太平洋戦争での日本人捕虜第1号となったのは酒巻和男(さかまき・かずお)

 

徳島県阿波町生まれ。1940年に海軍兵学校卒。

 

41年12月8日の日米開戦時の真珠湾攻撃で、小型潜水艇「特殊潜航艇」に海軍少尉として乗り込み、奇襲攻撃を試みた。しかし、機器類(ジャイロコンパス)の故障や米軍の攻撃などで座礁、自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失い米兵に捕らえられ、日本人捕虜第1号となった。

 

真珠湾攻撃で使用された小型特殊潜航艇は5艇で乗員計10人。酒巻さん以外の9人は死亡。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓(戦死者は英雄だったが、捕虜になることは最大の屈辱の価値観が謳歌されていた戦時体制)の時代、10人で写した写真から酒巻さんだけが削除され「九軍神」として大本営から発表され、坂巻さんの家族は「非国民」と非難された。

 

酒巻さん自身も死のうとしたが、思いなおして生きる道を選んだ。そして坂巻さんは、捕虜になった日本兵が自決しようとするのを止め、多くの日本兵の命を救った。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカ軍の軍人達も感心したという話し有名である。

坂巻さんは、ハワイや米本土の捕虜収容所での生活を経て、戦後1946年に帰国。

 

その後、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)に入社。輸出部次長などを経て、同社のブラジル現地法人の社長に就任。ブラジルの日系商工会議所専務理事も務めた。トヨタの関連会社社長の後、87年退職。

 

酒巻さんは、戦友の集まりには積極的に顔を出したが、戦争ついては多くを語らず、また捕虜生活については口を閉ざしたままだった。

 

49年に発行した著書「捕虜第1号」で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったからといって、何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」と、苦悩を記している。

 

なお酒巻さんは、99年11月29日愛知県豊田市にて81歳で没した。

                                                                                                                        

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