☆極東国際軍事(東京)裁判☆

 

極東国際軍事裁判所条例

 

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法廷(東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂) 

 

東条英機A級戦犯15人が弁護団へあてた自筆の意見書の写しが、国立公文書館に保存されていた。裁判に不満をもらし、自衛戦だったなどと自説にこだわる姿が浮かび上がってくる。28人いる被告の一部が意見書を記したことは知られていたが、顔ぶれや詳しい内容は公になっていなかった。肉声や弁護の内幕をうかがわせる貴重な資料といえる。A級戦犯の死刑執行から08年12月23日で60年となった。東京裁判は46年5月に開廷したが、意見書は同年8月ごろに記されたらしい。弁護側の冒頭陳述で訴えてほしいことを約80ページにわたり書いている。弁護団のメンバーが持っていた資料を法務省が63年に複製。移管を受けた公文書館が07年夏から公開していた。太平洋戦争に踏み切った東条(後の判決で死刑)は、他の2人と連名で提出した。戦争の本当の原因は、欧米の東アジアに対する半植民地的政策の影響と、世界の「赤化(せっか=赤」はプロレタリア革命の旗色で、共産主義思想や機構を認め、受け入れること。また、その思想に染まること」を狙う共産党の策動だったと審理を批判。自身の政権下では、アジア各国とは対等の立場だったとも主張している。また原爆投下など戦勝国の「計画的なる大量虐殺」を裁かない不公平も追及するように訴えている。ほかに意見書を書いたのは、中国の奉天特務機関長だった土肥原賢二や元外相の重光葵(しげみつ・まもる)ら。36年の日独防共協定(1936年11月25日締結の日本とドイツがソ連を中心とする共産主義国際組織コミンテルン〔第3インターナショナル=レーニンの率いるロシア共産党を中心とする各国の共産党および左派社会民主主義者グループによってモスクワで創設された国際的な労働者組織〕への対抗措置を定め、秘密協定とされた付属議定書でソ連を仮想敵国とした協定。翌年、イタリアも参加して、日独伊防共協定となったを結んだ時の首相で、文官としてただ1人死刑判決を受けた広田弘毅(こうき)や、天皇の側近だった内大臣の木戸幸一(1889〜1977。東京の生まれ政治家。明治の政治家木戸孝允〔たかよし=吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍。維新後、5か条の誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。「こういん」ともいう〕の孫。文相・内相などを経て内大臣。東条英機を首相に推すなど天皇側近として影響力をもったA級戦犯として終身禁固刑、のち仮釈放ら13人については、意見書が存在しなかった(08年12月24日付『朝日新聞』)

 

 

次ぎ次ぎに拉致(らち)されてゆく高官の名を聞くだにも生ける甲斐(かい)あり

 

 戦時下に弾圧された言論を封殺されたうえに京大教授を追放された経済学者の河上肇(はじめ=1879〜1946。山口の生まれの経済学者・社会思想家。マルクス主義経済学の研究・紹介に努めことから大学を追われた。のち、日本共産党に入党、治安維持法違反で検挙されて入獄。代表的著作に「資本論入門」「経済学大綱」「貧乏物語」「自叙伝」などがあるは、東条英機ら戦争指導者が相次いで逮捕されたときの心境をこうのように詠んだ(『河上肇詩集』)

 

 

第2次大戦後、連合国によって行なわれた、日本の戦前・戦中の(戦争)指導者28人(昭和天皇は訴追せず)を「重大戦争犯罪人」(A級戦犯 =政府・軍部首脳が対象⇒B・C戦犯)として審理した国際軍事裁判(国際軍事裁判は、東京とニュルンベルクで行われた)をいう(通称は東京裁判)==⇒日本の戦争犯罪についての軍事裁判

 

ポツダム宣言第10項の戦犯処罰規程を根拠に、極東軍事裁判所条例により、11カ国の連合国名によって「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」の3つに分類された55項目の訴因に基づく起訴状により46年4月29日に起訴された。

 

法廷は同年5月3日に開廷され、2年6カ月後の48年11月12日(開廷から判決まで924日間)に刑が宣告された。

 

判事は11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任された(中立国からは1人も選ばれなかった)。キーナン首席検事以下の国際検事団に対して、弁護団は鵜沢総明(うざわふさあき=1872〜1955。明治〜昭和時代の弁護士・政治家。大逆事件、血盟団事件《国家革新を目ざし、一人一殺主義を掲げた井上日召〈にっしょう〉の指導によって結成された右翼団体で1932〈昭和7〉年に井上準之助や団琢磨を暗殺した。裁判で井上は無期懲役となったが、恩赦で出獄。第2次大戦後、護国団を設立した)、5・15《ごういちごう》事件などの大事件を担当。1908《明治41》年衆議院議員《当選6回、政友会》。1928《昭和3》年貴族院議員、1934《昭和9》年明治大学総長)が団長、清瀬一郎が副団長となった。

 

キーナン首席検事は、冒頭陳述で、「東京裁判が世界を破滅から救うための文明の闘争である」と位置付けた。これに対して弁護側は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」へと拡大された戦争犯罪の概念が国際法上未確立である上、「日本に侵略する意図はなく、満州事変から太平洋戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争」と反論、激しく対立した。

 

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東京裁判開廷日のA級戦犯―46年5月3日

 

48年11月12日、起訴された28人中、裁判途中で死亡(松岡洋右〈ようすけ〉・永野修身〈おさみ〉)、病気免訴(大川周明〈しゅうめい〉)となった3人を除いて25人の被告人全員が有罪となり(55の訴因中10の訴因を認め、「満州事変から太平洋戦争にいたる日本の軍事行動を侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定)、その内絞首刑7人東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土肥原(どいはら)賢二陸軍大将,松井石根(いわね)陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅(こうき)元首相=1948年12月23日に絞首刑)・終身禁固16人・禁固20年 1人・禁固7年1人であった。

 

判決は多数決によったが、少数意見の裁判官の5人いた。そのうちの1人ウエップ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきでない」と判決文にしたため、フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くこができるのか」と述べ、インドのパル判事は、日本の「無罪」を主張し、アメリカの原爆投下を非難した。

 

GHQにより徹底した言論統制下に置かれていたことから、極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する疑問や批判は封じられたばかりか、被告全員を無罪としたインドのパル判事による判決書は、刊行が禁止された。

  

判決後弁護側は、連合国軍最高司令官へ再審査を申し立てるが、却下され、直ちにアメリカ連邦最高裁に訴願するが、これも却下された。

 

起訴されなかったA級戦犯容疑者に対する第2次起訴が当初予定されていたが、冷戦構造の激化で見送られた。戦犯容疑で収監され最後(48年12月24日)まで起訴未決で勾留されていたのは、後に首相となり、安保条約改定(60年安保)を成し遂げた岸信介(しんすけ)、ロッキード事件で病床尋問された政界の黒幕児玉誉士夫(よしお)、笹川良一、後藤文夫、天羽(あもう)英二、須磨弥吉郎ら17人(うち岸と児玉は2次のA級戦犯として起訴が予定されていった)。また出頭を命じられたA級戦犯容疑者は100人を上回った(元参謀総長杉山元〈はじめ〉、元厚生大臣小泉親彦〈ちかひこ〉、元首相近衛文麿らは出頭を拒否し自殺した)

 

ところで、極東国際軍事裁判で有期・無期の禁固刑に処せられたA級戦犯18名の中、獄中で病死した梅津美治郎〈よしじろう〉・白鳥敏夫・東郷茂徳〈しげのり〉・小磯国昭〈くにあき〉の4名以外の者も相次いで仮釈放の形で出所後、1958年4月の連合国通達により刑が免除された。結局彼らは、1948年11月東京裁判判決で終身・有期禁固刑に処されながら、10年も経たない内に娑婆にでた(出所した)ことなる。

 

A級戦犯で絞首刑になった7人をはじめ14人は、1978(昭和53)年10月 から靖国神社に“昭和受難者”として合祀(ごうし)された。また、A級戦犯として絞首刑になった7人も、国内法では「刑死」ではない、「公務死」の扱いになっており、1953(昭和26)年年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。禁固7年とされた重光葵元外相は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宣(かやおきのり)元蔵相は、池田内閣の法相を務めている。“A級犯罪人”が法務大臣になったのである。

 

なお、48年11月12日、東条ら7被告に死刑判決が言い渡された時には、その減刑嘆願が1万件、署名は10万人にのぼったといわれる(戦前の内務官僚〔初代特高警察部長にして鈴木貫太郎内閣の内務大臣であった安倍源基〔げんき〕の著作『巣鴨日記』)。

 

同年12月23日未明に死刑が執行されると、朝日新聞は23日付社説「平和の祈り」で 「(裁判の終結で)国民は一切の責任から解放された、とする安易な考え方がありはしないか」問いかけた。

 

 

A級戦犯28名とその主な経歴

 

氏  名 

判決

経    歴

荒木貞夫

終身禁錮刑

24年憲兵司令官、25年陸軍参謀本部第1部長、31年教育総監部本部長、犬養斎藤内閣で陸相、同年軍部内閣の樹立を目指した青年将校らによるクーデター計画(10月事件)では、首相兼陸相候補にあげられた33年大将、37年第1次近衛内閣平沼内閣で文相⇒66年11月死亡

土肥原賢二

絞首刑

31年関東軍司令部付奉天特務機関長として関東軍の政治謀略に実行役として辣腕を振るう、37年第14師団長、39年第5軍(満州東部)司令官、40年軍事参議官、41年大将(航空総監)、44年第7方面(シンガポール)軍司令官、44年45年教育総監、第12方面軍司令官兼第1総軍司令官

橋本欣五郎

終身禁錮刑

31年10月事件の作戦をねる、32年満州里特務機関長、36年日本青年党統領、42年衆院議員、南京事件当時の現地砲兵(野戦重砲第13)連隊長、侵略戦争を主張した多数の著書・論文を発表。軍の政治支配の扇動、侵略戦争促進を目的とする多くの団体の会員で大政翼賛会創設者の1人⇒57年6月死亡

畑俊六

終身禁錮刑

19年陸軍大教官、23年参謀本部作戦課長、33年在満第14師団長、35年航空本部長、36年台湾軍司令官、38年中支那派遣軍司令官、39年阿部内閣陸相、44年元帥、教育総監⇒62年5月死亡

平沼騏一郎

終身禁錮刑

検事総長、大審院院長、第2次山本内閣司法相、24年国本〈こくほん〉社を創設、36年枢密院議長、39年首相第2次近衛内閣内務相、第3次近衛内閣の国務相、45年再度枢密院議長⇒52年8月病気のため仮出所直後に死亡

広田弘毅

絞首刑

30年駐ソ大使、斎藤・岡田内閣外相としてワシントン軍縮条約の破棄を決定。中国政府に広田三原則(排日取締・満州国証人・共同防共)提示、36年首相第1次近衛内閣外相(「国民政府を相手とせず」との声明を出す)、45年駐ソ大使(和平仲介に失敗)、南京大虐殺事件の外交責任を問われ、文官としてただ1人絞首刑。死刑になった7人の中で唯一の文官だった広田弘毅元首相については、判事たちの間でも意見が割れた。死刑確定は6対5の1票差だった

大川周明

免訴

国家主義者、北一輝〈いっき〉らと国家主義団体猶存社を結成、31年の3月事件ではクーデターを計画、翌年5・15事件では資金提供で禁固刑を受ける。奉天事件の組織者の1人。『日本歴史読本』の著者でアジアから白色人種の武力放逐を目的とした侵略戦争鼓吹の論文を多く出版し、講演や演説をした⇒東京裁判の法廷で「東条英機の頭を叩く」等の奇矯が目立ち、48年に精神障害により免訴・釈放⇒57年12月死亡

大島浩

終身禁錮刑

34年在ドイツ陸軍武官、36年の日独防共協定を主唱、38年中将・ドイツ駐在大使(日独伊三国同盟締結に尽力)⇒55年釈放⇒75年6月死亡

佐藤賢了

終身禁錮刑

36年8月陸軍省軍務局軍務課国内班長として国家総動員を担当、38年3月国家総動員法案を審議中衆議院の委員会での議員のヤジに対して「黙!」と一喝、問題となるが処罰は免れる、42年4月陸軍省軍務局長に就任、東条内閣を支える、45年3月中将、4月第37師団長⇒56年釈放⇒75年2月死亡

重光葵

禁錮7年

31年中国公使、32年1月の上海事件収拾中の同年4月、天長節祝賀式場で朝鮮人独立運動家尹奉吉〈ゆんぼんぎる−同年12月処刑〉の爆弾を受け負傷、片足を失う、36年駐ソ大使、駐英大使経て、南京傀儡政府駐在大使、43年東条小磯内閣外相、45年東久邇内閣外相、降伏文書に署名⇒1950年に仮釈放、51年刑期満了、52年に改進党総裁、54年鳩山内閣(1次〜3次)外相(日ソ国交回復などを行う)⇒57年1月死亡

嶋田繁太郎

終身禁錮刑

29年少将、33年軍令部第1部長、35年軍令部次長、40年支那方面艦隊司令長官、41年東条内閣海相(東条の言いなりになる『嶋田副官』と揶揄された)、42年東条首相兼陸相兼参謀総長の下で海相兼軍令部総長⇒55年釈放⇒76年6月死亡

白鳥敏夫

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終身禁錮刑

千葉県出身。東京帝大卒後外務省にはいり、30年外務省情報部長、38年イタリア大使となり国連脱退など軍部と連携して強硬外交を推進、38年駐伊大使、在独大使の大島浩と組んで日独伊三国同盟の推進を図る。40年外務省顧問となり松岡洋右のブレーンとなる。大政翼賛会総務になり42年衆議院議員49年6月3獄中で死亡(63歳)

鈴木貞一

終身禁錮刑

31年のクーデター(未発)に参画、35年内閣調査局調査官、興亜院政務部長、40年中将、41年第2次近衛国務相兼企画院総裁・東条内閣の国務相兼企画院総裁、41年11月の御前会議で英米蘭と戦争を行う方が「座して相手の圧迫を待つに比しまして国力の保持増進上有利であると確信いたします」との説明を行い、開戦に大きな役割を果たした。その後貴族院議員、大日本産業報告会会長などを務め、「背広を着た軍人」といわれた⇒55年仮釈放⇒89年7月に99歳で死亡

東郷茂徳

禁錮20年

37年駐独大使、38年駐ソ大使、41年東条内閣外相兼拓相、42年大東亜省設置問題で東条と対立辞任、45年鈴木内閣外相(終戦工作に従事、大東亜相48年11月拘禁中のアメリカ陸軍病院で死亡

星野直樹

終身禁錮刑

36年満州国総務長官、40年近衛内閣企画院総裁、41年東条内閣書記官長(東条の側近として大きな発言力を持つ⇒55年釈放⇒東京ヒルトンホテル副社長など東急系会社の重役を務め78年5月死亡

板垣征四郎

絞首刑

関東軍高級参謀、関東軍参謀長(満州事変の責任者)第1次近衛内閣平沼内閣陸相、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官

賀屋興宣

終身禁錮刑

大蔵省に入り、29年ロンドン軍縮会議全権委員随員、34年主計局長、37年大蔵次官、同年第1次近衛内閣蔵相(戦時体制に呼応した財政として「物の予算」を主唱)、39年北支那開発会社総裁、41年東条内閣蔵相⇒55年仮釈放⇒58年赦免、衆議院議員(自民党タカ派)⇒63年第2次池田内閣第3次改造内閣法相、日本遺族会会長

木戸幸一

終身禁錮刑

明治の元勲・木戸孝允〈こういん〉の孫、牧野伸顕〈のぶあき〉内大臣秘書官長、第1次近衛内閣文相、厚相、平沼内閣内相、40年内大臣、元老・西園寺公望〈きんもち〉に代わって昭和天皇の政治顧問(側近)となり、重臣会議を主宰。45年天皇を終戦へと方向転換させる等、終戦に重大な役割を果たす⇒55年仮釈放、以後、大礒で隠遁⇒東京裁判に証拠として提出された『木戸幸一日記』は余りにも有名

木村兵太郎

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絞首刑

関東軍参謀長、近衛・東条内閣陸軍次官、ビルマ方面軍司令官

小磯国昭

終身禁錮刑

30年陸軍省軍務局長、宇垣一成の腹心として三月事件、32年陸軍次官、35年朝鮮軍司令官、39年平沼内閣・40年米内内閣拓務相、44年首相(東条退陣後の総理大臣)、45年4月、米軍の沖縄本島上陸を機に辞任50年11月獄中で死亡

松井石根

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絞首刑

日露戦争に歩兵大尉として従軍(戦傷)、21年ハルピン特務機関長、25年参謀本部第2部長、33年大将、同年大東亜協会創設(主宰)、37年中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、38年復員帰国、同年内閣参議、大政翼賛会興連総本部統理⇒東京裁判で38の訴因を持って起訴され、南京大虐殺の責任者として断罪される

松岡洋右

裁判中に死亡

外交官から政友会代議士(後に副総裁)、「満蒙〈まんもう=中国の満州と内蒙古〉生命線」を唱えて幣原外交を攻撃、33年国際連盟臨時会議首席代表(満州国を否認する「リットン報告書」の採択に抗議して退場⇒同年3月国連脱退)、35年南満鉄道総裁、40年第2次近衛内閣内閣外相、41年訪独の帰途に「日ソ中立条約」をまとめる。侵略戦争を主張した『昭和維新』の著者で反米・親独外交を展開⇒46年6月東大病院で裁判中に死亡

南次郎

終身禁錮刑

朝鮮軍司令官、若槻内閣陸相、関東軍司令官、朝鮮総督、枢密顧問官、大日本政治会総裁

武藤章

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絞首刑

陸軍大学教官、参謀本部課長、陸軍省軍務局長、山下大将の下で在フィリピン第14方面軍参謀長

永野修身

裁判中に死亡

36年広田内閣海相、37年連合艦隊司令長官、41年軍令部総長、日米開戦では早期艦船論を展開、山本五十六を支持して部内で反対が強かった真珠湾奇襲攻撃を承認、43年元帥⇒裁判中の47年に死亡

岡敬純

終身禁錮刑

34年海軍省臨時調査課長、軍務局軍務1課長、軍令部第3部長を経て、40年海軍省軍務局長(近衛・東条内閣)となり、対米開戦以後の戦争指導の中枢を担う。45年6月中将で予備役⇒54年仮釈放

東条英機

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絞首刑

関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、第2次近衛内閣第3次近衛内閣陸軍次官、陸相、首相、参謀総長

梅津美治郎

終身禁錮刑

支那駐屯軍司令官、広田・林および近衛内閣陸軍次官、関東軍司令官(総司令官)、参謀総長(日本陸軍最後の参謀総長として降伏文書に調印)⇒獄中で死亡

 

1978年10月17日、靖国神社が以下の14名を「昭和の殉難者」として合祀した。

板垣征四郎/梅津美治郎/木村兵太郎/小磯国昭/白鳥敏夫/土肥原賢二/東郷茂徳/東條英機/永野修身/平沼騏一郎/広田弘毅/松井石根/松岡洋右/武藤章

 

参考文献;朝日新聞社『現代日本朝日人物事典』

東京堂『昭和史の事典』

『週刊文春』02年8月29日号

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東京裁判関連年表

 

1945年08月15日

敗戦

09月11日

GHQ;東条に戦犯容疑者として出頭命令、ピストルで自殺未遂

12月06日

キーナン首席検事来日

12月15日 

近衛文麿服毒自殺

1946年01月22日

極東国際軍事(東京)裁判所条例布告

03月23日

極東国際軍事(東京)法廷;東京・市ガ谷に完成

04月21日 

マッカーサー最高司令官;起訴状にサイン

04月29日

28人の被告を起訴

05月03日

極東国際軍事(東京)裁判開廷(3〜4日東条英機、松岡洋右以下6名の起訴状朗読)

05月06日

清瀬弁護人動議提出=罪状認否

05月17日 

パール判事入廷

05月18日

広田弘毅夫人静子自殺

06月04日

キーナン冒頭陳述、検察側立証開始

06月27日

松岡洋右被告病死

07月05日

田中隆吉出廷

1947年01月05日

永野修身被告病死

01月24日

検察側立証段階終了

01月27日

控訴棄却動議

02月24日

弁護側冒頭陳述

04月09日

大川周明病気のため審理除外

05月01日

石原莞爾;酒田出張法廷(酒田市)に出頭

09月10日

被告個人の反証開始

12月26日

東条の反証開始

12月30日

東条に対する尋問

12月31日

キーナン反対尋問

1948年01月07日

東条証言終了

01月12日

弁護側補充立証終了

02月11日

最終論告開始

03月02日

最終論告終了、最終弁論開始

04月16日

結審

11月12日

被告全員(25人)に有罪判決(7人絞首刑・16人終身禁固刑・2人有期禁固刑)

12月23日

巣鴨プリズン(東京・池袋)で死刑執行

1958年04月07日

東京裁判を行った連合国11ヶ国が日本政府に対して、残りのA級戦犯受刑者全員の刑執行を免除する旨の通告

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参考文献

 

1.  アメリカ占領下の日本−GHQ撮影全記録 (3) <東京裁判>[コニービデオ] ([nod.])

2.  木戸幸一尋問調書−東京裁判資料 粟屋憲太郎/ほか編 大月書店 (1987.1)

3.  木戸幸一日記−東京裁判期 木戸日記研究会/編集校訂 東京大学出版会 (1980.7)

4.  現代日本の歩み−映像ドキュメント (政治編 (3)) <東京裁判> [ASAHI VIDEO LIBRARY] NHKソフトウェア (1995.)

5.  憲法九条・侵略戦争・東京裁判 佐藤和男/著 原書房 (1987.6)

6.  十五年戦争極秘資料集 (5) <東京裁判大山文雄関係資料> 不二出版 (1988.10) 

7.  新聞集成 昭和史の証言 (23) <昭和二十三年 東京裁判・インフレ収束> 宮崎吉政/[ほか]編纂 SBB出版会 (1991.5)

8.  正義を貫いた東條英機東京裁判供述書 高原大学/編 高原大学総本部 (1998.8)

9.   「争論」東京裁判とは何だったのか 五十嵐武士、北岡伸一/編 築地書館 (1997.10)

10. 東京裁判 [日評選書] 島内龍起/著 日本評論社 (1984.9)

11.   東京裁判 [岩波ブックレット] 赤沢史朗/[] 岩波書店 (1989.4)

12.  東京裁判−もう一つのニュルンベルク アーノルド・C.ブラックマン/著 時事通信社 (1991.8)

13.   東京裁判−勝者の裁き リチャード・H.マイニア/著 福村出版 (1985.6)

14.   東京裁判 (下巻) 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1977.3)

15.   東京裁判 (中巻) 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1977.3)

16.   東京裁判 (上巻) 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1977.3)

17.   東京裁判 小林正樹/監督 講談社 (1983)

18.  東京裁判 () <検事篇 大日本帝国の犯罪> 朝日新聞東京裁判記者団/著 講談社 (1983.5)

19.  東京裁判 () [中公新書] 児島襄/著 中央公論社 (1971.3)

20.  東京裁判 () 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1962.3)

21.  東京裁判 () <弁論・判決篇 勝者が敗者を裁けるか> 朝日新聞東京裁判記者団/著 講談社 (1983.5)

22.  東京裁判 () [中公新書] 児島襄/著 中央公論社 (1971.4)

23.  東京裁判 () 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1962.6)

24.  東京裁判 () 朝日新聞法廷記者団/著 東京裁判刊行会 (1962.9)

25.  東京裁判 (7) <最終論告・弁論(各論)> 朝日新聞社法廷記者団/編 ニュー社 (1948.8)

26.  東京裁判を問う−国際シンポジウム 細谷千博/[ほか]編 講談社 (1984.7)

27.  東京裁判から戦後責任の思想へ 大沼保昭/著 有信堂高文社 (1985.5)

28.  東京裁判から戦後責任の思想へ 大沼保昭/著 東信堂 (1987.6)

29.  東京裁判から戦後責任の思想へ 大沼保昭/著 東信堂 (1993.11)

30.  東京裁判から戦後責任の思想へ  大沼保昭/著 東信堂 (1997.9)

31.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (1) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.2)

32.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (2) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.2)

33.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (3) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.2)

34.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (4) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.2)

35.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (5) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.4)

36.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (5) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.4)

37.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (6) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.4)

38.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (7) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.4)

39.  東京裁判却下未提出弁護側資料 (8) 東京裁判資料刊行会/編 国書刊行会 (1995.4)

40.  東京裁判資料・田中隆吉尋問調書 粟屋憲太郎/[ほか]編 大月書店 (1994.11)

41.  東京裁判資料・俘虜情報局関係文書 内海愛子、 永井均/編集・解説 現代史料出版 (1999.2)

42.  東京裁判とオランダ L.ファン・プールヘースト/[] みすず書房 (1997.5)

43.   「東京裁判」は証言する−不調に終った日米交渉、その真相に迫る (上巻) 富士信夫/著 閣文社 (1991.12)

44.  東京裁判判決−極東国際軍事裁判所判決文 毎日新聞社 (1949.1)

45.  東京裁判ハンドブック 東京裁判ハンドブック編集委員会/編 青木書店 (1989.8)

46.  東京裁判弁護雑録 島内竜起/著 島内竜起 (1973)

47.  東京裁判論 粟屋憲太郎/著 大月書店 (1989.7)

48.  「東京裁判」は証言する−不調に終った日米交渉、その真相に迫る (下巻) 富士信夫/著 閣文社 (1991.12)ドキュメント東京裁判

三根生久大/著 ダイナミックセラーズ (1983.4) 

49.  秘録東京裁判 清瀬一郎/著 読売新聞社 (1967.3)

50.  平和宣言第一章−東京裁判おぼえがき 野村正男/著 日南書房 (1949.4)

51.   『昭和―2万日の記録7』講談社(1990.1)  

 

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