ドイツ

コラム第1回

 酢漬けキャベツ・ロック Krautrock を Guten Appetit!

 あなたは日本人の女性ミュージシャンがドイツに乗り込み、かの地の"Kraut Rock"と一戦見えたと言ったら信じますか。かの女の名前はフュー(Phew)と言いドイツ側で迎え撃ったのがホルガー・チューカイ(Holger Czukai)、テクノがベルリンのラヴ・パレードで堪能される十年以上まえのこと。まさチープでハイブリッドな実験を追求するニュー・ウェイヴが世界を席巻し、だれもがメジャー・レーベルに頼らず楽器と機材さえあれば、バス・ルームで録音したものでも流通するインディーズ時代の幕開けである。なかでもPILのリーダーで元セックス・ピストルズのジョン・ロットンが影響を受けたと公言するカン(CAN)がいまだに聞き継がれている。このバンドのリーダー的存在だったチューカイはダンチッヒ出身の38年生まれで、現代音楽のシュトックハウゼンに指揮まで学んだ音楽教師だったのだが、ある学生の持ってきたビートルズの"Sgt. Pepper's"を聴いてから突如として目覚めてしまう。かれがカン以降にマイナー・ヒットさせた"Persian Love"は、自宅に設置したパラボラ・アンテナからキャッチした音源を、ドイツ職人らしい技でレゲエのダブにコラージュしたもの。また"Sudetenland"はブルガリアン・コーラスをミックスしたり、なんと"Der Osten ist Rot"では中国国歌をラテンの音楽に仕立て上げるなど、わざと自分の音楽を「退廃音楽」(Entartete Musik)と言ってのけるだけの老獪さを見せつける。かれにはプログレ系との付き合いもあるが関心のある方はホーム・ページ(http://www.spoonrecords.com)でディスコグラフィーを調べてほしい、Viel Spaß! たしかにベルリン当局から公認されたラヴ・パレードで踊るのも一興だし、ネオナチのベーゼ・オンケルズ(böhse onkelz)もしぶとく活動している(ドイツ政府はCDの売買を禁じていながらインターネットで検索できる)が、こんな混乱した状況に浮かれないためにもドイツ的でかつ無国籍なチューカイの音楽が励ましとなる。


 ●"Euthanasie" (「安楽死」)という言葉の重み

 なるほど98年の総選挙で安楽死の「完全合法化」が早くも争点になったオランダに較べ、ドイツでの議論は慎重にすぎるという印象があるかも知れない。およそ「安楽死」を意味する単語だけを見てもGnadentod (「尊厳死」) はまだしも、わざわざSterbehilfe (「死ぬのを助ける」) という同義語までも用意しているほどの気の遣いようだ。なぜならドイツは第二次世界大戦以来の特殊事情をいまだに背負っているからだとも言える。たとえばユダヤ人問題を「最終解決」しようとしたのと同時に、「優生学」の名のもと云わゆる「ジプシー」(かれら自身はSintoやRomを名乗っている)や同性愛者が虐殺され、さらには精神障害者までもが「価値のない生命」として「安楽死」の犠牲となった。なんの抵抗もできない弱者を抹殺したときの標語となった「安楽死」という言葉をいまだに使い続けざるをえない事情を考えること。またドイツというのは人間が死ぬのにsterbenという動詞を用い、動物が死ぬのにverendenという動詞を使う言語文化を持っている(アルフォンス・デーケン『死を教える』メヂカルフレンド社参照)。だから「死の準備教育」"Todeserziehung" を学校教育の早い段階から実施し「人間的な死」"Humanes Sterben" とはなにかを考えさせる。なるほどハッケタールのように「安楽死」を推進する立場の医師から「自己決定」(Selbstbestimmungsrecht)の新たな議論も出されている(『最後まで人間らしく』未来社)。だが中絶した胎児の胚細胞をアルツハイマーの治療に用いることに医師会が反対表明したのもドイツだ。かれらには負の遺産を抱えながらも解決を見出そうとする下地だけは皮肉にも十分にある。


 ●ただの裸もドイツではFKKという「文化」になる

 あまりにも天気がいいのでミュンヒェンの真ん中のイギリス庭園に行ったとする。だがイーザー川から引いてきた人工の流れを見て自分の眼をはたと疑うかも知れない。なぜなら散歩についてきた犬(あれほど軍国主義を忌み嫌ってきたくせに、ドイツ人の犬への躾はいかにも軍隊並みに厳しい)が、さっきまで一緒にいた飼い主のおじさんと泳いでいるからだ。なるほど犬が全裸のまま泳いでいるのは当たり前だとしても、おじさんまでもが一糸纏わぬ姿で泳いでいるでないか。あたりを見回してみるとなるほど老若男女を問わず下着さえ身に付けずにゴロゴロしている人たちがいる。かれらこそ文字どおり訳せば「裸体文化」と呼ばれるFKK (Freikörperkultur) の人たちなのだ。たしかに冬の日照時間が短いから夏のあいだにせいぜい日光浴を楽しもうという理由も頷けるし、ドイツ人が散歩をこよなく愛しているのも一面では真理かも知れない(あるいは日曜はレストラン以外は店が閉まってしまうので散歩しか楽しみがない?)。だけれど自分の裸を平気で人前に晒していられる「文化」とはどんな神経なのか。かれらはサウナに入るときもスポーツのあとでシャワーを浴びるときも男女を区別しないので、わたしたち日本の浴場は別々なんですと言うと逆にホモセクシュアルなのかと訊かれる始末である。ちなみに「美しいドイツの自然」のなかで運動する「健康な肉体美」を喧伝するのは、かつてナチスがアーリア人を賛美するのに用いたプロパガンダの常套句でもあった(ちくま文庫の伊藤俊治『裸体の森へ』で当時の「ヘアーヌード」が見られる)。なにもいまさらナチとの関係を勘ぐったって仕方ないが、こんな「文化」が存在していることも忘れずにドイツの公園をじっくりと散歩しよう。


ドイツ入り口に戻る