「靖国神社」
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感(元宮内庁長官メモ)=論調(学内限定)
1.靖国神社==⇒靖国神社に関連リンク⇒靖国神社本殿
東京都千代田区九段北3丁目1番地にある神社(総面積9万9,000平方メートル〈東京ドームの2倍〉)。九段坂の高さ25メート・直径2・5メートル・重さ100トンの大鳥居(第1鳥居=1974〈昭和49〉年建立)をくぐり、左右に62基の石燈籠が整然と並んだ参道を行き、(靖国神社創建に尽力した)大村益次郎(長州出身で日本近代陸軍の創設者。兵制改革に際して反対派に暗殺される。1893〈明治26〉年西洋式銅像として日本で初めて建てられた)の銅像を越えて(750メートルの)、高さ15メートルの青銅大鳥居(1887〈明治20〉年完成の第2鳥居)を通り、扉の双方に直径1・5メートルの菊の御紋章が付いた神門(靖国神社の正門で1934〈昭和9〉完成。毎朝6時に拝殿の大太鼓が21回打たれる中開門される)を過ぎたところの中門鳥居(当初は扉がついていた。現在のそれは1975〈昭和50〉年完成)を通り抜けた所に拝殿(はいでん=礼拝が行われる殿舎。1901〈明治34〉年建立。1989〈平成元〉年に屋根を葺き替えた)があり、明治天皇の短歌が掲げられている。
拝殿の奥に本殿(ほんでん=神霊・神体を安置してある社殿。1872〈明治5〉年建立。1989〈平成元年〉にかつての姿で復元された)があり(拝殿と本殿は回廊でつながっている)、そこに祭られているのは「戊辰戦争」「佐賀の乱」「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」「満州事変」「支那(しな)事変」(1937年7月7日夜の盧溝橋〈ろこうきょう〉事件から1945年8月15日の敗戦までの続いた中国との戦争である「日中戦争」の戦前の公称で、その前は「北支〈ほくし〉事変」と呼称した)、そして「大東亜戦争」(太平洋戦争の戦前の呼称)までの246万6,344柱の戦没者たちである(01年7月末現在。この膨大な祭神のすべてが主神〈しゅしん=神社にまつられている神々のなかで、中心となる神〉であるが、ここに靖国神社の他の神社とは異なる特性がある。しかも主神は、無限に増え続けるのである{注1}。ただし「遺骨」や「位牌〈いはい〉」はなく、「御霊の記録」として名簿を管理しているにすぎない。内、約213万柱が大東亜戦争での戦没者{注2})。
本殿のすぐ後ろに1972(昭和47)年に建てられた耐震・防火・防湿設計の鉄筋コンクリート創りの霊璽簿奉安殿(れいじぼほうあんでん){注3}があり、和紙に祭神の名を記し、それを綴じた「霊璽簿」2000冊余りが納められている。
なお、年間参拝者は約600万人といわれている。
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{注1} 靖国神社の主神(靖国神社に合祀され神となった国民)の内訳
備考;01年7月末現在(なお、98年8人、99年には4人、00年は12人が合祀された。合祀からもれていたことが明らかになったためである。そのためこれまで合祀がゼロのとなった年はない) 備考;内、女性5万7,000余柱 備考;内、朝鮮出身者2万1,181柱・台湾出身者2万7,863柱 |
(2001年8月12日付『東京新聞』−「サンデー版」)
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先の大戦(日中全面戦争となった1937年以来)での戦没者(政府見解) 310万 (正確な数字は不明=日本政府は、こうした悲惨な事柄については、事実を明言せずにすまそうとしている=米・歴史家ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』〈ピュリツァー省受賞〉) ―軍人軍属230万人(そのうち60%は広い意味での餓死〈藤原彰『飢え死にした英霊たち』−青木書店〉)⇒戦没者一覧表 ―外地での一般の日本人30万人 ―空襲等による日本国内での死者50万人 |
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日本が被害をもたらしたアジアの犠牲者2千万人(といわれている)⇒戦死者数 |
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{注3} 奉安殿(ほうあん-でん)=第2次大戦前・戦中において、学校で御真影や教育勅語などを保管するために校舎とは別に設けた、小さい特別な建物(大辞林)。 |
靖国神社は神社であるため、墓地や記念碑はない。したがって死亡した人の生前の業績や人柄を忍ぶ場所ではなく、祭る神を畏敬(いけい=心からおそれ敬うこと)崇拝(すうはい=あがめうやまうこと。信仰すること)する場所となる。
靖国神社の境内には大砲や砲弾、それに人間魚雷などの兵器が展示され、境内右奥には遊就館(1882〈明治15〉年に設立された日本最初の軍事博物館)があり、歴代戦争の武器や戦闘機、天皇の錦旗(にしきのみはた=天子の旗。官軍であることを証する旗。明治維新の際には、赤地の錦に日月紋、または菊花紋を描いた二種のものが用いられた。きんき)が飾られている{注1}。
そもそも靖国神社は、明治天皇の意向(「明治天皇の深い思召{おぼしめし}によって」{靖国神社略誌})で、国事に殉じた者の霊を祭る(明治維新の際の戊辰戦争で死んだ官軍の戦没者(3,500余柱)を慰霊する==幕末の尊皇攘夷{そんのうじょうい}の志士の霊魂を祀る)ために、1869(明治2)年{注2}6月29日、東京・九段に東京・招魂社(しょうこんしゃ)として明治政府(兵部省{ひょうぶしょう=明治初期の軍令・軍政機関}大輔{たいふ=高官}・大村益次郎=同年9月暴漢に襲われ11月45歳で死亡、前姓名は村田蔵六)によって設立され(その際、明治天皇は、伊勢神宮、春日大社に次ぐ1万石の社領を靖国神社に永代祭粢料〈さいしりょう〉として与え、1874〈明治7〉年自ら参拝する等異例の優遇をしたが、これが後の合祀臨時大祭への天皇参拝として慣例化する)、その後、1879(明治12)年に現在の名称に改称して(「『靖国』には『国を平安〈安の字は靖に通ずる字〉にし、平和な国をつくり上げる』という明治天皇の気持ちが込められている」といわれている)、(旧)別格官弊社(かんぺいしゃ){注3}となった御社(おやしろ)(2001年は創健から132年目=戦歿者遺族を中心とする献金によって維持されており、年間予算は約20数億円)である{注4}。
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{注1} 拝殿の前を右に折れると遊就館があり、西側に靖国会館、その西隣は駐車場がある。この駐車場は元の「招魂斎庭」である。招魂斎庭は、「神霊を本殿へ奉祀(ほうし=神仏・祖先などをつつしんでまつること)するに先立って、予め御魂を招き奉る斎場(ゆにわ=斎〈い〉み清めた所。祭りの庭)」であるが、この斎庭は1874(明治7)年、現在の社務所の場所に設けられたが、1938(昭和13)年にこの地に移し、戦中、戦後合祀の際の斎場とした。面積約2,300平方メートル、清砂を敷き詰め、中央に浄域を定めた。案内板には、「昭和20(45)年11月20日、斎庭に天皇陛下の行幸を仰ぎ奉り当神社史上最大の臨時招魂祭が斎行された。昭和60(85)年、斎庭のうち浄域のみを縮小保存し、大部分を駐車場として使用するにあたり、当神社史蹟の一環として変遷を記し、後世に伝えるものである」とその由来が刻まれている。 いま駐車場はアスファルトで固められ、斎庭の面影はない。一番奥に「招魂斎庭」と刻まれた碑と小さな浄域があるだけだ。「みたま」を招く庭が現在は駐車場になっているのである。 「何万、何十万、いや何百万もの戦死者たちの『御魂』が招き寄せられた庭が、土地の有効利用のため、駐車場となっている。それはきわめて戦後的な光景だ」(坪内祐三氏の『靖国』〈新潮社〉)である。その奇妙な戦後的光景のなかで、小泉純一郎首相は靖国神社に参拝しようとしている(2001年7月13日付『毎日新聞』−「余録」)。 |
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{注2} 前年の1868(明治1)年に3月28日に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する意。「諸事御一新{注}」「・祭政一致」をスローガンとする明治維新政府の神道国教化政策によってひきおこされた仏教排斥運動で、各地で仏堂・仏像・経文などが破棄されるという出来事がおきた=大辞林)の前触れであった「神仏分離令」が明治維新政府から出され、宗教界は大混乱となった。これにより平安時代依頼に神仏習合(しんぶつしゅうごう=日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹説{ほんじ・すいじやくせつ=本地である仏・菩薩が、救済する衆生[しゆじよう]の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説}が流行し、両部神道{りょうぶ・しんとう=真言宗の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想。真言密教で説く胎蔵界・金剛界の両部をもって、日本の神と神、神と仏の関係を位置づけたもの}などが成立した。神仏混淆{こんこう}ともいう=大辞林)の伝統が破壊されるのである。 この運動は、平田派の国学を学んだ神官や村役人らが先頭にたつが、これにより仏法は大打撃を受け、特に民衆に親しい存在であった修験道(しゅげんどう=山林に修行し、密教的な儀礼を行い、霊験を感得しようとする宗教。開祖は役小角{えんのおづの}とされる。山岳信仰に神道・密教・陰陽道{おんようどう}などの諸要素が混成したもの。中世には聖宝を中興と仰ぎ、醍醐寺三宝院を本拠とする真言系の当山派と、増誉を中興と仰ぎ、聖護院を本山とする天台系の本山派が興った=大辞林)が壊滅状態となった。その一方で、天皇の皇祖(始祖)天照大神(あまてらすおおみかみ)を頂点とする国家神道が創建された。「お伊勢参り」の言葉で庶民の信仰があつかった伊勢神宮は、祭神豊受大神(とようけのおおかみ=とようけびめのかみ
【豊宇気毘売神】=食物の神。記紀神話では伊弉諾尊{いざなきのみこと}の孫、和久産巣日神{わくむすびのかみ}の子とされる=大辞林)を全国最高の農業神とする外宮(げぐう)信仰であったが、天照大神を祭神とする内宮(ないぐう)信仰に切り替えられたことに見られように、神道も新しい神を戴(いただ)くことになる。
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{注3 神社の格(社格)は、官幣社(かんぺいしゃ)・国幣社(こくへいしゃ)・府藩県社・町村社・郷社の順 |
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{注4} 靖國~社は明治天皇の深き叡慮に依て創建せられた~社であります。長くも忠魂を慰むる為に~社を建てて永く祭祀せしむ、u々忠節を抽んでよ、との御趣旨を體して、當持田安臺と稱した九段坂上に東京招魂社を建てられ、軍務官知官事仁和寺宮嘉彰親王を祭主として、鳥羽伏見役以來の戦死者三千五百八十八人の英靈を鎭祭せしめられたのが、その起源であります。 その後明治十二年六月四日に至り、別格官幣社に列せられると共に、靖國~社の呼び名を賜はったのでありますが、靖國の社號はその時の祭文に「汝命(イマシミコト)等ノ明(アカ)直(ナオ)キ心ヲ以テ家チ忘レ身ヲ擲(ステ)テ各モ各モ身亡(ミマカ)リニシ其大キ高キ勲功ニ依リテ大皇国(オオミクニ)ヲバ安國(ヤスクニ)ト和食(シロシメ)スコトゾト思ホシ食(メ)スガ故二靖國~社ト改ノ稱へ別格官幣社ト定メ奉リテ御幣帛(ミテクラ)奉リ齋(イハ)ヒ祭ラセ給ヒ今ヨリ後彌遠永二怠ル事無ク祭給ハムトス」と宣られ給へるに依って欽定せられたものであります。叡慮の程も拜察せられて、誠に畏に極みであります。 明治天皇の叡慮は、素より之等維新の戦死者のみの祭祀に止められず、將來國家防衛のために命を殞(おと)すものは勿論、遡って嘉永六年以來國事に盡瘁し、難に殉ひ節に死するの士をも次々に合祀遊ばされんとする有難き思召でありましたので、明治二年六月以來合祀祭を行はせられること、四十九回、その祭~總柱數は今や十三萬に垂んとして居ります。而して祭~は男女の區別もなく、又階級的に何等の差別もなく祭祀せられてゐるのでありますが、世には往々靖國~社を以て軍人の殉難者を祀る~社であるかに考えてゐる者があります。之は誤解も甚しいもので、かくては一視同仁の聖徳を瀆し奉るものと云ふぺきであります。 茲に祭神生前の官職身分等の大略を挙ぐるも、維新前には公卿・藩主・~職・僧侶・百姓・町人あり、又明治以後には陸海軍人を初として地方官・外交官・警察官・鉄道從業員・從僕・職工等があります。殊に幕末多難の秋に際し男子も及ばぬ壮烈な死を遂げた烈女節婦、その後の戦役事變に殉職した看護婦等現在四十九柱の女性祭~があることを思はゞ、誰が聖徳の廣大無邊なるを思はぬ者がありませう。即ち苟も帝國臣民にして聖慮を奉體し、國家非常の秋に際して二つなき一身の生命を國家の生命に繼ぎ足した者は、貴賎上下・老幼男女の別なく靖國~社に祭祀せられてゐるのであります。又之を祭~の郷里から見ますれば、汎く全國各町村に旦り、已に臺彎朝鮮に於ける同胞も合祀せられてゐるのであります。 かくの如く靖國~社の祭~は階級を超越し、國民を綜合した忠勇義烈の御靈でありまして、換言すれば實に忠君愛国の全國民精~を表現し給ふところの~であると申すべきであります。 されば靖國~社の祭祀が衰える時は國民の元氣が衰へる時であり、靖国~社の祭祀が盛んなる時は國民の元氣も亦盛んなる時であります。 而も今日吾々がその恩頼によって生き、限りなき皇澤に浴しつゝあるを思へば、靖國~社祭~十二萬八千餘柱の英靈に對して感謝せざるを得ますまい。 乃ち祭~の事蹟を顯彰し、その~となられた瞬間の心を以て全國民の心とするならば、上皇室の御仁澤に對へ奉り、祭~の偉靈を慰め、進んでは天壌無窮の國運を扶翼しまつるの所以であると信ずるものであります。 (陸海軍官房監修『靖國~社忠魂史』第1巻〈昭和10年刊〉「刊行に際して」靖國~社宮司 賀茂百樹) |
軍人・軍属か、その要請で戦争に参加した人が、軍が決定し、天皇の裁定で祀られた。天皇に命をささげた人が「神」になるという、戦意を奮い立たせる「思想的装置」の意味合いがあった。そのため戦没者個人の意思は無視された。
すなわち、天皇に命をささげた(戦死)どうかが合祀の条件{注1}で、吉田松陰(寅次郎)・橋本左内{注2}や坂本竜馬・高杉晋作{注3}・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎ら明治国家建設の礎を築いた幕末の志士らも1887(明治20)年ごろから合祀されているが、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民はもとより、天皇に刃向かった戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊{注4}等)や維新の元勲・西南戦争の西郷隆盛側は、国賊・反政府の烙印を押し、合祀の対象から外している{注5}(まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」である)。また「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々も排除された。
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{注1} 「戦争または事変において戦死、戦傷死・戦病死若しくは公務殉職した軍人・軍属およびこれに準ずる者」というのが合祀の基準。戦前は陸海軍が選定、戦後は、遺族補償や恩給の関係から厚生省(現厚生労働省)が戦争による公務死とにいて認定した「祭神名簿」を通知、その後はプライバシー問題などからこれを止め(1986〈昭和61〉年)、靖国神社側が照会して「みたま」を神社において合祀している。 |
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{注3} 幕末の1865(慶応元)年長州藩では、吉田稔麿(としまろ=「松陰門下の三秀」とか、「松門四天王」といわれ、)の「屠勇取立」の建策により(吉田は、藩から「屠勇取建方引受」に任ぜられる)一村100人に5人を選び「穢多之名目被差除」との建前で、「一新組」「茶笑隊」などの被差別部落出身の諸隊を編成し、諸隊は大いに活躍した。他方、明治維新を見ることなく1867(慶応3)年に病死した高杉晋作(しんさく=吉田松陰の松下村塾で伊藤博文と同窓)は、桜山に招魂場を設け、奇兵隊(武士ではなく、一般から募集し採用した軍隊)たちを祀ったが、彼はまた「門閥(もんばつ=家の格付け。家柄。門地)の習弊(しゅうへい=昔からの悪いならわし。悪い習慣)を矯(た=直す)め、暫(しばら)く穢多(えた=中世以降、賤民{せんみん=制度上、社会の最下層の身分とされた人々}視された一階層。特に江戸時代、幕藩体制の民衆支配の一環として、非人とともに最下層に位置づけられた人々。身分上四民の外に置かれ、皮革の製造、死んだ牛馬の処理、罪人の処刑・見張りなど末端の警察業務に従事させられ、城下はずれなどの特定の地域に居住させられた。1871{明治4}年、法制上は「穢多」「非人」の称が廃止されたが、新たに新平民という呼称をもって呼ばれ、現在に至るも不当な差別は存続する=大辞林)之者を除之外 士庶(ししょ=士人と庶民)不問」との指示により被差別部落出身の諸隊の戦死者を排除したのである⇒差別戒名 |
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{注4} 靖国神社の祭日は、会津藩降伏の11月6日(陰暦9月22日)を正祭としていた。この日は、天皇の意思を直接に伝えるために派遣される使いである勅使(ちょくし)が派遣された。また、春の大祭の5月6日は11月6日の半年前である。つまり、会津藩最大の屈辱の日が、靖国神社では、戊辰戦争勝利者が「殉国者」を慰める最大の記念日となっていたのである。そしてこれは明治末までは続いた。 (参考資料=小林榮三「靖国神社は死者を「選別」するー小泉首相の“論”に対して」−2001年7月14日付『しんぶん赤旗』) |
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{注5} 「勝者は敗者の屍骸(しがい)に合掌して立ち去るのが常であった」「われわれの祖先は、国と国との対立を超え、異なった宗教の間の相克を超えて、敵味方の冥福(めいふく)を祈ったのである」。「この崇高な、和(やわらぎ)をいとしむ日本の伝統的精神(武士の流儀=武士道{日本のよき伝統})が、明治のころから失われた。 (宗教学・中村元−『ジュリスト』85年11月10日号)一つの証左である(参考資料;2001年8月3日付『朝日新聞「天声人語」』) |
また、病気で亡くなった軍人は、「特旨をもって合祀」された。つまり、病気で死んだ兵士は本来「犬死」に(いぬじに=その死が何の役にも立たないむだな死に方)であり、靖国神社の祭神になる資格はないのだけれど、天皇の特別のお恵みをもって神さまに祀るのだという意味である。弾に当たって戦死した戦没者と病気で死亡した戦没者との間には、はっきりと差別(区別)があるのである(参考資料;http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/yasukuni.html)。
さらに、1912年9月13日、明治天皇崩御の時、夫妻で殉じ乃木希典(のぎ・まれすけ=乃木大将)や日露戦争の英雄、東郷平八郎元帥らも戦死でないことから祭られていない。
なお、合祀者の中には、軍の命令でその場を離れることができず亡くなった人も含まれており、例えば、沖縄戦で戦没した「ひめゆり部隊」「白梅部隊」など7女学校部隊の女子学生や、沖縄から疎開先の鹿児島に向かう途中に撃沈され死亡した「対馬丸」の小学生や従軍看護婦、それに敗戦直後の1945(昭和20)年8月20日、進攻してきたソ連軍の動向を日本に打電し続け、自決殉職した樺太(現サハリン)真岡(まおか)の女子電話交換手らが陸軍軍属(軍隊における非軍人。旧陸海軍では、軍に所属する文官と文官待遇者のほか、技師・給仕などをいった=大辞林)らとして1955年から1960年代にかけて祭られている(その他満州開拓団員や防空活動従事中の警防団員ら。現在女性祭神は5万7,000余柱)。
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「看護動員された女生徒が次々に死んでいきました。『勇敢にたたかった』はとんでもないウソです。同窓生がどれほど無惨に死んでいったかはここ(「ひめゆり資料館」)に一度でもくればわかることです」「私たちは、公民教育でお国のために死ぬこと、死ねば靖国に行けると教わってきました。靖国はそういう戦争動員の象徴なんです。その結果がひめゆりの犠牲です」(沖縄戦で、沖縄南部の海岸で米軍から20日間逃げ回り、途中多くの同窓生を失った、ひめゆり同窓生の1人、石川幸子さん〈76〉)−(2001年8月10日付『赤旗』) |
対外戦争の場合は、日本国籍のあることが条件となった。ただし(旧)植民地の朝鮮や台湾の人々で日本軍人として戦死した場合は、遺族の意思と無関係に合祀された(現在朝鮮出身者2万1,181柱、台湾出身者2万7,863柱が合祀されている。なお、韓国政府当局者は01年7月17日、 太平洋戦争で旧日本軍に駆り出された朝鮮半島出身者の遺族が靖国神社への合祀をやめるよう求めている問題に関連して、靖国神社に合祀されている韓国人の位はいの返還を日本政府に公式要請する方針を明らかにした)。
このように靖国神社は、アーリントン墓地と異なり、死してなお差別している。
すなわち、靖国神社は明治憲法下の天皇を神とする政教一致の国家神道体制(天皇とその祖先神への崇拝を国家が強要した体制)の元での、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱としての役割を果たしたのである。なかでも靖国神社は内務省所管の一般の神社とは違い、1887(明治20)年から陸・海軍省所管(共同管理)となり(ただ、収入の多くは国民の寄付やおさい銭で賄われていた)、文字通り、一般の神社行政の枠外に置かれた別格の軍事的宗教施設であった{注1}(祭神の選定は、戦前は陸・海軍省が行った)。そのため、国民は死んで(天皇のため名誉の戦死)靖国神社に祭られることを美徳と教えられ(「九段の桜花と散る」ことを誓わされ)、信仰のいかんにかかわらず参拝を強制された(天皇のために戦死した戦没者は、生前の行跡や業績にかかわりなく、国によって神として祀られ、現人神である天皇の礼拝を受けるという「無上」のない「栄誉」を与えられたのである{注2})。
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{注1} 「その死はただの死ではなく、お国のために命を捧げたる人間の最も尊き死である」「それゆえに国家はこのお父さん方を靖国の神社にまつられた」「その亡きお父さんの志を継いでいかねばならぬ」(1936年8月6日、靖国神社の宮司鈴木孝雄大将が戦死者の遺児たちを前に語った言葉)。 「ここにまつってある人々にならって、君(天皇)のため国のためにつくさなければなりません」(戦前の修身教科書)⇒靖国神社は、「後に続くぞ」と戦意を高揚さす道具だてで、教育勅語の「一旦(いったん)緩急(きんきゅう)アレバ(万一国家に危急の事態が起こった場合には)義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ(正義にかなった勇気を奮い起こし、国家・公共のために尽力する)」の実践の帰結の場であった⇒画像 そして現在 「日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくために、戦わなければならなかったのです」(靖国神社ホームページ「やすくにじんじゃ何でもQ&A」より) |
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{注2} 「この構造は、日本人の生活において長い伝統をもつ霊魂観と祖先崇拝を、巧妙に天皇崇拝と軍国主義に結びつけたもので、靖国神社の事実上の地方分社である各県の護国神社(旧招魂社)は、国民への天皇崇拝と軍国主義を普及・徹底する上で絶大な威力を発揮した」(村上重良『靖国神社』〈岩波ブックレット〉)。 |
こうして靖国神社は、第2次大戦の敗戦まで、天皇を現人神としてその政治的権威を宗教に基礎づけた教説及び制度の総体である国家神道の体系中、その軍国主義的、侵略主義的側面を代表する施設であった。
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1941(昭和16)年、中国でのことだ。私は5,6人の先輩とともに敗残兵の討伐に出かけた。日本兵を恐れて、河川敷のヨシの中に女性や子どもが20人ほど逃げ込んでいた。1年先輩の上等兵が突然、軽機関銃を十数発連射した。悲鳴があがった。地獄の光景だった。あまりのことに私は思わず「何でこんなことを」と叫んだ。上等兵は言った。「むかむかしたでや」 虐殺、強姦、放火、強奪は日常的にあった。でたらめだった。せめて自分だけはそういうことはしたくなかった。東洋平和のためと言われても、私には日本が悪いことをしているとしか思えなかった。(中略) 私は戦後、軍人恩給の受給を拒否してきた。戦争犠牲者は決して私ではない。それはアジアの人々だ。救済すべきはアジアの人々であって、自分が恩給をもらうことには強い抵抗感があった。ほかの人にもらうなと言ったことはないし、言うつもりもないが、自分はもらいたくなかった。 戦死者を靖国神杜に神として祀るのも、「死んだら神になる」と言って戦意高揚を図った軍国日本の気休めでしかない。濠の中で泣き声をあげたために殺された沖縄の赤ん坊、政府がとっくに終戦を決断していた時期に日の丸の鉢巻きをしめて飛び立った特攻兵、何も悪いことをせずに死んでいった人々は神だ。しかし、殺生を推進した人々が果たして神か。その靖国神杜を首相が参拝するという。愚かなことだ。8月15日と日に日を決めて参るなどというのは、形式だけの参拝であって本当の慰霊ではない。日本がまだ戦争から足を洗っていないことを内外に示すだけだ。 首相はまず、アジアの死者を悼み、沖縄の赤ん坊を悼むべきだ。(後略) |
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軍人恩給〈旧軍人・旧準軍人・旧軍属とそれらの遺族に、恩給法により支給される恩給〉の受給を拒否してきた元陸軍軍曹 尾下大造(おした・だいぞう)−(「無残な死、ひとりその無念思う=2001年8月7日付『朝日新聞』」 |
戦後、靖国神社は、ポツダム宣言第6項及び第10項に基づく連合国軍総司令部(GHQ)による国家神道の廃止命令(1952年のサンフランシスコ平和条約の発効で失効)によって、「(1)国家との関係を断って宗教施設として存続する(2)宗教色のない戦没者追悼の記念碑的施設にする」、との2つの道の選択を余儀なくされ、靖国神社は(1)を選択、宗教法人令 (昭和20年勅令第718号)上の単立{注}(たんりつ)の宗教法人となった。
その後、戦前の教訓と反省のうえに確立したのが現憲法の恒久平和と信教の自由・政教分離の原則であるが、靖国神社は、1952(昭和27)年1月の宗教法人法(昭和26年法律第126号)による宗教法人(都知事認証の私的な宗教法人)となる。
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{注} 政教分離指令により神社は宗教法人として再出発するようになったが、全国10万6,137に内、8万6,157社は、1946年2月3日設立の包括的宗教法人である神社本庁に加入、他の1,060社は、他の教派に属するか、単立(一)の宗教法人として独立した(大江志乃夫『靖国神社』〈岩波新書〉37頁)。 |
しかし、その教義、祭祀、儀礼は戦前と異なるところはなく、同神社の霊璽(みたましろ)は神鏡と神剣であるが、副霊璽(そえみたましろ)として天皇の軍隊の忠死者若しくは戦争協力者を霊璽簿(れいじぼ)とよばれる名簿(和紙の帳面で現在2000冊以上にのなっている=もとは祭神簿といわれ、これには祭神の氏名、戦没年月日、場所、本籍のある都道府県、軍における所属、階級、位階、勲等などが記入されている{注})に記して(記名することが重要とされている)祀る神道上の宗教施設にほかならない。
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{注} 靖国神社社務所発行の『靖国神社の概要』には、「…祀られている神々も、すべて天皇の御心のように、祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ、日本民族を守るためにとうと掛け替えのない尊い生命を国に捧げられた同胞たちで、これらの方々は、身分・職業・年令・性別等にかかわりなく手厚く祀(まつ)られています」と記述されているが、これと霊璽簿に「軍における所属、階級、位階、勲等などを記入」していることとは矛盾しないのであろうか? |
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靖国神社の合祀の方法 真っ暗闇の夜に人霊を「霊璽簿」(れいじぼ)に筆書きで移し、更に靖国神社の「御神体」とされる鏡に写し合祀され「神霊」となる。その上で秋の例大祭の初日に「魂をお招きし」、霊璽簿を前に宮司が祝詞(のりと)を上げ、国学院大学吹奏楽部が「水清く屍(かばね)を演奏する中、本殿正面の扉を開き、奥の奉安殿に納める。 合祀(ごうし)=二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀(まつ)ること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。合祭(大辞林)。 |
講和条約締結(占領政策終了)後の1956(昭和31)年4月、遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望を受け、援護行政を所掌する厚生省(現厚生労働省)引揚援護局(当時)は、各都道府県に対して戦没者の靖国神社合祀の協力を要請するところとなる。その際の祭神の選考は厚生省と都道府県が、戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者を対象に行い、祭神の合祀は靖国神社が行うというかたちで続けられた。つまり厚生省から送付された「祭神名票」により、靖国神社は新しい祭神として合祀を実施したのである(この作業は、憲法の政教分離原則やプライバシー問題・便宜供与などの理由から1987〈昭和62〉年3月に打ち切られた。だが、1987年4月から90年7月まで旧厚生省は、靖国神社側に旧陸海軍の人事資料や遺族の現住所などの閲覧を認めていた=社民党大脇雅子議員の質問主意書に対する01年8月16日の政府答弁書=2001年8月17日付『東京新聞』)
その途中、1953(昭和28)年から恩給法改正など一連の法改正が重ねられ、その結果、連合国による極東軍事裁判(東京裁判)に関連する死亡者も年金や恩給の対象となった(一般戦没者の遺族と同様に、「戦犯」の遺族にも遺族年金・弔慰金・扶助料などが支給され、さらには受刑者本人に対する恩給も認められた)。
それを受けて靖国神社は、1959(昭和34)年4月に最初の「戦犯」の合祀を行ない、1978(昭和53)年10月には、密かに極東軍事裁判で有罪判決を受けA級戦犯で絞首刑になった東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将、松井石根(いわね)陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅〈こうき〉元首相ら7人と、獄中で死亡した5人及び平沼騏一郎元首相ら未決で病死した2人の計14人{注1}(を「昭和受難者」{注2}として合祀した。その理由は、「53年の援護法改正で、いわゆる戦犯刑死者と遺族は(遺族年金などで)一般戦没者と同様の処遇を受けられるようになった。戦犯刑死の方々は法的に復権され、靖国神社は当然合祀する責務を負った」(靖国神社機関紙)ということであった{注3}(これに対して厚生労働省は、「国は遺族援護のために戦犯刑死者を公務死と認定したのであり、靖国のいう『復権』とは関係ない。合祀は神社が決めることだ」と反論している)−(2001年8月11日付『朝日新聞』{注4}−翌年4月明らかになる。現在、1,000人以上のA・B・C級戦犯を合祀している。なおこの事実は、遺族にもしばらく伏せられた){注5}。
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{注1} 靖国神社のA級戦犯の認識⇒⇒「連合軍の形ばかりの裁判によって、一方的に戦争犯罪人≠ニいう《ぬれぎぬ》を着せられ無残にも命を絶たれた。(靖国神社HP;http://www.yasukuni.or.jp/) |
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{注2} 「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から靖国神社の記録に使っていた言葉にあわせて、「戦犯」とか「法務死亡」という言葉を一切使わないで、「昭和殉難者」とした(松平永芳靖国神社宮司)。(参考資料;http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html) |
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{注3} 「靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮闘して亡くなった人を祀るはずなのであったって、国を危うきに至らしめたとされる人も合祀するのでは異論もでるでしょう。筑波さんのように慎重を期して、そのままにしておけばよかったですよ」(徳川義寛『侍従長の遺言』−朝日新聞社) |
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{注4} 靖国神社による「戦犯」の合祀は、政府が、それを「公務死」と認定した事を根拠としている。すなわち、靖国神社の協力要請で、政府(厚生省)から送付された祭神名票に基づき、靖国神社側が、合祀手続きを行なったのである。形式的には、「合祀」の最終決定は靖国神社側であるが、実質的(事実上)は、政府の関与なくしてはありえない。 (参考資料・板垣正〈東京裁判で絞首刑となった板垣征四郎の息子で、戦時中は陸軍少尉〉『靖国公式参拝の総括』−展転社)。 |
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{注5} 合祀を許せず遺族会を脱会 参院選に大勝した小泉首相は、向かうところ敵なしの様相です。しかし、日の丸を打ち振る群衆や巨大な顔写真など見ていると、物言えば非国民のレッテルを張られた暗い戦前を思い出します。さらに、15日の靖国神社参拝発言を繰り返して隣国の抗議に平然としているような首相の姿勢に、不安がいっぱいです。
私の夫も赤紙一枚で中国大陸へ駆り出されて戦死し、自動的に靖国神社にまつられましたが、A級戦犯も合祀(ごうし)されたと聞いた時、私は一緒にまつられたくない思いで日本遺族会を脱会しました。あえて言えば、私たちの親、夫、子は、針路を誤った指導者の犠牲となり、しかも、近隣諸国への加害者になってしまっているのです。
大多数の戦没者は、道を誤った指導者のために南の海に消え、島で餓死したといいます。私は、戦争を指導した人たちと同じ場所に夫の名前を連ねたくない。夫の霊は、故郷の山河と遺族に囲まれて安らかに眠るのが一番なのです。(兵庫県尼崎市 84歳−2001年8月6日付『朝日新聞』「大阪本社版」〈声欄〉) |
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1972年秋、日中国交回復に際しての中国側の最大の課題は、15年戦争に蒙った中国人民の損害に対する賠償請求の放棄をどう説明するかであった。 周恩来首相(当時)は、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、一握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者であるのだから、その日本人民に対してさらに莫大な賠償金支払いの負担を強いるようなことはすべきでない。すべからく日中両国人民に軍国主義の犠牲にされた過去を忘れず、それを今後の教訓とすべきである」という論法で中国人民を納得させたという。 いうまでもなく、「一握りの軍国主義者」とは、極東国際軍事裁判所(いわゆる「東京裁判」)でA級戦犯という烙印を押された人たちである。 そのA級戦犯を祭る靖国神社に日本の首相が参拝するのである。中国側の反発は当然であり、賠償放棄を納得した中国人民の感情を逆なでするものであるといわねばならない (参考資料;中江要介元駐中国大使「中国はなぜ靖国神社にこだわるのか」−2001年6月27日付『東京新聞』夕刊)) |
また、靖国神社の1978年のパンフレットには、「日本民族がその総力を挙げ平和のために戦った大東亜戦争が、戦い利あらずして矛(ほこ)を収めてから、はや35周年を迎えます」とある{注}。
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靖国神社の先の大戦の歴史認識⇒⇒「日本の独立を守り平和な国としてまわりのアジアの国々と共に栄えていくには戦わなければならなかったのです」(靖国神社HP;http://www.yasukuni.or.jp/) |
靖国神社遺品館においては、祭神(神社が祭る神)として「東条英機之命」の遺品と遺墨(いぼく=故人が生前に書いた書)が堂々と展示されている。
官弊社とは、明治以後宮内省が弊帛(へいはく−−神に奉納する物の総称。みてぐら・にきて
・ぬさ)を供進(ぐしん ・きょうしん )した神社をいい、大社(伊勢大神宮・明治神宮・熱田神宮・橿原神宮・出雲大社・石清水八幡宮・住吉神社・三島神社等)・中社(賀茂神社・住吉神社など)・小社・別格官弊社(天皇の忠臣を祭る特別の神社で小社と同格。醍醐天皇の命を受けて鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦った楠木正成公〈くすのきまさしげ〉を祭る湊川神社、楠木正行〈すのきまさつら〉を祭る四条畷神社、後醍醐天皇を隠岐島から迎えた南朝の忠臣名和長年公以下一族42名の英魂を祀った鳥取県西伯郡名和町の名和神社、毛利元就を祭神とする豊栄神社等多数ある)の別があった。主として皇室崇拝の神社及び天皇・皇親・功臣を祀る神社ことで、第2次大戦後この制度は廃止された。
靖国神社として重要な祭典は、春秋の例大祭とみたま祭である。「春季例大祭」は、毎年4月21日から23日まで、「秋季例大祭」は、毎年10月17日から19日までそれぞれ3日間にわたって行なわれる。「みたま祭」は、「お盆」にあたる7月13日から16日までの4日間執り行われる。
現在、靖国神社は宗教法人の一つに過ぎないが、1969年に自民党が、靖国神社を内閣総理大臣が監督する機関と位置付け、その儀式や行事に必要な経費を国費で負担するという内容の靖国神社法案を発表、同法案は、1974年の衆議院で強行採決されたが、政教分離の原則などを定めた憲法に反するとの理由から参議院で廃案とされた。これによって参議院は良識の府といわれる二院制が正常に動いた一局面であった。
宗教施設への閣僚の参拝について、政府は、憲法20条の政教分離の原則から「大臣の資格で参拝することは違憲の疑いを否定できない」との見解をとり、玉ぐし料を公費で出すことも、憲法89条が宗教組織の便宜、維持のための支出を禁じていると解釈していた。それゆえ靖国神社に参拝した歴代首相は、その点に配慮し、75年の敗戦記念日に初めて参拝した三木武夫首相は、「(1)公用車を使わない(2)玉ぐし料を私費で払う(3)記帳に肩書をつけない」など「私的」を強調し、78年の福田赳夫首相も、内閣総理大臣と記帳したが、玉ぐし料は私費で払って参拝した(これに関して同年10月参院で安倍晋太郎官房長官が「首相が私人の立場で神社に参拝することは自由である。閣僚の場合、警備上の都合などから、私人としての行動の際にも公用車を使用している。記帳に肩書を付すことも慣例として用いられている」と答弁している)。
しかしこの年(78年)の10月、靖国神社にA級戦犯14人が合祀(ごうし)され、それが翌79年4月に明らかになり、問題はさらに複雑になった。戦争犯罪人を祀った施設への閣僚の参拝は、日本が戦争の反省をしていない証拠との非難が、かつて日本軍が侵略した中国や韓国をはじめとする近隣諸国からあがったためである。これを受けて翌80年11月、衆院で宮沢喜一官房長官が「総理大臣が国務大臣の資格で参拝することは憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」と答弁するところとなる。
そうした中の84年8月{注}、(海軍士官として敗戦を迎え、総理就任後、「日本人としてのアイデンティティーの確立」を強調、「戦後政治の総決算」を掲げ、国際社会における「政治大国」への道を模索していた)中曽根康弘首相は、藤波孝生官房長官のもとに私的懇談会(「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」{靖国懇})を設置し、その懇談会は翌85年8月、「行為の態様が、宗教との過度の癒着をもたらすことなどによって政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきである」と結論づけ、「何らかの形」で、首相、閣僚の公式参拝を検討すべきだとの報告書をまとめるところとなった。
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{注} 1984(昭和54)年8月13日正午から戦没者遺児132人が靖国神社境内の能楽堂で公式参拝を祈願する断食に入る。2日後の15日朝、藤波官房長官が参拝のあと、遺児たちの前で中曽根首相の公式参拝実現を示唆し、50時間の断食は終わる(『正論』2001年9月号)。 |
これを受けて中曽根首相は、戦後40年の節目のこの年、「さもなくしてだれが国に命をささげるか」といって自らの強い意向で公式参拝(拝殿において「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳)をする。この日、1985(昭和60)年8月15日、中曽根首相は、武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、時間調整を行い、神門から拝殿までの参道で並んで待っていた遺族らが拍手をする中、靖国神社の荒木禰宜の先導で(第2次中曽根内閣・第1次改造内閣−1984〈昭和59〉年11月1日改造−の)藤波孝生官房長官と増岡博之厚生大臣を従えて、海外出張中の2人の閣僚を除いた全閣僚18人とともに(4人のボディーガードと一緒に{注})、戦後初の公式参拝を挙行するのであった(一部にパフォーマー中曽根康弘の面目躍如との嘲笑が生まれた)。
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{注} 「私は前日、藤波氏に条件として、記帳したあと、拝殿から中の、いわゆる神社の聖域にはボディーガードなんか連れて行かないでくれ、と申しておけばよかったと後で後悔しました。まさかそんなことをするはずがないと思っていました。うちの神様方というのはみんな『手足四散』して戦場でなくなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全をはかるため、4人もぴったりとガードをつけるなんていうのは、無礼・非礼の『きわみ』というほかありません。…」(松平永芳靖国神社宮司) (参考資料;http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html) |
ただ、憲法違反との批判を避けるために、「お祓い」も受けず{注}、「二拝二拍手一拝」の神道形式もとらず、本殿で「黙祷のうえ深く一礼」する方法で、玉串(たまぐし=木綿〈ゆう〉または紙をつけて神前にささげる、榊〈さかき〉の枝)奉奠(ほうてん=つつしんで供えること)に代えて、供花代の名目で3万円を公(国)費から支出しという方策をとるのであった。
{注}
お祓いは、神に祈って罪・けがれ、災禍などを除き去ること。また、そのための儀式や、その祈りの言葉で(大辞林)、火とか塩とか水で清めることと一緒の神社の行なう日本古来の一つの伝統習俗である。「お祓い」もしないという(政府の憲法に抵触しないとの配慮からでた)中曽根方式に対して靖国神社側は、「『お祓い』も受けないということになったら、神社参拝の本質が崩れてしまうことになる」「単に靖国神社だけの問題ではない」ことから、靖国神社側が、目立たないように「陰祓い」(幕をコの字型に張り、記帳台を置き、神社としては総理の記帳時、外から見えないようにしてお祓い)をしたのである(中曽根首相側はあくまで「お祓い」を受けなかったというになる)=(〈福井藩主松平春嶽の孫でA級戦犯の合祀に踏み切った〉松平永芳宮司(元海軍軍人・戦後陸上自衛隊に勤務、1978〈昭和53〉年第6代靖国神社宮司に就任、1992〈平成4〉年まで在任)。(参考資料;http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html)なお、この時松平宮司は、正式の装束ではなく、稽古袴のような姿で中曽根首相を迎えた(『正論』2001年9月号)。 |
参拝後中曽根首相は「内閣総理大臣の資格で参拝した。いわゆる公式参拝」だと明言し、その直後の軽井沢セミナーでは、「これが戦後政治の総決算だ。過去のことでなく、21世紀へ向けての前進の体制をつくる」とのべた。
その後、激しい抗議運動が中国・韓国などで起こり、翌年、後藤田正晴官房長官が、「靖国神社がA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は近隣諸国の国民の間に批判を生み、過去の戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」との談話を発表、公式参拝は見送られた(首相の公式参拝は、これが戦後唯一の例)⇒中曽根書簡
かわりに、個人として訪れる「私的参拝」という形が定着し、終戦の日を避けて参拝したりするのが慣例となった。
その後91年9月には、公式参拝に違憲判断を下した岩手靖国訴訟の仙台高裁判決が確定、96年7月29日、(日本遺族会の会長や「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会長を歴任していた)橋本龍太郎首相が(事前に公表することなく〈ただし遺族会等には、『終戦記念日や春、秋の例大祭は見送るものの、それ以外の機会に私的に参拝する』との意向が前もって伝えられていた〉)誕生日に私的に参拝する。参拝後橋本首相は、「いとこはあそこに帰ってくると言って出撃した。大祭とか終戦記念日は避けて、誕生日という私的な日を選んだ」と、個人的な行為であることを強調した。しかし、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由に中国政府が遺憾の意を表明。中曽根首相の場合と同様、翌年の参拝は見送られた。
さらに99年8月には野中広務官房長官が記者会見で、A級戦犯を分祀し{注1}、純粋な特殊法人とする案を示す中、2000年7月に自民党の「靖国問題に関する懇談会」が発足する等の動きがあった{注2}⇒靖国神社に参拝した歴代首相
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{注1} 靖国神社の分祀に対する見解は、「いったん合祀すれば魂は一体となる。分祀などという魂を切り離す概念はありえない」とのことである。 |
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{注2} 中曽根内閣時代に、A級戦犯で絞首刑となった板垣征四郎の遺族から、刑死7遺族の自発的な合祀取り下げの動きがあったが、このとき東条の次男輝男(元三菱自動車社長)は、「東条の方から願い出ることはない」と答えている(〈東条英機の孫[長男英隆・幸子夫妻の長女]〉東条由布子〈ゆうこ〉)−(「首相の参拝、祖父の思い心中複雑」−2001年8月7日付『朝日新聞』及び「東条家『A級戦犯分祀』に同意せず−『文藝春秋』2001年9月号) |
そして01年5月10日、小泉首相が国会の答弁で、公式参拝について「憲法に違反しない」とした上で、「制度化されたものではなく、あえて公式参拝として行うかどうかは、戦没者の遺族の思いや近隣諸国の国民感情などを総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討して判断したい」と強調。ただ、「犠牲となった戦没者に敬意と感謝の誠をささげる思いに変わりはなく、その思いを込めて個人として参拝するつもりだ」と述べ、私的な立場で参拝するとの見解を示すところとなる⇒小泉首相の靖国参拝に関する言動集
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(前略)戦後の日本は、もう戦争はしないと宣言し、少なくとも公的な戦死者はゼロです。戦争がどういう生活をもたらしたのか、それを学ぶ象徴的な日として、8月15日があります。それは夏の真っ盛りに、20世紀の日本の歴史をどう受け止めて引き継ぐのか、静かな心で死者を追体験することです。小泉首相が仰々しく靖国神社を参拝することではありません。戦争で、銃後も含め何百万人という日本人が死にましたが、その向こう側には、日本人によって命を失った他国の人たちが、それより1けた大きいくらいの数でいます。戦争というのは相互的な関係ですから、自分が属している側の鎮魂では済みません。とくにアジアは、日本が米英などを相手に戦争したことによって戦禍に巻き込まれ、犠牲になっています。小泉首相には、日本人のことだけ考えてはいけない、と思ってほしいですね。向こう側にいた人の死を悼む気持ちを持つこと。もし、それが自然な感情でないならば、努力してでも持たなければならない気持ちであって、政治家としても必要なことだと思います。 大日本帝国憲法では、統治者は天皇であり、民として忠義であることの精華(せいか=最もすぐれているところ。真髄。はな)は、戦争で死んで靖国神社にまつられることでした。でも、神道は天皇家の宗教です。カトリックも無宗教の人も、護国の神にしてしまうには無理があります。靖国神杜に行けば我が子に会える、と思う年者いた親がいることは否定しませんが、新憲法に変わった節目の一つは、靖国神社だろうと私は思います。憲法で政教分離を規定しているのですから、一国の首相は公務員として憲法を守る義務があります。中国や韓国の反発にもかかわらず参拝を強行すれば、死者への冒涜につながりかねません。いまの政治的な必要に合わせた政治利用かもしれないでしよう。死者には安らかな眠りが一番いいんです。(後略) |
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(ノンフィクション作家澤地久枝「身近な『人間の物語』を忘れまい−2001年8月7日付『朝日新聞』」 |
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(前略)小泉さんの靖国参拝は首相として疑問だ。為政者の過ちで大勢の人々を死なせておいて、慰霊だけはするという話ではないと考えるからだ。内外にあれほど惨禍を与えた戦争への反省も感じられない。首相は、国に命をささげた英霊に哀悼の誠を尽くすことのどこが悪いのかと言う。しかし、日本の軍国主義や戦争に反対して殺されたり、獄中死したりした人たちも、反対することで国家・国民に尽くそうと考えたに違いない。命も落とした。 英霊とは何か。(中略)合祀された英霊はそもそも「皇運挽回」のため命を投げ出した人々であった。私はそうした靖国思想自体が今日そぐわないと思う。(後略) (大田実海軍中将の長男)大田英雄「英霊≠ヨの献花より平和の誓い」−2001年8月7日付『朝日新聞』) |
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「家族と離れ、戦場に赴いた方々の気持ちを思うと本当に胸が打たれる」「なぜ国を守るために命を捧げた戦没者に敬意を表する行為がこれほど批判されなきゃならないのか」(小泉首相) ⇔ 「もはや国家神道の復活など期待する者もなく、不安は杞憂(きゆう)に等しいとも言われる。しかし、歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」
(愛媛玉ぐし料訴訟の最高裁違憲判決での尾崎行信判事の補足意見) |
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戦前、神道には事実上、国教の地位が与えられた。信仰の強要や他の宗教の弾圧が繰り返され、市民生活は息苦しさを増して、国もろとも坂道を転げ落ちていった。いまの憲法が信教の自由を保障するだけでなく、国家といかなる宗教との結び付きも認めない規定を設けたのは、過去への深い反省があったからにほかならない。 (中略) 国は靖国神社という一宗教法人を特別扱いし、他の宗教団体に比べて優越的な地位を与えている。やはり靖国は別格だ――。そうした印象が広がるのは容易に想像できる。他の閣僚や首長、議員、さらには天皇に参拝を求める圧力も強まるだろう。 (2001年7月5日付『朝日新聞』−「社説」) |
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★ 「私たち真宗教団連合は、1969年「靖国神社法案」廃案要請に始まり、その後も度重ね提出された同法案の撤回を申し入れ、さらには、「靖国神社公式参拝並びに国家護持」等に関しての反対要請を今日に至るまで行ってまいりました」… 「先の大戦の尊い犠牲と深い反省の上に制定された日本国憲法は、戦争放棄を表明し、加えて信教の自由・政教分離の原則が掲げられております。これらのことから私たちは、一国の首相・閣僚の参拝を強く反対してまいりました」…「靖国神社は国家の行う『戦争という殺戮(さつりく)』を正当化する仕組みをもつ、極めて政治的意図をもって創設された」
「参拝は信教の自由、政教分離の憲法の精神からも、神社創設の経緯からも違憲行為である」==真宗教団連合(浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など10派、01年6月5日付の首相あて要請文全文) ★ 「大切なのは戦没者自身の『いのち』をどのように考えるかということ。戦没者を『英霊』と讃(たた)え、感謝することによって、国家の戦争犯罪を正当化し、その責任を回避するために戦没者を利用することであるとすれば、戦没者を再び抹殺することになる」==真宗遺族会(浄土真宗本願寺派の門信徒戦没者遺族の団体、01年6月11日付の首相あて反対声明)
★ 「靖国神社は、天皇のために死んだ人々を『英霊』としてまつり、他の宗教とは別格の国家神道として存在し、アジアや太平洋の国々への侵略戦争に天皇の軍隊を送り出す精神的基盤の役割を果たした」
「敗戦後、憲法は信教の自由を保障し、国家が特定の宗教に庇護(ひご)を与え、宗教に介入しないよう規定した。首相参拝は憲法第20条、第89条の信教の自由及び政教分離の原則を踏みにじり、戦争犠牲者に大きな痛みを与える」==日本キリスト教協議会(NCC)(01年6月1日付の首相あて要望書) ★ 「靖国神社は成立以来、軍事的・政治的イデオロギーの濃厚な宗教施設。78年にA級戦犯14人を合祀(ごうし)したことで本性が一層明らかになった。首相が参拝し、『慰霊』することはアジア・太平洋戦争を全面的に肯定、正当化することになる。参拝は到底認められない違憲行為と考える」
==日本聖公会(01年5月28日付の首相あて要望書) ★ 「首相参拝は、再び『いつか来た道』に戻すほどの意味を持つ重大な過ちと言える」…「私たちは日本帝国軍隊によって侵略され、無惨にも殺されたアジア・太平洋地域の人々のことを忘れることはできません。またその遺族は、自分たちの肉親を殺した人が神として合祀されている場所に日本の総理大臣が参拝することを、どのような思いをもって見るのでしょうか。更に、これまでアジアの人々との和解のために努力を重ねてきた全ての人々にも大きな失望を与えるものでもあります」…「憲法上では以下の点について問題であると私たちは考えています。憲法20条では、『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない』と言われます。総理大臣が靖国神社に参拝することは、この国の宗教活動の禁止条項に明らかに反することになります。さらに憲法89条では『公の財産の支出叉は利用の制限』が述べられています。玉串料については憲法違反であるという最高裁判例も出ています。総理大臣の靖国神社参拝により、これらの定めに違反することがあるのではないかと懸念しています。『靖国神社は日本の伝統的習俗である』と主張する人がいますが、霊を祀り、霊を慰める儀式は宗教にしかないものです。戦没者の霊を神として祀る靖国神社は、神社神道という宗教以外のなにものでもありません。現に靖国神社は宗教法人として存在しているのですから、間違いなくひとつの宗教です。さらに、ひとつの宗教を法律によって宗教でないとするやり方は、思想や信条の問題を法律によって左右する危険な道につながります。また、国家が信仰の世界に介入し、人の霊の中の、ある霊をすぐれた霊、英霊として決定する権利は不当なものです。これも憲法20条によって保証されている信教の自由を脅かすものです。最後に憲法99条には憲法尊重擁護の義務として、『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』、と明記されています。したがって、総理大臣はこの憲法を遵守しなければなりません。これを遵守しないことは、明らかに憲法違反となります」==日本カトリック正義と平和協議会(01年6月29日付の首相あて反対声明全文) ★ 「首相発言には、戦後靖国問題が大きな政治問題、外交問題になってきたことに対する認識、理解が全くうかがえない」
「A級戦犯が合祀されたことによって、靖国参拝は、戦争の犯罪性を否定するものとして、(日本国が極東国際軍事裁判所や国内、国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾した)サンフランシスコ平和条約第11条(【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない
)違反を明白にするものとなった。中国、韓国が反発する法的根拠はここにあることを首相は心得ているだろうか」==「カトリック新聞」(01年6月10日付の論説欄、共同通信社顧問の酒井新二氏執筆) 参考資料2001年07月02日付『朝日新聞』夕刊 |
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☆ 「参拝を政争の具とされることには不快感を覚える。『戦没者への敬意と感謝の気持ちをこめて8月15日に参拝する』という言葉は、我が国の首相として『本音や建前』を超えた不変の意思でなければならない」
==「神社新報」(神社本庁の機関紙、01年5月21日付の論説) ☆ 「英霊に対し、国政の最高責任者たる総理が参拝することに何の躊躇(ためら)いがあろうか」(01年6月号)
「『戦没者に敬意と感謝を表するのは日本人として当然のこと』として、一貫して参拝する姿勢を表明していることは誠に頼もしい限りである(01年7月号)」(靖国神社社務所発行の月刊誌、コラム「靖濤」)
2001年07月02日『朝日新聞』夕刊より引用 |
☆ 01年6月29日、太平洋戦争で旧日本軍に駆り出された韓国や米国に居住している韓国人の元軍人・軍属とその遺族計252人が、戦争で受けた損害計24億円余の賠償などを国に求める訴えを東京地裁に提起、原告の一部は、戦死した親族の靖国神社への合祀(ごうし)は「自らの意思に反する合祀は、人格権の侵害」としてその停止など(55人が合祀停止、66人が遺骨返還、16人が生死確認)を求めている(靖国神社への合祀取りやめを求めた提訴は初めて)。
原告側は、「76年までは厚生省が作った名簿をもとに合祀が決まっており、合祀は国と靖国神社の共同作業だと」とし、当面は靖国神社を被告としない。なお、靖国神社側は「いったん神様になられた方は取り下げられない」としている。
☆ 江沢民国家主席は01年7月10日、中国を訪問した自民、公明、保守の与党3幹事長らと会談し、日中関係について「中国人民が抗日戦争や日本軍国主義で受けた傷は大きい」「歴史問題はきちんと対応しなければならない。火をつけると直ちに大きな波風を起こす可能性がある」と述べ、間接的な表現ではあるが、小泉首相の靖国神社公式参拝や歴史教科書など歴史認識をめぐる問題に懸念を示したが、日中関係について「1998年の日中共同宣言(1998年11月26日、来日中の江沢民国家主席と小淵恵三首相が21世紀に向けての新しい枠組みとして発表した日中共同文書。正式には「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する共同宣言」)に沿って問題解決に当たり、新しい関係をつくっていきたい」と指摘した。
また、唐家セン(王へんに旋)外相は、「問題はA級戦犯 だ。A級戦犯は戦争責任を負っており、A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国に一国の指導者がお参りするのは受け入れられない。一国の首相の行動は国家意思の表明だ」と、85年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝で日中関係が悪化した例を挙げて反対を表明し、小泉首相の慎重な行動を求めた。
これに対して日本側は「我が国政府の歴史認識は、98年の日中共同宣言に示されている通りだ」と強調。首相の靖国参拝は戦争を肯定するのではなく、慰霊のためと理解を求めた。さらに自民党の山崎拓幹事長、保守党の野田毅幹事長はA級戦犯 を靖国から分祀する必要性に言及し、公明党の冬柴鉄三幹事長は「根本的な解決は国立墓地設立ではないか」と語った。
帰国した与党3幹事長からこうした報告を受けた小泉首相は01年7月11日夜、首相の靖国神社参拝について「熟慮してみる」と答えた⇒政府答弁書(靖国参拝)
2.靖国神社法案
1969年に発表された自民党の法案で、現在の靖国神社から宗教性を除外し、内閣総理大臣の監督下に置き、その儀式行事などの業務に必要な経費の一部を国費で負担するという趣旨で、いわゆる国家護持を目指したもの。自民党と野党、神社神道側と諸宗教側との論争から国民的議論になった。1974年の衆議院で強行採決されたが、参議院で廃案となった。
なお同法案は、議員立法として1969年から5回にわたり国会に提出され、審議未了−廃案が繰り返された。
靖国神社法案が廃案になった後、自民党は公式参拝へと戦術を転換した。歴代首相の靖国神社参拝という既成事実に作り上げ、これを国家行事として確立しようとする政策の一環として行われた行為を公式参拝という。1975年の終戦記念日に三木首相が「私的に」参拝して以来、福田、大平首相(いずれも当時)らに引き継がれていった。1978年当時の政府見解は、閣僚も憲法上信教の自由が保障され、「玉ぐし料などを公費で支出しない限り、私人の立場での行動」とした。
しかし1980年には、公式参拝は政教分離との関連から「違憲の疑いを否定できない」とした。
その後1985年に公式参拝の政府見解が変更され、「宗教色を薄めれば合憲」とし、当時の中曽根首相が初の公式参拝に踏み切ったが、同神社がA級戦犯を合祀(ごうし)していることから、中国などアジア諸国が強く反発、以後、公式参拝は見送られた。1996年7月29日にと当時の橋本首相が、靖国神社を参拝したが、これに中国が激しく非難した。これに対して政府は、橋本首相の参拝について神式で行われたことなどから「私的参拝」と解釈しているが、首相自身は「公私を問うこと自体、ナンセンス」と語った。
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1955(昭和30)年11月17日に出された靖国神社公式参拝に関する政府統一見解(違憲) 「政府としては、従来から、内閣総理大臣その他の国務大臣が国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている。右の問題があるということの意味は、このような参拝が合憲か違憲かということについては、いろいろな考え方があり、政府としては違憲とも合憲とも断定していないが、このような参拝が違憲ではないかとの疑いをなお否定できないということである。そこで政府としては従来から事柄の性質上慎重な立場をとり、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである。」 1980(昭和55)年11月17日付(宮沢喜一官房長官)政府(鈴木内閣)見解(違憲) 「政府は首相その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫している。違憲とも合憲とも断定していないが、違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。そこで政府は、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである。」 1985(昭和60)年8月14日、(中曽根内閣)藤波孝生官房長官談話(合憲) 「8月15日は『戦没者を追悼し平和を祈念する日』であり、戦後40年に当たる記念すべき日。この日、中曽根総理大臣は、首相としての資格で靖国神社を参拝する。その目的は、あくまでも祖国や同胞を守るために貴い一命をささげられた戦没者の追悼を行うことにある」「憲法のいわゆる政教分離原則の規定との関係が問題とされるが、(その)関係は強く留意しており、公式参拝が宗教的意義を持たないものであることを参拝方式などで客観的に明らかにする」「(かしわ手を打たず、玉ぐし料でなく、供花料を公費から支出するなどの)今回の方法であれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断した。過去においてアジアの国々を中心とする多数の人々に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返さないとの反省と決意に立つ姿勢にはいささかの変化もない」「80年11月の政府の統一見解について、慎重に検討した結果、今回のような方式ならば公式参拝を行っても社会通念上、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断。その限りにおいて、従来の政府統一見解を変更する」。 1986(昭和61)年8月14日、(中曽根内閣)後藤田正晴官房長官談話(参拝中止) 「昨年8月15日に内閣総理大臣は公式参拝を行った。これは国民や遺族の長年にわたる強い要望にこたえて実施したものであり、その目的はあくまで祖国や同胞等のために犠牲となった戦没者一般を追悼することであった。しかし、靖国神社がA級戦犯を合祀していることもあり、過去における我が国の行為で多大の苦痛と損害を蒙(こうむ)った近隣諸国の国民の間にA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生生み、わが国の戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生む恐れがある」「我が国が平和国家として国際社会の平和と繁栄のためにいよいよ重い責務を担うべき立場にあることを考えれば、国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」「政府としては、これら諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討、公式参拝は差し控えることとした。(しかし)今回の措置は公式参拝自体を否定ないし廃止するものではない」。 1986(昭和61)年8月15日、胡耀邦中国共産党総書記宛て、靖国神社公式参拝の取り止めに関する『中曽根康弘書簡』 2001(平成13)年5月14日の衆院予算委員会での小泉純一郎首相の答弁 「戦没者にお参りすることが宗教的活動と言われればそれまでだが、靖国神社に参拝することが憲法違反だとは思わない」「宗教的活動であるからいいとか悪いとかいうことではない。A級戦犯がまつられているからいけない、ともとらない。私は戦没者に心からの敬意と感謝をささげるために参拝する。」 2001(平成13)年6月15日、【政府答弁書】(小泉内閣) 「公式参拝として行うか否かについては、我が国国民や遺族の思い、近隣諸国の国民感情など諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した上で判断すべきだ」。 |
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【85年8月、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書】(中曽根内閣) 「津地鎮祭事件に関する最高裁判決によると、憲法20条3項の「宗教的活動」に関して、禁止されない国及びその機関による宗教的活動または宗教上の行為が存在しうることは明らか」「祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者の追悼を行うことは、祖国や世界の平和を祈念し、また、肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教・宗派、国家の別などを超えた人間的な情感ある。このような追悼を、国民の要望に即し、国及びその機関が国民を代表する立場で行うことも、当然であり」「一般に戦没者に対する追悼それ自体は、必ずしも宗教的意義を持つものとは言えないであろうし、例えば、国家、社会のために功績のあった者について、その者の遺族、関係者が行う特定の宗教上の方式による葬儀・法要等に、内閣総理大臣等閣僚が公的な資格において参列しても、社会通念上別段問題とされていない」「公式参拝する場合には、社会通念に照らし、追悼の行為としてふさわしいものであって、宗教との過度の癒着をもたらして政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきだ」「A級戦犯とされた人々が合祀されていることなどには問題が残る」
「政府は、以上の懇談会の意見を検討の上、閣僚の靖国神社公式参拝について適切な措置を取られたい」 |
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2000年8月15日(終戦記念日)⇒第2次森内閣の閣僚では、保岡興治法相、大島理森文相、平沼赳夫通産相、森田一運輸相、平林鴻三郵政相、虎島和夫防衛庁長官、相沢英之金融再生委員長、谷洋一農相、津島雄二厚相の9人が参拝。森総理は、を見送った。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(村上正邦会長代行)は15日午前、衆院53人、参院25人の計78人で参拝した。 1999年8月15日(終戦記念日)⇒小渕内閣の閣僚では、宮下創平厚相、中川昭一農相、川崎二郎運輸相、野田聖子郵政相、甘利明労相、真鍋賢二環境庁長官、柳沢伯夫金融問題担当相の8人が参拝(関谷勝嗣建設相が終戦記念日前に参拝)。また太田誠一総務庁長官が「公人」の立場で参拝したことを明言(3閣僚が「私人」とし、4閣僚は「公人」「私人」の別を明確にしなかった)。小渕首相は参拝を見送った。
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4.護国神社
その地方の出身者で、国家のために殉死した人の霊を祀る神社で1939(昭和14)年各地方の招魂社を改称したもの。靖国神社と護国神社との間に組織的つながりはないが、「護国神社の祭神は靖国神社の祭神とす」という護国神社に関する規定、及び両方に祀られている戦没者が多いことから、事実上護国神社は、靖国神社の道府県の分祠(ぶんし=本社と同じ祭神を他所の新しい神社にまつること)である。現在46道府県に52社ある(北海道と岐阜県に3社、兵庫県と島根県に2社、其の他の府県に1社。東京都にないのは靖国神社が其の役割を担っているためである)。
皇室と国家を中心とする神道(しんとう)をいうである。明治維新期に国家権力の保護により、神社神道と皇室神道が結合して成立した神道。幕末の復古神道、特に平田派国学者の思想を背景に、かつ天皇制イデオロギー・国家主義思想を理念としている。すなわち維新政府は、成立直後の1868(慶応4)年3月、「諸事御一新・祭政一致」を打ち出し、神仏分離令を公布して廃仏毀釈を推し進める。翌69(明治2)年7月には官制改革で神祇官(しんぎかん)を設けて太政官(だじょうかん)の上においた。神祇官は皇室の祭祀をつかさどるとともに、全国の神社・神官を支配下におき、のちに官幣社(かんぺいしゃ)・国幣社(こくへいしゃ)・府藩県社・町村社・郷社の社格を定めた。
こうして神道の国教化を目指した明治政府は1970(明治3)年1月3日に、大教(たいきょう=神仏習合を排除から仏教・儒教と区別するために用いられた神道を意味する用語)宣布(せんぷ)の詔(しょう=臨時の大事に発せられる天皇の命令。みことのり)を発布するともに、神産(巣)日神(かみむすひのかみ)・高御産(巣)日神(たかみむすひのかみ)・玉積産(巣)日神(たまつめむすひのかみ)・生産(巣)日神(いくむすひのかみ)・足産(巣)日神(たるむすひのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・御食津神(みけつかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)などの八神(はっしん)や天神地祇(てんじんちぎ=天の神と地の神。高天原{たかまのはら}に生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国{あしはらのなかつくに}に誕生した神を地祇とする=大辞林)及び歴代皇霊を宮中(皇居の中)の三座の神殿に祀り、天皇崇拝を国家神道の核とすることを示す。
神道を国教とする政策そのものは、近代化政策の推進や文明開化の気運が高まり成功しなかったが、その後、天皇家の始祖(皇祖)である天照大神を祭る伊勢神宮を頂点とする国家神道が形成された。すなわち明治政府が、神社を国家の祭祀(さいし=祭典・まつり)としたため、国家神道だけが他の宗教を超えた特権的地位を持ち、超宗教的なものとなり(「神道は宗教にあらず」)、それは第2次大戦終了まで続いた。
その結果、同じ神道でも、天理教・金光教・黒住教などの13の宗派は、教派神道として認可を受けることとなった。また霊友会・成長の家をはじめとするその他の宗派は、国策に同調するように教義を変更したため宗派として認められたが、そうした国の政策に同調しなかった大本教(1935年弟2次弾弾圧=不敬罪で幹部逮捕 {注1})、天理本道、ひとのみち(1935年に不敬罪容疑で結社禁止{注2})・創価教育学会(1930{昭和5}年に創価教育学会を創設した牧口常次郎初代会長は獄死{注3}、46年1月獄中から解放された2代会長の戸田城聖は創価教育学会を創価学会と改称して再建)などの宗派は、内務省により解散を命じられ、幹部は治安維持法違反等で投獄された。
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{注1} 大本教事件(神道系宗教の大本教に対する二度の弾圧事件) 大本教は1892(明治25)年、“出口(でぐち)なお”によって開教された新教宗教であるが、大正時代にはいり、理論的指導者の)出口王仁三郎(おにさぶろう=なおの娘婿)を中心とした「世直し論」を背景に、特に第1次大戦後に生活難にあえぐ民衆の間に信者を拡大していった。当然、現実の社会を批判する思想がその根底にあり、必然的に天皇制思想と相いれない要素を持っていた。勢力拡大に脅威を感じた国は1921(大正10)年2月、幹部が不敬罪、新聞紙法違反等で検挙するばかりか、神殿を破壊した。 後、大正天皇の崩御による大赦により免訴となるが、昭和期に入り、不況による社会不安の増大と相まってさらに勢力を拡大していった。同時に、右翼勢力ともつながりを深め、33(昭和8)年には、以前に一時的に使用していた「皇道大本」という名称に復帰した。35年12月8日、再び治安維持法違反、不敬罪による弾圧を受け(信徒3,000余人が検挙され、拷問などで16人が死亡)、関係団体の結社が禁止され、裁判進行中(控訴審・大審院の判決は治安維持法違反は無罪、不敬罪だけが有罪)に、京都府綾部と亀岡にあった教団本部施設の大半がダイナマイトで爆破され廃墟と化した。その上、教団所有の土地は教団幹部が逮捕拘留中に警察によって売り飛ばされた(なお、徹底した大本教と結ぶ革新派軍人のクーデターを警戒する「予防措置」でもあったともいわれている)。 その後、教団はいったん解散したが、46(昭和21)年に王仁三郎を苑主に迎え、愛善苑の名で再出発、現在は大本と称している。 鳥取県吉岡温泉での王仁三郎による談話(1945年12月30日付『大阪朝日新聞』) 「自分は支那事変前から第2次世界大戦の終わるまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国4,000にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。 ……自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのために弾圧をうけた。 ……これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。 ……日本敗戦の苦しみはこれからで、年ごとに困難が加わり、寅年の昭和25年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある」 |
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{注2} ひとのみち(教団)事件(1936年9月28日) 1924(大正14)年に、御木徳一(みき・とくはる)が長男徳近(とくちか)とともに設立した「人道徳光教(じんどうとくみつきょう)」がその前身。1931(昭和6)年に教団名を「ひとのみち教団」と改称した。1936(昭和11)年9月28日に徳一が刑事事件(信者の少女暴行事件容疑)で大阪府警察部特高課に検挙され、さらに翌年4月28日(当時、全国の信徒100万人といわれた)ひとのみち教団自体が不敬罪(「天照大神は太陽である」であるということが)で結社禁止処分となり、教団は解散、徳一は投獄された。1946(昭和21)年、徳近が、ひとのみちの教義をもとに神道色を排除して組織を再編してPL教団を創立する。戦前の弾圧経験から靖国神社国営化に反対している。 |
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{注3} 1943年8月、仏教系新興宗教の創価教育学会、「天皇神格」否定、「神宮冒涜」を理由に弾圧される。創唱者で1944(昭和19)年に不敬罪と治安維持法違反で拘留中に獄死した牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう〈1871-1944〉= 教育家・宗教家。新潟県生まれ。小学校教師になり、「人生地理学」を刊行。「創価教育」を唱え、戸田城聖とともに創価学会の前身である創価教育学会を創設し、「信念の闘士」といわれた)は、取調べにその信仰に基づく信念を以下のように述べている。死をかけて自己の思想信条の自由を貫いた勇気ある行動の例の一つである。 「国家が隣組其他夫々(それぞれ)の機関或は機会に於て国民金体に奉斎せよと勧(すす)めております処の伊勢大廟(たいびょう)から出される天照皇太神(てんしょうこうだいじん)大麻(たいま=伊勢神宮で頒布される神符)を始め明治神宮、靖国神社、香取鹿島(かとりかしま)神宮等其他各地の神宮・神社の神札(しんさつ=神社が発行する護符の一種。神霊やその力を象徴する図像を木や紙などに記したもの。神棚に奉安したり、門・戸口・柱に貼ったりして、無病息災・家内安全などを祈願する=大辞林)、守札(まもりふだ)やそれ等を祭る神棚及び日蓮正宗(せいしゅう)の御本尊以外のものを祭った仏壇や屋敷内に祭ってある例えば荒神(こうじん=民俗信仰の神の一。竈神(かまどがみ)として祀(まつ)られる三宝(さんぽう)荒神、屋外に屋敷神・同族神・部落神として祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別される=大辞林)様とか稲荷(いなり=五穀をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)をまつった神社。稲荷神社。また、総本社の伏見稲荷のこと=大辞林)様、不動様と言う祠(ほこら=神をまつった小さいやしろ)等一切のものを取払い、焼却破棄しています。(中略)勿論(もちろん)之等(これら)の神宮神社仏寺等へ祈願の為参拝することも謗法(ぼうほう=仏の教えをそしり、真理をおろそかにすること。仏教で、最も重い罪とされた)でありますから、参拝しない様に、謗法の罰は重いから、それを犯さないように指導して居るのであります」と。 |
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1935(昭和10)年から39(昭和14)年にかけて不敬(神社不参拝・神棚不祀・宮城遙拝拒否・その他)事件(大本教と天理教系4派は、治安維持法違反ならびに不敬事件・結社禁止)で検挙・起訴された新興宗教とその数 「大本教」(皇道大本教団、起訴61名) 「ひとのみち教」(起訴7名) 「天津教」(検挙15名、起訴1名) 「天理本道」(検挙374名、起訴237名) 「天理神之口明場所」(検挙14名、起訴6名) 「天理三輪講」(検挙13名、起訴9名) 「三理三腹元」(検挙18名、起訴10名) 「宗教団体法」第16条(39年3月成立・40年4月施行) 「宗教団体または教師のおこなう宗教の教義の宣布もしくは儀式の執行または宗教上の行事が安寧秩序を妨げ、または臣民たるの義務に背くときは主務大臣〔文部大臣〕はこれを制限しもしくは禁止し、教師の業務を停止しまたは宗教団体の設立の認可を取り消すことを得」 司法省の執務資料 「法律の定むる各種の規定に拠るべきことはもちろんであるがその根本理念はあくまでも民族的信念たる皇道精神に基礎を求めねばならぬと確信する。右の皇道精神とは国家皇室を中心とする臣民道を指すのであって、これと相容れない宗教は必ずや皇国において発展することは出来ないであろう」 |
もとより他の宗教、例えばキリスト教も国家神道に屈服を余儀なくされた{注}⇒明治学院の戦争責任・戦後責任の告白
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{注} 1940(昭和15)年9月2日、34NO教団が参加した日本基督教団を結成、「基督教各派連合会議に於ける申合せ」が成立している。 この「申合せ」は、「我等基督者は来る10月17日の皇紀2600年奉祝全国基督教大会を期して各派合同の決意を声明し、直に合同期成に対し全権を委ねられたる準備委員会を設置す」というものであったが、同年10月17日の以下の「皇紀2600年奉祝基督教信徒大会宣言声明(日本聖公会は不参加)」は、日本のキリスト教(プロテスタント各派)が、政府の強硬な権力的統制によって、国家神道に屈伏したことを意味するものであった(大江志乃夫『靖国神社』〈岩波新書〉53〜54頁)。 「神武天皇国を肇(はじ)め給(たま)いしより茲(ここ)に2600年、皇統連綿として弥々(いよいよ=ますます)光を宇内(うだい=天下。世界)に放つ、此の栄(はえ)えある歴史を思うて我等転(うた=ますます)に感激に堪(た)えざるものあり。本日全国にある基督教信徒相会し虔(つつし)んで天皇の万歳を寿(ことほ)ぎ奉(たてまつ)る。思うに現下の世界情勢は極めて波乱多く一刻の偸安(とうあん=目先の安楽をむさぼること)を許さざるものあり。 西に欧州の戦禍あり、東に支那事変ありて未だ其の終結を見ず。此の渦中にありて我国は能く其の進路を誤ることなく、国運国カの進展を見つつあり。是(こ)れ誠に天佑(てんゆう=天のたすけ)の然らしむる所にして一君万民(ばんみん)尊厳(そんげん=尊くおごそかで侵しがたいこと)無比(むひ=比べるものがないこと)なる我国体に基くものと信じて凝わず。今や此の世界の変局に処し国家は体制を新にし、大東亜新秩序の建設に邁進(まいしん)ししつあり、我等基督信徒も又之に即応し、教会教派の別を捨て合同一致以て国民精神指導の大業(たいぎょう)に参加し、進んで大政(たいせい)を翼賛し奉り尽忠(じんちゅう=忠義をつくすこと)報国(ほうこく=国恩にむくいるために働くこと)の誠を致さんとす。 |
敗戦後GHQの指示(「政府による神道(国家神道、神社神道)の保護、支援、保全、監督、及び弘布の廃止関する総司令部覚書」)により解体され、神道は一宗教として国家権力から離れ再出発した。
そもそも神道とは、外来信仰である仏教に対して形成された概念である。もともとは日本民族固有の伝統的な宗教的実践と、それを支えている生活態度から発生したもので、その後、祖先神・氏神・国祖神の崇拝を中心として形成され、大和朝廷によって国家的祭祀として制度化された。その後、仏教や儒教の影響を受けながら、両部神道・伊勢神道・吉田神道・垂加神道・復古神道など多くの神道理論が生まれている。
なお日本の宗教は、大きく分けて、
国家神道系(伊勢神宮⇒46年神社本庁と本庁に属さない神社に分かれる)
教派神道(出雲大社教・天理教・金光教・黒住教・御岳教・神道修正派・大成教・扶養教等)
仏教系(日蓮正宗系・日蓮宗系・天台宗系等)
に分類される。
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(「津地鎮祭違憲訴訟」最高裁大法廷判決(77年7月13日)での裁判官藤林益三、同吉田豊、同団藤重光、同服部顯、同環昌一の反対意見) 1868(明治元)年、新政府は、祭政一致を布し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令をもって神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に対しては、幕府の方針をほとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。 1870(明治3)年、大教宣布の詔によって神ながらの道が宣布され、1872(明治5)年、教部省は、教導職に対し3条の教則(「第1条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事 第2条 天理人道ヲ明ニスヘキ事 第3条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。 また、1871(明治4)年、政府は、神社は国家の宗祀であり1人一家の私有にすべきでないとし(太政官布告第234号)、更に、「官社以下定額及神官職員規則等」(太政官布告第235号)により、伊勢神宮を別として、神社を官社(官幣社、国幣社)、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。 1875(明治8)年、政府は、神仏各宗合同の布教を差し止め各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容認する旨を口達しながら、1882(明治15)年、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとする旨の達(内務省達乙第7号、丁第1号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることによって宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する国家神道の体制を固めた。 1889(明治22)年、旧憲法が発布され、その28条は信教の自由を保障していたものの、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴っていたばかりでなく、法制上は国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、上述のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立しており、神社を崇奉敬戴すべきは国民の義務であるとされていたために、極めて不完全なものであることを免れなかった。更に、1906(明治39)年法律第24号「官国幣社経費ニ関スル法律」により、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また、同年勅令第96号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国又は地方公共団体と財政的にも完全に結びつくに至った。 このようにして、1945(昭和20)年の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、厳しい取締・禁圧を受け、各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかつた。そして、神社参拝等が事実上強制され、旧憲法で保障された信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基盤ともなっていた。 そこで、1945(昭和20)年12月15日、連合国最高司令官総司令部は、日本政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発し、これにより、国家と神社神道との完全な分離が命ぜられ、神社神道は一宗教として他の一切の宗教と同じ法的基礎のうえに立つこと、そのために、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離すること、神道に対する国家、官公吏の特別な保護監督の停止、神道及び神社に対する公けの財政援助の停止、神棚その他国家神道の物的象徴となるものの公的施設における設置の禁止及び撤去等の具体的措置が明示された。 |
そもそも戦争犯罪者の意味は、第2次世界大戦までは戦時国際法違反者を指したが、戦後は勝戦国である連合軍の告発によって侵略戦争の遂行者が対象になった。具体的にはA級が侵略戦争の計画・実行者の平和・人道に対する罪、B級が交戦法規違反、C級が民間人の大量殺りくなど人道に対する罪である。A級戦犯は戦時中の政府・軍部首脳が対象となり、東京とニュルンベルクで国際軍事裁判(A級戦犯裁判)が開かれ、B・C級戦犯は日本のほか、連合国各国の軍事裁判で裁かれた。
A級戦犯は軍人、文官合計25人(起訴は28人)で、その内絞首刑7人(東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将,土井原(どいはら)賢二陸軍大将,松井石根(いわね)陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅(こうき)元首相=1948年12月23日に絞首刑)・終身禁固16人・禁固20年 1人・禁固7年1人であった。なお,A級戦犯で絞首刑になった7人をはじめ14人は、1978(昭和53)年10月 から靖国神社に“昭和受難者”として合祀(ごうし)された。
A級戦犯として絞首刑になった7人も、国内法では「刑死」ではない、「公務死」の扱いになっており、1953(昭和26)年年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。
禁固7年とされた重光葵元外相は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宣元蔵相は、池田内閣の法相を務めている。“A級犯罪人”が法務大臣になったのである。
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唐木順三は『自殺論』で、A級戦犯が認(したた)めた辞世などを俎上(そじょう)にのせ、(南京大虐殺の責任者)松井石根と(絞首になった7人中ただ1人の文民)広田弘毅だけが気品ある武士の面影を宿していた」と記述している。以下は松井大将の述懐の一部である。彼はこう言い残して悠然と処刑台へ進んだという。 「南京事件ではお恥ずかしい限り…私は日露戦争に…従軍したが…武士道や人道の点で…全く変っていた。…軍総司令官として泣いて怒った。…ところが皆笑った…私だけでもこういう結果になるのは当時の軍人に反省を与える意味で大変嬉しい」 |
B・C級戦犯は、東京裁判に先がけて太平洋戦争中に日本が占領した各地域で、関係国ごとに開かれた。軍事裁判が行われたのは、マニラ、シンガポール、ラバウル、モロタイ、バタビア、メナド、グアム、サイゴン、北京、上海、香港、横浜などの国内外49ヵ所で、その期間は、1945(昭和20)年10月から1951(昭和26)年4月まで、被告は5,700人(日本人5,379人、台湾人173人、朝鮮人148人)にのぼった。
まず、1945年10月29日にマニラ軍事法廷で、山下奉文(もとゆき)元大将の裁判が始まり、山下被告は、フィリピンにおける日本の残虐行為とマニラ市民への残虐、米軍捕虜への虐待など123項目にわたる罪状を追求され、12月7日に絞首刑の判決が出され、翌1946年2月23日に処刑された。また1945(昭和20)年12月17日には、横浜地裁でBC戦犯裁判が開かれた。
被告とされた5,700人中、死刑が執行されたのも920人(死刑判決は984人==50人減刑、他は病死、自決等)、無期禁固刑のもの475人、有期禁錮刑のもの2,944人、無罪1,018人等であった(有罪者の36%,死刑判決の30%は憲兵である)。
ところで、B・C戦犯の裁判は、A級戦犯と異なり弁護人が欠け、通訳の問題とういう基本的問題を抱えていたほか、平均公判期わずか2日、判決即処刑、時には人定の誤認まであったといわれ、多くの問題を残した。
B・C級戦犯18人が出所したのは、講和条約の発効から6年後の1958(昭和33)年5月30日、靖国神社に「B・C級戦犯」が合祀(ごうし)されたのは、翌51959(昭和34)年のことである(「A級戦犯」の合祀葉は、1978〔昭和53〕年)。
なお、韓国の政府機関「強制動員真相究明委員会」は06年11月12日、日本の植民地支配下で旧日本軍兵士となり、第2次大戦後、連合国側の軍事裁判でBC級戦犯として処罰された朝鮮半島出身の83人を「被害者」と認定、名誉回復を図ると発表したと聯合ニュースが伝えた。同委員会は83人について、強制的に動員された上に日本の捕虜虐待の責任まで負わされ、二重の苦痛を受けたと認定。英国に残る裁判記録の調査で、明白な証拠なしに有罪判決を受けた事例も確認したという。 同委員会によると、BC級戦犯とされた朝鮮半島出身者は148人で、うち23人が死刑となった。戦犯とされた86人の遺族らが調査を求めていた。委員会は今回被害者認定されなかった3人も、今後の調査で認められる可能性があるとしている。なお、韓国政府機関が朝鮮半島出身者の戦犯とされた人の名誉回復を行うのは初めて。
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以下は,C級戦犯として,無実の罪に問われて処刑された木村久夫上等兵(京都大学経済学部卒,シンガポール,チャソギー刑務所にて1946年5月刑死,28歳)が獄中,コンクリートの寝台の上で,偶然入手した川辺元「哲学通論」の余白に書ききつけた1万1千5百余の文章と短歌11首の中心部分。 『私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢30に至らず,かつ,学業半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時,最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には,私のような陰の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時,全く無意味のように見える私の死も,大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。 日本は負けたのである。全世界の憤激と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時,彼らの怒るの全く当然なのである。今私は世界全人頭の気晴らしの一つとして死んで行<のである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。 私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが,全世界から見れば彼らも私も同じく,日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは,一見大きな不合理のように見えるが,かかる不合理は過去において日本人がいやと言うほど他国人に強いて来た事であるから,あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留まった私が不運とするより他,苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが,日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。』 (一部略) 『しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須なる以上,私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情を言うなら,敗戦と判っていながらこの戦いを起した軍部に持って行<より仕方がない。しかしまた,更に考えを致せば,満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。 我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が,今の逆境が,将来の明るい日本のために大きな役割を果たすであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが致しかがない。日本はあらゆる面において,社会的,歴史的,政治的,思想的,人道的の試煉と発達とが足らなかった。万事に我が他より優れたと考えさせた我々の指導者,ただそれらの指導者の存在を許して来た日木国民の頭脳に責任があった。 かつてのごとき,我に都合の悪しきもの,意に添わぬものは凡て悪なりとして,ただ武力をもつて排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて,あらゆるものを正しく認識し,吟味し,価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。 あらゆるものをその根底より再吟味する所に,日本国の再発展の余地がある』 (以下略)。長文が続いた後, 『処刑半時間前欄筆す。 ≪おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかん≫ |
社会に一般的に通用する常識というほどの意味。条理というのにちかい。法あるいは契約の解釈・裁判・調停などのおいて判断の基準となる。社会通念は、固定的観念ではなく、社会の日常生活の中で形成され変化していくものであり、法と日常生活との架橋としての役割をする。
結果発生そのものを不確実に認識する場合に存在する故意。結果発生の可能性を認識している点で、「認識ある過失」も同じであるが、結果発生の可能性を認識しながらその結果発生を認容した場合は未必の故意があるといえ、結果発生の可能性を認識しながらその結果発生を認容しなかった場合は、認識ある過失にすぎないこととなる。刑法上は、故意犯の処罰を原則としており、過失犯を処罰するのは例外的であるが、民法上の不法行為における故意は、権利侵害である行為自体についての認識があれば足りる。また民事上の責任が生ずるには故意と過失の間に差異がないのが原則である。ただ慰謝料の算定額については考慮されることがある。
不服申立ができない高等裁判所の決定・命令に対して認められる制度で、違憲を理由とする最高裁(最高裁が違憲判断の最終裁判所であることを理由とする)にする特別の抗告(違憲上訴の一種−−−民訴 419条ノ2 。抗告−−−命令・決定に対する不服申立) 。
内閣に置かれ法律案、政令案の審査及び立案、条約案の審査、法律問題の意見の陳述、内外及び国際法制の調査・研究などの法制に関する事務を行う。
11.自治省
地方自治・公職選挙などに関する制度の企画・立案・運営の指導に当たるとともに、国と地方公共団体相互間の連絡協調などをはかることを主たる任務とする国の行政機関。
地方公共団体の執行機関または職員による地方自治法242条所定の財務会計上の違法な行為または怠る事実を防止し、地方財務行政の適正な運営を確保するため、住民自治の一環として住民がその防止または是正を裁判所に請求する制度(地方自治法 242条ノ 2)。1948年の地方自治法改正により、アメリカ各州の納税者訴訟にならって創設された。
国または公共団体の作用により生じた損害の賠償で、公法上の損害賠償または行政上の損害賠償である。憲法17条は公権力の行使を内容とするか否にかかわらず公務員の不法行為に基づく国または公共団体の損害賠償責任を明示しているが、この責任を国の不法行為または行政上の不法行為という。これに関する一般法として国家賠償法が制定されている。
地方公共団体、公共組合、営造物法人を総称するものとして用いられてきた概念で、国の下において国から相対的に独立しながら公共目的を遂行する団体である。憲法17条、国家賠償法1条、国有財産法22条等で用いられている。
国の領土の一定の区域とそこに住所を有するすべての者を構成要素として、その区域内で法の認める範囲で支配権をもつ自治団体で地方団体ともいう。地方自治法が認めている地方公共団体には、普通地方公共団体である都道府県、市町村のほか、特別地方公共団体として、特別区(東京都に置かれている行政単位で、その権限は市レベルにある)、地方公共団体の組合、財産区、地方開発事業団がある。
金銭罰の一種で,@秩序罰としての過料(法律上の秩序を維持するため,民事上および一般行政法規上の命令・禁止に違反した者に制裁として科すもの。例民84条,道路運送車両法111条の2),A執行罰としての過料(行政上の義務の履行を強制するために科すもの。例砂防法36条),B懲戒罰としての過料(例裁判官分限法2条,弁理士法18条2項)に大別される。過料は,刑罰としての罰金・科料とは区別され,刑法総則及び刑事訴訟法の適用がない。
刑法の規定する主刑の1つで(刑法9条),罰金とともに財産刑といわれる。1,000円以上10,000円未満(刑法17条)。なお,科料を完納することができない場合は,1日以上30日以下の期間,労役場に留置される(18条2項)。
第2次世界大戦中に、占領地住民に与えた損害に対する償い(戦後賠償)について、日本政府は、1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約と、その後のアジア各国との個別交渉により、東アジアの国々にたいする戦後賠償を行った。だが、それはあくまでも国家間の賠償であり、直接戦争の被害をうけた人々にたいする償いではなかった。当時の日本政府の方針は、直接に被害をうけた人に対する補償ではなく、国家に対して賠償を行うことで、それらの国々で経済成長を促す手段として賠償を考えていたからである。しかし、1989(平成1)年の冷戦体制の崩壊以降、個人補償の要求が韓国やロシア(サハリン)、東南アジア各国で高まり、この補償の問題が新たにクローズアップされ、1994(平成6)年に当時の村山富市内閣は、こうした東南アジアの国々からの補償要求にたいして、10年間に1,000億円を予算計上して、その償いの具体策を考えたが、自民党内部の反対や政権交代で実現しなかった。
つまり、日本政府の戦後補償(賠償)は、国家(国と国との)間で行われたので、個人に対する補償という視点はなかったのである。つまり日本は、今日にいたるまで、十分に行っていない事となる。