与謝野晶子

 

1878明治11年〜1942昭和17年5月

 

1935年当時

 

「やは肌のあつき血汐にふれも見で 
さびしからずや道を説く君
 

 

 

 

 

 


(明星第6号より)

 

1878年大阪・堺の老舗の和菓子(羊羹〈かん〉)屋「駿河屋」の三女として生まれた。旧姓は鳳(ほう)志よう。

 

堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)の時代から文学、特に日本文学に親しみ和菓子屋の帳簿係として帳場に坐りながら『源氏物語』などを読みあさち、鳳晶子(しょうこ)などの名前で歌をつくっていた。

 

1900(明治33)年、来阪した与謝野鉄幹(本名・与謝野寛。プレーボーイとして有名で、晶子以外の女性と浮き名を流し、子を設けた)と出合い、大阪・堺・浜寺の海岸(「高師の浜」)で恋に落ちた。勧められて鉄幹が創設した東京新詩社に加わり、翌年に鉄幹と結婚のため上京した。その後晶子は、明星派の中心的歌人として浪漫的夢幻的作品を数多く発表し近代短歌に大きな影響を与えた。

 

前髪のみだれし額をまかせたるその夜の御胸あゝ熱かりし

 

翌1901(明治34)年に出版された『みだれ髪』は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげたものとして、当時の若い世代の圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作との評価を受けた合同歌集「恋衣(こいごろも)1905(明治38)山川登美子増田(茅野=ちの)雅子との共著で出版した。

 

大正期には女性問題や教育問題への発言も多く、1921(大正10)年からは文化学院の創設に参画して自由教育につくした。

 

また特に、日露戦争で日本全体が戦意高揚している中で、女性の立場から反戦の感情を表わした詩である「君死にたもうことなかれ」(1904〈明治37〉年9月)は余りにも有名であり、後年(1949年)深尾須磨子(1888〜1974、兵庫県生まれ、第2次「明星」で活躍した有名な詩人で代表的な著作は「真紅の溜息」など)は、「命がけ、空前絶後の行為」と絶賛した。

 

なお、晶子の活動は短歌だけにとどまらず、晩年の、現代語訳「新々訳源氏物語」(1912〜1913)に代表されるように、古典研究や女性の自立を求める評論活動、教育と社会活動などに深く携わる等、多様な分野に及んでいる。

 

他方、家庭では鉄幹の妻として、また11人の子の母として献身、大正、昭和の激動期生き抜き、1942(昭和17)年5月29日、鉄幹(1935〈昭和10」年3月死去)に遅れること7年、64歳で華やかにも美しい浪漫詩人としてのヒューマニズムあふれる人生を終え、数万首の歌と『小扇』(1904)『舞姫』等の歌集24冊、評論感想15冊など数多くの単行本を残し、東京・多磨墓地に眠る。

 

 

「私は産の気が附いて劇しい陣痛の襲うて来る度に、その時の感情を偽らず申せばいつも男が憎い気がいたします。(中略)しかし児供が胎を出でて初声を挙げるのを聞くと、やれやれ自分は世界の男の何人もよう仕遂げない大手柄をした」「産屋(うぶや)物語」より)

 

 

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君 死 に た ま ふ こ と な か れ

 

詩の朗読

 

       (半年前に召集され旅順〈りょじゅん〉攻略戦に加わっていた家業の和菓子商を継いだ弟(鳳〈ほう〉籌〈ちゅう〉三郎)を嘆いて)

 

1連

ああ、弟(をとうと)よ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

末に生まれし君なれば

親のなさけは勝(まさ)りしも、

親は刃(やいば)をにぎらせて

人を殺せと教(をし)へしや、

人を殺して死ねよとて

24までをそだてしや。

4連

ああ、弟(をとうと)よ、戦ひに

君死にたまふことなかれ。

(す)ぎにし秋を父君(ぎみ)

おくれたまへる母君(ぎみ)は、

(なげ)きの中に、いたましく、

我子(わがこ)を召され、家を守(も)り、

安しと聞ける大御代(おおみよ)

母のしら髪は増(ま)さりゆく。                                     

2連

堺の街のあきびとの、                  

老舗(しにせ)をほこるあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、

滅びずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。            

5連

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く

あえかに若き新妻(にいづま)を、

君わするるや、思へるや、

十月(とつき)も添(そ)はで別れたる

少女(をとめ)ごころを思ひみよ。

この世ひとりの君ならで

ああまた誰(たれ)をたのむべき、

君死にたまふことなかれ。      

3連

君死にたまふことなかれ、        

すめらみことは、戦ひに               

おほみづからは出でまさね、              

(かたみ)に人の血を流し、                  

(けもの)の道に死ねよとは、                 

死ぬるを人の誉(ほまれ)とは、                

おおみこころの深ければ                     

もとよりいかで思(おぼ)されむ。

 

k-ajisai

  (註)

君を泣く=あなたのために泣く

あきびと=商人。あきんど。

老舗==代々同じ商売を続けている店。由緒正しい古い店

旅順(リューシュン)==中国、遼寧省大連市の一地区。遼東半島南端にあり、黄海に臨む港湾地区。海軍基地。日露戦争後、日本が租借(そしゃく=他国の領土を借り受けること)中国進出の拠点とした。

すめらみこと=天皇を敬って呼ぶ語

出でまさね=お出ましにならないが

おおみこころ==天皇のお考え

おくれたまえる=先立たれなさった

大御代==天皇の御治世

暖簾==商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布

あえかに若き==若く、美しくかよわい

君ならで=あなた以外に

誰をたのむべき=誰を頼みにできようか

  
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この晶子の詩に対して、当時の言論界の大物であった大町桂月(おおまちけいげつ=1869〈明治2〉年〜1925〈大正14〉年、 詩人・評論家。高知市生まれ。本名、芳衛。東大卒。「帝国文学」や「太陽」などを舞台に活躍。詞華集「花紅葉」、評論集「文学小観」、紀行文「奥羽一周記」などある=大辞林)が、『太陽』(1895年〈明治28〉年博文館から発行された「月刊総合雑誌」)誌上で「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為である」「乱臣(らんしん=国を乱す臣。主君に反逆する家来)なり、賊子(ぞくし=謀反人〈むほんにん〉。反逆者。不忠者)なり」と非難した。

 

特に大町が問題にしたのは、第3連で、それを「死ぬのが名誉だとおだてて民を狩りだし、天皇自らは宮中に安座している」と解釈したのである。晶子は、大町に以下のように反論している。

 

「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずる ことの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」(以下略)

 

 

 

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