自由民権派の憲法草案(私擬憲法)
明治政府の憲法制定の方針に対し、国会開設と憲法制定を求め、自由民権運動を進めてきたいわゆ民権派は、憲法私案(私擬〔しぎ=個人が私的に考えること。私草とも〕憲法という)をつくって政府案を牽(けん)制(作戦上、敵を自分の望む方にひきとめたり引きつけたりすること)した。その主なものが以下である。
なお、明治10年代にはこうした憲法が60種以上あったといわれ、そのうち植木枝盛の「東洋大日本国国憲法」が202条、西周案が173条、嚶鳴(おうめい)社が108条、頭山満・箱田六輔らが結成した英国モデルの議院内閣制型の筑前共愛会案が138条、京都府民有志案が107条、五日市憲法は204条で構成されており、大日本帝国憲法76条や日本国憲法103条をはるかにしのいでいた。
主な私擬憲法草案
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名 称 |
作 成 者 |
年 |
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自由党系 |
日本憲法見込案 東洋大日本国国憲按(こくけんあん) |
1881(明治14) 1881(明治14) |
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改進党系 |
私擬(しぎ)憲法意見 私擬(しぎ)憲法案 |
1880(明治13) 1881(明治14) |
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帝政党系 |
国憲意見 |
東京日々新聞 |
1881(明治14) |
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官僚系 |
憲法私案 憲法私案 憲法草案 |
1882(明治15) 1882(明治15) 1882(明治15) |
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民権派系 |
五日市憲法草案(日本帝国憲法草案) |
1880(明治13) |

日本憲法見込案(立志社)
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五日市憲法草案(日本帝国憲法草案)
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深沢家 |
土蔵 |
碑 |
明治100年にあたる1968(昭和43)年8月27日、20代から40代までの多摩地方の平民(農民)たちの学習会をもとに起草され、外国籍者の人権保障(第49条)まで明記された憲法草案「日本帝国憲法」(全文204条―大日本帝国憲法76条・日本国憲法103条)が、東京・あきる野市(旧五日市町)の旧豪族深沢家の旧宅の朽ちかけた土蔵より発見された(「開かずの蔵」を、長年の交渉の末ついに開けたのである)。草案は、風呂敷に包まれた毛筆書きの和紙24枚で、発見者した色川大吉東京経済大学教授らにより「五日市憲法草案」と名付けられた。
明治藩閥政府(明治維新後の新政府で、薩摩【さつま=鹿児島】・長州【山口】・土佐【高知】・肥前【佐賀】の4藩、特に薩・長2藩の出身者が中心となり閥をつくって行った政治形態で、それに「反発した反政府側からこのように呼称された)に、国会開設と憲法制定を求めた自由民権運動が全国に広まるうねりの中の1881(明治14)年4月から5月ごろに、学習結社「五日市学芸講談会」の仲間たちと討論を重ね、公立小学校教員だった千葉卓三郎が起草したものであると推定されている。
すなわち、1880(明治13)年ごろ、高知の立志社をはじめとする全国の自由民権運動を推進した民権派の各結社(団体の中で、自らの手で憲法を起草しようという動きが燎原(りょうげん)の火(燃えひろがって野原を焼く火。勢いが盛んで防ぎ止められないもののたとえにいう)のごとく全国に広がったが、五日市憲法も優れたその一つなのである。
「日本国民は各自の権利自由を達す可(べ)し、他より妨害す可(べか)らす、且(かつ)国法之を保護す可し」の条文をはじめ、人権に関する規定が多いのが特徴で、地方自治や教育権も明記されていた。
条文は、第1篇国帝(41カ条)、第2篇公法(36カ条)、第3篇立法権(79カ条)、第4篇行政権(13カ条)、第5篇司法権(35カ条)で構成されているが、その中心は人権の尊重で、国民の権利の部分は150カ条もあり、実にそのうちの36カ条が国民の人権規定で埋められている。
例えば、身体、生命、財産、名誉を保固する権利、思想、言論、出版、討論演説の自由、信書の秘密、信教の自由、教授及び学問の自由、奏呈、請願・上書・建白の自由などが挙げられ、念入りに基本的人権を保障しようとしており、特に基本的人権の尊重という視点からいえば、現日本国憲法にきわめて酷似しており、私擬憲法のなかでも特にすぐれたものと評価されている。
特色(体裁上は君主主権を認めながら、運用面で君権と民権と競合した場合、民権を優先する憲法)
1.国民の権利の冒頭には、基本的人権の不可侵性を宣言した上で、それを国の法律でもって保障することによって基本的人権の保障に万全の体制を構築した。
2.国民の権利の保障した基本的人権を行政権力が侵害する場合は、国会は拒否権の発動によってこれを拒否するシステムを確立した。
3.司法権における人権保護に関しては、近代刑法の鉄則である罪刑法定主義の原則を取り入れ、裁判官の専断を抑止することによって、権力を持たない民衆の権利を保護した。
4.裁判権を民衆に保障する陪審制を取り入れた(日本国憲法より優れた1条)。
5.地方自治を独立の規定とした(日本国憲法より優れた1条)。
「五日市憲法草案」のレプリカ(五日市郷土館所蔵)
第45条
日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可(べか)ラス、且国法之ヲ保護ス可シ(自由権)
第47条
凡(およ)ソ日本国民ハ法律ニ掲クル場合ヲ除クノ外之ヲ拿捕(だほ)スルヲ得ス又拿捕スル場合ニ於テハ裁判官自ラ署名シタル文書ヲ以テ其理由ト劾告(がいこく)者ト証人名ヲ被告者ニ告知ス可シ」(罪刑法定主義)
第48条
凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ同一ノ保護ヲ受ク可シ地方及門閥(もんばつ)若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ(平等権)
第76条
子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス然レトモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス(教育権と義務教育)
第77条
府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖トモ 之ヲ侵ス可ラサル者トス
第86条
民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄(かいざん)スルノ権ヲ有ス(国会の天皇に対する優越)
第194条
国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ
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上のいくつかの私案には基本的人権を具体的にしかも幅広く認めるとともに、国民主権主義を明確に規定していたが、中でも最も急進的な案が、以下の植木枝盛の東洋大日本国国憲法按(あん)で、それは人権規定36ヵ条、被疑者の権利などの裁判に関する35ヵ条及び政府への抵抗権(第72条)に現れている。
第1条
日本国ハ日本国憲法ニシタガッテコレヲタテルコトヲ持ス
第5条
日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
第42条
日本人民ハ法律上ニ於テ平等トナス
第49条
日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス
第70条
政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之二従ハザルコトヲ得
第71条
政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得
第72条
政府恣(ほしいまま)ニ国憲二背キ、擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ侵害シ、建国ノ旨趣(ししゅ)ヲ妨タルトキハ…‥新政府ヲ建設スルコトヲ得
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植木枝盛(1857〜1892)

1857 (安政4) 年、土佐(現在の高知市井口町)に生まれる。21歳の若さで立志社に入り、以後独学で自らの自由民権理論を確立、ジャーナリストとして立志社最初の機関誌である「海南新誌」をはじめ、「土陽新聞」「高知新聞」「愛国志林」「愛国新誌」などを編集発行、主筆として論陣を張り、自由民権思想の普及に大きな役割を果たすとともに、板垣退助らとともに国会開設運動・自由党結成に尽力した。
著書に『民権自由論』『天賦人権弁』などがあるが、「海南新誌」の創刊号巻頭で彼が言った「自由は土佐の山間より出づ」という言葉は、土佐の自由民権運動を表す最も代表的な言葉となる。なかでも1879(明治12)年4月に書肆(し)船木彌助から発行された『民権自由論』は、「元来、鳥には羽もあり翼もあれども、今籠(かご)の中に押し込められては、とんと羽も翼も左程(さほど)の用を為しません。人に貴き才あり力もあれども自由がなければ籠の中の鳥同様10分の1の働きもいたしますまい」と身近な例を引きつつ出来るだけ多くに人に理解してもらうため口語体で書かかれており、ここにも植木の民権思想に対する基本姿勢が顕著に現れている。以下は1880(明治13)年7月に愛国舎から発行された『言論自由論』である。

『言論自由論』目次
発端
言論ノ自由ハ天然ニ出ツルヲ論ス
言論ノ自由ノ人生エ闕ク(か)可カヲサルヲ論ス
言辞ハ文字ヨリモ優ル所アルヲ論ス
語辞ノ勢力ヲ論ス
人間必ス言論ノ自由ヲ有ス可キヲ論ス
言論ノ自由ハ国家ニ於テモ亦緊要ナルヲ論ス
其二
其三
其四
其五
或人ノ問ニ答フ
其二
其三
其四
政府民論ヲ処スルノ道ヲ論ス
欧米ノ諸国言論ノ自由ヲ重スルヲ論ス
結論
植木は、1890(明治23)年、第1回衆議院議員に当選するが、1892(明治25)年の第2回総選挙を前に36歳の若さで死去した。
1881(明治14)年に植木の起草した「日本国国憲案」は主権在民の画期的な憲法草案だったが明治政府に葬られ、実に65年後の1946年の日本国憲法において、ようやくその思想が引き継がれることとなったのである。
参考文献;家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫・1998年)
参考サイト;高知市立自由民権記念館
1874(明治7)年に板垣退助(38)が片岡健吉(32)・林有造(ゆうぞう=33)らとともに高知で結成した自由民権運動の中心的政治結社で、天賦(てんぷ)人権を宣言して、「人民の知識の開達・気風の養成・福祉の上進・自由進捗」を目的として掲げ、1875(明治8)年の大阪での愛国社結成を初め、国会期成同盟・自由党の中核となり、1880(明治13)年の国会開設請願運動においては中心的役割を果たし、1983(明治15)年、海南自由党と改称した。
参考サイト;立志社始末記要(同志社大学植木文庫)
山田 顕義(やまだあきよし)
1844年(弘化元)年、現在の山口県萩市の生まれ。14歳で吉田松陰の松下村塾に入門、この折りに高杉晋作、木戸考允、伊藤博文、山縣有朋ら親交、25歳のとき戊辰(ぼしん)戦争で討伐軍の指揮官として活躍、その際、西郷隆盛をして「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」と言わしめたとことは有名である。
1871(明治4)年に岩倉具視を全権大使とする使節団の一員としてフランスを訪問した際に、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信、以後一貫して法律の研究に没頭する。
1883(明治16)年から1891(明治24)年の約9年間にわたり司法大臣として、近代国家の骨格となる明治法典(刑法、刑事・民事訴訟法、民法、商法、裁判所構成法など)の編集に当たり、”近代法の父”と呼ばれるようになった。
肥後熊本の出身で、幼少の頃に井上家の養子となり、官軍兵士として戊辰(ぼしん)戦争に参加、1870(明治3)年に上京して大学南校舎長となり、翌年司法省に入省した。
1872(明治5)年に法律学の研究のためフランス・ドイツに留学、帰国後は大久保利通に認められて日清外交談判の随員をつとめ、その後内閣大書記官や枢密院書記官長等を歴任、同時に大日本帝国憲法・皇室典範などの草案作成に参加、教育勅語・軍人勅諭など多くの勅令・法令の起草に関与した。
また伊藤博文等による国会開設の詔勅策定作業をも助けた。憲法制定後は第2次伊藤内閣の文部大臣なども務め、明治憲法の普及と教育制度の確立に尽力した。
千葉 卓三郎(1852〜1883)
1852(嘉永5)年6月17日、陸前国栗原(くりはら)郡白幡(しらはた)村(宮城県志波姫〔しわひめ〕町)生まれ。父宅之丞は仙台藩の下級武士。卓三郎誕生の直前に世を去り、生母とも幼くして生別した。12歳で仙台藩校養賢堂に蘭学(らんがく)を学んだ後、17歳のときには農兵隊の一員として、戊辰(ぼしん)戦争に参戦するが敗戦、白河(しらかわ)口の抗戦で「賊軍」の汚名を受ける。
以後、新しい生き方を求めて流浪の生活を始め、後年上京し、1880(明治13)年4月下旬、東京・西多摩郡五日市(当時の五日市は、五の日に市が立ち、林業、炭、織物〔黒八〕などの地場産業・河川交通が盛んで、東京との交流も頻繁であった)に下宿、五日市勧能学校(小学校)に訓導として勤め始める。
このとき遭遇した全国的な自由民権運動の波の中で、武蔵(むさし)多摩郡(東京都)深沢村の山林地主の深沢名生(なおまる)・権八(ごんぱち)父子(深沢家は、東京で洋書、新刊書を買い込み、19歳の権八〔1890年神奈川県会議員となるが同年12月24日30歳で死去〕を中心に名主階級や医者などの子息たちが国家を論じていた)と出会い、同じ頃深沢父子とともに五日市の学習結社五日市学芸講談会結成、同時に11月第2回国会期成同盟大会を行い、私擬憲法草案作成を決議し、翌1881(明治14)年に204ヵ条の五日市憲法草案を起草するといった偉業を成し遂げた。
1882(明治15)年に結核に犯され、療養始めるが、翌年11月12日、31歳の若さで死去する。
1829年2月3日生まれ。島根県津和野藩の出身で、父は藩医。通称、経太郎。洋学を志しオランダに留学して幕府崩壊寸前の1865(慶応1)年に帰国、1870(明治3)年に兵部省に入り維新後明治政府に仕え、明治兵制改革を行い、軍人勅諭などの起草にあたった。
また福沢諭吉らと明六社を結成、西洋近代思想の骨格をなす、「分析を通じて総合」という方法によって、新しい知識世界を建設しようとする等、近代思想の紹介に努め、名著「百学連環」で、多くの学術用語の訳した(例えば「science and art」を「学術」と)。その他の著に「百一新論」「致知啓蒙」などがある。

沼間守一(ぬまもりかず)の開いた法律講習会をもとに1878(明治11)年に設立された政治結社で、その機関紙「東京横浜毎日新聞」で自由民権思想・国会開設を主張。
交詢社(こうじゅんしゃ)
1880(明治13)年、福沢諭吉によって慶応義塾関係者を中心に創立された実業家の団体の社交クラブで、「交詢雑誌」などを発行した。
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