☆横浜事件☆
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☆ 横浜地裁;横浜事件、無罪の判断 地裁、元被告に刑事補償認める(10年2月4日)=決定要旨/社説 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の再審で、有罪か無罪かを判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を受けた元被告5人について刑事補償を認める決定があった。 決定は、神奈川県警特別高等課(特高)の当時の捜査について「極めて弱い証拠に基づき、暴行や脅迫を用いて捜査を進めたことは、重大な過失」と認定。検察官も「拷問を見過ごして起訴した」、裁判官も「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理をした」としたうえで、「思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認により完結した」と事件を総括した知った上で、事件の発端のひとつは、特高警察が42年の富山県泊町(現・朝日町)での会合を、「日本共産党の再建準備会」とみなしたことだった。決定はこの会合について「遊興の会合だった可能性が高く、再建のための会議という事実は認定できない」「治安維持法の廃止など免訴にあたる理由がなければ、無罪判決を受けたことは明らか」と述べ、実質的な「無罪」とし、5人の遺族が請求した通りの補償総額約4700万円とした。検察側は抗告しないので86年に初めて再審請求して以来、初めて司法により元被告の名誉回復が図られる。 再審で無罪判決が言い渡された場合と同様に、今回の補償決定は官報や新聞に公示される。なお、09年3月に横浜地裁であった4次の再審判決を担当したのは、今回の決定と同じ大島裁判長だったが、判決の中で、刑事補償の請求があれば実質的な無罪判断を出す可能性を示唆していていた。
刑事補償法は、法の廃止や大赦などの免訴となる理由がなければ無罪判決を受けたと認められる場合には、補償金を支払うと定めているが、認められたのは、いずれも故人で、元中央公論社出版部の木村亨さん▽元改造社編集部の小林英三郎さん▽旧満鉄調査部員の平舘利雄さん▽元古河電工社員の由田浩さん▽元改造社編集部の小野康人さん。5人は治安維持法違反で45年に有罪判決を受けた。
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1942(昭和17)年から終戦直前にかけ、雑誌「中央公論」編集者ら60人以上が「共産主義を宣伝した」などとして、治安維持法違反容疑で神奈川県警察部特高課(特高)にでっち上げで逮捕された戦時下最大の言論弾圧事件の総称。 30人以上が起訴され、多くは終戦直後に有罪判決を受けた。4人が獄死。警察官3人が戦後、拷問を加えたとして有罪が確定した。 編集者だった木村亨(きむら・とおる)さん、満鉄調査部員だった平舘利雄(ひらだて・としお)さん、改造社社員だった小林英三郎(こばやし・えいざぶろう)さん、日本製鉄社員だった高木健次郎(たかぎ・けんじろう)さん、古河電工社員だった由田浩(よしだ・ひろし)さんらの元被告の遺族が冤(えん)罪を訴え、再審を請求した。 再審請求は4次にわたり、3次請求で横浜地裁は第1次再審請求から28年後の03年4月、旧刑事訴訟法下で有罪が確定し、死亡した元被告の再審は初めての再審開始を決定したが地検が即時抗告した。 東京高裁は05年3月、元被告らの自白は拷問(「裸にして縛り上げ、正座させた両足の間に太いこん棒を差し込み、膝の上に乗っかかり、ロープ、竹刀、こん棒で全身をひっぱたき、半失神状態に……」
)によるものだったと認定、「拷問による自白は信用性がない疑いが顕著で、無罪を言い渡すべき新証拠がある」と指摘し、横浜地裁の再審開始決定を支持(確定)した(決定要旨)。 横浜地検は、最高裁への特別抗告を断念、これにより、治安維持法違反で有罪判決が確定してから60年余り経過し、裁判記録のほとんどが失われた異例の再審開始決定が確定し、すべて他界している元被告5人について、横浜地裁で再審公判が始まり、を訴え続けた元被告たちは、元被告の遺族たちには新たな希望が広がった 裁判記録がないことから、再審で審理する「犯罪事実」は弁護団が復元した原判決の内容とされた。 また、再審の公開をめぐり検察側と弁護団が対立したが、横浜地裁は05年7月、公開を決め、公判は05年10、12月に計2回開かれた。 公判では元被告らが生前に証言したビデオが上映され、遺族らの証人尋問も行われ、「十分な審理をせずに有罪判決を言い渡したうえ、再審請求を退け続けた司法の責任を認めて謝罪してほしい」などと訴え、弁護側は「特高警察の拷問で強いられた自白に基づく起訴事実は虚偽(ねつ造)で、元被告らは誤判の被害者」と強調、司法の責任や治安維持法の問題点を認定した上で無罪を言い渡すよう求めた。
検察側は、治安維持法の廃止などを理由に裁判を打ち切り、免訴を言い渡すよう求めた。これに対して弁護側は、「再審公判は元被告の不名誉を晴らす手続きであり、免訴は妥当ではない」と反論した。 06年1月9日、横浜地裁松尾昭一裁判長は、「免訴では原判決の誤りを不問に付すことになり、元被告らの名誉回復は望めないとする」弁護側の主張については「相当の重みを持つ」と理解を示しながらも、検察側の主張にそって、「刑事補償法は免訴でも無罪と同じような補償を認めている」と指摘した上で、「免訴でも無実の罪に問われ無念の死を遂げた被告らから名誉回復や刑事補償の法的利益を奪うことにはならない」として、治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続きを打ち切る形式的な判決を意味する免訴を言い渡した(判決要旨)。 メーデーで掲げたプラカードの内容が不敬罪に当たるかをめぐる「恩赦で公訴権(刑事訴訟法上、検察官が公訴を提起し裁判を請求しうる権利)が消滅した以上、有罪、無罪の判断に踏み込めない」との48年5月26日のいわゆる「プラカード事件」最高裁大法廷判決(最高裁判所刑事判例集2巻6号529頁)に沿ったものでもある。 一方、当時の取り調べで拷問が行われた事実に言及して、「訴訟記録が廃棄され、確定判決が残っていない事態もあってかなりの時間を要し、被告らが死亡して再審裁判を受けることができなかったのは誠に残念」と述べた。
元被告ら5人の潔白は完全に証明されなかったため、弁護団は「裁判所が特高警察と検察の言うままに違法な判決を言い渡した反省は、みじんも見られない」との声明を発表。 86年の第1次再審請求から弁護団長を務めてきた森川金寿(きんじゅ)弁護士(92)は、再審から20年。待ち望んだ判決だったが、「非常に残念。日本の司法はこの程度なのかと落胆した。人権に配慮したとは到底言えない、歯切れの悪い判決だ」と語った。 環(たまき)直彌(検察官5年、弁護士11年、裁判官25年定年まで勤め、また弁護士になる)主任弁護人は「違法な判決だ。『免訴でも、無罪と思っていればいいじゃないか』という内容になっており、慰めにごまかされるわけにはいかない」と述べ、10日控訴した。 免訴を言い渡された元被告は次の通り(敬称略)。かっこ内は再審請求人。 ▽中央公論社社員木村亨(妻まき) ▽改造社社員小林英三郎(長男佳一郎) ▽日本製鉄社員高木健次郎(長男晋) ▽満鉄調査部員平舘利雄(長女道子) ▽古河電工社員由田浩(妻道子)
再審控訴審の第1回公判が06年11月9日、東京高裁であり、阿部文洋裁判長は弁護側の証拠請求を退け、一審・横浜地裁で審理された証拠も取り調べない意向を示した。公判は実体審理をせずに06年12月7日の次回公判で結審した。 07年1月19日の東京高裁は、メーデーで掲げたプラカードの内容が不敬罪にあたるかをめぐる48年5月26日のいわゆる「プラカード事件」最高裁大法廷判決(最高裁判所刑事判例集2巻6号529頁)を引用して、免訴に対する実体審理の要求や無罪主張の上訴は違法と指摘、一審・横浜地裁が治安維持法の廃止などを理由に裁判手続きを打ち切る「免訴」を言い渡したため公訴権が消滅しているとして、「被告による上訴の申し立ては利益を欠き、不適法だ」と控訴を棄却した。 弁護団は元被告の名誉回復のため無罪が言い渡されるべきだとして、最高裁に上告した。 08年3月14日、最高裁第2小法廷は、「有罪判決が確定した後に大赦を受けるなどした場合は免訴とすべきで、免訴判決に対しては上訴できない」と述べ、元被告5人(全員死亡)の上告を棄却した。 これで、治安維持法の廃止と大赦(恩赦の一種)を理由に、有罪か無罪かの判断に踏み込まないまま裁判手続きを打ち切る「免訴」が確定した=⇒関連論説。
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第2次世界大戦末期、共産主義を宣伝したなどとして、神奈川県警特高(カナトク=神奈川県警特別高等警察の略で、残虐さをもって怖れられた特高のなかでも神奈川県警特高の拷問は苛酷をきわめた)が治安維持法を適用し、評論家や出版社社員ら約60人を逮捕したでっち上げ(事実と違うことを、いかにも本当らしくこしらえる。捏造〔ねつぞう〕すること)事件の総称で、戦前最大の言論弾圧事件(カナトクは横浜事件のでっち上げで表彰された)。
なお、事件は、東条英機のふところ刀(懐刀=機密に参与する腹心の部下)といわれていた内務次官唐沢俊樹のシナリオで、反東条勢力の近衛文麿とその側近グループを、昭和研究会や昭和塾(昭和研究会の外部組織背の青年教育機関)を口実に潰すのが狙いだったという説(唐沢黒幕説)もある。
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唐沢俊樹(からさわとしき;1891〜1967)=長野県生まれ、東大卒後内務省に入り欧米留学、和歌山知事等を歴任、1932(昭和7)年の5・15(ごういちごう)事件後は進んで治安維持担当の内務省警保局長に就任、1936(昭和11)年の2・26(ににろく)事件の責任をとって辞任したが、1939(昭和14)年第36代阿部信行内閣の法制局長官として復権し、1940(昭和15)年には貴族院勅選議員となる。 この間、日本共産党中央委員会の壊滅作戦や大本教、創価学会に対する徹底的な弾圧、憲法学者美濃部達者の「天皇機関説」を不敬罪として告訴(天皇機関説事件)するなど一連の思想弾圧政策を指揮した。 戦後、1951(昭和26)年公職追放から解除されるや郷里の長野4区から総選挙に立候補、2度の落選を経て1955(昭和30)年に当選(以後4回当選)。1957(昭和32)年第56代岸信介内閣(第1次岸内閣 改造内閣)の法務大臣に就任、1965(昭和40)年11月3日、勲一等瑞宝章(ずいほうしょう)を授与される。 |
1942(昭和17)年総合雑誌『改造』8〜9月号に掲載された細川嘉六(57)の論文「世界史の動向と日本」は、内務省の事前検閲(けんえつ=公権力が書籍・新聞・雑誌・映画・放送や信書などの表現内容を強制的に調べることで、戦前には公然と行われていたが、日本国憲法第21条でこれを禁止している)は通過していたが、これに対して陸軍報道部長谷萩那華雄陸軍大佐が、「政府のアジア政策を批判するもの」と文句をつけ、共産主義宣伝論文であると批判した。
これが事件の始まりであった(このとき、戦争傍観の雑誌と目をつけられていた『中央公論』も「撃ちてし止まむ」の陸軍〔戦時〕標語を掲載しなかったことを理由にその責任を追及された)。


左から2人目が細川嘉六
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改造(社) 1919(大正8)年4月、山本実彦(さねひこ)創立の改造社が創刊した総合雑誌で、世界的なデモクラシーの発展と1917年11月のロシア革命を背景に、大正時代に起きた日本の自由主義・民主主義的な風潮とそれを盛り上げた運動で、護憲運動や普通選挙運動をはじめとして、労働運動・社会主義運動などが高揚した、いわゆる大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだことから多くの読者を獲得し、2大総合雑誌として「中央公論」とならぶまでになる。またキリスト教社会主義者の賀川豊彦や、マルクス主義者の山川均、河上肇らに誌面を提供し、バートランド・ラッセルやアインシュタインなど西洋の知識人の紹介にも積極的にとりくんだ。 特に定価1冊1円で発売された改造社の円本は出版界に旋風を巻き起こし、文庫本でも岩波に対抗し1929(昭和4)年から発行を始めた。初期の文庫本は布装に紙のカバーが付き、岩波のそれより装丁は上で値段も安いものだったが、やがてただの紙表紙になった。 横浜事件の弾圧で解散を余儀なくされたが、戦後46年1月に復刊された。しかし部数が伸びず、経営難から編集部全員解雇をめぐる労働争議がおこって、1955(昭和30)年2月号で廃刊となった。 |
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細川嘉六(ほそかわかろく) 1889年9月27日〜1962年12月2日;富山県生まれの社会評論家。東京帝国大学を経て大原社会問題研究所に入り、米騒動、植民地問題研究に労作を残した。これら研究成果は、この分野に先鞭をつけた名著である1941(昭和16)年刊行の『植民史』に著されている。45年に日本共産党に入党し、47年・50年参議院議員に当選したが、アメリカ帝国主義批判演説をして、51年マッカーサー(GHQ)により公職追放され、後にアジア問題研究所を主宰、マルクス・エンゲルス全集刊行会監訳者などをつとめた。 |
これを口実に特高は、1942年9月1日に改造を発売禁止処分とし、同月4日に細川を新聞紙法違反の容疑で逮捕、また細川の知人や関係者が次々と検挙、これに前後して、川田寿夫妻もアメリカ共産党の指導の下に日本共産党再建の活動を行ったとして逮捕、川田の勤務先の世界経済調査所や満鉄東京支社ソ連事情調査所の関係者も検挙された。
満鉄東京支社ソ連事情調査所の捜索で押収されたのが1枚に記念写真であった。それは細川が、その著書『植民史』の出版記念に郷里である富山県泊町(現朝日町泊)の紋左(もんざ)旅館に中央公論社や改造社の編集者を招待したときのものであった。特高は、なんの証拠もなく、その写真を根拠に日本共産党再建の関係者を次々と逮捕、細川も東京から横浜に移送され、容疑も新聞紙法違反から治安維持法違反に切り替えられた。
もともと細川と川田の事件は別ものであったが、1枚の写真が世紀のでっち上げ事件、つまり戦前最大の言論弾圧事件のフレームアップに利用されたのである。

写真上中央が細川嘉六
(事件が広がる発端となったスナップ写真が撮影された創業140年の老舗旅館「紋左」は、今も当時の場所にあり、営業を続けている)
1944年1月29日には、改造や中央公論の編集者も共産党の宣伝に関わったとして、さらには細川の関係していた昭和塾関係者をも検挙され、同年7月末には、リベラルな伝統をもつ出版社の改造社と中央公論社が政府から強制的に解散させられ(7月10日に内閣情報局が自主的廃業を申し渡す)、さらに日本評論社や岩波書店・朝日新聞の編集者も検挙された。
そもそもでっち上げの事件であったため、有罪に持ち込むためには虚偽の自白が必要となる。そのため自白を強いる拷問は凄惨(せいさん=目をそむけたくなるほどいたましく、ひどくむごたらしいこと)を極め、中央公論社の浅石晴世、和田喜太郎ら4人が獄中で死亡、さらに出獄直後に心神衰弱がもとで1人が死亡し、傷害を負った者は32人を数え、結局、敗戦前後(1945年8月末から9月)に約30人が懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受け、刑が確定した。
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「共産主義者は殺してもいいことになっているんだ。小林多喜二(03年は多喜二虐殺から70年。生誕100年)は何で死んだか知っているか!」「多喜二の二の舞いを覚悟しろ」と、まず拷問死した作家の名前を出す。「この聖戦下によくもやりやがったな」などと、裸にして角材の上に正座をさせ、失神するまで暴行をする。あるいは逆さづりにして強打する。戦前の思想取り締まり警察の特高による拷問のやり方である。記録も多く残っている。 天皇制国家体制に抵抗(批判)する「思想犯」は、そのころ人間ではなかった。「非国民、不逞(ふてい=勝手に振る舞うこと。道義に従わないこと)のやから(連中。やつら。もっぱら悪い意味で用いる)、天皇へ弓を引く大逆(たいぎゃく=人の道にそむく最も悪いおこない。主君や親を殺すことなど)の徒であった」。 治安維持法違反で逮捕された1人で評論家の青地晨(あおちしん)が後に回顧している。家族も疎開先で「非国民」の妻子だとわかって家主に追い出された。 「聖戦」の御旗の下、抑圧が激しさを増していく時期の事件だった(2003年4月17日付『朝日新聞』−「天声人語」)。 |
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「当局の云うことを否認すると裸にして 5・6回投げ飛ばして置いてから太さ指三本位のロープで打ったり、椅子をこわして作った木刀で頭、背中を殴り足腰を蹴る‥‥また竹刀をバラバラにしたもので肩や背を打ち革のスリッパで顔を叩いたりして失神状態にでもなると用意して置いたバケツの水をぶっかけて気をとり戻すと兼ねて用意して置いた筋書きどおり調書や手記を目の前に突き付けて承認しろという」(中央公論社員木村亨−1945年10月9日付『朝日新聞』) |
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そうした状況は、当時の被疑者の1人であった小野康人の次の手記によって知ることができる(美作太郎・藤田親昌・渡辺潔著『言論の敗北』109〜116ページ)。 私が治安維持法に違反していると警察で勝手に認定した最も具体的な理由は、私が雑誌「改造」を編集していたということ、および雑誌「改造」の執筆家の1人である細川嘉六を中心に、「細川グループ」という非合法組織を組織し、それの発展として「細川」の郷里である富山県新川郡泊町所在紋左旅館で、日本共産党再建準備会というものを結成したという、まったく根も葉もない、虚構の事実に立脚しているものでありますが、ちょうど2年6ヵ月という長い期間、私は、この根も葉もない理由のために自由を奪われ、あまつさえ、世人のとうてい想像できない、言語に絶する拷問の責め苦に会って、正に死の一歩手前を彷徨させられてきたのであります。 私は、自分が、そういう拷問をうける当然の理由があったのなら、今日敢えて、これを言語に絶するなどとは考えないのであります。ところが、彼等検察当局が私に加えた鞭は、まったく虚構そのものに立脚するものであったのでありますから、これは、単なる主義や主張の問題ではなく、人道の問題としても飽くまでも究明すべき問題だと、確信するものであります。‥‥
先ず第1に述べなければならないことは私が検挙当時抱いていた考え方でありますが、総合雑誌「改造」の編集者としての私は、けっして共産主義を信奉していたものではなく、むしろ日本の軍閥・官僚の恣意によって強行されている大東亜戦争を、本当の民族解放の聖戦たらしめんとする純情から、編集と云う職域によって粉骨していた愛国主義者であったのであります。
私が細川氏の宅に出入りするようになった主観的な動機は、以上のような私の愛国の熱情に出発するものであって、実に出鱈目の多い世の評論家の中で細川氏が断然勝れ、その所説も本当に国と民族の将来を憂えているところに出発していたからであります。私は、それ故、細川氏のような人の論文を「改造」誌上に掲げることは、私の職域奉公を完遂するものだと確信していたのであります。細川氏も、私のこうした熱意を愛し、単なる雑誌記者としてより以上に私を愛してくれましたが、細川氏から私は、共産主義の何ものをも教えられたことはないのであります。
従って、泊町に細川氏に招かれて行ったのも、まったく、交友を温めるための宴会以外ではなく、事実、泊町では非常に御馳走になり、楽しい1日をすごして帰って来たのであります。 ところが、それが、共産党再建準備会となり、さらに、昭和17年の8・9月の「改造」に掲げた細川氏の論文が、私たちの共産運動の具体的な犯罪事実として詰問されたのであります。彼等が私にこういう無茶な犯罪事実を押しつけた情況を5項目に亘って述べます。
(1) まず、私を自宅から拘引して行った昭和18年の5月26日のことですが、私を拘引に来た警察官は神奈川特高課の平賀警部補、赤池巡査部長、他巡査1名でありましたが、長谷川検事の拘引令状を見せ、3人でどかどか私の家に上がって、まず私を巡査が連れ出して、付近の渋谷警察署の特高室に連れて行き、その後で家中を捜して、押入れから学生時代読みふるした左翼本を百4、50冊及びその他手紙や原稿の書きふるしを捜し出し、大きな風呂敷包み四個にまとめて、私はこの風呂敷包みとともに横浜の寿警察署に連行されたのです。 寿署に着くと、最初、講堂に連れこまれて、小憩の後、正午頃平賀警部補が取調べを開始しました。形の如く最初は住所、姓名を訊ねましたが、それが終ると、
「お前は共産主義を何時信奉したか?」 私は、余りの無茶にただあきれるだけで何とも言いようがありませんでした。 ……調べるのではなくまったく拷問に終始しているのに、何一つ言いもしないことを私が白状したことになって聴取書というのに書いてあるのですから、驚きます。たとえば、 (以下略) 注;泊町==富山県北東部、下新川(しもにいかわ)郡朝日町の中心地区で、親不知(おやしらず)の険を控えた北陸街道の宿場町として発達した加賀藩領で藩政初期には笹(ささ)川河口付近にあった(旧泊町)が、津波の被害で現在地に移った。 |
そして「非国民」を排除していった大日本帝国の行き着いた先は、侵略による他国民に対する虐殺と、自国民にもたらした惨憺たる状況であった。
拷問した3人の特高警察官は被告たちに人権蹂躙(じゅうりん)の罪(特別公務員暴行傷害罪)で告訴され、最高裁で有罪(実刑判決)となったが、いわゆる講和条約締結の恩赦により、結局、投獄さることはなかった。
仮に横浜事件の判決が1か月でも延びていたら、戦悪名高い「治安維持法」をはじめとして戦前の治安立法が戦後民主化政策の下で1945年10月15日に廃止されたのであるから、裁判は打ち切り、免訴となったのは明らかであった。
しかし判決は、敗戦直後の混乱の中、ばたばたと45年9月までに言い渡された。実際、事件の端緒になった細川嘉六らの裁判はその時点まで続いていたため免訴になった。細川は公訴事実を否定して手抵抗戦していたのである。
同じ事件の被告たちのわずか1か月の差の明暗であったが、それゆえ、『日本政治裁判史録』(編集代表者・我妻栄)の横浜事件の章で「終戦直後の司法処理はほとんど検事調書を認めたスピード審理、やっつけ公判と攻撃されても仕方がない」と批判されるところとなる。
過去2回の再審請求では、元被告らは「拷問で虚偽の自白を強要された」と冤(えん)罪を主張し、事実関係を争ったが、裁判所は、当時の裁判記録が米軍進駐時の混乱時に焼却されて存在しないことなどから請求を棄却した。
しかし、ポツダム宣言を受諾した時点で世界最大の悪法の一つであった治安維持法は効力を失ったため、少なくとも、ポツダム宣言受諾後に判決を受けた元被告は無罪か免訴とすべきだである。そのため、元被告らは98年、事実関係だけでなく、治安維持法自体の効力を問うという法令適用の誤りを中心的な争点として第3次請求を申し立てた。
第1次再審請求から28年後の03年4月15日横浜地裁は、元被告の5人遺族らが申し立てた第3次再審請求に対し、検察側の「再審制度は事実誤認に対する救済のための制度で、法の解釈・適用に関する問題は再審理由とはなり得ない」「同法は勅令で廃止されるまで有効だった」との主張を退け、「本件で有罪判決の根拠とされた治安維持法1条、10条は、思想の自由などを定めた宣言と抵触し、同年8月14日の時点で実質的に効力を失うに至った」と指摘、地裁が選任した大石真・京大教授(憲法)がまとめた「ポツダム宣言受諾と同時に失効した」とする鑑定書と同様の判断を示し、「ポツダム宣言受諾によって同法は実質的に効力を失っており、元被告らには免訴を言い渡すべき理由があった」として、再審の開始を認める決定を出した(決定要旨)==⇒再審理由補充書。
05年10月17日、治安維持法違反罪での有罪判決から60年がたち、戦犯追及を恐れて戦後、書類を焼却したりするなどして訴訟記録のほとんどが失われた異例の再審(旧刑事訴訟法下で有罪判決が確定し、死亡した元被告の再審は初めて)が横浜地裁(松尾昭一裁判長)で開かれ、弁護側は死亡した元被告5人の無罪判決を求めた。
検察側は冒頭、治安維持法が廃止されたことなどを理由に裁判手続きを打ち切る「免訴」を主張。「実体審理は許されず免訴を言い渡すべきだ」と述べ、これに対して、弁護団の森川金寿団長は「再審公判で、特高警察の暴力の犠牲になった元被告の汚名をそそぎ、名誉回復に全力を尽くす」と陳述した上で、弁護団は「横浜事件の起訴事実は虚偽。元被告らは拷問の被害者で、誤った裁判の犠牲者だ。いかなる意味でも刑事責任を問われる理由はない」と述べ、無罪判決を求めた。
判決原本が残っていないため、松尾裁判長は審理する「犯罪事実」を、05年3月の東京高裁決定が合理性を認めた弁護団による復元判決の内容とするとした。検察側は異議を申し立てなかった(なお、再審公判も通常の公判と同様に人定質問、起訴状朗読から始まる。だが、当事者が死亡し、起訴状に相当する資料が残っていないため、書記官が元被告の名前を読み上げ、起訴状は、実際に検察官が読み上げる方法と、裁判長が代読し、検察官に了承を求める方法とがある)。
再審公判は05年12月12日、元被告らが生前に証言したビデオの証拠調べなどを行い、結審した。
06年1月9日、横浜地裁松尾昭一裁判長は、第3次再審請求に対し、検察側の主張にそって、治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続きを打ち切る形式的な判決を意味する免訴を言い渡した。
09年3月30日、横浜地裁大島隆明裁判長
(09年2月に初公判があり、結審)は、第4次再審請求(59年死去した「改造社」の元社員、小野康人さん。同氏は、小野さんは、共産主義を啓蒙〈けいもう〉する論文の編集に関与したなどとして神奈川県警特別高等課に逮捕され、45年9月に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。請求は、小野さんの次男新一さん〈62〉と、長女斎藤信子さん〈59〉が申し立てた)に対して、戦後に同法が廃止されたことなどを理由に、有罪か無罪かに踏み込まずに裁判手続きを打ち切る「免訴」を言い渡した。
一方で判決は(「事件はでっち上げ」との弁護側主張に対する判断は示さないまま)「免訴は、名誉回復を望む遺族らの心情に反することは十分に理解できる」と言及したうえで、免訴確定後に刑事補償請求をすれば、有罪か無罪かについて判断が決定で示されることから「一定程度は免訴判決を受けた被告の名誉回復を図ることができる」と述べた。
08年10月の再審開始決定で横浜地裁大島隆明裁判長は、裁判記録がないことから、再審で審理した「犯罪事実」は、小野さんの口述書など弁護団らが復元した特高警察による拷問で虚偽の自白をしたとする小野さんの口述書などを挙げ、有罪の根拠とされた小野さんの自白を「拷問によるもので信用性は認められない」と述べたうえで、特高が「(当時は非合法の)共産党再建の準備集会」とした富山県泊町の旅館での宴会について「秘密会合とうかがわれる様子はない」と、事件が捜査当局による「でっちあげ」疑いを強く指摘し、「無罪を言い渡すべき新証拠」と認定し再審開始を決定、小野さんの無罪を示唆していた元の判決を言い渡した裁判所の対応を批判していた。
第4次再審請求で、裁判を打ち切る免訴判決が確定した元被告・小野康人さん(59年死去)の弁護団は09年4月16日、治安維持法違反容疑で逮捕、拘置された約2年2か月間の刑事補償として、980万円を今月30日に横浜地裁に請求することを決めた。横浜事件の元被告の中で、刑事補償を請求するのは初めて。
刑事補償法は、元被告の拘束日数に応じ、1日当たり1000〜1万2500円を補償すると定めている。有罪か無罪かを判断しない免訴の場合でも、「免訴とする理由がなければ、無罪判決を受けるべき場合」については補償を認めている。同地裁は08年10月の再審開始決定で、小野さんの口述書などを「無罪を言い渡すべき明確な新証拠」と認定している。
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横浜事件発覚から再審決定までの経緯 1942年 9月――「改造」論文をめぐり細川嘉六を逮捕 1943年 7月 1日――細川嘉六の著作上の仕事を手伝っていた中央アジア協会の新井義夫を逮捕。 1943年 7月31日――捜査は昭和塾方面に延びて、浅石晴世(中央公論社)が、ついで10名を検挙。神奈川県特高は日本の言論の進歩的な面を代表し知識階級に広範な影響力をもつ総合雑誌の発行所と、社会科学や思想の領域ですぐれた書籍を送り出してきた出版社と編集者グループをねらい打ちにした。 1944年 1月29日――中央公論社関係――小森田一記(当時日本出版会)、畑中繁雄、青木滋(当時翼賛壮年団)、藤田親昌、沢赳の5名(すでに検挙されていた木村享、浅石晴世、和田喜太郎3名を加えて計8名)。
1944年 1月29日――改造社関係――小林英三郎、水島治男、若槻繁、青山鉞治(当時海軍報道部)、1ヵ月後の3月12日に大森直道(細川嘉六の論文掲載の責任をとって退社、上海満鉄支局に在勤中、現地で逮捕される)の5名(以前に検挙されていた相川博、小野康人を加えて計7名)。 1944年11月27日――日本評論社関係――美作太郎、松本正雄、彦坂竹男(当時退社日本出版会勤務)に翌45年4月10日に逮捕された鈴木三男吉、渡辺潔を含めて計5名。 1944年11月27日――岩波書店関係――藤川覚と翌45年5月9日の小林勇の2名。 1945年 8月15日――ポツダム宣言受諾、日本敗戦 2003年 4月――横浜地裁再審決定(検察即時抗告) 2005年 3月――東京高裁即時抗告棄却決定(検察特別抗告断念) 2005年 7月――再審の公開をめぐり検察側と弁護団が対立したが、横浜地裁は公開を決定 10月――横浜地裁で再審開始(10月17日) 12月――第2回公判(結審) 2006年 2月――免訴の判決 2007年 1月――東京高裁;控訴棄却の判決 2008年 3月――最高裁;上告を棄却(14日) 2008年 10月――横浜地裁;第4次再審請求再審開始決定 2009年 2月――横浜地裁;第4次再審請求再審初公判・結審 2009年 3月――横浜地裁;免訴の判決(30日) |
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「横浜事件」の第4次再審請求横浜地裁判決要旨 免訴判決は、事後の事情による公訴権の消滅を理由に被告を刑事裁判手続きから解放するもので、手続きから一刻も早く解放されることが被告にとって利益であることなどから、「免訴の理由がある場合は免訴判決が言い渡されるべきだ」というのが確立した判例だ。 被告の遺族らは、再審で無罪を得ることで名誉回復を図ろうとしており、その結論のみを望んでいると言っても過言ではない。免訴判決では、遺族らの意図が十分に達成されないことは明らかで、このような遺族らの心情自体は証拠に照らせば容易に理解できるが、ほかの再審の場合も含めて整合的に考察しなければならない。再審でも再び有罪とされる可能性もあり、審理打ち切りによる被告の利益が存在することは、通常の訴訟手続きの場合と同様と解される。 横浜事件の歴史的背景、後に拷問が認定された確定判決の存在、事件記録が故意に廃棄されたと推認されることなど、一般の再審と異なる特殊事情があったとしても、免訴の理由がある場合に通常と異なる取り扱いを認める理由になるとは言えない。 免訴判決により、有罪の確定判決が効力を失う結果、被告の不利益は、少なくとも法律上は完全に回復される。刑事補償法は、免訴判決を受けた者も、無罪判決を受けるべきと認められる理由がある時に補償を認めている。 今後、行われるであろう刑事補償請求の審理では、免訴の理由がなければ無罪かという判断をすることになる。同法は、補償の決定が確定した時、申し立てにより速やかに決定の要旨を官報や新聞に掲載して公示しなければならないと規定している。無罪判決の公示と全く同視することはできないが、一定程度は名誉回復を図ることができると考えられる。 09年03月31日付『東京新聞』−「社説」=横浜事件再審 冤罪の責任は司法にも 冤罪(えんざい)に関する責任の一端は司法にもある。そのような自覚のもとに横浜事件と向き合うことで、過去の清算以上の意味が生まれる。司法関係者は「独立」を盾に過ちの検証を怠ってはならない。 横浜事件第四次再審の焦点は判決で元被告の無罪を宣言するか否かだった。根拠法の治安維持法の廃止を理由にした免訴では、元被告の名誉が十分回復せず、遺族の無念も晴れないからだ。 しかし、裁判所は法の建前に従い免訴を再度言い渡すにとどまった。遺族らの心情に理解を示し、刑事補償手続きの中で事実上、無罪判断を示すことを示唆したが、問題先送りの観は免れない。 やはり本舞台である再審の判決で戦時中のいまわしい歴史にきちんと向き合ってほしかった。 この事件では共産主義宣伝を理由に1942年から45年にかけ約60人が検挙され、拷問で4人が死亡した。 証拠は拷問の結果の自白だけだが、起訴された人々はずさんな裁判で次々有罪とされた。裁判所が戦争終了後もあわただしい審理で有罪判決を安易に出したことや、不都合な事実を隠すために記録を処分したことも分かっている。 摘発した特別高等警察(特高)に司法も協力して思想弾圧の一翼を担ったといえる。 戦後、その責任を取った裁判官はほとんどいない。政治、行政、軍事などの責任者はさまざまな形で責任を追及されたが、司法に関しては戦前と戦後の断絶が必ずしもなされていないのである。 こうしてみると横浜事件は決して昔の話ではない。まして現時点でも、司法が警察、検察に対するチェック機能を十分果たしていないとの指摘がある。時折明らかになる冤罪の中には司法の手で防げたはずのものもあろう。 検察は、一昨年、鹿児島の公選法違反事件、富山の強姦(ごうかん)事件など冤罪が生まれた要因を検証、自白偏重の捜査からの脱却を目指している。無実の人を誤って罪に陥れる主因が警察、検察の捜査と検察の公判遂行であるのはもちろんだが、裁判所の側に責任がまったくないとは言い切れまい。 司法関係者は「裁判官の独立」や、証拠の判断が裁判官に任せられている「自由心証主義」に寄りかかり、誤った裁判に対する反省を怠っていないだろうか。 司法も過ちを検証し、教訓をくみ上げて継承しないと冤罪の根絶は難しい。 09年03月31日付『神奈川新聞』−「社説」=責任果たしたのか 第2次世界大戦中の言論弾圧事件として知られる「横浜事件」。その四度目の再審請求に基づく裁判が横浜地裁であり、元被告にまたも「免訴」が言い渡された。 元被告を有罪とした原判決を批判しながらも、罪の有無を判断せず裁判を打ち切るという結論である。事件記録がわざと消却されたと思われる、などと裁判の特殊性を認める一方で、判決はかつての司法の責任には触れなかった。 再審とは、本来救済の場として設けられたものではなかったか。これでは市民に開かれた、分かりやすい司法とは言えまい。 長い再審裁判の歴史は、元被告の名誉を取り戻すための真相の解明に加え、どんな時代にも揺らいではならない司法の在り方を問う歩みでもあった。免訴判決がその足取りを確かにする契機になるか疑問と言わざるを得ない。 横浜事件では、共産党再建を企てたとして大勢の編集者らが治安維持法違反容疑で逮捕され、同法が敗戦直後に廃止されるまでの短い間に約30人が次々と有罪判決を受けた。取り調べ中の拷問による死者も出た。 再審を求める動きは1986年に始まり、3度目の請求でようやくその願いが実現した。しかし、2008年に最高裁で元被告の罪は問わないという免訴が確定。有罪のぬれぎぬを着せられた元被告を救済するのが再審と信じてきた原告側を落胆させた。 ただ、地裁が4度目の請求を受け昨年秋にあらためて再審を始めると決めた際、裁判長は元被告の無罪を強くにじませた。 逮捕されるきっかけになった社会評論家の論文に「共産主義を広める目的があったとは思えない」とするとともに、実質的な審理を行わずに有罪判決を下した当時の裁判所の手続きを「拙速で、ずさん」と批判、事件がでっち上げられた可能性を示唆した。 判決でも元被告を取り調べた警察官が拷問を加えた罪で有罪となったことや、保存されているべきはずの事件記録がないのは「わざと破棄されたと推測される」などと、この裁判が一般的な再審とは異なることは認めた。そのうえで「免訴判決は、無罪判決を得ることで元被告の名誉回復を図ろうとする遺族らの意図にそぐわないことは明らか」と述べもした。 にもかかわらず、判決は先に免訴とした最高裁の判断を踏襲するにとどまった。遺族にすれば、素人には分かりにくい法律論をいじっただけとの思いが強いだろう。肉親の名誉回復を長年願い続けてきただけに、「何と報告すればいいのか。怒りが込み上げる」「司法は人間としての判断を下せないのか」などと語った。 何事においても、信頼を得るにには過去の過ちに率直、謙虚でなければならない。司法の責任に及び腰の判決が残念でならない。 09年03月31日付『北海道新聞』−「社説」=横浜事件免訴 事実を見ずに幕引きか 戦時中最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の第4次再審請求の判決で、横浜地裁は死亡した元被告の遺族に免訴を言い渡した。
ほかの元被告側が起こした3次請求審判も08年3月に免訴判決が確定している。無罪判決による完全な名誉回復を、という関係者の願いはかなわなかった。残念だ。
1942年から敗戦直前にかけて起きた事件である。雑誌編集者や新聞記者ら60人余りが、「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で逮捕され、4人が特別高等警察の拷問で獄中死した。
特高警察が事件をでっち上げた、というのは戦後の研究でも定説だ。
拷問による捏造(ねつぞう)で、無罪だとする元被告側の訴えを認めるのか、検察側の主張通り審理を打ち切って免訴とするかが、再審の焦点だった。
地裁は08年10月の再審開始の決定で、拷問で虚偽の自白をさせられたという元被告の口述書を「無罪を言い渡すべき新証拠」と認定した。
当時の審理を「拙速で、ずさんだった」とも指摘。裁判所が不都合な事実を隠そうとして記録を破棄した可能性も取り上げるなど、初めて司法の責任にも触れた。
ところが、判決は司法の責任など事件の実態にはほとんど踏み込まなかった。「怒りが込み上げる」。裁判後の会見で元被告の遺族がそう述べたのも、当然だろう。
免訴の理由については、有罪の根拠となった治安維持法の廃止と大赦で有罪判決の効力は失われたという最高裁の判断に沿った。
一方で、免訴で元被告の不利益は法律上完全に回復、刑事補償で一定程度の名誉は回復できると述べた。
法律論ではそうかもしれないが、元被告は有罪が確定したまま死亡している。有罪の事実は消えない。
誤った判決から罪なき人を救うのが再審だとするなら、無罪言い渡しで名誉回復を図るのが筋ではなかったのか。
判決の中で実質無罪をにじませることもなく、法律解釈を優先した裁判所は元被告のみならず、司法の名誉回復を果たすという格好の機会をも逸したといえよう。
治安維持法は改正を重ねながら対象をほぼ無制限に広げ、国民の思想取り締まりに猛威を振るった。「天下の悪法」と呼ばれるゆえんだ。
横浜事件はその象徴的な事件だ。国家権力が事件をでっちあげ、無実の人間を拷問で犯人に仕立てた。
司法がなぜそんな過ちを犯したのか。事実と向き合おうとせず、幕引きを図る姿勢は残念でならない。捏造は、先の鹿児島県の選挙違反事件に見られたように決して過去の話ではない。そこを忘れてはならない。 09年03月31日付『愛媛新聞』−「社説」=横浜事件 なぜ司法の責任に向き合わぬ 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」に加担した責任に、裁判所が最後まで目をつぶった印象を受ける。 元被告の遺族が起こした第四次請求の再審判決で、横浜地裁は裁判の打ち切りを意味する免訴を言い渡した。 再審請求の動きはほかになく、再審は終結する可能性が高い。今後は刑事補償請求の審理を通じた名誉回復に焦点が移る。が、潔白を主張して無罪判決を求めた遺族でなくとも納得しにくい結論だ。 一番の理由は、過去のあやまちに向き合わず幕を引こうとする司法の姿勢にある。 事件では、共産党再建運動をしたなどとして、雑誌「改造」編集者ら60人が神奈川県の特高警察に逮捕された。言論や思想統制で悪名高い治安維持法違反容疑だ。うち30人以上が起訴され、多くは敗戦後1カ月もたたない混乱のなかで有罪とされた。拷問の死者も4人を数える。 裁判所が記録を焼却したことも見逃せない。いいかげんな判決を乱発した暗部を葬り去った疑いを強くする。それが再審開始も遅らせた。 戦後の研究で事件はでっち上げだったことが定説となっている。そのため問われたのは、かつて罪に問われたことが法令の改廃で罪でなくなったという法律論ではない。犯罪とされた事実があったか、なかったのかに尽きる。 だが判決はあまりに形式的で、真相解明にほど遠い。 治安維持法は戦後に失効しており、刑事訴訟法に従い免訴とする判断を誤りとはいえない。別の再審請求では最高裁で免訴が確定しており、今回は踏襲したかたちだ。 法律論としてはそれで正しくとも、裁判所の責任が不問のままだし、なにより元被告の汚名がすすがれない。 「免訴判決は遺族らの意図が十分に達成されないことになるのは明らか」と述べた判決も承知していよう。だからこそよけい残念になる。 問題は決して過去のものではない。富山県で無実の男性が有罪判決を受け、服役した事件を思い出す。再審では虚偽の自白を強いた取調官の証人尋問を却下、刑事司法の構造的問題は追及されずに終わった。裁判所も冤罪(えんざい)を見抜けなかったが、ここでも結果的に責任に目をつぶった。 まもなく裁判員裁判が始まる。そんないまになってなお裁判所が無謬(むびゅう=理論や判断にまちがいがないこと)神話にとらわれているなら、司法制度改革のめざす「身近で開かれた司法」は望めるだろうか。 司法は重い十字架を背負ったことを自覚するべきだ。 09年04月03日付『朝日新聞』−「社説」=横浜事件 司法が背負う過ちの歴史 昨年ブームになった小説「蟹工船」の作者、小林多喜二は1933年、特高警察の拷問で殺された。戦前の治安維持法のもとで、共産主義を広めたとして弾圧されたのだ。 こうした言論弾圧の中でも最大とされるのが、戦争中の横浜事件だ。敗戦までの3年間に、雑誌編集者ら約60人が神奈川県警特高課に検挙された。 総合雑誌の編集会議で、論文の掲載に賛成する。逮捕された評論家の家族を助けるためカンパをする。そんな行為が「犯罪」としてでっちあげられ、半数が有罪判決を受けた。4人は獄死した。元被告らは名誉を回復するためにこの23年間、再審裁判による無罪宣告を求めてきた。 |
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横浜地裁再審決定の骨子 1.ポツダム宣言の受諾により、治安維持法は全面的に失効したとはいえないが、刑罰を定めた条項は思想の自由などを求めた宣言に抵触し、実質的に効力を失った。
2.再審理由である「免訴を言い渡すべき場合」には、刑の実質的な失効の場合を含む。その限りで再審開始には理由がある。
3.犯罪とされる行為の後に法が失効したに過ぎず、弁護人が主張している「無罪を言い渡すべき場合」には当たらない。
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『大石真教授の鑑定意見書について(当面の所見)』 今般、2002年5月27日付けで横浜地方裁判所に提出された大石真教授の鑑定意見書は、その結論および理由とも全面的に支持できるもので、同教授の研鑽と見識に敬意を表したいと思う。
すなわち鑑定意見書は、わが国が1945年日8月14日連合国のポツダム宣言を受諾し、以後連合国の占領管理体制の下に置かれることになったことによって、大日本帝国憲法を始めとするわが国内法秩序には直ちに重大な影響・効果が生じたものと解されるのであり、ポツダム宣言が標榜する国民主権・民主主義等の原則に適合しない旧憲法の諸条項は、天皇自らが同宣言を受諾したことによって法規性を失い、神権天皇制の「国体」の保持を法益とした治安維持法もまた、同日以降失効したものと結論している。
このような見解は、わが横浜事件第3次再審請求の被告・弁護団の年来の主張の正当性を裏付けるものであり、再審開始の展望に大きく途を開くものと喜びたい。 以上 横浜事件第3次再審請求弁護団 団長 弁護士 森川 金寿 |
再審開始決定を受けて
声明 横浜地裁第2刑事部は横浜事件第3次再審開始請求事件について、本日、大石眞鑑定等を新証拠として、1945年(昭和20年)8月14日のポツダム宣言受諾により同宣言と相容れない「治安維持法」は直ちに失効し、それゆえ、同日以降治安維持法違反の理由でなされた有罪判決には免訴を言い渡すベき再審理由があるとして再審開始を決定した。 2003年4月15日 |
この事件で有罪判決を受けた元被告のうち、拷問による虚構の自白した最後の生存者だった板井庄作(いたいしょうさく)は、第3次再審請求の決定直前の2003(平成15)年3月31日、肺炎のため86歳で死去した。
板井は大分県出身。東京帝国大電気工学科を卒業、逓信省電気庁(現経済産業省)に技師として勤務している時に仲間と作った「政治経済研究会」が共産主義の宣伝活動とみなされ、1943(昭和18)年9月、治安維持法違反容疑で逮捕され、裁判では意見陳述の機会すら与えられず、敗戦後の1945(昭和20)年8月30日、懲役2年、執行猶予3年の判決を言い渡されていたのである。
3次の請求で、元被告への証人尋問が行われたことはなく、「一度も言い分を聞いてもらえず、犯罪者として一生を終えるのは耐えられない」と悔しさを口にしていた板井は2001(平成13)年2月8日、再審理由補充書を提出するため、弁護団とともに横浜地裁を訪れ、「過去の過ちが正されなければ、これからも同じ過ちが繰り返される」「生き残りは僕だけになった。死ぬに死ねない」と語っていた。
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板井の陳述書には、「特高警察は板井さんの頭髪をつかみ『おまえのような奴らは殺して構わないのだ』と床にねじ伏せ、土足で踏み付けた。さらに木刀で殴打。『共産主義者です』と書いた紙に母印を押させた」とある。 |
第3次請求をした元被告の遺族と弁護団は03年4月15日午前11時前、横浜市中区の横浜弁護士会館で記者会見し、国連で人権侵害を訴えた5年前に亡くなった雑誌編集部員、中央公論社の故・木村亨の妻まきは、涙ぐみながらに亨が愛用していた赤と緑色の格子模様のシャツを着て、「(夫は)私とここにいます」と胸を指した後、「生涯にわたり事件を問い続けた精神力(夫の)はすごい。生きていてほしかった」「名誉回復だけではなく、司法の戦争責任を問う裁判。これからがスタートで、身が引き締まる。本人ではないので、その時代の空気を知っているわけではないが、がんばりたい」と再審にかける決意を語るとともに、「初めて人間としての良心が感じられる決定が出ました」とも話した。
また、第1次請求からの弁護人を務める森川金寿は「1次請求から約20年の間に、当初生存していた元被告6人全員が亡くなった。もし生きていたら大変な感慨を受けたと思う」と語った。

出版 インパクト出版会 2002・2・10 3900円 ISBN4-7554-0115-1
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2003年4月16日 「横浜事件」の再審開始決定について(談話) 社会民主党全国連合 幹事長 福島瑞穂 1. 昨日、横浜地裁は第2次世界大戦中に治安維持法違反の容疑で多数の出版人らが逮捕された言論弾圧事件、「横浜事件」の第3次再審請求で、ポツダム宣言受諾後の1945年8月末から治安維持法の廃止勅令が出された同年10月までの期間に有罪判決を受けた元被告5人について、再審を開始する決定を下した。決定は、ポツダム宣言の受諾によって治安維持法が失効したと認め、事実認定の誤りを是正するえん罪事件にとどまらず、法令の解釈の誤りや適正手続きについて再審の道を開いた点で画期的である。
2.報道によれば、横浜地方検察庁が今回の決定に対し、即時抗告を検討するとされている。戦後の研究者の間では、「横浜事件」は完全なでっち上げ事件であったとする見解が主流であること、無罪を主張したまま亡くなられ、遺族が再審請求を引き継がざるを得ないなどの事情を勘案すれば、検察は控訴によって面子の維持を図るのではなく、速やかに再審を確定すべきである。
3.決定は、治安維持法の効力を争ったものであるとは言え、事件から60年近くが経った現在でも、戦時下の人権・言論弾圧の実態について全容が解明されていないことを浮き彫りにした。政府により、有事の名の下での新たな戦時法制が準備されている今だからこそ、戦前・戦中の権利侵害や抑圧の事実が司法の手により解明されることを、強く望む。 |
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横浜事件再審公判に関する日本共産党の主張=権力犯罪の実態を明らかに 2005年10月19日(水)「しんぶん赤旗」 太平洋戦争中の特高警察による大規模な言論弾圧―横浜事件で、不当にも治安維持法違反で有罪判決をうけた元被告の名誉回復を求める再審公判が、横浜地方裁判所で始まりました。 あまりにも遅すぎた再審開始ですが、特高警察が拷問をしてつくりあげた虚偽の自白を唯一の証拠にした有罪判決(1945年8〜9月)の誤りを問う流れになっていることは、非常に注目されます。元被告の無実を証明して名誉回復をはかることはもちろん、権力犯罪の実態を明らかにして、2度と繰り返すことのないようにしていくことが必要です。 ■拷問による虚偽の自白 横浜事件の元被告・遺族が、最初に再審請求をおこしたのは、1986年のことです。そのときは、再審請求に必要な判決書謄本の添付がないという形式的な理由で、認められませんでした。 しかし、横浜事件の判決書などがなくなったのは、裁判所が関係書類を焼却したためです。連合軍の日本占領が始まった時期で、言論弾圧・人権侵害を追及されることを恐れていました。第3次再審請求(98年)にたいして再審開始を認めた横浜地裁の決定(03年4月)は、「請求人の責めに帰すべきでない特殊な事情」があるとして、“門前払い”を改めました。 さらに、05年3月10日の東京高裁の再審開始決定は、有罪判決の唯一の証拠が特高警察官らの拷問による虚偽の疑いのある自白であり、無罪判決が相当だとして、再審請求を理由あるものと判断しました。拷問を行った特高警官3人が特別公務員暴行傷害罪で有罪判決(最高裁)をうけていたことも、明確な証拠になると認めています。 こうした流れの中で始まった再審であるのに、検察側は、治安維持法違反の「犯罪」だが、同法は45年10月に廃止され、有罪判決を受けた被告人も同年10月に大赦を受けており、旧刑事訴訟法の規定どおり「免訴」を言い渡すべきだと主張しました。「免訴」とは、無罪かどうかを判断せずに裁判を打ち切るということです。 これは、形式論で裁判を終結させ、虚偽の自白を強要した特高警察の拷問の実態や、自白だけを証拠にして有罪判決を出した裁判の誤りを隠そうとするものです。検察側の主張にたいし弁護側が、「臭いものにフタをする態度だ」と批判し、きちんと「過程を検証すべきだ」と主張したのは当然です。 違法な取り調べによる冤罪(えんざい)事件は、戦後も後を絶ちません。留置場や刑務所での虐待、暴行も問題になります。これをなくすには、拷問による自白強要の誤りを根本的に反省することが、大前提です。横浜事件をしっかり検証することは、権力機関による人権侵害を防いでいく上でも、重要な意味をもちます。 ■思想を処罰する危険 再審公判で弁護側は、治安維持法について、人の思想そのものを処罰対象とした点に特徴があり、拷問による自白追及の危険を内包していたと指摘しています。まったく違法性を問えない行動でも、「危険思想」とのかかわりを自白させれば処罰できるからです。 この危険は、けっして、過去のものではありません。小泉内閣が新設を狙っている「共謀罪」は、犯罪行為をしなくとも、相談し合意しただけで処罰できるようにするものです。思想そのものを処罰対象にすることにつながります。 |
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横浜事件・第3次再審請求東京高裁の即時抗告棄却決定に対する弁護団声明 本年3月10日東京高裁第3刑事部は、かねてより検察官から提出されていた横浜地裁の再審開始決定(2003年4月15日付)に対する即時抗告を、棄却する決定を下した。 この決定の中で東京高裁は、横浜地裁の原決定が理由としていた、ポツダム宜言の受諾にともない治安維持法1条・10条は実質的に失効したなどとする見解には疑問があり、にわかに是認することができないとした上で、原決定が判断を留保した再審理由3 ―すなわち、確定判決が根拠とする元被告人木村亨らの自白は拷問の結果得られたもので、信用性を欠くから、同氏らは無罪とされるべきではないかという問題提起― 等について、進んで審査・判断を加え、その結果、同氏らに対しては当時の捜査官憲(神奈川県警特高課の司法警察官ら)から、治安維持法違反の行為の「自白」を得るために言語に絶する激しい拷問が繰り返されたこと、また、それによって、同氏らが 「国体変革等を目的とした結社であるコミンテルンや日本共産党の目的遂行のためにする行為を行った」 とする虚偽の自白調書が作成され有罪判決の決定的な証拠とされたこと等の事実が認められるとし、それゆえ、同氏らには旧刑訴法485条6号の事由があるので、再審が開始されて然るべきでありこれと結論を同じくする原決定は正当だと判断した。
今般の決定は、原決定が憲法学者の鑑定を経るなどして慎重に審理・判断した、ポツダム宣言受諾による治安維持法の失効の判定には疑問があるとした点には批判の余地を残したものの、1986年の第1次再審請求以来本件に関わったいずれの裁判所も踏み込めなかった、上記再審事由の審査について真正面から積極的に取り組み、特高官憲の非道な拷問による自自強要の事実とそれによる「事件」の虚構性を認定し、元被告人らが求めてやまなかった再審手続の開始と「横浜事件」の真相究明に途を開いた点において、画期的な司法の快挙と評価することができる。
われわれは、わが国戦後司法の健在を証した今般の決定を諸手を挙げて歓迎し、担当裁判官らの見職と勇気に敬意を表するとともに、今後の再審公判に全力を挙げて取組むことによって、元被告人木村氏ら全員の無罪判決を獲ち取り、併せて戦前日本のファシズム体制の暗部に解明のメスを加えることを誓うものである。
2005年3月10日 横浜事件第3次再審請求弁護団 |
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日本弁護士連合会会長談話 東京高等裁判所第3刑事部は、本日、いわゆる横浜事件の第3次再審請求事件につき、平成15年4月15日に横浜地方裁判所がした再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却する旨の決定をした。 この決定は、前記の横浜地裁決定を是認するものであるが、再審開始の理由について変更したうえ棄却決定をしたものである。即ち、横浜地裁決定がポツダム宣言受諾により治安維持法が実質的に失効し刑の廃止があったものであり免訴を言い渡すべき明確な証拠を新たに発見した場合にあたるとした判断については、にわかに是認することはできないとしつつも、それにかえて、確定判決が拷問ないしその影響下になされた自白に基づくものであって、拷問を加えた警察官らに対する有罪判決等は、旧刑事訴訟法第485条第6号により無罪の判決をなすべき新たに発見した明確な証拠である旨を述べ、この点で、再審請求は理由があるものと判断した。 本決定は、原決定においては判断しなかった証拠による事実認定の判断に踏み込み、横浜事件における再審請求人らが悲願として求めていた冤罪の主張を正面から認めて再審開始を認めたものであり、画期的な判断である。 昨年、東京高裁の袴田事件決定、福岡高裁宮崎支部の大崎事件決定と、再審請求を否定する高裁決定が続いた中で、本決定は、無辜の救済という再審の理念を実現した決定として、全面的に評価することができる。そして、今後も、裁判所において、横浜事件について十分審議し、真に無辜の救済が果たされることを期待するものである。 2005年(平成17年)3月10日 日本弁護士連合会 会長 梶谷 剛 |
資料
1.辺見 庸氏 講演 要旨(リンク)
2.環 直彌弁護士 講演 要旨(リンク)
3.横浜事件の再審開始を求める研究者声明
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横浜事件の再審開始を求める研究者声明(発起人・賛同者111人)−−2002年12月18日 横浜事件は、当時の代表的雑誌『改造』掲載の論文が共産主義の宣伝であり、当該論文執筆者の主催した出版記念旅行が共産党再建の謀議とされたことなどを契機に、雑誌編集者をはじめ60名以上が1942年から45年にかけて治安維持法違反容疑で検挙されると共に、当時の代表的出版社である改造社、中央公論社が強制的に閉鎖させられた事件である。
現在、横浜事件は、1998年8月及び2002年3月に申し立てられた2つの再審請求が横浜地方裁判所に係属している。この再審請求に強い関心を持ち、その経緯に注目している私たち研究者は、横浜地方裁判所が速やかに再審開始決定を行うことを求めるものである。
第1に、共産主義運動という横浜事件の「犯罪事実」自体が、特高警察による創作であった。かかる運動が存在しなかったことは、現在ではほぼ一致して承認されている上、当時の特高警察部内でも、警視庁は事件の構図を疑問視していたといわれる。
この点で、横浜事件は、帝国憲法の下でさえその正統性に強い批判のあった治安維持法に関係する事件の中でも、最悪の部類に属する「戦前の司法の諸悪を凝集した事件」なのである。
第2に、横浜事件の被検挙者は激しい拷問を受け、獄死者4名、釈放直後の死者2名という、他の治安維持法関係事件と比べてもきわめて悲惨な犠牲を出している。
拷問の存在は、戦後、部分的には裁判所も認めるところとなり、特高警察官3名が有罪判決を受けた。横浜事件で適用される旧刑事訴訟法485条7号には、職務犯罪の主体として「警察官」は含まれていない。だが、日本国憲法の下では、警察官による職務犯罪の存在をも再審理由とされた(刑事訴訟法435条7号)。旧刑事訴訟法も日本国憲法の趣旨に従って解釈すべき以上(日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律2条)、警察官による職務犯罪の存在も、再審理由として扱われなければならない。
加えて、横浜事件は被検挙者の供述に基づいて事件が拡大されたものであり、一部でも拷問による虚偽自白の存在が認められる以上、事件全体の構図が崩れることにもなるのである。
第3に、関係者に対する予審・公判は、戦時中とはいえきわめてずさんかつ拙速で、1945年8月15日の敗戦後もそれに基づく有罪判決が繰り返された。これは、戦後の課題である民主化・言論の自由をはじめとする人権尊重の理念と相容れるものではない。
そもそも、天皇制国家から民主主義国家への理念転換と民主化・言論の自由などの人権尊重を求めるポツダム宣言の受諾により、天皇制国家を維持するための最大の言論弾圧法規である治安維持法は当然に失効すべき運命にあった。また、言論の自由の保障が要求される以上、治安維持法違反とされる行為も、もはや違法ないし可罰性のある行為とは評価し得ない。それゆえ、訴訟自体を免訴で打ち切るか、無罪とされるべきであった。
さらに、ずさんな手続を裁判所が強行することは、近代的裁判である以上、到底許される事態ではない。実際、同時期の治安維持法事件でも、争う機会を得た結果、1945年10月15日の治安維持法廃止により免訴判決を受けた被告人もいる。拙速な訴訟運営の有無により判決結果が2分されることは、法令の効力如何にかかわらず、平等原則に反する差別的取扱いである。
治安維持法の適用に拘泥し、ずさんな審理・有罪判決をすることが許されないことはもちろん、そのような有罪判決を放置しておくこと自体も、「戦後」の課題である民主化・人権尊重の理念とそれを受けた日本国憲法の精神に反する。
第4に、治安維持法の廃止により、予審・公判中の関係者は免訴判決を受け、既に有罪判決を受けた関係者には後に大赦が行われた。しかし、大赦は刑の言い渡しの効力を将来に向かって失わせるもので(旧恩赦令3条)、有罪判決があった事実を完全に消滅させるものではない。関係者の完全な名誉回復のためには、有罪判決そのものを取り消さなければならない。
21世紀を迎え、「国民のための開かれた司法」の確立が急務であることは、衆目一致している。真に国民のための開かれた21世紀司法を目指すには、まず、20世紀の負の遺産を克服することから始められねばならない。横浜事件は、まさに戦前の天皇制司法による負の遺産の典型である。裁判所自らが戦後民主化の理念とその具体化である日本国憲法の理念に思いをいたし、過去の誤りを正し、それを克服することこそ、新世紀の裁判所に最もふさわしく、かつ最も強く求められていることなのである。
以上の理由から、私たち研究者は、横浜事件各再審請求に対する速やかな再審開始決定を求めるものである。
横浜地方裁判所刑事第2部 御中 |
4.2001年3月17日参議院法務委員会
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次に、横浜事件について御質問いたします。 |
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東京高裁;「横浜事件」の第3次再審請求即時抗告審(決定要旨−05年3月10日) 治安維持法1条、10条については、1945年10月15日公布の「治安維持法廃止等ノ件」と題する勅令によって廃止されたとするのか、それ以前に実質的に廃止されたと認めるのか学説上の争いがある。実質的廃止を認めるとしても、その時点を45年8月14日、日本国政府が連合国に対しポツダム宣言受諾を通告した時とするのか、同日、天皇が終戦の詔書を発した時とするのか、あるいは9月2日、降伏文書に署名がなされた時とするのかなど、その見解はさまざまであると考えられ、いずれを正当として採用すべきであるか、にわかに決しがたい。 免訴を言い渡すべき明確な証拠を新たに発見した場合に当たる、として再審を開始した原判断を是認することはできない。しかし、請求人らが主張する他の再審理由の主張が理由あるものと認められるから、原決定の結論は是認することができる。
有罪確定判決を受けた司法警察官3名は、木村亨らのうち、高木健次郎を除く4名に対する拷問にも直接関与している。そして、木村亨らは、いずれもが治安維持法違反被疑事件により警察官に引致された直後ごろから、警察署留置場に拘置されている間、その取り調べ中、相当回数にわたり、拷問を受けたこと、そのため、やむなく虚偽の疑いのある自白をし、尋問調書に署名押印したことが認められる。 虚偽の疑いがある自白部分は、外形的行為というよりは、国体を変革することを目的とし、私有財産制度を否認することを目的とする結社であるコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行のために、個々の行為を意思をもってなした−など、主観的要件等に関するものであったと考えられる。 そして木村亨らは終戦後しばらくして、拘置期間が長期にわたっている中で、予審判事らの示唆に応じ、寛大な処分を得ることを期待して、いずれも犯罪事実をほぼ認めて、予審終結決定を得、公判廷においても、起訴事実を認めて、執行猶予付き判決を得たことが認められる。 したがって、木村亨らのいずれの自白も、主観的要件等に関しては、信用性のない疑いが顕著である。 横浜事件の関係被告人の残されている判決によると、被告人の自白が挙示証拠のすべてであることが特徴であり、そのために被告人の自白の信用性に顕著な疑いがあるとなると、直ちに本件各確定判決の有罪の事実認定が揺らぐことになるのである。 以上の理由により、3名の司法警察官に対する判決写し、木村亨らの口述書写しを含む31通の口述書写し、「警察における拷問について」と題する書面写し、および陳述書等は、木村亨らに対し、無罪を言い渡すべき新たに発見した明確な証拠であるということができる。 そうすると、木村亨らについては、いずれも旧刑訴法485条6号の事由があるので、この点で、本件各再審請求は理由がある。したがって、本件各再審請求について再審を開始するとした原決定は、結論において正当であり、本件各即時抗告の申し立ては、結局、理由がない。 よって、旧刑訴法466条1項により本件各即時抗告を棄却することとし、主文の通り決定する。 |
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