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鶴彬(つるあきら)
1909〜1938

軍国主義が台頭する昭和初期、敢然と反戦の意志を貫いた川柳作家!!
燐寸(マッチ)の棒の燃焼にも似た生命(いのち)
満州事変から上海事変(1932年1月、満州事変から世界の目をそらすため、日本の軍部が上海で起こした日中両軍の衝突事件。中国軍の頑強な抵抗にあい、5月に停戦協定締結)、そして日中戦争と、神の国大日本帝国が無謀な侵略戦争への道を進み出したころ、反戦の川柳を次々と発表した反骨の作家!!


国家をして国民を戦場へと追いやり、その挙句に手足をもいで「丸太」同然の体にして、夫や親族、郷里に返すという悲惨を描き、国家権力の理不尽を訴える17音(1行)



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昭和時代前期の川柳作家。石川県かほく市高松(旧高松村)に生まれる。1924年、15歳から川柳(せんりゅう=江戸中期に発生した雑俳の一。前句付けの付句が独立した17字の短詩で、その代表的な点者であった初世柄井川柳の名による。季語や切れ字などの制約はなく、口語を用い、人生の機微や世相・風俗をこっけいに、また風刺的に描写するのが特色)を書き始め、宮沢賢治が「春と修羅」を発表したこの年に北國新聞「北國柳壇」へ投稿して才能が開花する(柳名は喜多一児)。
治安維持法が成立した1925年の16歳時のデビュー作「暴風と海の恋を見ましたか」のように当初は、ロマンチックな句を詠んで、田中五呂八(ごろはち=1895〜1937。東北帝大農科大学《現北海道大学農学部》中退後、井上剣花坊《けんかぼう》の「大正川柳」に投句。1923年川柳誌「氷原」を創刊、近代川柳の確立をとなえ、「新興川柳の祖」といわれた)に大いに称賛されるが、後に森田一二(かつじ=1892〜1979。同郷の作家徳田秋声に師事。名古屋で「新生」を創刊、新興川柳ながら、川柳は社会の思想的状況と連動すべきものという、「川柳の社会性」を主張した)に師事する。
高等小学校卒業後勤めた機屋の倒産により18歳の時に大阪へ出て町工場の労働者となり、プロレタリア川柳の影響をうける(この年の1927年、中国で北伐軍が南京を攻撃した際、列国領事館を略奪したという口実で、英国と米国の軍艦が南京を砲撃するいわゆる「南京事件」が勃発。この事件は、蒋介石〔しょうかいせき〕らの国民党右派が共産党と分裂する契機となった)。
また、プロレタリア文学論争では五呂八、木村半文銭(きむらはんもんせん。1899〜1953。「川柳革新運動」の旗手と言われた短詩擅的名作家の一人)を舌鋒(ぜっぽう=言葉つきの鋭いことを、ほこさきにたとえていう語)鋭く批判するなど、マルクス主義(資本主義の発展法則を解明して、生産力と生産関係の矛盾から社会主義へ移行するのは必然的な結果であるとし、その社会変革は労働者階級によって実現されると説くマルクスおよびエンゲルスによって確立された思想体系で、弁証法的唯物論・史的唯物論・マルクス経済学・階級闘争論・社会主義の理論などからなる)文学理論に立ち、活発な評論活動を行う。
1928年(この年3.15事件が起きる)19歳のとき故里に帰り、ナップ(NAPF=全日本無産者芸術連盟。Nippona Artista Proleta Federacio〔エスペラント〕。1928年に結成された全日本無産者芸術連盟と、それを改組した全日本無産者芸術団体協議会の略称。日本プロレタリア芸術運動の統一組織として、機関誌「戦旗」および「ナップ」を刊行。1931年にコップ〔KOPF=Federacio de Proletaj Kultur
Organizoj Japanaj《エスペラント》=日本プロレタリア文化連盟の略称。1934年に弾圧で解散〕に合流して解消)高松支部を結成。
1930年21歳のとき、徴兵によって(1875《明治8》)年に金沢城に配置された)金沢歩兵第七連隊(歩兵=陸軍で、小銃・機関銃・擲弾筒《てきだんとう》などの小火器を装備し、徒歩で戦闘を行う兵)に入営すると、日本共産党第2回大会(1923年2月4日)の党議に基づき、川合義虎(かわい よしとら。1902〜1923。長野県出身の大正時代の労働運動家。1922年に日本共産党に入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成。1923年日本共産青年同盟初代委員長となるが、関東大震災に際し検束され、同年9月4日亀戸警察署の留置場で特高により虐殺される。享年22歳。本名は川江善虎)を委員長として設立された日本共産青年同盟(現・日本民主青年同盟)の機関紙『無産青年』をもちこむなどの反戦活動をした、いわゆる「赤化(せっか=共産主義思想や機構を認め、受け入れること。また、その思想に染まること)事件」を起こし、治安維持法違反に問われ、軍法会議にかけられ収監、拷問を受けた後、懲役1年8ヶ月に処せられ、陸軍・大阪衛戍(えいじゅ=監獄)に収監されたのち、2等兵のまま除隊する。以後、警察(特高)の迫害と監視を受け続ける。
特高に眼をつけられて職につけなかった鶴彬を庇護したのが、「大正川柳」を創刊した井上剣花坊(けんかぼう=1870〜1934。山口生まれの明治から昭和時代の川柳作家。1903年東京の日本新聞社にはいり、川柳欄を担当。1905年川柳結社柳樽寺《りゅうそんじ》を結成、「川柳」を創刊して革新川柳を主張、のちに無産派川柳に接近した)夫人の井上信子(のぶこ=1869〜1869。山口県出身の明治から昭和時代の川柳作家。1899年井上剣花坊と結婚。1934年夫の没後「川柳人」をひきつぎ、川柳にその生涯をささげた。句集に「蒼空」などがある。1940年に名作といわれる「国境を知らぬ草の実こぼれ合い」を発表、軍国主義に抵抗した)であった。
1937年「川柳人」(昭和12年11月第281号。鶴の反戦句をのせたため同誌は発禁。1948年復刊)に発表した最後の作品となった反戦川柳「胎内の動きを知るころ骨がつき」を理由に再び治安維持法違反で逮捕、不潔不衛生で有名な東京・野方警察署の留置場(代用監獄)に留置され、拷問と長期の勾留から衰弱して赤痢にかかり、翌1938(特高に虐殺された小林多喜二と同じ年。小説「麦と兵隊」で知られる徐州戦線の年でもあり、日中の戦闘は長期化し、展望がない戦線の泥沼化が始まってた)年9月14日移送先の奥多摩病院でベッドに手錠で括りつけられたまま死亡した(特高により赤痢菌を盛られたとの説あり)。享年29歳(このとき、信子も逮捕されるが、高齢を理由に釈放される)。
遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄の手により、岩手県盛岡市の浄土真宗の光照寺(こうしょうじ。門がなく、一見して旅館風の建物)に手厚く葬られた。
当時、人民戦線事件に連座、特高に捕まって留置場生活を余儀なくされていた(重病により釈放)平林たい子(1905〜1972。長野・諏訪郡中州村生まれの小説家。本名、タイ。各地を放浪し、職を転々としながらプロレタリア作家として出発したが、戦後はしだいに反共的姿勢を強めた。代用的作品に「施療室にて」「かういふ女」などがある。恩賜賞、内閣総理大臣賞、紺綬褒章を受章)は、長編自伝小説伝『砂漠の花』(1957年刊/松山大学図書館蔵書)に、「万歳と挙げた手を大陸に置いてきた」と詠んだ鶴の川柳を特高室ではじめて見せられた時には、思わず自分の憂鬱(ゆううつ)を吹き飛ばして大笑いした」と記している(『反戦川柳人・鶴彬』一叩人〔いっこうじん〕編著・たいまつ社)。
出身地の高松の口銭場(こうせんば)歴史公園に、鶴彬の同級生・友人・有志らによって、「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建てられており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられている(これを含め、石川県と岩手県に3つの句碑があり、08年2月に鶴が収監されていた陸軍・大阪衛戌《えいじゅ=軍隊が永く一つの土地に駐屯すること》監獄《刑務所》のあった大阪城内〔豊国神社の東〕で百日紅〔さるすべり〕の記念植樹祭が行われ、また9月14日には、顕彰碑が建立され、碑文が設置された)。




碑文
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この地にはかつて大阪衛戍監獄があり、1931年(昭和6年)、治安維持法違反で22歳の川柳作家 鶴(つる)彬(あきら)が収監され、1年8ヶ月の呻吟(しんぎん=苦しんでうめくこと)の日を送っていました。 暁を抱いて闇にゐる蕾 鶴彬は暁の日を見ることなく29歳で獄死しました。私たちは戦争へと進む時代に抗し、強靱な精神力で川柳の不屈を体現した鶴彬を偲んで没後70年を機に顕彰し記念植樹を行うものです。 2008.9.14 鶴彬顕彰実行委員会 |
本名は喜多 一二(きた かつじ)。終生、反戦句をつくって戦争反対を貫いた。
『鶴彬全集』がたいまつ社から1977年9月に刊行(復刻)されている。
08年9月14日は没後70周年。09年1月1日は、生誕100年。
「鶴彬生誕100年の記念事業」として、ドキュメンタリー映画「鶴彬−こころの軌跡」の製作・上映と記念講演会「鶴彬を語る」や創作琵琶「鶴彬」の演奏会が企画された。
映画制作会社は、「神山プロダクション」(東京)。五木寛之原作で金沢を舞台にした「大河の一滴」や「ハチ公物語」「ひめゆりの塔」などを手掛けた神山征二郎(こうやま せいじろう)監督がメガホンを取り、09年3月に完成、29日かほく市で初上映された。
元金沢大教授深井一郎(ふかい・いちろう)の著書「反戦川柳作家鶴彬」(松山大学図書館蔵書)は98年、泉鏡花記念金沢市民文学賞を受賞した。
そのほかに、「川柳人鬼才『鶴彬』の生涯」/岡田一杜;山田文子編著(機関紙出版/松山大学図書館蔵書)がある。
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「戦争中にこのような川柳を発表し、若くして獄中病死したのが鶴彬という川柳人でした。『ツルは偉い、口を閉ざされた民衆に代ってわずか17字の川柳で闘った。よくやった』。川柳の流れの中に、このような人もいたのだということを記憶してくださればよいと思います。」(川柳作家・時実新子の「鶴彬」評)。
注:時実新子(ときざね しんこ)=1929〜2007。岡山県出身の昭和後期から平成時代にかけての川柳作家。西大寺高女卒。本名大野恵美子。結婚後「神戸新聞」に投句。1963年句集「新子」を刊行。鋭敏な感性と大胆な表現が話題をよんだ。1975年個人誌「川柳展望」を創刊。1987年の「有夫恋」(朝日新聞社)はベストセラーとなる。2000年前後から「川柳大学」を主宰。2007年3月10日死去。享年78歳。
「男たちは赤紙一枚で続々と狩りたてられ戦野に送られる。歓呼の声で送られたはいいが、戦争で手足をもがれて丸太のようになって送り返される。いや、返される、という受身ではない。鶴彬は『してかへし』と、かえした国家にたいして、人民の怨嗟を匕首(あいくち)のようにつきつけている。」(作家・田辺聖子の「鶴彬」評)。
「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告しているというのに、父親は戦死しその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。…警察は謝れば出すのに、鶴彬は、結局志を曲げなかった。日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通し死んでいった。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います」(『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝の言葉=(04年09月09日付『しんぶん赤旗』)。
鶴彬(つる・あきら)という川柳作家を、どれほどの方がご存じだろう。昭和の初め、軍部などを批判する川柳を次々に作った人だ。特高に捕まって勾留(こうりゅう)されたまま、1938(昭和13)年に29歳で死んだ。今年が没後70年になる▼軍国色に染まる時代に立ち向かうように、その句はきっぱりと強い。〈屍(しかばね)のいないニュース映画で勇ましい〉〈銃剣で奪った美田の移民村〉〈手と足をもいだ丸太にしてかえし〉。2句目は旧満州への入植を、3句目は、手や足を失った帰還兵を詠んだものだ▼資本家にも痛烈な目を向けた。〈みな肺で死ぬる女工の募集札〉。紡績工場では、過酷な労働で胸を病む者が絶えなかった。〈初恋を残して村を売り出され〉は、貧困ゆえの娘の身売りである▼石川県で生まれ、本名は喜多一二(かつじ)といった。同じプロレタリア文芸家で、『蟹工船』を書いた小小林多喜二に、字づら(字面=文字の形や文字を並べたぐあい。また、それから受ける感じ)が似ているのは不思議である。大阪の町工場で働きながら、世にはびこる「非人間性」への怒りを燃やしていった▼その生涯をたどる映画作りが、70周年を機に始まっている。映画監督の神山征二郎さんは去年、人づてに鶴の話を聞いた。こんな人がいたのかと驚き、「もっと世に知られるべきだ」という思いに背中を押された▼「日本の破滅が見えていて、『この道を行くべからず』と叫び続けた人」だと、神山さんは、その人間像を胸に描く。そして鶴の死後、日米開戦から敗戦へと、日本が破滅への道を突き進むのは周知の通りである。内外の苦難への思いを深める8月が、今年もめぐってきた(08年08月01日付『朝日新聞』−「天声人語」)。
去年の夏にこの欄で紹介した反骨の川柳作家、鶴彬(つる・あきら)の生涯をたどる映画が、このほど完成した。今年は生誕から100年にあたる。軍国の時代に反戦を貫きながら、知られることの少なかった姿が、志ある人々の熱意で今によみがえった▼その句は、軍や資本家の非人間性を突いてやまない。〈胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき〉は、夫が戦死した身重の妻を詠んだ。〈ざん壕(ごう)で読む妹を売る手紙〉は、兄を兵隊に取られ、妹は身売りという農村の窮乏である。特高ににらまれながら、怒りに燃えるように作り続けた▼映画は、特高に捕まって29歳で落命するまでを、いとおしむように追う。有志の寄付などの「超低額予算」で取り組んだ神山征二郎監督の思いがにじむ。そして鶴を最後まで見守り、支える井上信子を、女優の樫山文枝さんが好演している▼信子も、もっと知られてほしい人だ。川柳家の井上剣花坊(けんかぼう)の妻で、自身も句作した。没した夫を継いで川柳誌の発行人になった。鶴の〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉など多くの反戦句を動じずに載せ、何度も弾圧に遭っている▼日中戦争が泥沼化し、日米が開戦する前年には、70代で〈国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ〉と詠んだ。あの時代にジョン・レノンの名曲「イマジン」を先取りしたような、しなやかで、きっぱりした平和への意志があった▼揺るがぬ者への敬意が、つつましい映画「鶴彬 こころの軌跡」を流れている。東京では来月に上映が始まる。忘れられていた人が再び、静かな光を放ち始めたようである(09年06月07日付『朝日新聞』−「天声人語」)。
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15歳の時の作品(1924年)
静な夜口笛の消え去る淋しさ
燐寸(マッチ)の棒の燃焼にも似た生命(いのち)
皺に宿る淋しい影よ母よ
16歳の時の作品(1925年)
暗闇に灯を探しつつ突き当り
親の影に連れ子は淋しさう
連子の名呼び捨てにもされず
泥沼にのた打ち廻る真剱さ
打たれてから打つ心を考へる
17歳の時の作品(1926年)
一枚の畳、一瞬、蠅、六
さやのなき刃いつしか人を切る
18歳の時の作品(1927年)
溺死者の続く思想の激流よ
米つくる人人、粟、ひえ食べて
万歳と挙げた手を大陸に置いてきた
19歳の時の作品(1928年)
資本論やけど飢えたる群の声
退けば飢えるばかりなり前へ出る
群衆のなだれ屍を超えて燃ゆ
腕を組む仲間に鎖ぶち切れる
兵隊をつれて坊主が牢へ来る
パンの山まもる兵士も飢えて来る
胃を満すべく北南なる君と僕
26歳の時の作品(1935年。前年の1934年の大冷害を発端として東北地方では1935年に大飢饉が発生、生活に窮した農家では6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった)
涸れた乳房から飢饉を吸うてゐる
凶作の村から村へ娘買ひ
凶作を救へぬ仏を売り残してゐる
暁の曲譜を組んで闇にゐる
ふるさとの飢饉年期がまたかさみ
生き仏凡夫とおなじ臍をもち
飯櫃(めしびつ)の底にばったり突きあたる
地下へもぐって春へ春への導火線
銃剣で奪った美田の移民村
ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ
武装のアゴヒモは葬列のやうに歌がない
赫灼の火となるときを待つ鉄よ
牧場へもえ出て喰はれる春の草
冬眠の蛙へせまる春の鍬
良心を楽屋においたステージの声
縛られた呂律のまゝに燃える歌
こからも不平言ふなと表彰状
血を吸ふたまゝのベルトで安全デー
玉の井に模範女工のなれの果て
売り値のよい娘のきれいさを羨まれてる
フジヤマとサクラの国の失業者
みな肺で死ぬる女工の募集札
27歳の時の作品(1936年。この年に2.26事件が勃発。軍部ファシズムへと突き進む)
修身にない孝行で淫売婦
待合で徹夜議会で眠るなり
半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
けふのよき日の旗が立ってあぶれてしまふ
ざん壕で読む妹を売る手紙
修身にない孝行で淫売婦
貞操と今とり換へた紙幣の色
仲間を殺す弾丸をこさへる徹夜、徹夜
暁をいだいて闇にゐる蕾
枯れ芝よ! 団結して春を待つ
転向を拒んで妻に裏切られ
売られずにゐるは地主の阿魔ばかり
神代から連綿として飢ゑてゐる
日給で半分食へる献立表
王様のやうに働かぬ孔雀で美しい
28歳の時の作品(1937年。この年に日中戦争勃発)
蟻食ひの糞殺された蟻ばかり
骨壷と売れない貞操を抱へ淫売どりのくるふ歌
鉄粉にこびりつかれて錆びる肺
息づまる煙の下の結核デー
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
葬列めいた花嫁花婿の列へ手をあげるヒットラー
ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり
凶作つづきの田は鉱毒の泥の海
十年はつくれぬ田にされ飢えはじめ
殴られる鞭を軍馬は背負はされ
バイブルの背皮にされる羊の皮
正直に働く蟻を食ふけもの
蟻食ひの舌がとどかぬ地下の蟻
蟻食ひを噛み殺したまゝ死んだ蟻
パンを追ふ群衆となって金魚血走ってる
稼ぎ手を殺してならぬ千人針
枕木は土工の墓標となって延るレール
高梁(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
最後の作品(1938年11月15日発行『川柳人』第281号)
胎内の動きを知るころ骨がつき
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ドキュメンタリー映画「鶴彬」製作協力券・協賛金募集のお願い(全文)
2008年9月14日は、反戦川柳人鶴彬の没後70周年の忌日に当り、2009年1月1日は、彼の生誕百年に100年に該当いたします。この節目の時に、「鶴彬生誕百年の記念事業」として一つは、彼の人間としての生きざまを映画に撮り、多くの人々に観て頂くこと。もう一つは、彼の文芸作品たる川柳と評論について澤地久枝さんをお招きし(内諾を得)、講演をして頂きそれに依って、鶴彬の心を人々の胸底に定着させたいと願っています。戦後半世紀を過ぎた現在、再び軍靴の音を響かせ、国民の生きる権利を抑圧し続けるような現代の社会に対して、鶴彬の人間性と生きざまと、彼の文芸作品とに新たな光を当て、鮮烈なメッセージを届けたいと考えています。
治安維持法によって逮捕され、拷問により死に至らしめられた鶴彬を始めとする数多くの方々たちの名誉回復は未だしの感が強く、社会に流布された汚名は現在も続いており、犠牲者の復権は、まだ程遠い状態と言わねばなりません。
国民主権・戦争放棄・民主主義は憲法の背骨と言われます。民主主義が形骸化すると愚民政治が横行します。自衛隊という名の軍隊が海外にまで派遣され、又も暗い「戦争する国」に変質させようとする集団が政治の中枢に座するようになりました。
たまりかねた国民は、「憲法を守れ」「九条を守れ」という一点で団結し「戦争する国」の実現に対抗して立ち上がり始めました。この大きなウネリの一助ともなりたいと念じ、映画と講演の二つの方策を提案いたします。作る運動と広める運動の両面で、多くの人々の主体的な手足の働きによって広がりを見せ、成功することを希います。
是非、皆様におきましては、この取り組みへの賛同の意志を固めていただき「賛同者」のお一人として、ご協力、ご支援を頂きたく宜しくお願い申し上げます。
2008年4月5日 発起人一同
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