東京大空襲
東京大空襲・戦災資料センター/東京初空襲/東京都慰霊堂/噫横川国民学校/言問橋/平和地蔵尊/浅草大平和塔/東京大空襲戦災犠牲者追悼碑/時忘じの塔/慰霊碑 哀しみの東京大空襲/東京大空襲訴訟(リンク)
3月10日は、東京都平和の日
〈追ってくる火 走る火 落下する火……たくさんの死をまたいで 逃げまどう/走る 生きのびようと 走る 死ぬかもしれないけど走るしかないから〉〈そのときだった 道端に積みあげられた枯れ草が燃えて ヨシコが燃えた〉=(たかとう匡子(まさこ)「ヨシコ」)=『大空襲三一〇人詩集』(コールサック社)の一節

東京大空襲を報じる45年3月11日付新聞
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半藤一利=06年1月13日付『毎日新聞』 東京大空襲では危うく死ぬ思いをしました。死体の片付けもした。茨城に疎開したら、米戦闘機の機銃掃射を受けた。あの地獄をもう一度繰り返してはならない。 改憲は必要ありません。まして9条を改正して軍隊を作る必要もない。例えば文民統制をどうするか、軍事を知らない首相が最高司令官になったらどうなるか。軍隊を作れば、そういう事態になる。日本人は一体、昭和史から何を学んできたんでしょうね。 今は国家の機軸がない状態で、政府も打ち出そうとしない。国家の機軸とは国民が一つになれるもの。明治時代は立憲君主制、戦後は平和憲法だった。平和憲法は国家の機軸になり得るんです。 … 世界に対して、日本が率先して「武器を捨てよう」と動いたっていいじゃないですか。よく「いい年して、青臭いことを言うんじゃないよ」と言われるけど、今こそ理想主義でいくべきです。 |
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人々は手を取り合い言問橋へと逃げた。あの橋を渡れば助かる。誰もがそう希望を抱き逃げた。しかしそれは向こう岸の人々も同じだった。灼熱の炎に追い詰められた両岸の人々が一つの橋へと殺到した。やがて身動きが取れなくなり、引き返すことも、進むこともできない状態となっていた=TBSドラマ『シリーズ激動の昭和 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の写真』(一晩で10万人もの死者を出した東京大空襲。しかしながら広島、長崎、沖縄などに比べて、報じられる機会は少ない。空襲の様子を地上から撮影した唯一の男、石川光陽を主人公としたドラマを軸に、アメリカ取材や東京大空襲の被害者の証言などのドキュメンタリー部分とあわせて、東京大空襲の知られざる真実に迫る。またドキュメンタリー部分では、筑紫哲也をナビゲーターに、当時の被害者で年老いた生存者が「これを語らずには死ねない」と惨劇を語る。08年3月10日オンエアー)の一節。 |
☆ 東京大空襲の遺族や負傷者ら被災者でつくる「東京空襲犠牲者遺族会」は06年10月29日、東京都台東区で開いた集会で、国に対し、謝罪と損害賠償を求める初めての集団訴訟を、07年3月9日に起こすことを明らかにした(東京大空襲訴訟)。同日現在、原告団は北海道から九州まで138人。弁護団は95人。訴訟の目的は、「民間人犠牲者への差別を改め、補償と謝罪を国へ求める。東京大空襲が国際法違反の無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であったことを認めさせ、戦争を始めた国の責任を追及する。民と兵の差はなく、日本の国土が戦場だったことを明らかにする」こと。
なお、名古屋空襲の戦傷病者2人が損害賠償を求めた訴訟で最高裁第2小法廷が87年6月26日、「戦争犠牲ないし戦争損害は国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)」と指摘し、請求を退けている。
初めての本格的な東京空襲は、44年(昭和19)年11月14日であった。帝都初空襲と報じるアサヒグラフ12月6日号。
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1945(昭和20)年3月10日未明の東京の下町に対するアメリカ軍の無差別・大量空爆をいい、それは、満州事変から太平洋戦争(大東亜戦争)に至るいわゆる「15年戦争」で唯一日本における地上戦となった沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶジェノサイド(大量虐殺・集団殺害・集団殺戮)を意味した。 それはまた、「重慶の遺産」であり、日本の国民は、中国・重慶の市民が日本軍により味わった悪夢を追体験(他人が体験した事柄を、解釈作業などを通して自分の体験として再現すること)するところとなる。 ところで、米軍機の日本空襲は1941年12月8日のパールハーバー奇襲によって開始された開戦翌年の1942(昭和17)年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲(ドゥリットル空襲)が最初だった。米軍の太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう)省の基地に着陸したこの奇襲は、空爆による被害より、日本の軍部中枢部や日本国民に与えた衝撃のほうがはるかに大きかった。それまで日本国民は大本営発表の連戦連勝を信じて疑わなかったからである。 B‐25 米軍による日本本土に対する本格的空爆は、1944(昭和19)年夏、アメリカ軍の日本占領地のマリアナ諸島を奪還した時から始まった。それは、日本本土の精密爆撃用に開発された「超空飛ぶ要塞」といわれた新鋭長距離超重爆撃機B―29(ボーイング29スーパーフォートレス=ボーイング社製)の爆撃圏に入ったことによる。 日本国民の戦意を打ち砕くため、アメリカ軍は民間に対する夜間の無差別攻撃を計画した。それが東京・大阪・名古屋の大都市に対するB‐29よる焼夷弾(しょういだん)爆撃である。落ちると火を吹く火災発生を目的とした爆弾(焼夷とは、焼払うこと)である焼夷弾こそ、日本の木造住宅(ペーパーハウス)を焼き尽くすために開発された武器であった。 またそれは、「戦争を早く終結させるために一般市民の士気をくじく」という、いわゆる「ドゥーエ理論」に基づいた恐怖爆撃の手法であったが、日本軍の重慶無差別空爆に際して、日本軍の重慶空爆を国際法違反とし激しく攻撃し、さらにドイツがポーランドに侵攻した1941年6月22日にも、人道的見地から市民を襲う都市空爆をしないよう呼びかけた米大統領ルーズベルト(1945年4月12日急死)による敢行でもあった。 米軍の空爆に対する日本側の防空体制は、「お粗末」の一言で表現される弱体そのものであったが、B‐29による東京に対する空爆は、1944年11月24日から敢行された。そして同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて8月の敗戦まで連日・連夜のように約9か月続き、回数は30回に及び、飛来したB‐29はのべ4,900機、投下された焼夷弾は、実に38万9,000余発、通常爆弾も1万1,000発を超えた。
東京大空襲は、43年7〜8月のハンブルク爆撃で功名をなしたC・ルメイ米空軍少将の指揮によって準備された。墨田区や江東区の下町が狙われたのは、日本の軍事工業を支える家内工業の集積地であったためである。 1945(昭和20)年3月10日午前0時8分(米軍記録7分)東京の下町深川(ふかがわ) に進入したマリアナ諸島を発進した約300機(大本営は約120機と発表)のB−29は、ルメイの指令により、それまでの高度1万メートルを越える「昼間高高度精密爆撃」から、高度1,800メートル以下の「夜間超低高度無差別爆撃」に作戦を変更、焼夷弾による「じゅうたん爆撃」を敢行した。 約2,000トンの日本の家屋用に開発したM69焼夷弾を装備したB‐29の空爆による出火は強風(風速10メートルに北風)にあおられ、猛烈な勢いで40平方キロを焼き尽く(焼失家屋は約27万戸)し、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。 約2時間30分の爆撃によって東京・下町一帯は灰燼(かいじん)に帰し(すっかり燃えて跡形もなく灰になってしまうさま)、「東京空襲を記録する会」の調査では死者数は10万人(警視庁調査では死者8万3,793人、負傷者4万0,918人)に達したのである。 その犠牲は、1945年2月13・14日の欧州最大規模の英米によるドイツ・ドレスデン爆撃のそれを(公式数字)はるかに上回るものであった。
空爆するB―29
アメリカ軍はこの2日後の45年3月12日には名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日再び名古屋、29日北九州、翌4月13日には、東京・山手(やまのて)、15日は東京・横浜・川崎と、大都市への夜間空襲を継続、5月末にも東京空襲があり、こうした空襲で東京の市街地の50.8%が焼失、全東京の建物の25%が失われ国民の恐怖は極限に達した。 東京大空襲の1カ月前、45年2月13、14の両日、戦火を逃れた避難民で人口が倍にふくれあがっていたドイツの古都ドレスデンは英米の猛烈な爆撃を受けた。街は4日間燃え続け、死者は13万人を超えた。 東京大空襲作戦を指令したカーチス・E・ルメイ(LeMay,Curtis Emerson;1906年11月15日
〜1990年10月3日【83歳】。1957年アメリカ空軍副参謀総長。キューバのソ連ミサイル基地建設に対し、アメリカが海上封鎖を断行、核戦争まで懸念された1962年のキューバ危機勃発時、キューバ空爆をケネディ大統領に提案するが却下される)司令官はその後、名古屋、大阪などの空襲や広島、長崎の原爆投下にも関与し、日本人から「鬼畜(きちく=鬼や畜生のように、人間らしい心をもっていない者)ルメイ」といわれた。 ルメイは戦後、「もし国際戦犯裁判がアメリカに対して行われたら、私は拘引され、人道に反する罪で戦犯にされたであろう。ただ幸いにして戦争に勝ったからそうならずにすんだ」と語っている。 日本政府はルメイに、「我が国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」として、1964(昭和39)年12月7日(当時アメリカ空軍参謀総長)勲一等旭日大綬章(12月4日付)を授与したが、その直後の1965年2月、ベトナム戦争でルメイは北爆(アメリカがトンキン湾事件を口実に、以降北ベトナムに対して行なった連続的な爆撃で、ベトナム戦争に対するアメリカの本格的介入の第一歩となった)を開始する。 そのときルメイは、「この空襲(北爆)によって、北ベトナムを石器時代に戻してやるんだ」と語っている。
社会党はこの叙勲に反対、1964(昭和39)年12月5日に院内で中央執行委員会を開き、「第2次大戦中に広島、長崎の原爆投下を指揮したといわれる同大将に勲章を贈ることには反対である」として、橋本登美三郎官房長官にその旨申し入れ、同月7日の衆院予算委員会では辻原弘市(つじはらこういち=和歌山県2区)をたて、政府の態度を追及した。また、広島県労も、5日佐藤栄作首相(同年11月9日成立)あてに、「今回の叙勲は正当を欠くものである。とくに原爆をうけた広島市民として認めることはできない」との抗議電報を打った。
米国・航空宇宙局博物館所蔵
広島、長崎の原爆被害にも匹敵するこの無差別殺戮はしかし、戦後60年間ずっと社会問題化されずにきた。これに関して早乙女勝元氏は、岩波ブックレット『東京大空襲60年 母の記録 敦子よ涼子よ輝一よ』(森川寿美子著)のあとがきで以下の5つの理由を挙げる。
空襲に対して、軍人軍属への国家補償はなされたが、民間の空襲被害者や障害者への補償はいっさいなかった。上の書の筆者で、東京大空襲3人の子と、5月25日の空襲で渋谷・穏田に住んでいた両親を失い、戦後2女誕生、玩具工場主の夫と下町生活を送る森川さんが手にしたのは、わずかに乾パン1袋だけだった。いま介護や年金問題でしわ寄せを受けているのが、高齢のこれら戦争体験者たちである。弱者を切り捨ててきたいびつな戦後政治の罪でもある(05年3月10日付『東京新聞』−「筆洗」)。
東京大空襲で母と妹を亡くした高木敏子さんが、戦争体験を伝えようと1979年に書いた「ガラスのうさぎ」(新版)は、若い世代に向けて、05年6月、女優の竹下景子さんが母親の声を演じるアニメになった。森川寿美子さんの手記は英訳されて、米国の大学生の心を揺さぶった。次世代へつなぎ、世界へ広げれば、事実は風化しない(05年3月10日付『日本経済新聞』−「春秋」)ということである。 |

東京大空襲(1945年3月9日−廃墟となった東京)

日本橋から両国方面を望む。川は隅田川。右の橋が新大橋

焼夷弾で黒こげになった死体

撮影;石川光陽

焼け跡を視察する昭和天皇(1945年3月18日)−東京・深川
天皇陛下におかせられてば、18日午前9時略式自動車鹵簿にて宮城正門を御発輦、敵の無差別爆撃によって、焦土と化した帝都の一角を親しく御巡幸あらせ給うた。さきに徳大寺侍従をして災害現場と罹災民の状況を具に視察せしめられたのであったがいまここに一天万乗の尊き御躬をもって畏くも劫火の余燼なほ燻る罹災地の焦土に起たせられ御躬をもつて民草と痛苦を共にし給ひ、かねて御軫念深き罹災民のうへに有難叡慮を垂れさせ給ふ俄かの思召を拝したのである。さる10日未明、敵アメリカの醜翼が帝都の空に来襲し、市街の一部に鬼畜の暴爆を加へてより、わづかに8日、その後ひきつづき、1億草萃はこの開闢以来比類まことに鮮き御巡幸の御事を拝してただただ恐懼感涙にむせぶのみ。敵は帝都の関門硫黄等島に荒れ狂ひ機動部隊またしきりに本土の周辺を侵しうかがふ。常時空襲の戦場感ひしひしと大和島根を蔽ひつつんでいまぞ父祖の土の上に伏敵の決戦をすすめんと気負ふ民草の眼前に空襲下ひとしほ御安泰を祈念しまつるのだつた大元帥陛下のいよいよ御すこやかなる御英姿は富嶽のごとく、まさに起たせられ給ふ。焦土に印し給ふ玉歩の御力強き、竜顔を拝する烈しき御雄心、ああ、忝くも畏きけふの大御績よ。大御心よ天皇陛下におかせられては、この日陸軍様式御軍装に大勲位、功1級の略綬を御佩用、松平宮相、木戸内府、藤田侍従長、蓮沼侍従武官長ら扈従の御側近も、この日ばわづかに十余名、鹵簿の自動車も御前例なき御簡素さをもって、まづ御道筋を呉服橋より、永代橋深川区富岡町の富岡八幡宮にて大達内相、西尾都長官、坂警視総監、熊谷防空総本部次長、以上4名のみの奉迎を受けさせられ、境内の御野立所に御ひろいにて進ませられ、附近の災害状況を御観望、再び自動車鹵簿にて、江東、下谷方面を御視察あらせられ、沿道の跡片づけに従事する軍隊を始め、焼け崩れた工場や家屋の整理にあたる罹災民に御眼をとめさられて、しばしば自動車を御徐行あそばされるなど、尊き御仁恵のほど御迎ひの者もひたすら感泣申し上げた。(以下略)
米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ(09年7月6日死去。享年93歳)は、読売新聞に対して東京大空襲に関する以下のコメントをしている(04年1月31日付『読売新聞』)。
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「1945年3月の空爆の日、私はグアムにいた。私はこの作戦の一員で、いかに効果的かつ低コストで空爆が実行できるかを調べる米軍の分析官だった。空爆の主役は、1943年末に導入されたB−29爆撃機。ルーズベルト大統領は、新型兵器(B−29)を最初インドと中国に配備した。これは遠すぎて失敗だった。結局、グアム、サイパンなど太平洋の島々が出撃拠点となった。我々は東京や名古屋、富山といった日本の主要都市に67回の空爆を加えた。日本はこの時点でほとんど壊滅状態となった」
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なお、マクナマラは、ハーバード大準教授から太平洋戦線に駆り出され、第2次大戦後、フォード社に入り、シートベルト普及の立役者等として活躍、社長に就任、61年のケネディ政権発足とともに国防長官となり、次のジョンソン政権まで7年間在職、キューバ危機、ベトナム戦争に深くかかわり、68年から13年間、世界銀行総裁も務めた。
95年に出版した回顧録では、「ベスト&ブライテスト」と言われたエリート集団がなぜベトナム戦争を間違った方向に導いたかを当事者として暴露し、大きな話題を呼んだマクナマラを主役にしたドキュメンタリー映画「The Fog Of War」(仮訳・戦争の霧)が、第76回アカデミー賞のドキュメンタリー賞部門でノミネートされた(04年1月31日付『読売新聞』)。
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「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ(05年3月10日付『毎日新聞』−「余禄」) |
☆ 東京大空襲の被災者ら遺族らが、国に謝罪と総額約14億円余の賠償を求めた訴訟の口頭弁論が08年11月13日、東京地裁であり、家族を失った原告5人と「東京大空襲・戦災資料センター」(江東区)館長で、作家の早乙女勝元(76)さんが証言した。原告らは自らの戦争体験を語り、「国は戦争被害を招いた責任を認めてほしい」と切々と訴えた。証言した原告は、空襲で家族を失って孤児となったり、右腕を切断したりした69〜85歳の男女5人。大空襲で家族4を失った女性は(81)は、同じ年の8月の空襲で右腕を負傷、一命は取り留めたものの、右腕を切断した。「徹夜勤務明けで国鉄赤羽駅で電車に乗っていた時、弾が右ひじに当たった。ホームに取り残され、ここで死ぬしかないのかと思った。国から本当に大変でしたねという言葉を聞きたい」と話した。父と姉を亡くし大空襲の3日後、隅田公園で仮埋葬された2人の遺体を見つけた女性は(85)は「生き残った自分を責めた」と語った。民間被災者に対する補償運動に取り組んだこともある。「戦災死者に対する扱いは軍人軍属と比べてあまりにも不公平」と訴えた。また男性は(75)は疎開先で両親と姉弟の死を知った。「父が母をかばい、母が弟をかばうようにして亡くなっているのを祖父母が見つけた」と声を詰まらせた。
◆民間人の命は雑草並み扱いか
「東京湾に流された死者や地下に眠る遺骨を含め一夜で推定10万人が亡くなった。女性や子ども、銃後の弱者に犠牲が集中した」
12歳で東京大空襲を体験した早乙女勝元さんが初めて法廷に立った。多くの人が逃げ遅れた理由を「『命をかけて持ち場を守る』よう求める『時局防空必携』を国が配り、都民を戦士に仕立てたため」と指摘。半生をかけて追及してきた惨事の実相を証言した。
63年前の大空襲の日、早乙女さんは向島区(現墨田区)の自宅から逃げる途中、「火の粉の激流」に囲まれた。「焼夷(しょうい)弾が電柱に突き刺さり、マッチ棒のように燃えた。服に火が着いた男性が振り払おうとコマのように回転し、メラメラしゅうしゅう音をたてた」
70年に「東京空襲を記録する会」を結成し翌年、ルポルタージュ「東京大空襲」を出版。「生き残った人間の義務として戦禍の真相を活字にとどめたい。人間としての執念のすべてをこめた」。こん身の一冊はベストセラーに。調査を怠る国に代わり「10万人」の死者数を算出したのも早乙女さんだ。
証人尋問では、聞き取った体験談も紹介した。泣き叫ぶ赤ん坊の口の中で真っ赤に燃えていた火の粉▽川に飛び込んで生後7カ月の娘を亡くした母親▽3人の子と両親を亡くしても乾パン一袋以外、何の補償もない女性…。一言一言刻み付けるように「一人ひとりにあった生活と人格」を話した。
「有害」と反対した被告・国の主張を覆して実現したこの日の証言に、「大空襲にこだわった人生の締めくくり」の思いを込めた。最後に「都内各所ニ火災ヲ生ジタルモ宮内省主馬寮ハ2時35分其(そ)ノ他ハ8時頃(ころ)マデニ鎮火セリ」とした45年3月10日の大本営発表を挙げた。
「10万人の死者は『其ノ他』でしかなかった。民間人の生命は雑草並みの『民草』で、戦後も旧軍人と違って何の補償もない。法の下の平等を求めます」(08年11月14日付『東京新聞』)。
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東京地裁;東京大空襲訴訟、原告の請求棄却する判決(09年12月14日) 約10万人の命が奪われたとされる東京大空襲(1945年3月10日)による負傷者や家族を失った元孤児ら131人が07〜08年、2次にわたって国に戦争を始めた国の責任の明確と謝罪及び1人当たり1100万円(総額約14億円)の損害賠償を求めた集団訴訟の判決があった(空襲被害を受けた民間人として初の本格的な集団訴訟)。原告は、旧日本軍による中国・重慶爆撃などの都市無差別爆撃が、米軍に東京を空襲する口実を与え、歴史上に類を見ない非戦闘員に対する虐殺行為を招いたと主張して、国は特別法を制定し空襲被災者らを救済する義務があったのに、援護や補償をせずに放置したと訴えていた。集団提訴した。原告の平均年齢は77歳。大阪大空襲の被害者や遺族計18人も08年12月に同様の訴訟を起こし大阪地裁で係争中。 判決は、原告側の「旧軍人・軍属や被爆者、沖縄戦被害者らが補償を受けながら、空襲被害者に救済措置がないのは、憲法が定める法の下の平等に反する」との主張については「国家が主導した戦争による被害という点では、軍人らと本質的な違いがないとの議論は成り立つ。原告らの苦痛や労苦は計り知れず、心情的には理解できる」と述べたが、各地の空襲や民間船攻撃の被害者、病死者など、すべての戦争被害者に補償を広げると、「膨大な予算が必要」「当時の国民のほとんどすべてが何らかの形で戦争被害に遭っていたと言え、司法が基準を定めて救済対象者を選別することは困難」と指摘したうえで、「誰にどのような救済を与えるかの選択は、政治的判断に委ねられる。戦闘行為をした軍人や特殊な後遺症が残る被爆者と比べ、差別的扱いがあったとは言えない」と判断、また、国が51年のサンフランシスコ平和条約で米国への賠償請求権を放棄したのは国民の保護義務違反との主張に対しては、「請求権を定めたハーグ陸戦条約の適用は全交戦国の条約加入が条件。イタリアなどが加入しておらず、第2次世界大戦は適用外」として、国に請求権自体がなかったと述べ、さらに、戦争被害を後世に伝えるため被害者の実態調査などを求めた点も「個々の国民に対する義務として実行を定めた法律は存在しない」として、いずれも原告の請求を棄却した。
なお、国側は「戦争損害は国民が等しく受忍しなければならない(戦争犠牲受忍義務論)」との87年の最高裁第2小法廷判決(名古屋空襲犠牲者慰藉料等請求上告審事件)を引用し、請求棄却を求めていたが、判決はこの点に触れなかった。 しかし、中国残留孤児訴訟では、神戸地裁が06年12月1日、「戦争犠牲受忍論」を理由に賠償責任を認めようとしない国の姿勢を否定し、原告勝訴(本判決が認定した損害は、日中国交正常化後に政府関係者がした違法な職務行為による損害であって、戦争損害ではないから、いわゆる戦争損害論(戦争犠牲・戦争損害は国民が等しく受忍しなければならないものであり〈戦争犠牲受忍論〉、これに対する補償は憲法上全く予想されていないとする理論)によって国家賠償責任を否定することはできない)の判決を言い渡すなど、受忍論を見直す司法判断も出ていた。 <戦争被害受忍論> 「戦争損害は国の存亡にかかわる非常事態の下、国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」とする論理。カナダで財産を接収された引き揚げ者が日本政府に補償を求めた訴訟の最高裁判決(1968年)で初めて示された。名古屋空襲で片腕を失った女性2人が国に賠償を求めた訴訟では最高裁判決(87年)が確定。シベリア抑留訴訟の最高裁判決(97年)などでも適用された。
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名古屋空襲犠牲者慰藉料等請求控訴事件(名古屋高裁 1980【昭和55】年7月7日判決) 控訴人らは、いずれも太平洋戦争中米国空軍による名古屋地域の空襲の際、原判決添付別紙「受傷目録」記載のとおり受傷し、右の傷害に起因し、左腕喪失の身体障害を有する者であること、援護は、旧軍人軍属等であつた者又はその遺族を援護法することを目的とし(同法一条)同法による援護の対象者は同法所定の軍人、軍属、準軍属に該当する者に限定されているため、控訴人らは同法による適用を受け得ることができず、身体障害者福祉法(以下「福祉法」という。)の適用によってのみ救護を受け得るものであること、控訴人らと同一の身体障害を有する者に対して支給される年金等は援護法の適用対象者である旧軍人軍属等については有利に取り扱われ福祉法の適用を受ける控訴人らとの間にその年金の支給金額等に差異の存することが認められる。 控訴人らは右のように援護法がその適用の対象者を旧軍人、軍属等に限定し等しく戦争による被害者でありながら一般民間人の被害者を除外したことは旧軍人軍属のみを不当に優遇するもので、援護法の立法及び適用は憲法14条に定める法の下の平等に違反する旨主張するので判断する。 援護法において戦闘員、非戦闘員の別なく多数の日本国民が戦火に遭い負傷しあるいは死亡するにいたつたことは公知の事実であるところ、戦争は国の存否にかかわる非常事態であって国民のすべてがその生命、身体、財産について犠牲を堪え忍ぶことが要求され、その犠牲は戦争犠牲又は戦争損害として国民が等しく受忍しなければならなかつたものであり、これら戦争犠牲者の人的損害を補償し、あるいはその救済のためどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量に委ねられ、それが著しく合理性を欠き、明らかに裁量の範囲を逸脱し濫用にあたると見ざるを得ないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄というべきである。 |
3月10日は63年前に東京・下町一帯が米軍の無差別爆撃で、10万人が死亡した東京大空襲の日だ。広島、長崎の原爆の日(8月6日と9日)とともに、日本人の記憶にとどめておきたい日である。米軍の長距離爆撃機「B29」による本格的な本土空襲が始まったのは、1944(昭和19)年夏以降だ。当初は、軍需工場などに目標を絞った精密爆撃だったが、翌年1月、米極東空軍司令官にカーチス・ルメイ少将が赴任してからは、住宅密集地などを標的にした無差別爆撃に切り替えられた。それは、まず、爆撃目標地域の周囲に焼夷(しょうい)弾を投下し、逃げ道をふさいだうえで絨毯(じゅうたん)爆撃を加えるという非人道的な方法だった。無差別爆撃は東京大空襲の後も、大阪、名古屋などの大都市や地方都市にも行われ、広島・長崎の原爆被害を含めると、50万人以上の民間人が犠牲になったといわれる。1922年、ハーグで日米英などの法律家委員会が作成した「空戦に関する規則(24条)」は未発効ではあったが、軍隊や軍事施設以外の目標に対する爆撃を禁止していた。東京大空襲や原爆投下を、当時の米国政府は「戦争終結を早めるため」などと正当化したが、日本の敗色が濃厚な時期に、非戦闘員を標的にした都市爆撃が本当に必要だったのか、極めて疑問である。占領下の日本で出版を禁じられたヘレン・ミアーズ氏の著書「アメリカの鏡・日本」には、「3月の東京爆撃以後、米軍は日本軍相手ではなく、主に一般市民を相手に戦争をしていた」と書かれている。ミアーズ氏はまた、米側が日本の旧ソ連を通じた和平への試みなどを知っていながら原爆を投下したとして、「原爆はソ連との政治戦争に使われた」と分析している。戦後の戦犯裁判で、B−29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資(たすく)中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が、08年3月1日から全国で公開されている。リーダーのあり方や無差別爆撃の非人道性を問うた作品だ。戦争体験者らにまじって若い観客も目立ち、関心の高さをうかがわせる。米国の国際映画祭でも上映され、拍手が鳴りやまなかったという。日本と米国の特に若い人たちに、無差別爆撃の戦争責任について、改めて問い直し、検証してほしい(08年03月09日付『産経新聞』−「主張」)。
参考文献
東京大空襲60年母の記録 : 敦子よ涼子よ輝一よ / 森川寿美子, 早乙女勝元 [著]. -- 岩波書店, 2005. -- (岩波ブックレット ; No. 648)
図説東京大空襲 / 早乙女勝元著. -- 河出書房新社.
-- (ふくろうの本)
東京大空襲 : B29から見た三月十日の真実 / E.バートレット・カー著
; 大谷勲訳. -- 光人社. -- (光人社NF文庫)
東京大空襲 / NHK編. -- NHKサービスセンター.
-- (NHK特集名作100選)
平和に生きる : 私の原点・東京大空襲 / 早乙女勝元著.
-- 草土文化
空襲下の都民生活に関する記録. -- 東京空襲を記録する会. -- (東京大空襲・戦災誌
/ 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編集 ; 第5巻)
報道・著作記録集. -- 東京空襲を記録する会. -- (東京大空襲・戦災誌
/ 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編集 ; 第4巻)
軍・政府(日米)公式記録集. -- 東京空襲を記録する会. -- (東京大空襲・戦災誌 / 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編集
; 第3巻)
都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで. -- 東京空襲を記録する会. -- (東京大空襲・戦災誌
/ 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編集 ; 第2巻)
都民の空襲体験記録集 3月10日篇. -- 東京空襲を記録する会. -- (東京大空襲・戦災誌 / 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編
; 第1巻)
都民たちの戦場〜東京大空襲〜. -- ドキュメンタリー工房. -- (映像ファイル20)
戦禍の浅草 : 娘達が記録する東京大空襲 / 創価学会青年部反戦出版委員会編.
-- 第三文明社. -- (戦争を知らない世代へ ; 24 東京編)
東京大空襲 : 昭和20年3月10日の記録
/ 早乙女勝元著. -- 岩波書店. -- (岩波新書(青版) ; 775)