えた。なか「ロード・ムーヴィー」は彼独自のスタイルを確立させた。「ロード・ムーヴィー3部作」の最終作『さすらい』では、物語の進展に則して撮影が進められた。非常にドキュメンタリー性の濃い作品である。主人公の二人と製作スタッフが共に旅を続けることにより物語が生み出され、それが撮影されていく。その成果としてヴェンダースはかつての映画からは実感し得なかった生々しい「距離と時間の持続性」をフィルムに定着させ、旅の物語ではなく旅そのものの見事な映像として『さすらい』を完成させた。そのようにしてヴェンダースの「ロード・ムーヴィー」は70年代の「自然主義的映画」のなかでより際立つものとして認められることになる。
 1991年に発表された『夢の涯てまでも』は世界各地でロケが行われた大規模なロード・ムーヴィーとして知られているようだが、作品を改めてよく見直してみるとむしろヴェンダース自身は過去に撮ったロード・ムーヴィーから積極的に遠ざかろうとしていたのだと気づかされるらしい。この映画を製作するにあたって彼が企画したのは「ロード・ムーヴィー」的な「距離と時間の持続性」を消し去ることだったのだ。『夢の涯てまでも』と過去の作品の「ロード・ムーヴィー」とは旅の移動過程の描写の点で場面構成が確実に異なる。前者は出来事の描写よりも物語が優位にあり、ドキュメンタリー性は薄れる。『さすらい』でのように旅程の詳しい様子は描かれず、目的地間を移動する乗物とそれに乗る登場人物たちの姿がほんの短く示されるに過ぎない。物語を語るうえで旅程の詳細の描写は過剰なものと見倣され排除された。
 「自然主義的映画」がドキュメンタリー性を過度に強調してゆくとき、その結果として一つの問題が浮上する。リアリティーの感触が一点に集約されることにより、媒介性という映画の現実が背景へと追いやられてしまうのだ。被写体がナチュラルな変化を示せば示す程、画面がリアルであればある程フレームに対する意識は稀薄になってゆくだろう。『夢のい涯てまでも』における媒介性という問題は「リアル」な「距離と時間の持続性」をフィルムに定着させることにより、現実の距離と時間を擬似的に解消させていた「ロード・ムーヴィー」=「自然主義映画」を撮り続けてきたヴェンダースにとって必然的に取り組まねばならないものだったはずだ。彼は撮影現場での事物との接触にリアリティーを実感できなくなった時、撮影の録音機材やスクリーンという媒介性に直面した。その時はすでに『ベルリン・天使の詩』において顕在化している。「天使」はあの世とこの世を繋ぐ媒介者として現れ、現実のなかの事物にそっと触れる。その様子を捉えた時、ヴェンダースはモノクロの世界とカラーの世界を見てしまったのだ。私はわざとモノクロで撮った映画は、レトロ感を出すための雰囲気作だけのものだた思っていたが、ここまで深いものだとは驚いた。
 今回の講義をきっかけに新たな文化に触れることができたような気がしてとても嬉しい。ヴェンダースの世界にもっと入ってみようという気持ちが増している現状だ。(谷 直哉)

「天使とベルリン」
 ダミエルはとても人間くささを持った天使だ。そしてそれはとても幸せなことだったと思う。これは人間の目から見た考えだが、ずっとずっと後もなく先もなく、ただずっと世界の外から人間が見て 聞いて 触って 感じているのを観察しているよりも、自分もその世界のなかにいて、実際に見て 聞いて 触って 感じている方が何万倍もいい。それに天使は触覚や味覚、嗅覚などはないが感情はあった。自殺する人を止めようとしたが止められず、嘆いていた。もし自分が見えていて相手に触れることができていたならば、その人を止められたかもしれない。しかし「これもその人の運命だ。」というかのようにカシエルはただ記録をとっただけなのだろう。天使や神は全知全能だけれど、できないことだってある。そしてこれも「運命」として理解し、また記録をとるに違いない。実物として存在することもなく、何でも思い通りにできるわけでもなく、ただ他の者のことだけに従事する天使には私はなれそうもない。全知全能でなくても、先が予測できなくても、人を愛する喜びを知っていれば、信じるものを持っていれば、それは全知全能を超えるものがあるのではないだろうか。もちろんこれも『人間の考え』なのだが。人間が見て 聞いて 触って 感じることができるのは、有限だからこそ与えられた特権なのかもしれない。
 この映画では、天使はずっと(存在)していて、ビッグバンや氷河時代を過ぎてようやく自分たちとよく似た生物が出てきたといっている。要するに人間は天使の姿をコピーした後者(あともの)である。しかしダミエルはその後者をうらやましいと思った。ただ記録をとるだけなのに自分とよく似ただけの、なかの世界の対象をうらやましいと思うのだろうか。そこで私は、ダミエルは人間をずっと観察しているうちに人間に同化してきたのだと考えた。でなければ、人間に恋することも暖かさを感じたいと思うこともないだろう。だって天使(ダミエル)は全知全能で全てを知っているのだから。白黒の天使の視点の画面から一瞬カラーになることがあったが、それはダミエルが最も人間に近づいた時を表していたのではないだろうか。
 ところでダミエルが人間になった時にあった鎧は束縛の象徴だったと思う。さっきも言ったが、天使は全知全能だが、触れたり 嗅いだり 味わったりはできない。願望はあるのに実行できない。人間が喜んでいる時、泣いているとき、楽しんでいるときを見ていながら、自分は決してできはしない。それは自分が幻だから。自分が「存在」として認められていないから。たしかに私の隣にいるのに見えていないから。自分の存在を認めてほしい。つまり感じてほしい。そして自分も感じたい。人間になることによって感じる自由が解き放たれたのだ。外から記録を撮り続けるだけの幻の束縛から解かれたのだ。ダミエルは鎧が落ちてきて、その衝撃で目が覚めた。きっと天使から人間に変わるときに、その束縛の鎧がダミエルの体からするりと抜け落ちていったのだ。それはダミエルが天使であったことを同時に象徴している。そして今からは人間であるということも・・・。
 マリオンはダミエルを見た瞬間に愛を告白したが、普通会って間もない男に愛の言葉なんかかけるものだろうか。たとえ夢のなかに出てきたからといって、また、ずっと捜し求めていた人だからといって、初対面の男に普通は言わない。これはダミエルがマリオンにこっそり自分に振り向くようにと魔法でもかけたのだろうか。「恋のキューッピッド」という名前があるぐらいだから、もしかすると天使のなかにそんな役目の者もいたかもしれない。この天使さえいれば、マリオンとダミエルの心をくっつけちゃうことくらい簡単だ。でも私はこう思っている。マリオンがずっとダミエルを捜していたこと―記憶には残っていないが、マリオンも実は天使だったのではないかと。マリオンはダミエルが人間になりたいと思う前から人間になりたいと思っていて、生まれ変わり、何度か転生したのではないだろうか。今、ダミエルが人間になりたいと強く願い、それがマリオンのなかで直感的に感じて通じ合ったように思える。
 Ich weiss jetzt,was kein Engel weiss
 「私は天使の知らないことも今は知っている。」
 ダミエルのこの最後の言葉にはダミエルの気持ちがたっぷり詰まっているように思える。それは喜びであり、人間になったことに対する後悔は1mmもない。またダミエルが人間になりたいと思った背景にはベルリンがあったと思う。当時ベルリンには壁があった。しかしその中では異様な華やかさが見えた。たくさんの外国人、サーカス、コーヒー・・・一見寂しいような町で、何だかその閉ざされた空間のなかに華やかさがあった。いや、もしかすると逆かもしれない。正直なところ、私がこのビデオを最後まで見たのは初めてで、うまく言葉にも出せないでいるのだが、ダミエルがドイツ、ベルリンを選んだのも人間になりたいと思ったのも、このベルリンの世界に惹かれたからではないか、そう感じているのである。ダミエルは幸せ者だ。(丹下 頌子)

「ベルリンの歴史」
 ベルリンというと、ベルリンの壁を思い浮かべる。ドイツという国を2つに分けたこの壁は、本来同じ国で暮らすはずの人間を遠ざけた。壁を境に異なる考えを持ち、貧富の差も生まれ、2つの場所で2つの立場で、異なる生活をすることになった。この状況は、天使と人間の関係に似ているように思う。もしかしたら、天使と人間の間にも、それぞれの目には映らない壁があるのかもしれない。この世界には、天使と人間という存在があるとしよう。そうすると、神はこの世に天使と人間という2つの存在を創り出したことになる。しかし、神は本当に天使と人間という存在を創り出していたのだろうか。神は本当はこの世に天使という存在だけを創り出したのではないだろうか。神はこの世に天使という存在を創り出した。天使は霊的な存在であって、永遠の時間に存在し、全てのことを知っている。しかし、天使が知っている全てというのは、本当に全てなのだろうか。神はこの世に天使を創り出した。だとすると当然神はこの世から天使を消してしまうこともできるはずである。だとすると、仮に明日神がある1人の天使をこの世から消してしまうとする。そうなるともし天使が全てを知っているなら、明日自分が消えてしまうことも知っていることになる。天使は神から創り出された。その天使が本当に神のすることまで全て知っているのか、僕は知っているはずはないと思う。だから、天使は自分のことだけは分からないのではないかと思う。今日は天使が天使たる存在であったとしても明日には違った存在になっているかもしれない。だから、人間というのは天使のなかから生まれたのではないかと思う。同じ天使という存在から異なる考えを持つものが現れた。だから、神はこの2つの存在を分けるために見えない壁を作ったのではないか。神は彼らを空間的に隔てて、霊的存在ではなく物体として存在させ、天使と相反するものとして存在させたのではないかと思う。
 ベルリンの壁は崩壊し、ベルリンは1度2つに分かれたものの、再び統一された。別々の異なった生活をしいられた人々も今となっては一緒の国でもとどおり生活している。もし神が見えない壁を崩壊させたなら、天使と人間も同じ世界で同じ空間で共存できるのかもしれない。(登記 和人)

 天使にあって人間にないものはあるのだろうか。また、人間にあって天使にないものはあるのだろうか。映画のなかでは天使は五感がなく、将来が分かってしまう。人間は五感があっても、今より先のことは分からない。そして一番異なっている点、それは天使は永遠であるが人間は永遠でない、ということだ。
 一人の天使が人間に恋をして、その天使は人間になる。天使は永遠も将来の予知も捨てて、人間となったのだ。しかし、失ったものばかりではない。寒さやコーヒーの苦さを感じることを手に入れた。人間はよく「将来が分かりたい」だとか「永遠の命がほしい」と願ってきた。もし、人間が永遠の世界へ旅立つことができるとすれば、それを望む人はたくさん出てくるだろう。そして本当に永遠の世界へと旅立って天使となったとすれば、その人たちはどう思うのだろうか。このままでいいと思う人もいれば、元の世界に戻りたいと思う人もいるだろう。
 天使は、天使の喜びと悲しみを両方知っている。人間も両方知っている。しかし、天使は人間のことを知っているが、人間は天使のことを全く知らない。聖書なんかで天使のことはいろいろと知ることはできるが、天使の心までは知ることはできはしない。なぜ、人には天使が見えないのか。いや、正確には大人には見えないのだろう。反対になぜ子供には見えるのだろう。そしていつから天使は見えなくなるのだろうか。そんなことはいくら考えたって自分には分からない。自分が大人であって子供ではないと自覚した時がいつだったか思い出すことはできない。これと同じように、天使が見えなくなるのも「いつの間にか」ではないだろうか。
 人間の世界であったことをまとめて、神へ報告するのが天使の仕事とすると、神という存在は万能ではなくなってしまう。なにもかも分かってしまうのであれば、報告される必要もないのだ。人間が何をしたのかを報告された時、それがもし戦争中であれば神や天使はどう思うのであろうか。映画ではベルリンを壁によって東西に分断・統治されている。この戦後の暗い雰囲気、その雰囲気のなかを生きる人々の気持ちが常に聞こえてくる天使は、何を感じているのだろう。
 Sophiaというバンドの曲に「せめて未来だけは・・・」がある。その中に
  大人になりたくないと呟いている  大人
  子供に戻りたいと呟いている  子供
というフレーズがある。法律上は二十歳を超えると大人と認知され、急に多くの義務が課せられるようになる。これは「自分は子供だ」と言い張っても通用しない。社会的認知が二十歳を超えることによって大人と子供と分けているのだ。しかし現実はどうだろうか。大人と呼ばれる人たちが子供じみた事件を起こして、子供は外で遊ぶこともなく偏差値に振り回された受験戦争の道具となっている。子供も大人も区別がつけらない今の世の中で、天使は何を考えているのだろうか。もし私が今、人の心を読めるようになったら、叫んで逃げ出すのかもしれない。(藤村 純也)

 天使が人間になるとは、永遠を捨てて無味無臭の世界から生の実感を味わえるという世界にあることを決意することだ。そう、自分たちの歴史に踏み出すことなのだ。たばこを吸う。手がかじかんだらこすりあわせる。暖かいコーヒーを飲む。天使はインビスではじめてコーヒーを飲みコーヒーの味に感動する。色づく現実は今も驚きに満ち、心動かされるものばかりだ。しかし、私たちは驚きや感動をモニターでみることに慣れてしまった。自分の身の回りにはなにもおこらず、劇的なことは映画や物語の世界だけに起こると信じて、ついには自分の周りで起こることさえ違った世界のなかの出来事のようにしか考えなくなっている。
 天使は、コーヒーをすする満ち足りた表情を通して、つかのまのこの世界に存在することは、それだけで素晴らしいことを表現した。つまり、映画は世界のなかに生きてあることを示した。この映像は、カメラを天使のまなざしとしている。たしかに、この映画のカメラは映像による物語の外にあり、物語を見つめている。それは、天使が世界の外から人間の世界を見守っているかのようだ。天使が空を飛ぶようにカメラもを空を飛ぶ。シーンはふいに切り替わって壁も、時間も飛び越えていく。色を失った天使の世界のように。ただ、天使は人間の心の呟を聞くことができる。電車のなか。図書館のなか。アパートのなか。
 さらにカメラを向けられると、人はなぜか晴れがましい。天使に見つめられてもそうなのかもしれない。なぜ? 気を取りなおすという覚えは誰にでもあるからだ。そのとき、天使があなたのそばにいて、あなたを見つめ、あなたの心の呟を聞いているのだとこの映画は語っている。これは、わらべ歌の最後に「カメラを向けられてもしらん顔」とさりげなく歌われている。(Machte kein Gesichte beim Fotografieren)子供にとっては、カメラを向けられることも、天使に見つめられことも特別なことではないことを意味しているのだ。なぜなら、子供はいつでも天使が見えているから。カメラは天使なのだ。映画は天使なのだ。
 天使は無能でただ人間たちのことをみているばかりで全く何一つ人間に役立つことはできない。それと同じように映画を見るとき、人はみるために苦しいことをするわけでもないし、害を被るわけでもない。苦しんでいる人を見れば、ただもどかしさや切なさを感じるのみ。それを、さっと一幅の風景にして去っていくのがヴェンダースのやり方なのかもしれない。ヴェンダースは、ベルリンに生きる者の目から見るのでなく、そこを切なく見守ることしかできない者の目で見ようとしている。これが、天使という設定なのだと思う。(藤村 純也)

「ベルリンの歴史」
 「ベルリン天使の詩」を読み進めるなかで、私には1つ強く疑問に感じていることがある。「ベルリン天使の詩」のなかで、1人の天使が「ただ霊としてのみ生きるのは素晴らしい。・・・だけど私は時々霊の存在にうんざりし、飽き飽きする。」と述べている。そして彼はその後、人間が平然としていること、例えば軽くあいさつするとか、新聞を読んで手を黒くする、とかいうことをしてみたいとも言っているのだ。ここで私が疑問に思うのが「天使は天使になる前、人間ではなかったのだろうか?」ということである。私は今まで人間が死ぬと善人が天国へ行き、天使になるのだと思っていた。しかし、「ベルリン天使の詩」では、天使はずっと天使のままで人間だった経験はなさそうなのだ。では、死んだ人間はどうなるのかと考えて私はショックを受けた。私の母はすでに亡くなっているが、私は母は天使になったと思っていたからだ。しかし、刑事コロンボのように天使から人間にはなれても、人間から天使になることはできないで、母が天使として私の隣か上空に居てくれていないなら寂しいと思う。天使にはなっていなくても側には居てくれているとは思うが・・・。
 「ベルリン天使の詩」のなかには、天使が空を飛び、街を見下ろすシーンが出てくるが、とても気持ち良さそうだと思う。また、とても便利だとも思った。独ソ戦において無条件降伏をしたドイツは、西部を米英仏に、東部をソ連に占領されることになり、1961年には「ベルリンの壁」が作られた。その「ベルリンの壁」は28年後、1989年に崩壊したわけだが、崩壊直後は伝統的な道路網・鉄道網など互いに向こう側への交通手段の復旧は難航していたという。しかし壁があった時代も崩壊以後も、天使は自由に西と東を行き来していたのだろう。そしてベルリンで起こる全てを記述していたに違いない。天使は空も飛べるし、何でも知っている。「ベルリン天使の詩」に出てくるわらべ歌のなかに「なぜ私は私であって君ではないのか」というセリフがあるが、これは人間になりたい天使の心の声ではないだろうか。自分はこんなにも人間界の全てを知っているのに、なぜ私(天使)は私(天使)であって君(人間)ではないのか。「ベルリンの壁」を挟んで2つに分かれていたドイツでも、戦争という悲惨な時代でも、きっと天使は人間になって必死に生きてみたかったのだと思う。その気持ちは分かる気がする。人間には知らないこともあるし、空も飛べないし、なんと言っても永遠ではない。人間である限り、自分が永遠でないことや大切な人々が永遠ではないことに深い悲しみを感じることはあるだろう。しかし「人間って素晴らしい」、この「ベルリン天使の詩」を読み、そう考えることができた。(宮本 愛美)


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