帝銀事件

帝銀事件ホームページ〈BOOK〉「帝銀事件」を読み解く

『帝銀事件−死刑囚』(熊井啓監督作品)−にっかつビデオ

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DVD=4,935円(税込)


世にも不思議な物語−平沢氏は真犯人ではない?/ 真犯人は、731部隊関係者か?

 映画は、最高裁で死刑が確定した後、30年間(無期懲役を2度くらったことを意味する)にわたって死刑が執行されなかった平沢氏は、断じて真犯人ではない(冤罪)との視点から、緻密に捜査記録や公判資料を分析し、事実にも基づき作り上げている。

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帝銀事件発生直後の現場付近。
群集が銀行内の状況を食中毒と間違
えてなだれ込み、大混乱をきたした。

凄惨な犯行現場

1948(昭和23)年1月26日午後3時すぎ、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に「東京都防疫班」の腕章をした男が現れ、「近くの家で集団赤痢が発生した」などといい、 行員らに「予防薬」と偽って毒物を飲ませ、12人を死亡、4人を重体に陥らせた。男はこのすきに現金約16万円と1万7450円の小切手1通を盗んで逃げた。

毒物をピペットようのもので茶わんに注ぎ込んだり、「予防薬」と「中和剤」を2回に分けて飲ませたりするなど、毒物に詳しいとみられる犯行の手口などから、警視庁は当初、731部隊の元隊員など旧軍関係者を有力視して捜査を展開。他方、同一人 と見られる犯人が事件前の47(昭和22)年10月に安田(後、富士)銀行(現・みずほ銀行)荏原支店で使った松井蔚(しげる)博士の名刺に着目し、松井氏の名刺交付先を調べる班も設けられた。

捜査の主流は「731部隊」説だったが、「名刺班」は6月3日に北海道小樽市で平沢貞道(さだみち)(当時56歳)を聴取して以来、平沢氏への疑いを深め、8月21日に逮捕。東京地検は別件で起訴したあと、10月12日に帝銀事件で追起訴した。

平沢氏は、1892(明治25)年2月18日憲兵だった父の長男として東京でうまれ、父の転勤で小樽へ。子供の時から絵が好きで、すでに小樽中学校4年生の時に「昆布干すアイヌ」で二科展に入選している。卒業後上京、水彩画からテンペラ画に転じ1930(昭和5)年には帝展の無鑑査となるなど、画家としての地位を築き、テンペラ画会の会長の勤めた。24歳の時、小樽出身のマサさん(1980年死去)と結婚、2男3女をもうけている。その一方で

1925(大正14)年ごろ狂犬病の予防注射による脳疾患コルサコフ病にかかっており、回復後も誇張症などが現れた。このため裁判では精神鑑定が行われたが、責任能力に影響を与える程度のものではないとされた。

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法廷の平沢氏(1951年、東京高裁で控訴棄却されたとき)

モンタージュ・筆跡・ピペット等をのせた捜査必携(画像


 

森川哲郎 『獄中1万日』あとがき

 帝銀事件は、歴央的に見ても例のない特殊な事件である。
@第1に、午後3時少しすぎという時間に起こった銀行強盗事件で、それも16名の行員に青酸毒物を飲ませて倒し、現金強奪したという手口の類例のない特殊牲である。
Aその手口の待殊牲から、医療、防疫の玄人、それも旧日本陸軍関係の特殊の業務についた者に適格者がしぼられ、約半年以上捜査の指示も詳細にその点を分析して指摘してあったことである。
B突如7力月目、毒物には全く素人の画家平沢貞通が逮補され、猛追及されて34日目に自白して、軍はじめ玄人関係の捜査はすべて打ち切られたことである。
Cしかし、その平沢の自白には、何一つ裏づけになる物的証拠はなかった。凶器である毒物ですら入手経路は明らかにならなかった。にもかかわらず、自白だけを証拠として死刑判決は確定した。
Dその後、もっとも犯人として適格性があるとして旧陸軍細菌兵器研究部隊を追及捜査していた元特命捜査班の成智英雄主任が、「救う全」に入会し昭和48年に死亡するまで、平沢の犯行ではないと主張しつづけた。
Eまた、やはり同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞の記者が、捜査本部長から取材を抑えられ、社会部次長が、GHQと捜査本部長から圧力を受けて追及を断念したことが明らかにされた。それをバクロしたのは、元鑑識課長と記者自身であった。
Fさらに、法務省人権擁護部自体が、平沢有罪のもっとも重要な自白調書2通が偽造であることを鑑定して発表、それに基づいて、弁護士が再審請求を起こしたが、再審規定の狭いワクに阻まれ棄却され、検事を告発したが時効完成で棄却された。
G以来、再々死刑が切追したが、「救う会」の猛連動にこたえて、国会、世論が動き、平沢逮捕以来約30年、死刑確定以来20年をこえる歳月、その死刑は執行されず85歳になろうとする平沢貞通は、1万日をこえる獄中で、無実を訴えつづけている。
 これらの現象は、他の事件には全く例のないもので、平沢貞通の運命が、今後どうなろうとも、一つが語りつがれる独待の性格を持ったものである。
 「ギネスブヅク」は刑を執行されないままもっとも長期間拘禁されている点で、平沢を世界最長記録としてあげているが、そのような興味本位ではなく、世界各国から強力な関心がよせられている。
 昭和28年、『アジアマガジン』は、5ページにわたって、歴代の法務大臣の顔写真を大さくのせ、なぜ死刑判決が行なわれないのかを詳しく報道、「救う会」の運動についても詳細に報道した。やはり同年『タイム』誌が報道したほか、以来多くの外国通信が、平沢事件を報道している。
 日活が製作した〃帝銀事件、死刑囚〃は、チェコスロバキヤで受賞したほか、各国で高く評価された」。イタリアテレビは来日して「救う会」の集会を撮影取材したとき、平沢に会わせてくれと執拗に要求した。日本の刑務所は、報道関係者に囚人に対する取材はさせないというと、デモクラシーの原則を蹂躙していると、厳しく憤っていた。 外国通信も含めて、日本のテレビや雑誌の取材が、報道者は平沢に面会でさないという壁のために実現せず、人権思想に基づく貴重な企画が、どれだけ空しく消えたことか、数え切れない。
 戦後、松川事件や八海事件を発火点として多くの裁判批判がおこったが、その中で帝銀事件は、もっとも難しく人権運動史上多くの問題点を提起するものであった。
 最近、無実を61年訴えつづけた加藤翁の再審が決定して話題を呼んだが、この書にも書いた通り、死刑確定囚の再審が決定した例は、明治以来1件もなかったのであるが(加藤翁は有期刑)、本文が校了になったあとの昭和51年10月13日、最高裁は財田川強殺事件(昭和25年香川県三豊郡財田村でヤミ米ブローカー香川重雄さんが殺され谷口繁義が逮捕された)の死刑囚谷口繁義に対してようやく再審の道を開いた。これが実現すると日本裁判史上初めての例になる。(谷口は例の神近法案の該当者である)。
 いままでにも無実を訴えつづけながら再審制度の厚い壁にはばまれて、どれだけ多くの死刑囚が執行され、また獄死してきたことであろう。その代表的な例に、三鷹事件の竹内景助死刑囚の場合がある。 また、27年間無実を訴えつづけたはて、死刑執行された福岡事件の西武雄がいる。また、ライ患者の死刑確定囚として、無実を訴え再審請求をつづけていた藤本松夫は、最後は抵抗しながら、看守にひきずられて、死刑台に上り、首に縄をかけられたと伝えられている。
 人間の裁きは、そのように確実なものなのか?神に代り得るものなのか?二度とかえらない人命を次々と大量に奪うに足るだけの絶対性をもつものなのか?歴代の法務大臣の執行数を見ると、38名、27名、16名などとバタバクと多数執行した例も少なくはない。それも死刑囚の独房が足りないからやむを得ないなどという説明を私は当局者から受けたことがある。 年問何百万件の事件が起こる中で、政治家でもある法務大臣が、死刑囚の判決が正確なものかどうか、資料の研究に没頭するわけには行かないし、事実上そのようなことはできない。彼らは何の確信をもって人間の生命を多数屠って行くのだろうか?
 帝銀事件は、再審制度の改正とともに、現行死刑制度にも、深い疑問を投げかけるものである。 この書の発行にあたって、支援をいただいた松本清張氏をはじめ「救う会」の多くの方々、赤松勇氏をはしめ各党の議員、学者などのほか図書出版社に対し深い謝意を表する。


平沢氏死去--1987(昭和62)年5月10日午前8時45分---95歳

逮捕以来38年獄窓14,142日--処刑されざる死刑囚として32年余--世界に例なし

 

1948(昭23)年 1月26日

帝銀事件発生

 2月中旬ごろ

731部隊についての情報があり、警視庁の捜査本部が隊長だった石井四郎元中将を呼んで聴くと、『犯人はかつて自分の部下だった者かもしれない。 だが、部下を売るようなことはできない』と、資料提出を拒んだ。そこで警視総監が 元中将に『警視庁嘱託』の辞令を出して協力を求め、名簿をそろえた。この時期の捜査要綱には731部隊のことばかり書いている

 2月 6日

「松井」名刺の交付先の1人として平沢の名が浮かぶ

 6月 3日 

「名刺班」の居木井為五郎警部補らが小樽市を訪ね、平沢に会う

 6月12日 

居木井警部補らは平沢を付近のすし屋に呼び出し、「記念写真」を撮る

 8月21日 

警視庁、平沢を小樽市で逮捕。東京へ護送

 9月 3日

東京地検、別件の詐欺事件で平沢を起訴

 9月21日 

平沢、帝銀事件について自白を始める

12月20日

東京地裁で開かれた初公判で平沢は犯行を否認。

50(25)年
 7月24日 

東京地裁が死刑を言い渡す

51(26)年
 9月29日 

東京高裁も死刑を宣告

55(30)年
 4月 6日 
 

最高裁が上告を棄却

 5月 7日

死刑確定

 6月22日 

第1次再審請求

62(37)年
 7月10日 

「平沢貞通氏を救う会」(森川哲郎事務局長)が発足

11月24日 

絞首台のない東京拘置所から絞首台のある宮城刑務所仙台拘置支所へ移される

12月 6日 

第1回恩赦出願

63(38)年
 1月25日

獄中画第1回個展開く

65(40)年
 3月11日

森川事務局長らが偽証事件で逮捕される(同氏は71(昭和46)年12月、懲役1年6月の実刑が確定)

74(49)年
11月15日

肝機能障害などで東北大付属病院へ約1カ月入院(26年ぶりに獄外へ)

76(51)年
 1月21日

約6万字にのぼる遺書を作成:12月には獄中1000作目の絵を描く

79(54)年
 6月14日 

「救う会」からの陳情を受けて、古井喜実法相 (当時)が「恩赦の可能性を探るため、事務当局に手続き上の検討を指示した」と発言

80(55)年
12月16日

中央更生保護審査会、「恩赦は不相当」と決定

  同22日

4回目の恩赦出願

81(56)年
 1月20日

17回目の再審請求

85(60)年
 2月14日

5回目の恩赦出願

 4月 5日

東京地裁に人身保護請求

 4月29日

仙台拘置支所から八王子医療刑務所へ移送

 5月 7日

死刑確定から満30年経過

 5月30日

東京地裁が人身保護請求を棄却

 7月20日

最高裁が人身保護請求の特別抗告を棄却

10月11日

前立せん肥大症のため手術

10月30日

「心神喪失」状態を理由に、法相らに「死刑の執行停止」を申し立て

12月 3日

法務省が、「刑の執行停止は行わない」と回答

86(61)年
 9月10日 

東京高裁が第17次再審請求を棄却(確定)

12月19日

獄窓14,000日、老衰に肺炎を併発して衰弱。

87(62)年
 2月18日 

満95歳となる

 2月20日 

老衰と肺炎で「重症」と発表。八王子医療刑務所が「重症」指定

 3月30日 

東京地裁に第2次人身保護請求

 4月 5日 

同刑務所が「危篤」と発表

 4月21日 

第18次再審請求

 4月23日 

東京地裁が第2次人身保護請求を棄却(平沢側が特別抗告)

 5月10日 

肺炎で死亡(95歳)

 


歴代法務大臣32代・延べ35人--死刑執行の判押さず―

『印を押すのに抵抗感が…』


731部隊説

 作家 松本清張氏
 
731部隊説を「小説帝銀事件」(1959年)や「日本の黒い霧 帝銀事件の謎」(1960年)展開した松本清張は、「青酸カリ」をめぐる判決の認定に疑問を抱き、「犯人は731部隊の元隊員」という推理する。「判決は『被告がかねて所持したる青酸カリ』とあるだけで、その入手経路を解明 していない。最初、検事は『青酸化合物』といっていたのが、いつの間にか『青酸カ リ』に変わるなど、おかしな点が多い」と指摘。犯行の状況からすると、効果の速い青酸カリではなく、効果の遅い毒物ではないか、と考えられる推理。さらに、これとよく似た毒物が陸軍の研究所で作られており、実際、警視庁は犯行の手口などから軍関係者、とりわけ731部隊の元隊員を犯人とみて、捜査をしていたことを、その根拠の一つとする。現実の捜査は『松井名刺』を手がかりに犯人を追った名刺班が平沢を逮捕することになるが、このことから松本は、平沢が犯人とされたことに強い疑問を持つ。「犯人は自分でも飲んだように見せかけたり、毒物の効果が現れる時間を正確に知 っていたりするなど、毒物に詳しい人物だった。画家である平沢は毒物の知識があまりないはずだ。また、犯人は進駐軍に実在した中尉の名前を語ったが、平沢が名前を知っていたとは考えにくい。それに対して、731部隊の元隊員ならば毒物の使用に慣れていたし、戦後、部隊はGHQ(連合軍総司令部)にひそかに使われ保護されていたので、隊員ならば進駐軍の中尉の名前を知っていても不思議ではない」と推理している。なお、松本は「731部隊説はあくまでも想像だが、『疑わしきは罰せず』の精神からいけば平沢は無罪であるとも語っている。


 主任弁護人を務めた遠藤誠弁護士
 平沢の主任弁護人を務めた遠藤誠は、「731部隊」説を証拠によって裏づけようと努めてきた。手がかりとしたのは、当時のGHQ公文書で、1985
(昭和60)年1月に米国のジャーナリストを通じて入手したものなどである。それにより、(1)警視庁の名刺班が平沢に会ったあとの6月下旬ごろも、警視 庁は軍関係者を有力視していた(2)平沢の逮捕前後の時期だけ記録が欠落しており、 意図的に記録が消されたと思われる――などが明らかになったと指摘する。さらに、捜査に参加した当時の警視庁捜査2課の成智英雄(故人)が、「犯人は731部隊のS中佐しかいない」と著書などで語っていたことも有力な手がかりだ、 としている。また遠藤は、「GHQは731部隊の戦争犯罪を免罪し、その技術を利用していたことが明るみに出ることを恐れ、警視庁に圧力をかけた。一方、警視庁は、国民の捜査批判が高まってきたため、犯人づくりが必要だった。平沢は国際的な犯罪を隠すためにスケープ ゴートにされた」と見る。

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60年前に起きた帝銀事件の故平沢貞通・元死刑囚の脳に、狂犬病ワクチンの副作用で神経細胞が壊死(えし)した痕跡が残っていたことがわかった。平沢氏の脳を解析した池田研二・元東京都精神医学総合研究所精神疾患研究系長が、論文を発表した。死刑判決確定の決め手の一つとなった精神鑑定では、平沢氏は「平素の状態と大差のない精神状態」だったとされたが、脳には虚言などの性格変化を起こす病変があったことが確実になった。

帝銀事件は物証が乏しく、平沢氏の取り調べ時の自白が有力な証拠となり、55年に死刑判決が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢氏は87年に95歳で獄死した。

平沢氏は30代に狂犬病の予防注射により脳脊髄(せきずい)炎を起こし、その後、物忘れが激しくなったり、作り話をしたりするなどの症状があったとされる。そのため、公判でも自白の信用性が争点になった。

池田氏は、脳脊髄炎の痕跡があるかどうかを詳しく調べた。薄く切った脳の組織を顕微鏡で見て、脳の場所ごとに病気の痕跡を探した。高齢や、他の病気に伴う脳の変化と厳密に区別するため、80〜90代の14人の脳と詳細に比べた。

その結果、狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変が見つかった。強い病変は脳の内部の「側脳室」と呼ばれる領域の周辺にあり、神経細胞を守る「ミエリン」と呼ばれるさやがなくなり、神経細胞そのものが死んだ跡もあった。

病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、性格変化をもたらしたと結論付けた。他の14人の脳も含め、老化や、それに伴う血管変化が原因と考えられる脳の変化とは異なっていた。

池田氏は「病変が見つかったのは、狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎でおかされやすい場所。いまならMRI(磁気共鳴断層撮影)などの検査で見つかるだろう」と話す。

解析結果は昨年末、学術論文集「精神医学の方位(中山書店)で発表した。

「平素の状態と大差のない精神状態」とした故内村祐之・東京大教授らの精神鑑定には、平沢氏の生前から、内村氏の弟子の故白木博次・東京大教授、故秋元波留夫・東京大教授らが異議を唱え、「脳に病変が残っているはず」としていた。

平沢氏の遺体は87年に東京大に「献体」として運ばれ、脳は薬品処理され、保存された。98年に東京大から遺族に返還され、白木氏らが池田氏に解析を依頼していた(08年01月22日付『朝日新聞』)


 

帝銀事件の平沢貞通元死刑囚を「救う会」は、08年1月27日正午から東京都豊島区の立教大学太刀川記念館で再審模擬裁判を開く。26日で事件から60年。第19次再審請求中だが、これまで集めた証拠で「無罪」を示したいとしている(08年01月27日付『朝日新聞』)

 

模擬裁判では、自白の信ぴょう性などについて研究者が“証人”として説明、無罪を訴えた。

 奈良女子大の浜田寿美男教授(法心理学)は自白について「無実の人は死刑になる実感がないために、追い詰められると自白してしまう。調書からは犯人を演じてしまうまでの過程が読み取れ、典型的な虚偽供述だ」と疑問を投げかけた。

 銀行員らが飲んだ毒物は死亡までに一定の時間がかかったことから、遠藤浩良元帝京大薬学部長(社会薬学)は「確定判決が即効性の青酸カリと認定したのは誤り」と指摘した。

 証言の後で検察官役が論告、弁護人役が最終弁論をして結審。判決は、傍聴した参加者1人1人の判断に任せることにした。自白についての分析などは再審請求の新証拠として今後、提出される予定。

 平沢元死刑囚の養子で第19次の再審請求人、武彦さんは「裁判所は請求をほったらかし、結論を出そうとしない。あいまいなまま事件を葬ろうとしているが、冤罪(えんざい)が晴れるよう闘い続けたい」と話した(08年01月28日付『産経新聞』)

 


 

登戸研究所

 


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 神奈川県川崎市多摩区の明治大学生田(工・農学部)校舎に残る旧陸軍「第9技術研究所」(通称・登戸研究所)の研究棟1棟が99年7月中に取り壊わされた(上の写真)。戦時中、この棟には毒物合成の化学研究班が置かれていた。同班が独自に開発した「青酸ニトリール」は戦後、「帝銀事件」で一躍有名になり、製造・管理に携わった複数の元技師らに捜査の手が伸びている。その後、「(事件とは)無関係」とされたが、〃負の遺産〃を背負った関係者らは口を閉ざしたまま全員鬼籍に入った。そしてその研究棟もなくなろうとしている。
  登戸研究所は、39
(昭和14)年、毒ガスや風船爆弾、偽札など諾兵器の極秘開発を目的に開設された。今回取り壊わされたのは、同年に完成した「第二科」の鉄筋コンクリート乎屋建て研究棟。研究室には最先端技術の化学実験器貝や装置が設置され、高価な米国製冷蔵庫を備えた低温実験室も併設、毒物合成の化学実験に必要な氷が供給されたという。
 青酸ニトリールは「第三班」の技術少佐が開発した青酸化合物。無色・無臭で「遅効性」という性質から、要人テロ用に中国大陸の特務機関に送られた。帝銀事件発生後、捜査当局はこの特殊な毒物に注目。元技師らに対する事情聴取で、「
(犯行毒物は)青酸ニトリールとしか思えない」「終戦時陸軍省と参謀本部が〃自決用に〃とアンプル2、3百本を持ち出した」などの証言が得られ、捜査は一時、旧陸軍関係者に集中した。
 しかし、平沢貞通元氏の逮捕で終止符が打たれる。 平沢氏の再審請求を続けている遠藤誠弁護士は1989年、元技師3人の証人尋問を東京高裁に求めた。しかし、1人は93年病死、もう1人も今審死去した。残る1人は既に死亡していることが判明しており、関係者いなくなった。元技師の1人は生前、「刑事は私を一番怪しいとにらんでいた。だから
(犯人と)人相が違うのでがっかりしていたとしみじみ語っている。その言葉には特異事件で疑いを掛けられたという苦渋の色がにじみ出ていた。
 青酸ニトリールの研究棟は近く農学部の実験研究棟に生まれ変わる。これで登戸研究所の建物は残る3棟になるが、大学側一部保存の方行で検討中。99年6月中旬、研究棟を見学した元技師の妻は「夫は帝銀事件について一言も語らなかった。その夫の研究室がなくなるのも時代の流れでしょう。でも、歴史の証人がなくなるようで寂しい」と思いをはせていた
(99年7月9日付『東京新聞』夕刊)


 

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