東條(条)英機
第40代東條英機内閣総理大臣(1941《昭和16》年10月18日〜1944《昭和19》年7月22日)

軍人・政治家
1884(明治17)〜1848(昭和23)
手記/第78回帝国議会(臨時会) 施政方針演説(1941《昭和16》年12月16日《衆議院/貴族院》)
1884(明治17)年12月30日、陸軍中将東條英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。
陸軍士官学校(第17期)、陸軍大学校卒業義、ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929(昭和4)年永田鉄山(てつざん。1884〜1935。長野県生まれの中将。統制派【旧陸軍内の一派閥で、皇道派の派閥人事や急進的青年将校の運動に反発した中央幕僚層を基盤とし、軍中央による統制下に国家改造を画策、2・26(ににろく)事件以降粛軍の名のもとに皇道派を抑えて主導権を握り、太平洋戦争にいたる諸政策を推進した】の中心人物と目され、軍務局長のとき皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された)ら陸軍の中堅・若手エリートたちとともに、陸軍改革のためのグループとして一夕(いっせき)会を結成、リーダー格としての中堅将校として満蒙(まんもう=中国の満州と内蒙古)の支配を主張して、満州事変の頃から頭角を現す。
日本の傀儡(かいらい=操り人形)国家である「満州国」創設後の35(昭和10)年関東憲兵司令官となり、37(昭和12)年には関東軍(旧満州に駐屯した日本軍。万里の長城の東端の渤海湾に接する「山海関」の東側一帯がかつて関東州と呼ばれ、そこを守備範囲にしたことに由来する。満州事変後、兵力を急増。司令官は満州国の全権大使も兼任し、絶大な権力を振るった。しかし、敗戦時に在満邦人や開拓民を残して撤退し、中国残留孤児を生む原因ともなった)参謀長に昇進、蘆溝橋(ろこうきょう)事件(「7・7事変」)勃発後の国民政府との妥協に反対し、中国に対する侵略戦争を画策する。
38(昭和13)年板垣征四郎(せいしろう)
陸軍大臣(陸相)のもとで陸軍次官となり、40(昭和15)年7月第2次近衛内閣の陸相に就任、「戦陣訓」(将兵に捕虜になることを禁じた訓示)を下達(かたつ=上の者の意思を下の者に伝えること)、松岡洋右(ようすけ)外相とともに日独伊三国同盟の締結に推し進める一方、日本軍の仏印(ふついん=フランス領インドシナの略称)侵略を容認、さらに対英・米開戦を主張した。
第3次近衛内閣の陸相当時の41(昭和16)年10月、米政府の日本軍の中国、仏印からの全面撤退の要求に頑強に反対、あくまでも対英・米開戦を展開して近衛内閣を崩壊させた。
41年10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で昭和天皇の信任と大衆の人気を背景に現役の陸軍大将として首相に就任、同時に内相、陸相を兼任する等、絶対的権限を把握した。
41年12月8日、パールハ−バ−を奇襲攻撃。ここに米・英と開戦(太平洋戦争)の先端を開くとともに、国内においては(大政)翼賛選挙の実施と統制強化により憲兵政治(憲兵〔軍隊内の法秩序維持をおもな任務とする軍隊の兵科の一つで、軍に関する司法・行政警察機能を担った。日本では1881【明治14】年に創設され、陸軍大臣の管轄に属したが、のちに、しだいに権限を拡大・濫用して、一般民衆の思想取り締まりを主要任務とするようになり、自由を圧殺する装置として一般大衆に恐れられた。もとより第2次大戦の敗北で解体された〕が強権を振るった一種の恐怖政治)とか、東条独裁とよばれる独裁体制(ファシズム)を構築、他方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、43(昭和18)年1月に大東亜会議を開催、大東亜宣言を行った。
その後、参謀(高級指揮官の幕僚【ばくりょう=司令部に直属し参謀事務に関与する将校】として、軍の作戦・用兵などの一切を計画して指揮官を補佐する将校)とともに総長(参謀総長【参謀本部の長】として)も兼ねて軍・政を一手に掌握して侵略戦争をあくまでも貫徹するが、やがて戦局の極度の悪化から反東條の機運が高まり、サイパン島(西太平洋、マリアナ諸島中の小島。太平洋戦争の激戦地で44年アメリカ軍が占領したあと、B―29の日本本土爆撃の基地となった)陥落直後の44(昭和19)年7月18日辞職のやむなきに至った。
敗戦後の45年9月11日東條はGHQによって逮捕される寸前にピストルで自殺、未遂に終わる。その前日の10日アメリカの従軍記者の会見に応じて東條は、 「現在わしは百姓」との心境を述べたのち、「戦争犯罪者については」の質問に、「戦争犯罪者?それは勝者が決定するものだ、日本的解釈だが私は、戦争犯罪者ではない、戦争責任者なのだ」と語っていた(1945〔昭和20〕年9月13日付『読売新聞』−−『新聞集成・昭和史の証言』第19巻336頁)。
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東條は遺書を残さなかったが、逮捕に出向いたアメリカ官憲に、次のような遺言をしている。 「一発で死にたかつた。時間を要したことを遺憾に思ふ。大東亜戦争は正しい戦ひであつた。国民と大東亜諸民族には誠に気の毒であつた。十分自重して大局の処置を誤らぬことを希望する。貴任者の引渡しは全部責任を負ふべきである。復員することは更に困難である。法廷に立ち連合国の前に裁判を受けるのは希望する所でない。むしろ歴史の正当な裁判にまつー切腹を考へたが、ややもすれば間違ひがある。一思ひに死にたかつた。あとから手を降して生きかへるやうなことをしないでくれ。陛下の御多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発展を続けることが出来れば幸ひである。責任者としてとるべきことは多々あると思ふが、勝者の裁判にかかりたくない。勝者の勝手な裁判を受けて国民の処置を誤つたら恥辱だし、家のことは広瀬(伯爵)にまかせてある。その通りやればよい。家のことは心配ない。天皇陛下万歳、身は死しても護国の鬼となつて最期を遂げたいのが真意であるー水をくれー腹を切つて死ぬことは知つてゐるが、間違つて生き度くない。責任は了した。死体は引渡したらよい。俺の死体はどうなつてもよい。遺族には言ひ渡してある。死体は遺族に引渡さなくともよい。しかし見せ物ではないとマツカーサーに言つてくれー」。 |
また事件を朝日新聞は次のように報じた。
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元首相東条英機大将は11日午後4時、東京都世田谷区玉川用賀町の自宅へ同大将連行のため来邸した連合軍側官憲との応接を待たず同20分ピストルにて自決を図り重体である。東条大将が自決をはかつたとき、たまたま本社記者は東条邸を訪れたが以下は同記者の目撃記である。 東条大将に対してマツカーサー元帥から捕縛命令が出た 11日の午後2時の東条邸-既に米官憲が到着し窓越しに東条大将を拘引にきた旨を述べてゐ た。東条大将は笑つて「只今行きますから暫く待つて下さい」と通訳を通してあいさつし、窓に鍵を下したが、その時、ピストルの響が内部に聞えた。米官憲は外から鍵の下りた戸を叩き破り「窓をこわして入れ」などと怒鳴り威赫的に銃を撃ちつつ室内に入つた。東条大将は予て覚悟の自決をはかつてゐたのである。椅子にもたれたまま、白の開襟ワイシヤツを着た上から左腹部に拳銃を撃ち込み、すでに息も絶え絶えであつた。午後4時15分であつた。20分後、大将は何か言はんとするので記者は大将の傍により「何か言ふことがありますか」と問へば、苦しい息の下から次のやうな遺言を洩らしたのである。 遺言が終つてから米官憲は付近の友原医院より医師を招き手当を施したが、その時の様子では生命はとりとめるやうに見うけられた。米官憲は直ちに東条邸の門を閉じて日本の巡査に警戒をせしめた(1945〔昭和20〕年9月12日付『朝日新聞』−−『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20下半期』147頁)。 |
この東條の自殺は、最高の戦争犯罪者(責任者)のそれとしては、「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」との遺書を残して割腹自殺を図った阿南とあまりにも対照的であった。敗戦から1カ月近くたった、しかもGHQによって逮捕命令がだされ、逮捕寸前にアメリカ官憲の前でしかもピストルでの自殺未遂を、日本国民は実に冷やかに受け止めた。

米軍病院で手当を受ける東條
「鬼畜米英」、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けるな」(戦陣訓)と教えこまれ、死を強制された日本人が、その最高責任者の自殺未遂を中途半端で、かつ未練がましく見苦しいと感じたとしても何ら不思議なことではなかった。
例えば山田風太郎は、「『東条大将はピストルを以て……』ここまできいたとき、全日本人は、『とうとうやったか!』と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。しかし、そのあとがいけない。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」(『戦中派不戦日記』380頁)‥‥ 「『死ぬのは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ』と彼はいっているそうである。それならそれでよい。卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。」(山田前掲書395頁)と書いた。
また高見順も、「期するところあつて今まで自決しなかつたのならば、なぜ忍び難を忍んで連行されなかつたのであろう。なぜ今になつてあわてて取り乱して自殺したりするのであろう。そのくらいなら、御詔勅のあつた日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなつている。恥の上塗り」と記した(『敗戦日記』324頁)。
東條の自殺に関しては、一般の民衆も同じ感情であった。
例えば、45(昭和20)年9月14日付京都府特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)にそれをみることができる。
「1,東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ」(粟屋憲太郎編『資料日本現代史』−−2「敗戦直後の政治と社会 1」〔資料94〕352頁)。
さて東條は、極東国際軍事裁判でA級戦犯 として起訴され、48(昭和23)年12月23日、絞首刑に処せられた。享年65歳。

裁判を受ける東条英機元首相
死刑判決を聞く東條
靖国神社は、78(昭和53)年10月、密かに東條英機をはじめ元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将、松井石根(いわね)陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅(こうき)元首相ら7人と、獄中で死亡した5人及び平沼騏一郎元首相ら未決で病死した2人の計14人を「昭和受難者」として合祀(ごうし)した。
その理由は、「53年の援護法改正で、いわゆる戦犯刑死者と遺族は(遺族年金などで)一般戦没者と同様の処遇を受けられるようになった。戦犯刑死の方々は法的に復権され、靖国神社は当然合祀する責務を負った」(靖国神社機関紙)ということであった(これに対して厚生労働省は、「国は遺族援護のために戦犯刑死者を公務死と認定したのであり、靖国のいう『復権』とは関係ない。合祀は神社が決めることだ」と反論している)。

東條内閣
東條は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁者として君臨、外相に東郷茂徳 (とうごうしげのり)、蔵相に賀屋興宣(かやおきのり。戦後第2次池田内閣 第3次改造内閣で法相に就任)、海相に嶋田繁太郎(しまだしげたろう)、法相に岩村通世(みちよ)、農相に井野碩哉(ひろや)、商工相に岸信介(のぶすけ。戦後首相に就任)等を任命した。
第40代東條内閣--1946(昭和16)年10月18日〜1944(昭和19)年7月18日
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内閣総理大臣 |
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東條英機 |
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外務大臣 |
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東郷茂コ |
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42(昭17).9.1〜 |
東條英機(兼) |
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42(昭17).9.17〜 |
谷 正之 |
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43(昭18).4.20〜 |
重光 葵 |
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内務大臣 |
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東條英機(兼) |
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42(昭17).2.17〜 |
湯澤三千男 |
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43(昭18).4.20〜 |
安藤紀三郎 |
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大蔵大臣 |
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賀屋興宣 |
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44(昭19).2.19〜 |
石渡莊太郎 |
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陸軍大臣 |
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東條英機(兼) |
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海軍大臣 |
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嶋田繁太郎 |
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44(昭19).7.17〜 |
野村直邦 |
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司法大臣 |
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岩村通世 |
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文部大臣 |
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橋田邦彦 |
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43(昭18).4.20〜 |
東條英機(兼) |
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43(昭18).4.23〜 |
岡部長景 |
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農林大臣 |
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井野碩哉 |
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43(昭18).4.20〜 |
山崎達之輔 |
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農商大臣 |
43(昭18).11.1〜 |
山崎達之輔 |
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44(昭19).2.19〜 |
内田信也 |
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商工大臣 |
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岸 信介 |
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43(昭18).10.8〜 |
東條英機(兼) |
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軍需大臣 |
43(昭18).11.1〜 |
東條英機(兼) |
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逓信大臣 |
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寺島 健 |
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43(昭18).10.8〜 |
八田嘉明(兼) |
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運輸通信大臣 |
43(昭18).11.1〜 |
八田嘉明 |
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44(昭19).2.19〜 |
五島慶太 |
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鉄道大臣 |
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寺島 健(兼) |
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41(昭16).12.2〜 |
八田嘉明 |
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拓務大臣 |
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東郷茂コ(兼) |
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41(昭16).12.2〜 |
井野碩哉(兼) |
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大東亜大臣 |
42(昭17).11.1〜 |
青木一男 |
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厚生大臣 |
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小泉親彦 |
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国務大臣 |
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鈴木貞一 |
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43(昭18).10.8〜 |
岸 信介 |
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国務大臣 |
42(昭17).6.9〜 |
安藤紀三郎 |
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43(昭18).4.20〜 |
大麻唯男 |
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国務大臣 |
42(昭17).9.17〜 |
青木一男 |
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43(昭18).5.26〜 |
後藤文夫 |
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国務大臣 |
43(昭18).11.17〜 |
藤原銀次郎 |
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内閣書記官長 |
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星野直樹 |
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法制局長官 |
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森山鋭一 |
備考
(兼)=兼務を示す。
帝国議会 本会議(開院式;貴族院)=1941(昭和16)年12月16日(火曜日)
午前11時兩院議員參列員式場に整列す 午前11時5分式部長官子爵松平慶民君の奉導を以て式場に出御親王王殿下以下扈從 玉座に著御各員最敬禮 内閣總理大臣東條英機君 御前に進み 勅語書を奉進す
勅語
朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
東亞の安定を確立し世界の平和に寄與せむとするは朕の軫念極めて切なる所なり然るに米英兩國は帝國の所信に反し敢へて東亞の禍亂を激成し遂に帝國をして干戈を執つて起つの巳むを得さるに至らしむ朕深く是を憾とす此の秋に當り帝國と意圖を同しくする友邦との締盟愈愈緊密を加ふるは朕の甚た懌ふ所なり今や朕か陸海軍人は力戰健鬪随處正に其の忠勇を奮へり朕は帝國臣民か必勝の信念を堅持し擧國一體協心戮力速に交戰の目的を達成し以て國威を字内に震耀せむことを望む
朕は國務大臣に命して特に時局に關し緊急なる豫算案及法律案を帝國議會に提出せしむ卿等克く朕か意を體し和衷審議以て協贊の任を竭さむことを期せよ
兩院議長兩院副議長同議員拜聽訖て最敬禮
貴族院議長伯爵松平頼壽君 御前に進み 勅語書を拜受し列に復す
入御 午前11時10分式畢 還幸の後諸員退散
帝国議会 本会議(開院式;貴族院)=1943(昭和18)年12月26日(日曜日)
午前11時兩院議員參列員式場に整列す 午前11時4分式部長官子爵松平慶民君の奉導を以て式場に出御親王王殿下以下扈從 玉座に著御各員最敬禮 内閣總理大臣東條英機君 御前に進み 勅語書を奉進す
勅語
朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
朕か外征の師は懸軍萬里沍寒を凌き炎熱を冒し勇戰奮鬪愈愈其の威武を發揚し朕か銃後の臣民亦克く艱苦に堪へ生産に勤め齊しく奉公の誠を致せり而して帝國と友邦との盟約は益益固きを加へ興亞の大業日を逐ひて進む朕深く之を悦ふ今や彼我の攻防愈愈急にして戰局最も重大なり宜しく億兆一心國家の總力を擧けて敵國の非望を粉碎すへし朕は臣民の忠誠勇武に信倚し速に征戰の目的を達成せむことを期す
朕は國務大臣に命して昭和十九年度及臨時軍事費の豫算案を各般の法律案と共に帝國議會に提出せしむ卿等能く朕か意を體し和衷審議以て協贊の任を盡さむこと望む
兩院議長兩院副議長同議員拜聽訖て最敬禮 貴族院議長伯爵松平頼壽君 御前に進み 勅語書を拜受し列に復す
入御 午前11時9分式畢 還幸の後諸員退散
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「愛国行進曲」(見よ東海の夜は明けて)の替え歌 (いうまでもなく東条は見事な禿げ頭だった) 見よ 東条の禿頭 ハエがとまれば、ツルッと滑る 滑って止って またすべる 止って 滑ってまたとまる おお テカテカの禿頭 そびゆる富士も眩(まぶ)しがり あの禿どけろと 口惜し泣き 雲にかくれて 大むくれ |
なお、東条英機の次男・輝雄(05年7月現在90歳)は元三菱自動車工業社長で、東大工学部航空科を卒業後、1937(昭和12)年に三菱重工業へ入社し、ゼロ戦の開発にかかわった。戦後の1959(昭和34)年に官民合同で設立された「日本航空機製造」の取締役設計部長に出向し、初の国産旅客機YS11の設計で中心的な役割を担った。
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