
愛媛県内の戦跡調査(ぷらす高知・南国市)/ 戦跡班打ち上げ(08年2月12日)
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調査報告会(プレゼンテーション) 07年12月22日(土) 午前10;15〜11;45 場所;松山大学820番教室(8号館2階) |

07年12月17日付『愛媛新聞』

07年12月20日付『産経新聞』

07年12月20日付『朝日新聞』

07年12月22日付『毎日新聞』

07年12月23日付『毎日新聞』

07年12月23日付『愛媛新聞』

07年12月23日付『読売新聞』
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平和を恒久的に願いながら、身近に戦争を感じない今日だからこそ、平和を考える機会として、教育の中で戦争遺跡を学ぶ事が大切!!
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戦跡班打ち上げ(08年2月12日)
/ 愛媛県内の戦跡調査(ぷらす高知・南国市+大分・宇佐市)
☆調査日程=松山は10月
8月20日(月) 松山大学5;30分発
【佐田岬】9:00〜12:00
(昼休みをはさむ)
【八幡浜】14:30〜16:30
【宇和島】19:00〜 宿泊「リージェントホテル宇和島」
住所;愛媛県宇和島市丸の内1-2-24
電話;(0895)25-0808
21日(火)
【宇和島】7:00〜
【由良岬】10:00〜13:00
(船での移動有)
【松山】18:00着
22日(水)松山大学8;00出発
【西条】
「田野飛行場(丹原)」9:00
「格納壕跡(氷見)」11:00
「ゴルフ場」11:30〜13:30
「栖本神社」14:00
【松山】18:00着
23日(木)松山大学8;00出発
【高知】11:00〜(終わり次第松山へ・・・)
備考
1.宇和島で戦争体験者の方に話を聞く。
2.西条のゴルフ場の近くには戦跡について知っている人がいる。
3.由良岬に連絡、案内してくれる人が見つかりました。時間は午前中で大丈夫です。
4.渡船の料金は安くて1万5000円から2万円くらいかかるそうです。
5.崖を上ったり危険なので、長袖、白っぽい服(蜂が出る)、登山靴が必要になる。
6.佐田岬は、予定の時間内に話を聞くことができる。
4.周辺の戦跡
(1) 松山市高岡町にある金城産業(株)の近くの山に防空壕。
(2) 西条市に楢本神社と言うのがあり、神風特攻隊の先陣となった部隊と人が祀られている。戦艦大和や三笠の主砲弾も。傍らの記念館には弾丸や練習機「赤とんぼ」のプロペラなどが展示されている。
(3) 伊方町に『三机湾須賀公園』ある。真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇「甲標的」訓練基地(第1特別基地隊)が設営された地で、公園となり、戦争で犠牲になった人を偲ぶ九軍神碑などがある(岩佐直治中佐をはじめとする戦死した9名を軍神として祀った忠魂碑)。また、この忠魂碑の傍らには戦闘機のプロペラ(実物)もある。
(4) 愛媛県久万高原町の祖母の家の敷地内に、戦争中に曾祖父が掘った防空壕があった。
(5) 八幡浜市に八幡浜第一防空壕がある。終戦後、人々から忘れ去られ語り継がれていなかった防空壕が平成に入ってから発見され、現在はその歴史を伝えるべく街の人が力を合わせて管理している。
(6) 大洲市に菅田飛行場というのがあった。
(7) 松山市の南吉田町に掩体壕がある。全部で3か所あり、住宅街にあるものや倉庫として利用しているものもある。かつては63体あったが現在ではこの3体だけである。
(8) 大洲市にある金山出石寺という寺に戦時中に徴収されたけど、使われずに戻ってきた大鐘がある。
(9) 松山市御幸に、日露戦争当時、捕虜となり収容され、その後不幸にして病死されたロシア兵士の墓地がある。
(10) 愛媛県今冶市に、小島砲台遺跡がある。ここには、明治に造られた、大久野島の砲台遺跡とそっくりの砲台遺跡が保存されている。芸予要塞の四国側の砲台として、清国・ロシアの艦隊が瀬戸内海に攻め込んできた時に迎え撃つために造られた。
遺跡は、大久野島以上に完璧な形で保存されている。
(11) 呉海軍工廠松山分工場跡・・・松山市小坂町の伊予鉄ゴルフ場付近。47(昭和22)年11月撮影の航空写真をみると、工場は迷彩色で塗装されていたことが分かる。同年7月26日夜半の松山空襲で近くの素鵞国民学校は焼失し、付近にも焼夷弾が落ちているので、工場も被害を受けたかもしれない。
(12) 愛媛県南宇和郡西海町麦ヶ浦に基地回天隊があった。
(13) 松山市の興居島に伊号第33潜水艦の慰霊碑があります。この艦は伊予灘で訓練中に沈没して慰霊碑のある興居島の海岸で引揚げられた。ちなみに生存者は2名でした。
(14) 高知県宿毛市に宿毛基地があった。そこには、弾薬庫、航空機のガソリンや重油などを保存していたガスタンクがある。また、周辺には複数の壕もある。
4.全国の戦跡情報
(1) 亀島山地下工場跡:戦争語り継ぐ遺跡保存を 市民ら見学会−−倉敷・水島 /岡山−2006年6月25日付『毎日新聞』
◇第2次大戦末期、航空機部品生産
倉敷市内の水島地区に残る第2次世界大戦の史跡「亀島山地下工場」の保存を呼び掛けようと「亀島山地下工場―学習と現地見学会」が24日、同工場跡近くの水島勤労福祉センター(同市水島明神町)であった。
地下工場は、戦争末期、三菱重工業水島航空機製作所が、爆撃を避ける疎開工場として亀島山を採掘して建設した。一式陸上攻撃機などの部品を生産していたとされ、県下最大の戦争遺跡として知られている。
この日は市民約80人が参加。地下工場の歴史的役割や保存の重要性などについて学習会を行った後、2グループに分かれて地下工場跡のトンネルを見学した。全長約2キロのトンネルはアリの巣状になっており、作業場跡や採掘時の発破の跡などを見て、参加者らは往時に思いをはせていた。
終戦の日まで地下工場で働いていたという総社市の無職、山内大吉さん(79)は「戦後初めて訪れたが、当時の思い出がまざまざとよみがえった。戦争を語る遺跡として公開するのがいい」と話していた。
コメント
実際に戦争を経験している人が見たら苦しい思いが甦ってくるという気持ちは分かる。
でも、だからこそ戦跡を残して保存していくことが大事だと思う。
私も今学習しているところだが、今回の戦跡調査を頑張って、発表もして広くいろんな人に知ってほしいと思う。
(2) 大阪城の東南にある旧真田山陸軍墓地(06年6月18日)−赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)
門を入ってまず目に入るのは、「馬丁」「鍛冶(かじ)工」など日清戦争の軍役夫の、同じ大きさの墓碑が整然と並んだ姿である。広さ4500坪の墓地には、5千基以上の墓碑が林立しており、墓は兵卒、下士官など生前の階級別に区分されて立っている。
旧真田山陸軍墓地は、1871(明治4)年に創建され、今日でも戦前の面影を最も多く残している最大の旧陸軍墓地である。ここに埋葬された者は、戦死者だけではない。軍隊内の病死、事故死、自殺者があり、清国兵、ロシア兵などの捕虜もあった。
コメント
埋葬されたのが戦死者だけでないところが驚いた。階級によってお墓が区別されていたりするのでこの墓地は興味がある。一度行ってみたい。
(3) 戦争遺跡新たに52/埋文センター 県内999カ所−2006年6月3日付『琉球タイムス』
県立埋蔵文化財センター(田場清志所長)は1998年度から2005年度まで実施した「県戦争遺跡詳細分布調査」で、宮古・八重山諸島を中心に新たに戦争遺跡512カ所を確認、これで県内の戦争遺跡は999カ所に上る。都道府県単位で戦争遺跡の分布を調べたのは全国で初めて。同センター調査課の山本正昭専門員は「遺跡を将来、保存、整備して活用していく上で、データベースの役割を果たしてほしい」と話している。
調査は、全市町村に情報提供を呼び掛け、戦災者からの聞き取りなどを基に進められた。
同センターによると、これまで存在は知れていたものの、場所や規模など詳細がはっきりしなかった遺跡が多数見つかったという。
山本専門員は「各市町村から寄せられた遺跡の情報すべては調査できなかった。まだまだ残されている可能性が高い」と語る。
報告書には、人工または自然の避難壕、旧日本軍の陣地、砲台跡などを掲載。遺跡の平面図や断面図、写真、遺跡の目的や造られた経緯などの説明が添えられている。
コメント
戦争のあった沖縄には本当にたくさんの戦跡があるなと思った。沖縄に行きたいと思った。
(4) 「大久野島毒ガス資料館」広島県竹原市忠海町の沖合い3キロにある島。
陸軍の巨大な毒ガス工場があり、いまは山際にその廃墟がある。ここにあった毒ガス工場では300人の日本人が働いていたが防毒マスクなどで身を守っていたに関わらす指揮官に十分な知識がなくて、防ぎきれてなかったため、戦後も毒ガス障害者になるなど、多数の被害者を生み出した。
現在は夏は観光客が来る、ウサギなどの動物もいる平和な島の様子である。
コメント
毒ガス資料館という響きが怖い。今まで、調べていくなかで爆弾や掩体壕を作ったのはしっているが、毒ガスも作っていたことを知り、恐ろしい。瀬戸内海にある島なので、愛媛からも近くあまり他人事のような気がしない。
(5) 07年6月30日付『中日新聞』
第2次大戦末期に瀬戸市・陶本町東部町内会が当時の活動を記した「通知収発簿」(縦約23センチ、横約16センチ)を昨年発見した住民団体が、この戦争資料について知っている人に情報提供を呼び掛けている。戦時体制下の行政機関や民間人で組織された各種団体が出した命令類が詳細に記されており、この団体は「他の町内会や地域でもこうした記録簿が作成されたはずだが、ほとんど残っていない。全国的にも貴重な資料だ」としている。
コメント
通知収発簿というものを私は初めて聞いた。物品供出や集会への動員への連絡事項などが書かれていた。また、海軍志望者の状況を調査せよ、という内容もかかれており海軍志願者の年齢は14歳まで引き下げられていたことがわかった。この頃の日本の現状がすごくよくわかる重要な資料なのできちんと保存をしてほしいと思う。こうした珍しい資料は今までわからなかった事実も書かれているので歴史的にもすごく価値があると思う。
(6) 戦争遺跡「掩体壕」残そう 福知山市民有志が保存運動
福知山市土の市道上荒河観音寺線(旧中丹広域農道)沿いの農地にある石原飛行場(旧海軍福知山航空基地)跡地の「掩体壕(えんたいごう)」が、市が進める西中筋総合整備事業に伴って早ければ今年度内に姿を消す運命に立たされている。この掩体壕は、搭乗員が避難所に使っていたと思われるコンクリート製のもので、飛行場の名残を後世に伝える数少ない戦争遺跡。市民有志が、行政に保存を求めるための署名運動を始めた。
コメント
「掩体壕を残そう!保存しよう!文化財に指定しよう!」という運動が、各地で行われている。この運動の背景には、老朽化していて危険だったり、地域開発の妨げになっていたりと様々な理由で掩体壕が邪魔者扱いされているということがある。確かに邪魔かもしれないが、掩体壕が残っているおかげで私はゼミで戦争の遺跡について学ぶことが出来るわけだし、戦争というものをなんとなく体験できたのである。私以外の若い方で、戦争遺跡なんて知らないよ、という方にも是非見て体験してもらいたいと思うから、私はこの運動に賛成である。改憲運動が盛んな今だからこそ、我々若い世代が歴史を振り返って過去に何が起きたのかを知ることは、意味があるのです。戦争遺跡を守ることは、平和を守ることにも繋がるのではなかろうか。
(7) 歴史の「証人」平和伝える 福知山、掩体壕一部を住民ら移設−07年7月3日配信『京都新聞』
戦時中に福知山市石原に旧海軍が建設した「福知山航空基地」内にあった掩体壕(えんたいごう)の一部が3日、住民たちの手で地元の日新地域公民館敷地内に移設された。田んぼの中に長い間放置されていた壕は市の基盤整備事業で壊される計画だったが、「戦争の記憶を伝える貴重な遺物」として地元を中心に保存運動が起こっていた。移設した住民は「コンクリートの破片だが、戦争の証し。子どもたちに平和を伝えたい」と誓っていた。
移設したのは、地域住民約70人でつくる学習会「ヒューマンネット日新」(大槻恒彦会長)。平和や人権を学ぶ教材に、と保存活動を進めてきた。
コメント
掩体壕は航空機守るために発達したので現在日本では第二次世界大戦中に作られたものしか残っていない。特にコンクリート製の大型のものは取壊しが困難であったために、残されたものもある。とはいってもちゃんとした状態で残っているものはあまりないので、保存事業には力を入れてもらいたいと思う。掩体壕を保存することは当時の航空機技術を間接的に保存することにもなるので、掩体壕の状況など詳しく調べれたらいいと思う。
(8) 横須賀市の北部にある旧海軍施設の貝山地下壕(ごう)
植物が覆う斜面に開いた高さ80センチほどの狭い入り口をくぐると、暗闇が広がっていた。
縦横に分かれ、迷路のような通路は全長約2キロ。辺りを懐中電灯で照らすと、さびて朽ちた鉄の扉、壁から飛び出したくぎが見えた。「ぽちゃん」。天井から落ちる水滴の音が空洞に響いた。
1944年から約1年をかけ、約4万5千平方メートルの貝山緑地の地下に、人の手で掘られたという。中は三つのエリアに分かれている。
戦時中、周辺には旧海軍航空技術廠、旧横須賀海軍航空隊があった。「この地下壕を何に使ったのか。今も明らかになっていないんです」
4月28日、地下壕見学に訪れた約10人を前に、元中学校の英語教師で、貝山地下壕保存する会準備会代表の原田弓子さん(69)は言った。
市内に残る戦跡を調べ、案内し、保存活動に取り組んでいる。生まれも育ちも横須賀市。小学2年生の時に終戦を迎えた。「戦時中、軍の施設は高い塀で囲まれていて、中の様子なんて全く分からなかった」という。貝山地下壕を初めて見たのは約10年前。定年を迎える直前、友人の小学校教師大黒春江さん(59)から話を聞いた。地下に広がる壮大な施設が、今も当時のまま残っていたことに驚いた。
コメント
この地下壕のように戦争中にどのように利用されたかわからない壕があるというのは驚いた。戦争を経験した人が少なくなっている中でどのように若い世代に伝えていくかが重要になると思う。このように戦跡を通じて戦争の悲惨さを伝えている人たちを見習いたいと思う。
(9)長崎県対馬市上対馬町豊に残る、太平洋戦争の戦跡の内部の映像を入手した!
なにやら、八幡浜の防空壕に似ている→www.youtube.com/watch?v=yq5yBTF3MC0
(10) 小野の旧日本軍集会所
解体 貴重な戦争遺跡失う−02年6月23日付『神戸新聞』
小野市新部町、国立療養所青野原病院の敷地内で、市の調査により旧日本陸軍戦車隊の将校集会所と確認された建造物が取り壊されていたことが、22日明らかになった。市は「厚生労働省所管の施設で、市から建物の保存を言い出せなかった」と説明しているが、専門家らは「昭和期の軍隊施設は調査が進んでおらず、貴重な戦争遺跡だった。何とか残せなかったか」と惜しんでいる。
解体された将校集会所は、久留米、習志野に次ぐ3カ所目の戦車連隊として、1937(昭和12)年12月に設置されたとされる青野ケ原戦車第6連隊が使用していた。
市内が一望できる場所に位置し、洋風木造平屋建て。中央に大集会所、両そでに小集会所、南側にバルコニー風廊下(幅1.6メートル、長さ19メートル)があった。戦後は病院の職員体育施設として利用していた時期もあったという。
将校集会所であると確認されたのは昨夏。市史を編さんしている市企画課が文献などの史料に基づいて調査し、判明した。
しかし、この時点で、老朽化を理由に解体の予算措置がされていたといい、同病院は今年1月、予定通り取り壊した。
「市から保存してほしいなどの要望は出ていなかった」と同病院側。市の委託で集会所を調査した高岡裕之・都留文科大助教授(日本現代史)は「建築的価値でいえば、明治期の建物に保存の動きがみられる段階。昭和期のものはまだ価値がないとされ、都市部ではほとんど残そうとしていない」と指摘している。
コメント
かなり前の新聞記事になります。こういうところで縦割り行政の弊害や、保存と開発の板ばさみ、行政の怠慢などが起こるのだと思う。たとえ貴重な遺跡でも保存されなければ、すぐに取り壊され朽ちてしまうので、やはり遺跡を調べ保存することは大事だと思った。
(11) 2002年5月31日付『神戸新聞』
小野市は30日、加西市青野原町に残る建物が第1次世界大戦中のドイツ、オーストリア兵を収容していた「青野ヶ原俘虜収容所」の将校宿舎の一部だったと発表した。当時の地図や収容者の日記、新聞記事などから確認した。完成日を記した「棟札」も見つかっており、当時の捕虜収容所でほぼ外観が現存するのは国内でただ一つという。
同収容所は、1915(大正4)年9月から20年4月まで使用。その後、旧日本陸軍の宿舎に転用された。戦後、四分割されて移築。一部が現存し、民家の納屋(約120平方メートル)として使われていた。内部は改装されているが外観は板張にトタン屋根。当時の雰囲気をうかがわせている。
同市が市史編さん事業の一環で2001年9月から調査。道路や町並みは当時とほぼ変わっておらず、敷地内には便所や井戸、門柱基礎、風呂も残っていた。
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コメント
私は自分の目で実際に収容所を見たことがない。だから、外観がほぼそのまま残った収容所が見つかったことはすごく価値のあることだと思う。また、敷地内には便所、井戸、風呂も残っていることからその当時の生活を想像することもできるだろう。このような貴重な戦争遺跡はきちんと保存をして資料からは学べないリアルな戦争の傷跡を学ぶことができると思う。
(12) 体験者の高齢化で戦争遺跡の役割が高まっている。
懐中電灯で照らした洞穴の壁面は黒く変色していた。米軍の火炎放射器で火災が起きた跡だ。湿っぽい空気に、ほのかに腐臭のようなものが混じっている気がすると、「ここは手術場だった所。この先の通路沿いにベッドがありました」と説明を受けた。
沖縄県南風原(はえばる)町の「陸軍病院南風原壕(ごう)群20号」が4月下旬、報道機関に公開された。人力で掘られた約30の洞穴からなり、1945年4月の米軍上陸を前に造られた。「ひめゆり学徒隊」が傷病兵を手当てした場所でもある。日本軍の撤退で放棄され、遺骨や医療器具は、長くそのままだったが、町は90年、第2次大戦の戦跡として全国で初めて文化財に指定した。
当初は、壕をそのまま保存し、非公開とする方針だったが、学識経験者らによる町の委員会は96年、公開とするよう答申。昨年度から内部の補強工事を続けてきた。「公開で壕は傷む可能性があるが、いずれ朽ちるなら、1人でも多くの人に戦争を追体験してもらおうという判断です」と南風原文化センター学芸員の上地(うえち)克哉さん(39)は言う。
当時の様子を想像してもらおうと照明器具は付けなかった。観光地にしないため、予約制で、一度に10人以下しか案内しない。一般公開は6月18日からだが、すでに毎日のように問い合わせがある。県内外の学校の見学も決まっている。
コメント
当時の様子を再現するために照明器具をつけていないというのはよいと思う。戦争体験者がいなくなるので戦跡から学ぶようにしたい。観光地にして見学人数を制限するのは解かるけどもう少し人数を増やしてもいいと思う。
(13) 東京湾要塞
昭和初期には面目を一新して房総半島南部のほうだいとあわせ東京湾口外で防護網を構築。対戦末期には洞窟砲台、特殊船艇も儲けられた。
(14) 保存進まぬ戦争遺跡/南風原の壕を訪ねー06年8月10日配信『朝日新聞』
「戦争遺跡」という言葉をご存じですか? 壕(ごう)、砲台など、明治〜第2次世界大戦末期に築かれた、軍事関連の構造物全般をこう呼んでいます。太古とはいえない「遺跡」ですが、大事な歴史の証言者。とはいえ、発掘や保存を巡り問題も(mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000110608100001)
コメント
「戦争遺跡」は、予算不足・地域開発の邪魔もの・老朽化や危険であることを理由に、保存がなかなか進んでいない。また、「戦争遺跡」というものは無数にあり、どれを残すべきなのか、という明確な判断基準がないことも、理由のひとつであるらしい。一方、戦後60年が経過し、戦争を経験した方々が少なくなっていく中、「戦争遺跡」は私たちに「戦争があったんだ」という現実を、ひと目で分かりやすく伝える唯一のものである。そういった貴重なものであるから、どんな形であっても後世に残していくべきだ。
(15) 06年7月28日配信『両丹日日新聞ニュース』
福知山市土の市道上荒河観音寺線(旧中丹広域農道)沿いの農地にある石原飛行場(旧海軍福知山航空基地)跡地の「掩体壕(えんたいごう)」が、市が進める西中筋総合整備事業に伴って早ければ今年度内に姿を消す運命に立たされている。この掩体壕は、搭乗員が避難所に使っていたと思われるコンクリート製のもので、飛行場の名残を後世に伝える数少ない戦争遺跡。市民有志が、行政に保存を求めるための署名運動を始めた。
コメント
戦争はどんなものだったか、戦争遺跡を通して知ることができる。実際に見て感じるものもあるので、この署名運動は良いことだと思うし、その他の地域でも戦争遺跡を残す運動が起きればいいなと思う。
(16) 01年8月1日配信『毎日新聞』
旧日本軍の毒ガス工場があった大久野島(竹原市)でこのほど、市民団体「毒ガス島歴史研究所」(毒歴研、山内静代代表)のメンバーと環境省の担当者たちが、初めて合同で島内の戦争遺跡を見て歩くフィールドワークをした。同省は今年度、大久野島にビジターセンターを建設するなど、「エコアイランド構想」を進めているが、各種の工事で戦争遺跡が勝手につぶされないよう、着工前に毒歴研に連絡することで合意した。
参加者たちは、毒ガス貯蔵庫跡や発電所跡のほか、99年に毒ガス兵器の「大赤筒」の残がいが見つかった海岸付近などを見て回った。ビジターセンターの予定地周辺では、毒歴研メンバーが「この近くの防空ごう跡に毒ガス弾を埋めたという証言もある」「今も残る排水溝には大量にヒ素が流されていた」「写真などの資料から、土壌は戦時中よりかなりかさ上げしていると考えられる」などと説明した。
フィールドワーク後、毒歴研側が「工事の過程で、気づかないうちに戦争遺跡がなくなっていることがある」と指摘。環境省側も工事の際には事前に連絡することを約束した。また、旧医務室前にあり、過去の工事で撤去されたとみられる消火栓も復旧することで合意した。
佐山浩・同省山陽四国地区自然保護事務所次長は「遺跡の文化的な価値は判断できないが、事前連絡など当たり前のことをきちんとしていくようにしたい」と話した。
旧日本軍の毒ガス工場があった大久野島(竹原市)でこのほど、市民団体「毒ガス島歴史研究所」(毒歴研、山内静代代表)のメンバーと環境省の担当者たちが、初めて合同で島内の戦争遺跡を見て歩くフィールドワークをした。同省は今年度、大久野島にビジターセンターを建設するなど、「エコアイランド構想」を進めているが、各種の工事で戦争遺跡が勝手につぶされないよう、着工前に毒歴研に連絡することで合意した。
参加者たちは、毒ガス貯蔵庫跡や発電所跡のほか、99年に毒ガス兵器の「大赤筒」の残がいが見つかった海岸付近などを見て回った。ビジターセンターの予定地周辺では、毒歴研メンバーが「この近くの防空ごう跡に毒ガス弾を埋めたという証言もある」「今も残る排水溝には大量にヒ素が流されていた」「写真などの資料から、土壌は戦時中よりかなりかさ上げしていると考えられる」などと説明した。
フィールドワーク後、毒歴研側が「工事の過程で、気づかないうちに戦争遺跡がなくなっていることがある」と指摘。環境省側も工事の際には事前に連絡することを約束した。また、旧医務室前にあり、過去の工事で撤去されたとみられる消火栓も復旧することで合意した。
佐山浩・同省山陽四国地区自然保護事務所次長は「遺跡の文化的な価値は判断できないが、事前連絡など当たり前のことをきちんとしていくようにしたい」と話した。
コメント
工事の時にきちんと調査をされていなかったために、戦争遺跡に気づかなかったり、戦争遺跡の上に建物を建ててしまったりして大切な財産が消えてしまうにはあまりにも悲しすぎる。戦後60年以上経っているので、建物や防空壕を保存するのは確かに困難だとは思うが、保存してこれからの人たちに伝えていく価値は十分にあると思う。今回のゼミでの活動を通して資料で見て知識を得るだけでなく、自分の体でしっかりと感じたいと思った。
(17) 「集落の戦争伝えたい」親子で地元の戦跡巡る 石垣市
沖縄戦の集落への被害を語り継ごうと、石垣市の真栄里公民館(武内秀尚館長)は17日、同市真栄里地区で「親子戦跡めぐり」を行い、家族連れなど約40人が参加した。
石垣市教育委員会によると、戦争を語り継ぐ催しが公民館単位で行われるのは珍しく「集落の子供たちに沖縄戦を伝える新しい取り組み」と評価している。戦跡巡りは、真栄里公民館が「慰霊の日」のある6月を「平和を考える月間」と位置付け、実施した。
開会式では、武内館長が「『集団自決』の軍命が教科書から削除され、問題になっている。戦争が起こる前にはうそがまかり通る。戦跡巡りを通じて、真実を見る目を養おう」と呼び掛けた。
戦跡巡りでは、同集落の戦争体験者らが戦時中のことを思い出しながら説明。参加者は、戦闘機からガソリンタンクが落下したため民家が全焼した場所や、米軍の上陸に備えて狙撃するために旧日本軍が岩場に掘った穴「銃眼」を見学し、戦時中の様子について意見を交わした。
同公民館では21日に戦争体験を語る会を開いたほか、23、24の両日は「写真・パネル展」などを聞く。
コメント
こういったイベントをもっともっと積極的に行い、たくさんの人々に、戦争のことを伝えていくべきだと思う。自分たちの地域にもたくさんの戦跡があるのだから、いろんな人に知ってもらいたいなと思う。そのためには、これからの戦跡調査をがんばらなければ…。
(18) 四国防衛軍の壕跡 やぶの中に歴史の断面 南国市−04年2月25日配信『高知新聞』
南国市大そね乙にある小さな山に、旧日本軍が本土決戦に備えて掘ったとみられる洞くつ状の壕(ごう)や複数の塹壕(ざんごう)が、ほぼ当時の姿で残っている。中には長さが約20メートルある壕も。地元民以外は戦争遺跡として知る人は少なく、ひっそりと歴史の一断面を伝えている。
この山は高知空港の西約2キロの香長中学校脇にある、通称「小山(こやま)」。高さはわずか50メートルほどで、斜面に墓がたくさん並んでいる。 壕はやぶの中に点在。深さ約2メートルの塹壕が断続的に掘られたり、1人用の“たこつぼ”もある。 南向き斜面にある壕の入り口は、高さ約1・5メートル。中へ入ると、すぐに左右に分かれている。通路の幅は約90センチで、しゃがみながら左へ進むと、9メートルほどで行き止まり。壁面には、のみなどを使ったとみられる削り跡がくっきり残っている。 右は奥行き10メートルほどある。突き当たりはかすかな光が漏れ、外に通じていたようだが、現在は岩などでふさがっている。 太平洋戦争末期、本県沿岸部には四国防衛軍が陣を張っていた。この壕を調査している記録作家の金井明さん(73)=高知市南久万=や、土佐史談会の前田祐司さん(52)=同市追手筋1丁目=は「資料などから、敵兵上陸に備えた壕に間違いない」「調べれば、壕はまだ見つかりそう。戦争の歴史を語る遺跡として残したい」と話している。
コメント
こうみると、まだまだ知られていない戦争遺跡がいっぱいありそうだ。お墓の近くにあるというのも何か意味があるのだろうか。これからさまざまな戦跡を調べていくにあたって、歴史についても学ばなければ意味がないと思った。そして、知らない人たちにも是非この機会に一緒に学んでほしい。
(19) 愛媛新聞
松山市は市内北吉田に所在する旧海軍の壕跡を埋めるため、予算を計上したとのこと。埴生山、弁天山、津田山周辺には旧海軍が建設した壕跡が残っています。そのうち、入口が開いているものは北吉田に面している部分で、鯛崎にある地震計が入っているものを除くと、人が入れるものは一本くらいで、残りは半分以上が埋まっています(人は入れません)。
コメント
北吉田の壕跡は入れないように金網等で囲い、説明板を設置できたらと思う。
また、周辺には戦争中の体験者もおられるのですから、平和学習などに使うべきだと思う。
もっと戦争遺跡を残していってほしいと思う。
(20) 07年6月26日配信『中国新聞』
「原爆と戦争展」が25日、東広島市鏡山の広島大中央図書館の地域交流プラザで始まった。被爆者らでつくる「原爆展を成功させる広島の会」が、若者に戦争の実像を知らせようと開催。29日まで、無料。106枚のパネルを展示。原爆をテーマにした峠三吉の詩、第2次世界大戦と沖縄戦の戦況と被災状況などを、写真入りで紹介している。被爆者から体験談を聞くコーナーもある。展示会は午前10時〜午後4時半。
コメント
大学でこのような取り組みができることに感心した。確かに大学の図書館なら学生たちも見に行きやすいと思う。ただ29日までと、もう終わってしまうのが残念に思う。できることなら見て、話を聞いてみたいと思うので、こういう取り組みをもっといろいろなところで行ってもらいたい。
(21) 大阪・高槻の「タチソ」地下工場跡(ホームページ 戦争は語り部 より)
タチソとは、陸軍の使った暗号で、「高槻地下倉庫」の頭文字をとったもの。
番めの地下施設。
タチソの工事が始まったのは」1944年9月、米軍機の空襲が激しさを増す中、各軍司令部を地下に移転する計画が立てられた。9千平方メートルと規模では全国4工事途中に目的が変わり、川崎航空機(株)の陸軍機「飛燕」エンジン工場になった。作業員として、全国から朝鮮人が集められた。
現在残っているタチソ戦跡跡は、20数本のトンネル、トンネル崩壊跡、コンクリート製構造物など。トンネル内には漆黒の闇の中にトロッコの枕木跡や発破跡が残っている。当時を実感できる貴重な戦跡である。
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ゼミ旅行が関西方面になるとすれば、行くのもよいと思う。
(22) 07年6月25日付『毎日新聞』
倉敷市内の水島地区に残る第2次世界大戦の史跡「亀島山地下工場」の保存を呼び掛けようと「亀島山地下工場―学習と現地見学会」が24日、同工場跡近くの水島勤労福祉センター(同市水島明神町)であった。
地下工場は、戦争末期、三菱重工業水島航空機製作所が、爆撃を避ける疎開工場として亀島山を採掘して建設した。一式陸上攻撃機などの部品を生産していたとされ、県下最大の戦争遺跡として知られている。
この日は市民約80人が参加。地下工場の歴史的役割や保存の重要性などについて学習会を行った後、2グループに分かれて地下工場跡のトンネルを見学した。全長約2キロのトンネルはアリの巣状になっており、作業場跡や採掘時の発破の跡などを見て、参加者らは往時に思いをはせていた。
終戦の日まで地下工場で働いていたという総社市の無職、山内大吉さん(79)は「戦後初めて訪れたが、当時の思い出がまざまざとよみがえった。戦争を語る遺跡として公開するのがいい」と話していた()
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全国いろいろな場所で武器製造工場や基地があるけど今では考えられないことだと思う。このような工場が岡山にあったということは知らなかった。このように施設内を見学できるような機会を増やすべきだと思う。
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