ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)
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1879(明治12)年12月21日〜1953 (昭和28)年3月5日
本名、ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシビリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)。スターリンは、1913(大正2)年から名乗ったペンネームで「鋼鉄の人」の意味。
コーカサスの山々に囲まれたグルジア共和国のゴリ市の生まれ。父は靴屋、農奴の出身。ゴリの初等神学校を首席で通す。1894(明治27)年、現在のトビリシの中等神学校に進むが、革命運動に加わって退学になる。
1898(明治31)年、グルジア社会民主党に参加。
1902(明治35)年、逮捕。以後、1913(大正2)年まで7回逮捕され、2度のシベリア流刑、逃亡を繰り返す。
1917(大正6)年の10月革命後はロシア革命の指導者ウラジミール・レーニンのもとで共産党中央委員などを務め、1922(大正11)年にレーニンが倒れると書記長に、1924(大正13)年レーニンの没後、ライバルであったトロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンらを退け、党と政府を掌握。「5カ年計画」を推進、徹底した農業集団化を指導する。
1936(昭和11)年にソビエト連邦憲法制定。
1936(昭和11)年から1938(昭和13)年にかけて大粛清を行う。
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農業集団化のため1929(昭和4)年、スターリンは「富農撲滅」を宣言する。それが秘密警察を使った粛清の始まりだった。ターゲット(対象)は、富農だった。最初は…。しかし独裁体制確立ため、官僚、軍人へとスターリンの粛清は容赦なく、かつ際限なく広がった。反革命的な言動や、政府批判などが対象であった粛清は、やがて、「根も葉もないうわさ」や「個人的な好き嫌い」、「外国に親族がいる」などのたわいもない理由にまで拡大された。スターリンの身内でも例外ではなかった。彼は、義兄を粛清し、命乞いに来た妻の前で乾杯までしてみせた(実に10年間に、スターリンの義兄弟とその妻たち、子供たち10人の身内が逮捕され、2人が銃殺され、2人が獄死している)のである。秘密警察の「深夜のノック」を、誰も恐れ、政府(スターリン)批判は完全になくなった。従順な取り巻きに囲まれた完全なるスターリン独裁体制の確立であった。 |
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レーニン勲章を受け国民的人気のあった軍人バシーリー・ブリュヘル元帥は、1938(昭和3)年に逮捕された。「ファシストの陰謀に加わった」ことがその理由であったが、彼は、裁判にすらかけられることなく、取調室で殴り殺された。元帥の人気が、スターリンの気に入らなかったのである。ドイツとの開戦時、司令官クラスで軍の高等教育を受けた者の90%以上が粛清で一掃され、有能な指揮官はほとんど残っていなかったといわれている。そのため、第2次大戦でヒトラー・ドイツ軍が侵略してきたとき、ソ連は緒戦で大敗することとなる。 |
1941(昭和16)年に首相(人民委員会議長)、国家防衛委員会議長、赤軍最高司令官を兼任。
1943(昭和18)年11月28日〜12月1日、テヘラン会談、1945(昭和20)年2月4日〜11日、ヤルタ会談、7月28日〜8月2日、ポツダム会談に出席、第2次世界大戦終結と戦後処理処理について、米・英の指導者と話し合う。
スターリンは、「祖国を勝利に導いた英雄」として、ルーズベルトやチャーチルと対等にわたり合い、戦後は、米国と覇権を競う唯一の大国の指導者になると共に、計画化と工業化を中心とする5カ年計画で、ソ連を農業国から工業国に変えたのである。そして、その驚異的な経済発展は、欧米諸国や発展途上国にとって、経済発展のモデルともなった。
ヒトラー体制が崩壊した1949(昭和24)年、スターリンの70歳を祝う式典が、毛沢東・トリアッチ・ホー・チ・ミンなどの共産党のリーダーが世界中から参集(日本からは徳田球一)して、モスクワのボリショイ劇場で開かれ、「天才的な指導者」「太陽以上の輝き」――。賛辞は延々と続いた。また国内では「お父さん」と呼ばれ、忠実な取り巻きによって都市や工場・広場・通りなどの至る所でスターリンの名前がつけられた。スターリンの絶頂期であった。
その4年後の1953(昭和28)年3月5日、モスクワにて脳卒中で死亡。享年74歳。
著作に「レーニン主義の基礎」「ソ連における社会主義の経済的諸問題」等がある。
独裁者にして暗殺者であったスターリンに初めて疑義が呈されたのは彼の死から3年目、1956(昭和31)年の第17回ソ連共産党大会であった。フルシチョフ首相による「スターリンはあまりに粗暴であり、書記長から降ろすべきだ」としたためられたレーニンの遺書の公表である。フルシチョフは、スターリンがいかに多くの人々を弾圧したか、個人崇拝の結果、社会主義がどれほどゆがめられたかを力説した。会場は水を打ったように静まりかえった。
「雪解け」が始まったかに見えた。しかし、フルシチョフは失脚した。既得権益を守ろうとする保守層の力が勝ったのである。結局、ソ連の雪解けは、ゴルバチョフ政権によるいわゆる「ペレストロイカ」まで待たねばならなかった。
なお、彼の思想や共産主義運動内の官僚主義的傾向をスターリン主義と呼ばれることがある。
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「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」 (スターリンの死後、米国に亡命した娘のスベトラーナ) |
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「あの大粛清はスターリンの性格の異常さだけに責任があるのではない。 彼の暴走をとめられなかった党や国民にもあるのです」 (歴史学者のロイ・メドベージェフ博士) |
参考資料
☆「勝利と悲劇」(上下、D・ヴォルコゴーノフ・朝日新聞社)
☆「スターリンの大テロル」(O・フレヴニューク・岩波書店)
☆「スベトラーナ回想録」(スベトラーナ・アリルーエワ・新潮社)
☆「イワン・デニーソヴィチの一日」(ソルジェニーツィン・新潮文庫)
☆「収容所群島全6巻」(ソルジェニーツィン・新潮文庫)