東郷 茂徳(とうごうしげのり)

 

 

882(明治15)年12月10日〜1950(昭和25)年7月23日

 

薩摩焼の陶工の末裔(鹿児島県日置郡出身)で外交官、太平洋戦争開戦時と終戦時の外務大臣

旧姓は、朴で5歳の時、東郷に改姓(父は東郷壽勝・長男)

 

1908(明治41)年 東京帝國大學文科大學文學科(獨文)卒、1912(大正元)年10月に外交官試験合格して、外務省に入省する。

 

1913(大正2)年8月 奉天(ほうてん)総領事館領事官補、1929(昭和4)年6月に在独大使館参事官に就任、1925(大正14)年12月 在米大使館1等書記官、下宿先のドイツ人女性、エディータ(東郷エヂ)と結婚する。
 

1937(昭和12)年10月 駐独大使、1938(昭和13)年10月駐ソ連大使。ノモンハン事件(1939【昭和14】5〜9月、中国東北部とモンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地Nomonhanで起こった、日本とモンゴル軍の衝突事件。ソ連軍の応援により日本軍は大敗し、対ソ開戦論は後退した。ハルハ河戦争)停戦協定を成立させた後の1940(昭和15)年11月に帰国。

 

1941(昭和16)年10月18日成立の東条英機内閣の外務大臣兼拓務大臣(1929年に創設された朝鮮総督府・台湾総督府など植民地の事務や海外拓殖事業に関する事務をつかさどった拓務省の大臣。拓務省1942年大東亜省【太平洋戦争による占領地域の拡大により、政治・経済・文化の施策の一元化を目指し、拓務省・対満事務局・外務省東亜局・南洋局などを統合して創立】に編入された)に就任、1945(昭和20)年4月9日に鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任し、陸軍大臣阿南惟幾と鋭く対立したが、鈴木の片腕として敗戦処理に奔走する。

 

戦後の1946(昭和21)年4月、A級戦犯として極東國際軍事裁判所(極東軍事〔東京〕裁判)に起訴され、1948(昭和23)年11月、禁固20年の判決を受け、巣鴨プリズンで服役、1950(昭和25)年7月23日 アメリカ陸軍病院(現聖路加病院)で病死する。

 

なお、安保条約改定や沖縄返還交渉に携わった後の駐米大使(75年12月〜80年4月)東郷文彦(とうごうふみひこ)は茂徳の娘婿で、その子の東郷和彦(かずひこ)は、外務省鈴木疑惑で解任された前オランダ駐在大使である。

 

参考文献;東郷茂徳記念会/編『外相東郷茂徳1(時代の一面』 原書房 (1985.5

 

 

もう一つの8月9日

 

ソ連軍が満州国(中国東北部=現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部。日本が満州事変によって占領、1932【昭和7】年、もと清朝の宣統帝溥儀【ふぎ】を執政に迎え【34年に皇帝】、中華民国から分離させて建国したのが満州国という傀儡【かいらい=操り人業】国家。首都は新京【長春】。政府の要職には満州人を起用したが、事実上は日本人官吏および関東軍の指導下にあった。45年8月5日、日本の第2次世界大戦敗北とともに消滅)に侵攻した日(ソ・満国境突破の日)。

45年8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を破り、戦車5000台・兵員157万人の圧倒的戦力で満州国に…。満州を守備していた日本軍は蜘蛛の巣を散らすように満州に移住していた100万を超す日本人居留民を見捨て敗走。これが戦後、シベリア抑留や中国残留孤児の問題を生むことになる。なお、宣戦布告書はモスクワ時間8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、ソ連外務委員モロトフから佐藤大使に対して手交され、大使は直ちに東京に打電したが、この公電は日本に到着していない。この内容を、日本政府がソ連側から正式に言い渡されたのは、8月10日午前11時15分から12時40分。ソ連マリク大使から、東郷茂徳外務大臣に対して言い渡された(05年8月3日放送NHK『その時歴史が動いた−シリーズ終戦60年ソ連参戦の衝撃〜満蒙開拓民はなぜ取り残された』)。

 

 

 

 

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