八海(やかい)事件
3度目の正直という言葉がある。では7度目は何というのか…
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「現在の司法権、裁判制度、そういうものをおいといていいかどうか、我々は単なる被告たちだけを救うのでなく、日本の文化のこういった病気を、根性の悪さを、官権の横暴と、怠け者と、月給泥棒とを早くやめさせると、被告を苦しめた奴は恩給を取り上げると、場合によっては、司法殺人の未遂者であるとして皆さんの国民裁判にかけるまで行かなければ本当の解決ではないということを申し上げます」(無罪が確定した最高裁判所の前での正木ひろし弁護士の演説の一節)。 |
1951年1月25日午前9時ごろ、山口県熊毛郡麻郷(おごう)村(現・田布施町)字八海で、老夫婦が殺害された。夫は顔、頭、全身をめった斬りにされ、妻は鴨居に吊されるといった凄惨な事件であった。
警察は、首吊りを偽装工作と断定、夫婦殺し事件として捜査を開始、現場検証で、物色の痕跡も見つかり、台所の焼酎の瓶から近くに住む吉岡晃(当時22歳)の指紋が検出されたことから、直ちに重要参考人として指名手配、事件から2日後に逮捕した。
吉岡は犯行を認め、吉岡の衣服から被害者の血痕が検出され、自供により凶器の斧も発見された。吉岡の犯行には疑問の余地はなかった。だが、警察は複数人の犯行とみて吉岡をさらに厳しく追及、吉岡は、警察の見込み捜査を利用して自分の罪を軽くするために、遊び仲間の阿藤周平氏(当時24歳)を主犯にでっち上げ、他に稲田実氏(当時23歳)、松崎孝義氏(当時21歳)、久永隆一氏(当時22歳)の名前を漏らす。
吉岡の自供から4人が逮捕された。身に覚えのない4人は犯行を否認したが、警察は容赦しなかった。戦前からの自白偏重捜査になれきっていた捜査官は1949年1月1日に施行された新刑事訴訟法の精神を理解せず、それまでの捜査手法の強引な取り調べで自白に追い込むこととなる。憲法が禁止する拷問である。
捜査官は、吉岡の供述に合致する自供を引き出すために4人の首筋を線香であぶったり、軍靴を改造したスリッパで殴りつけた。
拷問にたえられず、4人は虚偽の自白に追い込まれる。
公判で4人は、拷問による自白だとして無実を主張、阿藤氏は内妻と自宅で寝ていたとアリバイを主張したが、「家族の証言」として受け入れられず、1952年6月2日、山口地裁は、阿藤氏に死刑判決、吉岡ら4人に無期懲役の判決を下すのであった。
広島刑務所で服役した吉岡以外の4人は控訴(検察側も全員に死刑を求めて控訴)したが、1953年9月18日、広島高裁は、阿藤氏と吉岡に対しては第1審判決の量刑を支持、稲田氏ら3人に対しては無期懲役12年〜15年に減刑した。
阿藤氏は、戦前にあっては東条英機を激しく弾劾するなど戦時下において不屈の思想的抵抗を貫く一方、1944年にはいわゆる「首なし事件」で警察の拷問による殺害事件を告発し権力犯罪に対決、戦後においては、プラカード事件、三鷹事件、菅生(すごう)事件、丸正(まるしょう)事件などの冤罪事件に取り組んでいた戦闘的ヒューマニストの正木ひろし弁護士に救いの手紙だす。
阿藤氏からの手紙を読んだ正木弁護士は冤罪を確信し、妻に対する首吊り工作は1人でも可能だとの前提から1・2審判決の厳しい批判を展開、1955年3月には、『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』(光文社)を出版、これが一大ベストセラーになり、一躍八海事件が全国的に注目されるところとなり、裁判批判が各地、各界で行われる事態に立ち至った。
こうした状況に危機感をもった田中耕太郎最高裁長官は 、裁判批判を“雑音だ” と罵倒、全国の裁判官に対して雑音に耳を傾けるなと訓示、また、一審山口地裁の藤崎ラ裁判長が、“裁判官は弁明せず”の慣例を破って、『八海事件・裁判官の弁明』(一粒社)を出版、混沌とした状況がかもしだされた。
さらに、1956年3月には、正木弁護士の著書を原作として、巨匠の今井正監督がメガホンを取り、独立プロダクション(現代ぷろだくしょんった)が製作した、スターリン体制下のソビエトでの、自白強要・粛正の惨状を告発したアーサー・ケストラーの同名小説からタイトルがとられた映画『真昼の暗黒』(脚本・橋本忍)が公開された。
最高裁で審理中の冤罪に関わる映画製作であったことから、最高裁は製作中止や公開中止の圧力をかけるが、今井監督は最高裁から呼び出しを無視、プロダクションは、憲法が保障する表現の自由を守り抜き、大手配給網から閉め出されたため、独立プロの配給で上映に踏み切り、全国を巡回するうちに空前のヒット作品となり、裁判批判に拍車をかけた。
特に映画のラストシーンで、阿藤氏をモデルにした主人公が、拘置所の鉄格子に掴まり「お母さん。まだ最高裁があるんだ! まだ最高裁があるんだ!」との絶叫は、えん罪を訴えながら死刑判決を受けた被告人が、最後の望みを最高裁に託して叫んだ言葉であったが、たちまち全国を席巻、流行語になり、映画『真昼の暗黒』は、「キネマ旬報」日本映画監督賞、ベストテン第1位、「毎日映画コンクール」日本映画賞、脚本賞、監督賞、音楽賞、「ブルーリボン賞」作品賞、脚本賞、監督賞、音楽賞、ベストテン第1位と、1956年の映画賞を総なめにするところとなる。
映画公開の翌年1957年10月15日、最高裁は広島高裁の全員有罪の判決を破棄し、高裁に差戻す判決を下した。冤罪の可能性が高いことを意味したのである。
1959年9月23日、差戻審の広島高裁は、吉岡の単独犯行と認め、阿藤氏を始めとする4人全員に無罪の判決を行った。裁判批判の大切さを実感できたひとときであった。
逮捕から8年8ヶ月ぶりに4人は牢獄から解き放たれ、阿藤氏は『真昼の暗黒』に感動した女性と結婚する。
だが、冤罪がここで晴れたわけではなかった。官僚の無謬性から絶対に過ちを認めない検察は、上告するが、あろうことか最高裁は1962年5月19日、差戻審の無罪判決を破棄し、再び差戻しの判決を下した。このときの最高裁は、かつての最高裁の判断を逆転させる5人の共犯説を採用したわけである。それはつまり、同じ最高裁が、死刑と無罪の天国と地獄の落差のある判決を行ったことを意味した。
1965年8月30日広島高裁での第2次差戻審は、阿藤氏に対して死刑判決を、他の3人に対しても1953年9月の最初の控訴審判決同様の懲役12年〜15年を下した。死刑から、無罪へ。そして無罪から死刑へと判決は変転、阿藤氏らは奈落の底に落とされた。
良心の呵責に耐え切れなくなった吉岡は、広島刑務所から最高裁に「私の単独犯行です」という上申書を17通も提出したが、これは刑務所によって握りつぶされた。
1968年10月25日、実に3度目の最高裁第2小法廷は裁判官5人全員一致で、4人に無罪判決が下され、ここに吉岡単独犯行が確定、阿藤氏ら4人は、いわれなき逮捕されてから17年9ヶ月の時の経過を経て青天白日の身となる。
八海事件は、山口地裁(阿藤氏死刑の5人共犯説)→広島高裁(阿藤氏死刑の5人共犯説)→最高裁(破棄差し戻し。吉岡単独犯行説。阿藤氏ら4人冤罪) →再戻し審広島高裁(吉岡単独犯行説。阿藤氏ら4人冤罪) →最高裁(破棄差し戻し。阿藤氏死刑の5人共犯説)→第2次再戻し審広島高裁(阿藤氏死刑の5人共犯説)→最高裁(吉岡単独犯行説。阿藤氏ら4人無罪判決)という、事実上一つの事件で7回も裁判が繰り返され、事実上死刑4回。無実3回といった世界的にも珍しい混迷した裁判となり、裁判そのものに対する不信を醸し出すこととなった(最高裁判所に3度もいったことから「エレベーター裁判」ともいわれた)。
そして、その後も冤罪事件が続出することになる。反省がないことからくる一定の結末である。
1968年阿藤周平氏は朝日新聞社から『八海事件獄中日記』を出版、現在大阪市此花区に在住している。最高裁無罪判決から3年後の1971年9月、吉岡が事件以来20年8ヶ月ぶりに広島刑務所を仮出所し、阿藤氏ら4人に謝罪した後、広島県呉市の鉄工所で工員として働き出したが、1977年7月11日、35冊の告発ノートを残して胆のう炎で49歳の生涯を終えた。
1975年、正木ひろし弁護士が79歳で他界した。
広島拘置所にいた阿藤氏は、次のような気持ちでこの日を迎えた。
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「八海判決、ついに来た。 この日を私は万感をこめて待った。 苦しい日々であった。 苦しい日々であった。 昨夜は、なかなか眠れなかった。 うとうとしたと思うと目がさめ、まんじりとしない一夜、朝、暗いうちから目はぱっちり開いた。 無罪を受ける日、絶対!無罪を信ずる。何だか胸がしめつけられる思い。 無罪。青天白日後のことを、あれこれと心に描く、この胸は高なる。 血わく。 私は信じて判決を待つ、無罪を確信する。 (午前10頃記) 私は最高裁の大法廷を瞼に描いてみる。 まるで手にとるようにして、大法廷のもようがわかるようだ。 午前10時30分、奥野裁判長より、おごそかに絶対的判決が言渡される。 奥野裁判長は、りんとした声で無罪を宣告されると確信する。 いま午前10時をすぎた頃であろうか。 女房が則生の手をひいて大法廷に入る姿を描いてみる。 まき子よ、まき子の心の中に私がいる。 青天白日 無罪判決の報を待つ。 刻一刻と判決言い渡しの時刻が迫まるにつれ、緊張は続く。 はりつめた心、無罪を確信する心、何とこうまで、私の心をとらえてはなさないのであろう。 18年間血を吐き出すような真実の訴えが、今日後数分後に報いられようとしている。 天にものぼる気持である。神よ、正義をたれ給え。」 (阿藤さんの手記・・・佐々木静子著『もえる日日』から) |