斎藤緑雨(さいとうりょくう)

(1867〜1904)
明治時代の小説家・評論家(明治文壇の異才・奇才)
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「拍手喝采は人を愚にするの道なり。つとめて拍手せよ、つとめて喝采せよ、渠(かれ)おのづから倒れん」(『緑雨警語』冨山房)。 (宇宙広しといえども間違いのないものが二つある)「わが恋と、天気予報の『所により雨』」(小説「かくれんぼ」) |
明治改元の前年の1867(慶応3)年12月31日、伊勢・河曲(かわの)郡神戸(かんべ。現三重県鈴鹿〔すずか〕市神戸2丁目)に神戸藩本多侯典医(てんい=)医薬をつかさどって仕える者)父利光・母のぶの長男として生れる。本名賢(まさる)。幼名を俊治。
明治法律学校(現明治大学)中退。俳諧(はいかい)を其角堂永機(きかくどうえいき=1777〜1852。江戸時代後期の俳人)小説を戯作者(げさくしゃ)仮名垣魯文(かながきろぶん=1829〜1894。江戸〔現東京〕生まれの江戸末期・明治初期の風刺のきいた戯作者・新聞記者。『仮名読新聞』『魯文珍報』を創刊、代表的著作に『安愚楽鍋(あぐらなべ))』『西洋道中膝栗毛』などがある)に学ぶ。
『今日(こんにち)新聞』を振り出しに、『東西新聞』『国会』『東京朝日新聞』『二六新報(にろくしんぽう)』『萬朝報(よろずちょうほう)』など多くの新聞でジャーナリストとして原稿を執筆、辛らつな批判で、筆禍(ひっか=発表した文章の内容が原因となって、当局や社会から処罰を受けたり制裁を加えられたりすること)事件を度々起した。
後、1889(明治22)年に江東みどり(緑)の名で『小説八宗』により文壇にデビュー、うぶな男の色道修行の悲劇を描いた『油地獄』(登仙坊のペンネームで発表)や、花柳界(かりゅうかい=芸者・遊女などの社会。遊里とか花柳の巷〔ちまた〕)ともいう)における恋のさや当てのなかを巧妙に泳ぐ青年を描いた『かくれんぼ』(いずれも1891)、さらには読売新聞』に『門三味線』(1895)連載、これらにより小説家としての不動の地位を確立した。
しかし、斉藤の真骨頂(しんこっちょう=そのものの本来の姿。真面目〔しんめんもく〕)は、辛辣(しんらつ)かつシニカルな風刺家としてのそれであった。斉藤「一代の名句」といわれる「按(あん)ずるに筆は一本也(なり)、箸(はし)は二本也。衆寡(しゅうか=多数と少数。多勢(たぜい)と無勢(ぶぜい))敵せずと知るべし」に代表される、軽妙な文章とパロディー精神に基づく警句(けいく=奇抜な表現で、たくみに鋭く真理を述べた短い言葉。アフォリズム〔aphorism〕)は、明治文壇にあって毒舌家ならぬ毒筆家として異彩を放った。また、『初学小説心得』『小説評註(ひょうちゅう)問答』『新体詩見本』などで文壇人を揶揄嘲笑(やゆちようしよう=からかい、あざ笑うことこと)し、さらに1896(明治29)年、森鴎外(おうがい)、幸田露伴と匿名合評「三人冗語(じょうご)」を雑誌『めさまし草』に掲載する等、松本清張をして「評壇最高の権威」と言わしめた。
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「正義は呼号すべきものなり、印刷すべきものなり、販売すべきものなり。決して遂行すべきものにあらず」 |
樋口一葉は、その日記に斉藤について、「正太夫としは二十九 痩せ姿の面やうすご味を帯びて唯口もとにいひ難き愛敬あり」「逢へるはたゝの二度なれと親しみは千年の馴染にも似たり」(『明治文学全集』)と記すが、晩年まで、とても筆一本で生活が出來る状態ではなかった斉藤ではあったが、極貧のうちの死去した一葉の葬儀や死後の出版に尽力する。
その斉藤は死の2カ月前、日露戦争の開戦直後、出征する弟を、肺患の高熱を押して駅に送ったあと、「平民新聞」で非戦論を展開する幸徳秋水に「急ニ僕モ非戦論デモ書キタクナツタ」「他ノ見送人ハ……万歳ダノ大勝利ダノト喉ノ裂ケルヤウナ声ヲ出シテ居マシタ」(兵士たちは)「人々ノオダテニ乗ツテ ソシテ内心ニハ金鵄勲章ノ夢ヲミテヰルノデス」との手紙を書く(『斎藤緑雨全集』筑摩書房)
1904(明治37)年4月13日午前9時肺結核を患い死去。享年38歳。『平民新聞』に掲載中の「もゝはがき」が絶筆となる。
翌日、知人の馬場孤蝶(こちょう=1869〜1940。高知県生まれの英文学者・翻訳家・随筆家。評論の『近代文芸の解剖』『明治文壇回顧』などがある。後、慶應義塾教授)に口述筆記させた(4月11日)死亡広告(「僕、本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也 4月13日 緑雨斎藤賢」」)が新聞『万朝報』に掲載された。遺言で葬儀は行わず、4月16日、大円寺に埋骨式が執り行われ、幸田露伴と与謝野鉄幹が弔辞を読んだ。
無妻(むさい=妻のないこと。独身の男性)、蓬髪(ほうはつ=長く伸びてくしゃくしゃに乱れた髪)、垢面(こうめん=あかだらけの顔)で人力車を乗りまわした短い一生であった。墓所は、東京・文京区向丘・大円寺。

著書に『あま蛙(がえる)』(1897)、『あられ酒』(1898)、『わすれ貝』(1900)、『みだれ箱』(1903)。
別号(べつごう=別につけた称号・呼び名)に、江東みどり、正直正太夫(しょうじきしようだゆう)、登仙坊(とうせんぼう)などがある。
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