「チヤタレイ夫人の恋人」事件

 

表現の自由憲法第21条と猥褻(わいせつ)罪刑法第175条

 

         

小山書店は1950(昭和25)年4月20日にD・H・ロレンス(David Herbert L. 1885〜1930 性の問題を追求して現代文学に新しい領域を開いたイギリスの小説家・詩人)著、伊藤整(いとうせい 1905〜1969 本名整〔ひとし〕 北海道生まれの詩人・小説家・評論家。東京商大〔現一橋大〕中退。詩から小説に転じ、昭和初期に「新心理主義」を唱え「得能物語」などを書くが、戦後は創作と文学理論の統一をめざし文壇で活躍し、大きな影響力を与えた。代表的小説に『鳴海仙吉』『氾濫』がある。なお、伊藤は事件当時東京工業大学の専任講師を兼ねていた)訳の『チヤタレイ夫人の恋人』上・下(日本初の完訳版)を発行した。同書は、第1次世界大戦で負傷し、性的能力を失った夫をもつ貴婦人のコニイと、森の番人のメラーズとの愛を描いた作品で、1928(昭和3)年に発表されると、英国では一部の性描写削除を命じ、フランスでは翌年、無削除で出版されたものであったが、日本で翻訳書が出版されるとたちまちベストセラーとなり、2カ月間の販売部数は上下2巻で15万500部を数えた。

 

これに対して、警視庁は、最高検察庁および国家地方警察との協議の結果、これを、「猥褻物頒布(はんぷ)等」刑法第175条違反の容擬で摘発することを決め、1950(昭和25)年6月26日、最高検は全国の警察に対しこの本の押収を指令、7月8日に発禁処分、9月12日に東京地検が訳者伊藤整と発行者小山書店社長を起訴したため(求刑小山久ニ郎=懲役6カ月;伊藤 整=罰金15万円)、「猥褻か芸術か」が流行語になるほど世間の注目を集め、法廷はさながら文壇対検察の構図といた光景を醸し出した。

 

警視庁の出頭命令

『押収されたチャタレイ夫人の恋人』

 

起訴状(いずれも伊藤整『裁判』上巻(晶文社・1997)より

 

起訴状

左記被告人事件につき公訴を提起する。

「被告人小山久ニ郎は千代田区富士見町2ノ12に所在する株式会社小山書店の社長として出版販売等一切の業務を統轄して居るものであり、被告人伊藤整は英文学者として、著述業に従事し、且、その間、数多の英文学作品の翻訳に当って居るものであるが、右被告人両名は共謀の上、英国文芸作家デイー・エツナ・ロレソス 〔1885〜1930〕の著作にかかる 『チャタレイ夫人の恋人』の原作を被告人伊藤整に於いて翻訳し、これを前記小山書店からロレンス選集の一部として上下2巻に分ち発行販売することを謀り、同著作は優れた社会的環境の下に父祖より善良な素質を享けつぎ教養にも欠くるところなく、平穏なる生活を営んでいるに拘らず、戦傷の結果、性交不能に陥った夫クリフォードを持つその妻コニイが性交の満足を他の異性に求めて不倫なる私通を重ねる物語を叙述せるものでその内容は、例えば、

 

1.『‥‥たまたまクリフォードの許を訪問し、両三日滞在中の反社会的で「下司な」憂鬱にさえ見える痩せた文芸作家マイクリスが発情期の牡犬の如く「牝犬神」の有夫の婦コニイに迫ると、コニイは無反省に且盲目的に野生的な欲情に燃えて、直にこれをうけ容れた私通性交の情景や性交による男女の感応的享楽の遅速等を露骨詳細に繰返し描写し、

例えば、

(1)上巻50頁下段6行以下51頁上段17行迄(2)同89頁上段10行以下90頁下段17行迄

 

2.完全なる男女の結婚愛を享楽し得ざる境遇の下に人妻コニイはマイクリスとの私通によってこれを満たさんと企てたが、本能的な衝動による動物的な性行為によっても自己の欲情を満たす享楽を恣(ほしいまま)にすることが出来ず、反って性欲遂行中の男性に愉悦(ゆえつ=心から愉快に思って喜ぶことの一方的利己的残忍性すらあるを窃(ひそ)かに疑い失望に瀕したとき、自分の家庭で使用する森の番人で教養の度に優れず社会人としても洗練されて居ない寧ろ野生的で粗笨(そほん)な羞恥をわきまえざる有婦の夫メラーズを発見するや、不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間性の尊崇に関し些の反省批判の暇なく、全く動物的な欲情の衝撃に駆られて直に又これと盲目的に野合しその不倫を重ねる中漸次男女結合の性的享楽は性交の際に於ける同時交互の性的感応最高潮の愉悦を得るにありと悟り、人間の憧憬する美は性交の動態とその愉悦を創造する発情の性器なりと迷信し、蔽(よう=ふさぎおおうことも)なく恥もなき性欲の遂行に浸(ひた)り人間の羞恥を性欲の中に殺したる男女性交の姿態と感応享楽の情態とを露骨詳細に描写し、

例えば、

 上巻(1)184頁下段14行以下187頁下段13行迄(2)同201頁上段12行以下203頁上段13行迄(3)213頁下段10行以下216頁迄(4)下巻45頁下段4行以下47真上段3行迄(5)同49頁上段4行以下53頁上段17行迄(6)同104頁上段13行以下109頁下段8行迄(7)同124頁下段16行以下128頁下段3行迄(8)同163頁下段8行以下165頁末行迄(9)同210頁上段18行以下212頁下段10行迄。

 これがため我国現代の一般読者に対し欲情を連想せしめて性欲を刺激し且人間の羞恥と嫌悪の感を催さしめるに足るワイセツの文書である前記『チヤタレイ夫人の恋人』上巻8万500部同下巻7万部を夫々発行の上、昭和25年4月20日頃より同年6月上旬迄の間、前記会社本店に於て、日本出版販売株式会社その他を通じ一般読者多数に販売したものである。

罪名 猥褻文書販売

罪条 刑法第145条

 

としたためた中込呏尚(なかごめのりより)検事の起訴状は、正木旲(ひろし)弁護人をして「難解極まる」と悲鳴をあげさせたほどの悪文であったが、これもまた有名となった。

 

1.検事側の猥褻概念==⇒1918(大正7)年6月10日大審院判決―「猥褻ノ文書図画其ノ他ノ物トハ性欲ヲ刺戟興奮シ、又ハ之ヲ満足セシムヘキ文書図画其ノ他一切ノ物品ヲ指称シ、従ツテ猥褻物タルニハ人ヲシテ羞耽厭悪(えんお=嫌悪)ノ感念ヲ生セシムルモノナルヲ要ス」および1951(昭和26)年5月10日最高裁判所判決―「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するもの」を援用して、「我が国現代の一般読者に対し欲情を連想せしめ、性欲を刺戟し、興奮し且つ人間の羞恥と嫌悪の情を催さしめるもの」とした。

2.弁護側の猥褻概念==⇒「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に訴え、性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ未成年者をして快復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」すなわち「客観的に観察し性器又は性行為を人間の理性又は情操等の高等なる精神機能に訴えて描写又は記述した文書図画を除外し、専ら感覚的官能的な描写又は記述によって興味又は享楽的の効果を期待したと判断される非学術的又は非人道的の図書」とした。

 

3.憲法の出版表現の自由(憲法第21条)と猥褻文書販売罪(刑法第175条)との関係について

検察官の論理(論告)

「検察官は刑法第175条の規定が日本国憲法第21条の集会結社及び言論出版その他一切の表現の自由との関係において両者が矛盾抵触するものに非ざることは公判廷においてしばしば明らかにしておる処でありますが、今茲(ここ)にこれを要約して申述べたいと思います。およそ国の最高法規たる憲法と矛盾抵触するものの効力なきことは、敢えて憲法第98条の規定をまつまでもないところでありますが、すくなくとも現存する刑法第175条がこの種猥褻出版物取締の為の唯一の根拠法規であり、したがって又何が猥褻文責なりやを規定する一般的な規定と解せられるが故に須くすべからく=すべきであることの意)、問題の文書がいうところの猥喪文書なりや否やを判定するには憲法第21条の規定を考察しつつなおかつ、刑法第175条の要件を充すや否やについて検討するのを当然の順序とするのであります。今この関係を検討致しまするに憲法第21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定し、第2項で「検閲は、これをしてはならない」となし、それまでの検閲制度を一切否定しておるのであります。しかもこの種基本的人権に対し憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定し、なおこれに先立ち同法第12条では「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と規定しているのであります。

この規定を通覧致しますのに、この言論出版の自由という国民の権利につきまして積極的義務として国民に対し常に公共の福祉のため利用する責任を課して居り、もしこの責任を果さず公共の福祉に反するが如き行動ある場合即ちこれを濫用する場合においてはこの種の権利も憲法の保障するところでないのは勿論である。これを以て絶対的な権利とするには誤れるも甚しきものといわねばなりません。しからば権利の濫用とは如何。あるいは公共の福祉違反とは何か。即ち社会共同生活の利益に反することをいうのであります。(中略)」

 

新聞論調(1951〔昭和26〕年11月23付『毎日新聞』−「余禄」)

注目されたチャタレイの論告求刑があった。エロ雑誌さえ部分的にはこれほどワイセツなものはないという点、難解で一般読者には性描写のみ印象に残るという点など、論理のつながりに素人には難解なものはあるが、大審院判例、最高裁判所例や大阪高等裁判例などを引いて、刑法上のヮイセツ文責と断じているのである。何をワイセツ文書というかはむずかしい問題だ。昨年死去した英国の進歩的政治家ラスキは 『近代国家における自由』で、「法律さえまだワイセツのシッカリした定義に到達したことを聞かない」と言っている。1929年『チャタレイ夫人の恋人』は英国でも高価な特別限定版として個人的に、しかも内密に頒布されたものであったが、若し一般に売り出されたとしたら明らかに発禁となったであろうと言っている。これは英国の常識であった。しかもラスキは、米国批評家の幾人もが同書を以て男女の性関係に関する真理を追究する小説として今世紀における英国出版界の最良の著述であると賞讃していることを述べ、自分は小説について語る資格を有しないが、と謙遜している。つまりラスキの強調する点は、若し文芸を解しないものが検閲を厳密に実施するならば、世界的名著の多くは発禁を免れないし、聖書も、シェイクスピアも、ラブレーも、プラトンも、ホラチュースも、すべて禁止書目に入ることになることである。こういった名著にも随分キワドイ文句があるし、悉くワイセツ文書として放逐されるとすれば、それはどういう文化的意義をもつかは言うに及ぶまい。末川博氏が『中央公論』で論じているように、文芸に理解がないものが勝手に取締るとすれば、新旧憲法の基本的人権に関する区別がハッキリしなくなる疑問もあるし、とにかくこの自由、この権利は国民不断の努力によってこれを保持しなければならないものである。文化国民としての責任は重いのだ。

 

末川博の『中央公論』上での論調(要旨)

末川はこの論文の冒頭に「何びとも自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、科学的進歩とその恩恵を享受する権利を有している」という世界人権宣言第27条を引用し、芸術を鑑賞し享受する権利、公共の福祉とは「基本的人権を享有し、幸福利益を追求し得る状態において」成立するものであるから、公共の福祉というものは、旧出版法にあるような、「安寧秩序」とか「善良な風俗」と同一のものを指しているのではなく、「国民の基本的人権を妨げたり、その幸福利害を害したりしてはならない」という意味だ、と述べたうえで、「かつては、出版法という法律があって「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画」は「内務大臣ニ於テ」発売頒布を禁じ得ることを認め、またそういう文書、図画を出版したものを罰する旨を定めていた。しかし、このような法律は、右の文書の表現でもわかるように「上から下へ」すなわち支配者が被支配者へ向って内務大臣の行政処分という独善的な態度で臨むことを許した悪法である。だからこそ、新憲法のもとではこの法律は廃止されたのであって、われわれは、今日再びこの法律――そしてその基になっている考え方――の復活を許すことはできない。にもかかわらず、一部では、刑法第175条の猥褻文書に関する処罰規定をもって、この悪法出版法の廃止をカバーし、これに代えることができるように論ずる者がある。実におそるべき暴論だといわねばならない。もしそんな論法をもってするならば「検閲は、これをしてはならない」という憲法の保障(21条2項)などは吹きとんでしまって、国民の基本的人権はたやすく蹂躙されてしまうであろう。そして猥褻ということの認定の如きも、軽々になさるべきではなく、わけても、広く文学書として知られている著書について、その部分的な個所を拾い出して、文学の素養もない者がただ権力的な――それは国民に由来するものであるから、上からの権力的なものであり得ないことは憲法前文の示す通りであるが――地位にあるというだけで独善的に猥褻か否かを断定するようなことがあってはならないのである。」論じた。

 

上巻50頁下段6行以下51頁上段17行迄

戀人としての彼は、興奮してすぐ震える性質の男であつた。彼の喜びはすぐ高まつて、終わりなつた。彼の裸の身體には奇妙な子供じみた頼りなさがあつた。彼が自己防禦(ぼうぎょ)をするのはただ機智と怜悧(れいり=かしこ)さ、怜悧さの本能によるのみであつた。それらが用をなさなくなつた時は彼は身を護るものをニ重に失つて、成熟し切らない軟かな身體をした子供があてもなく身をもがいてゐるやうに見えた。

彼は彼女の中に、はげしい憐れみと愛慕の思ひ、野生的な貪慾な肉體の慾を目体覺ませたが、彼女の肉體の慾を彼は滿足させなかつた。彼は何度も悦びに達してすぐ終わりなるのであつた。そして彼は彼女がぼうつなり、落膽し、失望してゐるとき、彼女の腕の中で萎縮しながら、またいくらか力を恢復するのであつた。

だがやがて、彼女は彼を持ちこたへさせる方法、彼の喜びが過ぎても、彼女の中で彼を持ちこたへさせる方法を見つけた。すると彼は、彼女に勝手にさせながら不思議に持ちこたへた。彼は彼女の中でしつかりとし、彼女にまかせ、その間、彼女の方は積極的‥‥野性的に、熱情的に働きかけて彼女自身の喜びに達した。受身になつて固くしつかりとしてゐる彼の身體によつて、彼女が激情の滿足の極鮎に達して戰いてゐるのが分ると、彼は妙な誇りと満足感を覚えた。

「ああ、何ていいでせう!」と彼女は震え聲で囁(ささや)き、彼に寄り添つて静かになつた。そして彼は一人切り離され、いくらか傲慢な様子でたはつた。

 

上巻89頁上段10行以下90頁下段17行迄

 彼はその妙な、少年のやうなひ弱い裸の身體で、その夜はこれまでになく興奮した戀人になつてゐね。彼がそのスびを為し終へる前にコニイがスびに達することができないことが彼女に分つた。それでゐて彼の少年じみた裸體ともの軟かさは、彼女の中にある渇望するやうな情熱を目覺ませた。彼が終わつてから後、彼女は激しく亂れ、腰部を高くして、續けなければならなかつた。さうして彼女が小さな不思議な叫び聲を出してそのスびに達するまで、彼の方は、意志でもつて役をつとめ、無理に緊張を持續し、彼女の中で萎縮せぬやうに

してゐた。

 たうとう彼女から離れた時、彼は辛辣な、ほとんど嘲(あざけ)るやうな小聲で言つた。

「あなたは男と同時にすることができないんですね。自分で自分のを終わらせなければならないですね。自分だけ好きなやうにしたいのですね。」

 この場合に彼がこんなことをちよつと言つたといふのが、彼女の生涯の大きなショックの一つであつた。と言うのは、受け身になつて相手にまかせるといふのが、明かに彼の唯一の交り方であつたからだ。

「あなたの仰言る意味は? と女が言つた。

「僕の言ふことは分る筈です。僕が終わつてからもあなたはいつまでも續けてゐます。…僕は齒を食ひしばつて、あなたが自分で終りにするなで持ちこたへなけれほならない。」

 彼女は思ひがけない残忍な言葉を聞いて茫然とした。

 彼女の方では言ひ現せない一種のスびと彼への愛情のやうなもので上気してゐるこんな時に。何故ならば、たいていの現代の男性と同様に、彼は始めるや否や忽ち終りになるので、女の方が働きかけねばならないのが自然であつたから。

「でも、あなたは、私が満足するやうに續けさせたいと、望んでいらつしやるのでせう?」と彼女が言つた。

 彼は冷たく笑つた。

「私が望んでゐる! よろしい! すると、あなたが私の為に続けてゐる間、私は歯を食ひしばつて續けることを望んでゐるわけです。」

「でも、望んでいらつしやらないのですか?」と彼女は言ひ張つた。

 彼はその問ひを避けて言つた。

「女といふものは、皆さうなんですよ。そこが死んででもゐるやう、全く感じないか、……でなければ男が終わってしまふのを待つてから、自分のを始める。だから男は持ちこたへなければならない。今まで秋と同時に終わりになる女に逢つたことがありません。」

 この珍しい男性の打明け話も、コニイの耳には半分しか入らなかつた。彼女はただ自分に對する彼の感情、……理解しがたい彼の残忍さに氣を失つたやうになつてゐた。彼女はひどく單純に受けとつてゐた。

「でも、あなたは私に満足させたいとお思ひになつてゐるのではありませんの?」と彼女は繰りかへした。

「それでいいんです。私はさうしてほしいんです。しかし女が終わりなるまで持ちこたへるのが男にとつて何か面白いことででもあるといふ考はどうも…‥‥」

 

裁判は1951(昭和26)年5月に始まったが、作家の代表的団体である文芸家教会や日本ペンクラブは、憲法に保障された表現を擁護するため、評論家の中島健蔵や福田恆存(つねあり)を特別弁護人(簡易裁判所・家庭裁判所または地方裁判所に限って特に裁判所の許可を得て弁護士以外の者の中から選任される弁護人)にたて、作品の芸術性を主張したが、36回にわたる審理の結果1952(昭和27)年1月18日に下された東京地裁の判決内容は、「本書、それ自体としては猥褒文書ではない。しかし、不用意な販売方法により春本と受け取られる結果になった」との理由から訳者の伊藤は無罪、出版した小山社長には25万円の罰金刑としたものであった。

 

弁護側、検察側双方は東京高裁に控訴、1953(昭和27)年12月10日東京高裁は、一審判決を破棄し、作品を猥褻文書として小山に25万円、伊藤に10万円の罰金をそれぞれ言い渡した。

 

弁護側はさらにこれを不服として最高裁に上告、訳者の伊藤整は、最高裁判決を前に「もし、その作品の高い価値を無視して、あらゆる印刷物にワイセツ性を捜し求めるやうな人間に判決させたならば、キンゼイやフロイドやエリスも、シェークスピアも、ボッカチオも、バイブルもワイセツ文書となるであらう」(『中央公論』1956〔昭和31〕年8月号)と述べたが、最高裁は1957(昭和32)年3月13日、ニ審判決を支持して上告を棄却、両名の有罪が確定するところとなる判決文

 

伊藤整最終陳述書(4)から抜粋

「私の理解しているところによれば新憲法のもとに於ては、裁判所が決定するまでは、如何なる被告人も有罪とされる事はない。勿論検事の意見に従って生きる義務もない。しかるに検事は裁判所の決定する以前に、『被告人等は文芸家協会その他の支援を得て毫(すこし)もその態度を改めず』自説を主張したから起訴した、とその論告の中で言っている。改めない事が悪いと言うのである。

検事の考に従ってこの作品の意味を考えないからいけないと言うのである。その時の検事の考えた作品の意味は何かと言えば、起訴状に書かれた所のあの『チャタレイ夫人の恋人』を猥褻的に改ザソした支離めつれつなものである。「毫もその態度を改めず」とはこちらで言うことである。

起訴状の根本的な間違いが何度となく、数カ所にわたって証明されたにかかわらず、検事はこの起訴状を引き下げもせず、またこの起訴状の記事の正しさを争う事もせず、また訂正も行わなかったのである。即ち彼は間違っていながら毫もその態度を改めなかったのである

 

中島健蔵特別弁護人最終弁論(一部)

 申すまでもなく、近代の各国憲法で、基本的人権保障の条項を含まないものはありません。日本の旧憲法においても、第2章、すなわち、第18条以下第32条にいたる条文において、一応、基本的人権に関する規定が定められてありました。これがなければ、憲法の名に値しないからであります。しかし、基本的人権の保障は、旧憲法においては、たとえば第22条中の「法律ノ範囲内ニ於テ」、第25条及び第26条中の「法律ニ定メタル場合ヲ除ク」、外第29条中の「法律ノ範囲内ニ於テ」などに見られるように、制限つきであったのであります。特に本件と関係の深い旧憲法第29条がいかなるものであったかを、念のため、思い起してみましょう。

 第29条、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」

 さて、「法律ノ範囲内」とありますが、関係の法律とは、どのようなものであったか。旧憲法第8条の「緊急勅令」、第14条の「戒厳」、第31条の「非常大権」、第32条の「軍人」に関する条文のほか、新聞紙法、出版法、治安警察法、治安維持法、不穏文書臨時取締法、言論出版集会等臨時取締令がこれでありました。これらの法律は、事実上、旧憲法第29条における基本的人権を、ほとんど全く、国家権力の直接支配下におき、有名無実とするに至ったのであります。これらの廃法は、まさに、血なまぐさい戦争を思い起させ、敗戦前までの言論抑圧の歴史を思い起させます。そうしてこれらの廃法の多くは、国際的に悪名の高いものであって、単に廃法となっているどころか、現在もなお、思い出すのも不愉快な前近代的取締の記憶をわれわれの頭に残しているものであります。

 日本における言論表現の取締は、政治と関係のないような芸術にも及んでいました。一国の文化を代表すべき文学の創作も、俗論的取締のわくによってしめつけられ、それらの取締は、出版法、新聞紙法による行政処分によって、いとも手軽におこなわれて、日本文化の発展に、重大な妨害を与えていたのであります。

 基本的人権は、人間性の専重、すなわち、ヒューマニズムにもとづくものであります。ヒューマニズムとは、単に人間が人間佐を主張するという意味ではありません。人間は、どのような人間であっても人間性をもつ人間にちがいないのです。ところが、フランス大革命における標語となった、自由、平等、博愛も、はじめからすべての人間の手にあったものではないのです。基本的人権は封権的な身分関係、未開社会的なさまざまのタブー、迷信、はじめの目的が失われて単なる偽善となってしまったような道徳的拘束などに対して、長い歴史の間に、人間がみずからを解放し、みずから築き上げた進歩の標識なのであります。ヨーロッパ、アメリカは、いずれも人権宣告公布の光栄ある歴史をもっています。しかもそこに至るまでには、中世封権社会に対するルネサンス時代のヒューマニストの運動以来、長い歴史があります。否、基本的人権確立は、もっと古い歴史にまでさかのぼることができます。

 日本の明治憲法も、一応はその影響を受けて、基本的人権保障の思想をとり入れましたが、現にわれわれの記憶の中に明らかに残っている通り、明治初年の半封建的な啓蒙政府以来の、一般人に対する官憲優越の悪伝統などによって、基本的人権による各個人の自由をできるだけ国家権力の支配下におさめ、道徳や風俗の端々に至るまで、いつでもこれに干渉できるようにしておこうとする傾向が、旧憲法最後の日まで残ったのです。かつての日本人は、裸体を恥じぬ習慣を持っていました。また残念ながら公衆衛生に無関心であるという弱点を持っていました。特に風紀問題に関しては、過去の官憲は、海外先進国に対する体面の維持と、東洋的伝統、特に儒教の影響による形式的倫理主義、仏教の影響による禁欲思想などをよせ集め、おのれを良俗美風の守護役のように考え、権力の発動による禁止を事として民をおびやかして来たのであります。

 検察官は、明治時代における官憲の芸術に対する干渉について、その当時の官憲の気持ちはまじめであったといい、それらの干渉を正当化しょうとして居ます。これは重大な誤りである。基本的人権に対するそれらの行き過ぎた圧迫こそ、日本の文化史上の汚点をなすものであります。

そして、芸術の進展をいちじるしく妨げて来たものであります。文学も、美の創造を目的とすると同時に真実を認識させ、善を明らかにするものであります。俗論による創造や探求の妨害は、人間の心を狭くし、認識の能力を浅くし、かくして、ヒューマニズムへの道を狭くし、結局は、この度の不幸な戦争の一原因を作ることにさえなったのであります。検察官がこれを全く認識せず、第9回公判における神近証人に対する反対訊問中における言説に見られたように、過去におけるのろうべき弾圧を正当化しようとし、あまつさえ敗戦を境とする根本的な変化に対して第1回公判における冒頭陳述以来、論告の中にいたるまで「多少の変化」という程度の認識しか持たず、第19回公判における釈明のように、猥褻の見方についてさえ、「人間の胸裡に一貫して流れているものである」というような無責任きわまる解釈を放言し、その根拠をついに示そうとしなかったのは、まことに意外千万な認識不足と感じられるのであります。

 このような過去は、敗戦と共にあと形もなく崩れ去ったはずであります。基本的人権の保障は全く敗戦前とは質を異にするものとなりました。

 検察官は、正木主任弁護人の弁論で明らかにされたように、刑法第175条の適用にあたって、この重大な変化をほとんど考えに入れず、「公共の福祉」というきわめて微妙なことばを、あいまいに解釈して、『チャタレイ夫人の恋人』の出版に対し、公共の福祉を害するものと言うのであります。しかも、本書の中の12カ所を抜き出して、その猥変性を云々するのは、全くはじめに述べた赤線事件をそのまま延長しているものであります。

 これが、根本的な検察官の誤りである理由の第1は、この作品が、全体として、個人の自由及び幸福の追求に深い関係を持つものであることを全く無視していること。第2に、検察官は、赤線の12カ所に対して、しきりに「前人未踏」という形容詞を用いているが、芸術や思想の生命は独創にあり、独創とは、まさに前人未踏の原野において新しい仕事をすることであって、これを明確な理由なく妨害することこそ、公共の福祉に反すること、この点は、主任弁護人はじめ、環両弁護人が専門的に明らかにしたところでありますが、わたくしも、良識の名において、全く

これに同意するものであります。

もしも『チャタレイ夫人の恋人』が公共の福祉に反するものであることを主張するならば、検察官は、赤線の12カ所の猥褻性を形式的に強調する以前に、それが実社会、実人生に、いかなる確実な実害を生んだかを、明らかに主張すべき義務があった。公共の福祉を害すると主張する以上、当然その手順をとらなければならないにもかかわらず、32回にわたる公判の間に、その実害を一つとして立証し得なかったのであります。このような経過の後に、惜として反省の色もなく、有罪の論告をおこなうことは、全く良識に反することであります。

『チャタレイ夫人の恋人』は、性に関する前人未踏の文学であります。前人未踏であるからこそ、世界的な問題となっているのです。同時にこれは、個人の自由と幸福の追求に深く関係する文学である。性教育にももちろん関係があるが、この性教育は、個人の自由と幸福とに関連をつけなければ考えられないのであります。もしもこれが、単なる春画、春本のたぐいであったならば、文学批評の対象とならず、従って、文学者たる伊藤整君も訳出の勇気を持たなかったにちがいありません。やせても枯れても第一流の出版者である小山久ニ郎君が、これを出版するはずがありません。これは良識による判断であります。この良識の導きがあるからこそ、わたくしも、今日まで、特別弁簑人として、35回にわたる検察官との抗争に堪え得たのであります。

臭いものにフタということばがあります。検察官は、お年の割に古風な感覚によって、しきりにクサイクサイといわれる。性に対する感覚の変化については、ほとんどあらゆる証人がこれを認識しています。たとえば、第5回公判におけるガントレット証人も、「性と言えばすぐに汚くていやらしいという考は、今日通らないことはよくお認めですね」というわたくしの訊問に対して、「よく分ります。それはもう本当にそうだと思います」と答えています。その他弁護人側申請の証人の認識については一々引例する必要があるまいと思います。憲法をはじめとして、道徳、風俗にわたる現在の大きな歴史的な変化に対して、検察官の認識は、呑気千万なものであります。

呑気であるだけに危険千万であります。問題の作品の中の断片的部分を12カ所だけとり出して、赤線事件以来の誤った態度で、これを形式的に猥褻であるといい、本件が新憲法における基本的人権の問題とは大して関係がないといい、また、何ら本書に原因する確実な実害の実例を立証し得ず、単に臆測による予防的な警戒だけによって、有罪を主張する、このような態度こそ、良識の名を恥かしめるものであります。検察官は、臭くないものに対して、口先だけでしきりにクサイ、クサイと主張してフタをしめようとする。性は汚いもの、という古い考が、検察官や、検察官に有利らしく見える証言の中にみちみちている。これこそ良識に反してクサイのである。本件は、もちろん法律の問題であると同時に道徳問題であり、社会問題であります。それをことさらに狭く機会的に考え、旧憲法時代の旧出版法、旧新聞紙法と同じやり口で始末しようとしている。

冗談ではありません。基本的人権の確立は、敗戦という犠牲によって得た唯一の宝であります。

そして基本的人権に関する法律は自由保護の本旨に従ってできるだけこの俣護を考えなければならないことは明らかであります。もっとも遺憾なのは、すでに第1回公判において明らかにしたように、起訴状に姦通罪の復活を暗示するような叙述があり、また非民主的な身分関係の意識を思わせる記述が含まれていることである。これこそは、この作品の社会的道徳的意義を全く逆にとったものであって、不必要な検察官の悪意のあらわれであります。本件における性の問題に対しても人間の胸裡に一貫して流れているなどという神秘的な、非科学的な認識によって、昔通りの考で国家権力による禁圧をこころみること自身が、きわめて危険な社会的害悪なのであります。このような、国家権力のむりな濫用こそ、日本人全体を今日の悲しい姿におとしいれた原因ではなかったのか。

本件は起訴以前からすでに検察側とわれわれとの問に論争が起り、起訴以後においても、さかんに法廷外の論争がおこなわれている珍しい事件であります。これも前人未踏の新刑事訴訟法のおかげであります。法廷外の論争文書の一部も、双方から証拠として提出されてはありますが、わたくしは裁判官が法の正義のために、まさに法と良識以外の何ものにも拘束されぬ判断を下されるようにお願いするものであります。しかし、本件は、検察官の考えているような簡単なものではないのである。この点、わたくしは、特に裁判官の深い認識に敬意を表します。32回の公判は、まさにその必要があっておこなわれたものであります。公共の福祉や基本的人権に関する大問題を、検察官のように簡単に片づけられたのでほ、国民は、頼るところもなく、泣くにもなけないのである。

 

これ以後、この判決が示した「@いたずらに性欲を刺激。A正常な性的羞恥心を害する。B善良な性的道義観念に反する」といった猥褻の定義は、以後の当局の猥褻文書取り締まりの基準となり、『チヤタレイ夫人の恋人』は、全体の10%に当たる40ページが削除され、完訳が出版されたのは1995(平成7)年のことであった。

 

『チャタレイ夫人の恋人』上巻中、削除された部分(213〜215頁)の一例    が削除部分)

 

彼は彼女の方をふりかへつた。彼の眼が強く鋭くきらきらとして、愛情以外の何かを示してゐるのを彼女は見てとつた。だがもう彼女には意志が失はれてゐた。手足には不思議な重さが感じられた。彼女は次第に譲り、屈服した。

彼は通り抜けるにくい棘(とげ)ばつた木の間を彼女を導いて行き、林の中の枯枝を積んである小さな空地に着いた。彼は乾いた枝を少しひろげて、その上に上衣とチョッキを広げた。それで彼女はそこの木の枝の下蔭(したかげ)に、動物のやうに寢なければならなかつた。その間彼は待ちながら、ズボンとシャツ一枚になつて、憑(つ)かれたやうな眼で彼女を見守つてゐた。しかも、彼は用心深かつた。―――彼は彼女を工合よく、工合よく横はらせた。だが、彼女の方はただされるままに横になつてゐて、彼に手を貸さうとしないので、彼女の下着の紐(ひも)を切つてしまつた。

彼の方も自分の身體の前をむき出しにした。そして彼が彼女の中に入つて行つたとき、彼女は彼の裸の肉體が自分に押しつけられたことを感じた。ちよつとの間、彼は彼女の中でじつとしてゐた。そこでふくれ上り、震えながら。それから彼が動き始めると、突然抑制できない快感が起り、彼女の内部に、新しい不思議な戰慄が波立つやうに目覺めて来た。それは波立ち、波立ち、輕い焔(ほのお)が輕い羽毛のやうに重なり合つて揺れるのにも似て、光り輝く状態にまでなり、この上もなく樂しく、樂しく、彼女の内部を悉ことごとく融かして行つた。それは震へながら、震へながら高まつて行く鈴の音に似てゐた。彼女は最後に自分が發した野生的な小さな叫び聲に自分で氣もつかずに横たはつてゐ。けれども、それは、あまりに早く、あまりに早く終わった。そして彼女はもはや、自分の働きで自分の結末をつけることができなかつた。これは違つたことだつた。これは違つたことだつた。彼女は自分では何事もできなかつた。もはや彼女はしつかりとして自分の滿足を男から摑(つか)み取るといふととはできなかつた。彼女にできることはただ待つてゐること、そして、彼が自分の中から退いて、退いて、萎縮して行くのを、そして彼が彼女の中から滑り出て、離れてしまふといふ怖ろしい瞬間が来るのを感じて、待ちながら呻(うめ)いてゐることができるだけであつた。その間ぢゆう彼女の子宮は開いて軟くなり、潮に揺られるイソギンチャクのやうに、軟く訴え求めてゐた。もう一度入つて来て彼女の中を滿たしてくれることを訴へ求めてゐた。彼女は自分でも分らぬ感動の中で彼にしがみついてゐた。そして彼もまた全く彼女の中から滑り出てはしまはなかつた。そして彼女は彼の軟い蕾(つぼみ)が自分の中でうごめくのを感じた。それが不思議なリズムで大きくなつて行く動きにつれて、自分の中にも不思議なリズムが閃(ひらめ)き渡るのを感じた。それはふくれ上り、ふくれ上り、彼女の粘りつく感覺を總て埋めてしまつた。そしてそれから、言ひ現しがたいあの運動を始めた。それは本當は運動と言ふものでなく、純粋な、深まつて行く感覺の渦巻であつた。それは彼女の總ての細胞と意識の中に深く更に深く渦巻いて入つて行き、お終(しま)ひには彼女は、一つの完全な求心的な感覺の流れとなつた。そして彼女は自ら氣付かぬ囈言(うわごと)を叫びながら横たはつてゐた。それはいやはて(最後)の夜、生命からほとばしる聲だ! 男は自分の下にゐる彼女のその聲を怖れをもつて聞いた。自分の生命が彼女の中に飛びかかつて行つたやうに。聲がおさまると、彼の動きのまたおさまり、全く靜かに、總てを忘れて横たはつた。彼を抱いてゐた彼女の手が次第にゆるみ、彼女はぐつたりとなった。そしてニ人は寢たまま、何ごとも忘れ、たがひの存在も忘れ、我を失つてゐた。たうとう彼が身じろぎしはじめ、何もまとはない自分の裸體に氣づいた。そして彼女は自分に抱きついてゐた彼の身體が離れたことに氣づいた。彼は離れて行く所だつた。しかし彼女は心の中で、彼女は自分を裸のままにして離れて行くべきではないと思つてゐた。彼は今水久に彼女を包んでくれねばならないと思つた。

だがたうとう彼は離れて行つた。彼女に接吻し、彼女の衣服を直し、自分の衣服をも直し始めた。彼女はまだ身動きできないまま木の枝を見上げて横たはつてゐた。彼は立つてズボンを穿(は)き、あたりを見まはした。あたりは木が繁り靜かであった。犬がくすんだやうに前肢(ぜんし)を鼻につけて寢てゐた。彼はまた小枝の上に坐り默つてコニイの手を取つた。

彼女は振り返へて彼を眺めた。

 

                                

 

最近のわいせつ事件

 

 警視庁保安課と代々木署は、02年9月3日、一般に出回っている成人コミック誌としては初めて、わいせつ図画の含まれる単行本「蜜室」約2万500冊を合わせて約1200万円で販売した疑いで出版社「松文館」社長と編集局長、漫画家ら3人を逮捕、雑誌約9000冊などを押収した。これに対して同社は「他社の成年コミックと比較し、消しを入れて修整しているので納得がいかない」とのコメントを出した。

 

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