☆サイパン(バンザイクリフ)☆

サイパン島への慰霊の旅で天皇が読んだ歌

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「黒い集団の海山を轟(とどろ)かす喊声(かんせい=突撃する時などに発するわめき声。鬨【とき】の声)は、そのまま怒濤(どとう)のように米軍の火線へぶつかっていった。ザーザーと聞こえる銃砲声の嵐の中に、怒鳴る声、泣きわめく声、ぶつかる音、倒れる音が交錯(こうさく=いくつかのものが入りまじること)した。われわれは必死に走った。必死に這(は)った」(青木隆『サイパンの海蒼く』(青々堂出版部)。 |
1944(昭和19)年、日米の兵士とともに日本の民間人や現地の住民らも犠牲になった太平洋戦争の激戦地米国自治領(形式上はある国家【米】の領土の一部ではあるが、広範囲の自治権をもち、実質上は独立国である領土。独立する前にイギリス連邦に属したカナダ・オーストラリアなどがその例)・北マリアナ諸島のサイパン島を訪れた天皇と皇后両陛下は、05年6年28日午前(日本時間同)、同島北部にある1974年3月に日本政府が太平洋諸島信託統治地域政府(当時)と合同で建立した「中部太平洋戦没者の碑」に日本から運んだ白菊の花を供えた。
また、多くの日本人が投降を拒んで身を投げたマッピ山(標高250メートル)の断崖(だんがい)「スーサイドクリフ」へいき、断崖の突端まで進んで、10秒間深々と頭を下げながら黙とうし、眼下に点在する慰霊碑に一礼、さらに同島北端のサバネタ岬にある断崖「バンザイクリフ」を訪ね、青々とした海に向かって黙とうした。
バンザイクリフから休憩のためホテルへ向かう途中、両陛下は車を降り、事前に公表された日程表にない(当時の在留邦人のうち6割近くを占めた沖縄県民が建立した)「おきなわの塔」(韓国政府が建立した韓国出身者の)「韓国平和記念塔」に立ち寄って黙礼した。
05年6年28日正午、米軍上陸50周年の94年6月に設立された隣接するテニアン島も含め死亡した米軍人5204人を追悼する「第2次世界大戦慰霊碑」やチャモロ人ら死亡した現地住民933人の名を刻んだ「マリアナ記念碑」があるガラパンのアメリカ慰霊公園を訪ね、花輪をささげた。
戦後50年に広島、長崎、沖縄(太平洋戦争での米軍による東京大空襲【無差別空爆】の犠牲者約10万5400人の遺骨もあわせて安置する)、東京都慰霊堂の国内各地を訪れた両陛下の慰霊の旅は、10年を経た戦後60年の年に、初の海外での慰霊行事へとつながった。
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「慰霊の旅」を終えて、天皇は、「これら4地域にとどまらず、広く日本各地、また、遠い異郷にあって、この戦いにより、かけがえのない命を失った多くの人々と、今なお癒えることのない悲しみをもつ遺族の上に深く思いを致します」 「燃え盛る火に追われ、命を失った幾多の人々のことを私どもは決して忘れることなく、多くの人々の犠牲の上に築かれた今日の平和を思い、平和を希求し続けていかなくてはなりません」と感想を述べた。 |
しかし、アジア各国にはサイパンよりはるかに多い戦死者が出たところが多くある。
天皇はサイパン陥落当時、10歳、習院初等科の5年生であった。
44年7月7日未明、追いつめられた軍民合わせて約3000人が、米軍に「バンザイ突撃」と呼ばれる最後の総攻撃をかけて「玉砕」した翌8日、天皇は、疎開先を静岡県沼津の御用邸から栃木県の日光へと変えた(天皇もまた「疎開世代」である)。
天皇のサイパン訪問は、日本側から米国政府と地元の北マリアナ連邦政府に受け入れを要請するという、天皇の外国訪問として初めての形となった。
なお、サイパン慰霊の旅の締めくくりとして05年6月28日午後、天皇、皇后は島中心部の敬老センターを訪れた。このとき島のお年寄り約120人が、アロハシャツ姿でフラダンスを踊って歓迎し、日本の歌数曲が披露されたが、軍歌「海ゆかば」の歌声が流れると、天皇陛下が表情をやや硬くされた(そのあと2人は、車いすのお年寄りら一人一人に、体をかがめて「お体は大丈夫ですか」「お元気でいてください」とねぎらった。
太平洋中西部、ミクロネシアにあるサイパン島は、マリアナ諸島ではグアム島に次ぐ第2の島で、1978年に成立した北マリアナ連邦の主島である。南北約23キロメートル、東西約10キロメートル、面積122平方キロメートル(東京山の手線内の2倍の面積)。火山島で、最高峰はタグポチャウ(Tagpochau)山(474メートル)。
島の北端のマッピ岬に2つの絶壁があり、追いつめられた日本の兵士や民間人の多くが、「天皇陛下、万歳」などと叫んで身を投げた。わが子を殺して自決した人もいた。「バンザイクリフ(Bánzai Clíff =ばんざい崖、絶壁=島北端の海岸の断がいで、約80メートル下の岩場の海に身投げした」」「スーサイド(suicide=自殺)クリフ」と今も呼ばれている。





スーサイドクリフ(標高約250メートルの山上の断崖)
1944(昭和19)年7月7日、サイパン守備部隊の残存兵力3000人は、この最後の「バンザイ突撃」で玉砕した。
玉砕した日本兵
サトウキビ、コプラのほか、マンガン鉱、硫黄(いおう)を産出する島サイパンに1521年、フェルディナンド・マゼラン率いるスペイン探検隊が到達、島は、1565年以来スペインに領有され、1898年にスペインからドイツに売却され、ガラパン港を中心に西海岸が開発された。
サイパン島は第1次大戦後の1920(大正9)年、国際連盟の承認のもとドイツ領から日本の委任統治領(国際連盟規約第22条に基づき、国際連盟によって委任された国が、国際連盟理事会の監督下において、一定の非独立地域を統治する制度)となり、島の北半部のなだらかな高地一帯がサトウキビ農園として開かれ、沖縄などからの移住者により製糖業が盛んになった。
米軍進攻の直前には、約2万5000人の日本の民間人が定住、日本の海軍航空部隊の基地であり、絶対国防圏構想の重要拠点であった。
緒戦の守勢から反攻に転じたアメリカ軍は、1944年6月19〜20日のマリアナ沖海戦で日本海軍機動部隊に大勝し、制海・制空権を完全に掌握した。
この直前の1944年6月15日早朝、ニューギニア方面および中部太平洋方面から日本本土を目していた米軍は7万の規模でサイパン島に上陸した。上陸したアメリカ軍に対しては、第13軍指揮下の第43師団(師団長斎藤義次中将)を基幹とする約3万人と中部太平洋方面艦隊司令部(南雲忠一【なぐもちゅういち】中将;1887〜1944。山形県生まれの海軍軍人。41年、第1航空艦隊長官として真珠湾攻撃を指揮、ミッドウェー海戦で大敗。死後、大将)指揮下の海軍第5根拠地隊を中心とする約1万4000人(計4万4000人)にすぎなかった。
米軍は上陸前の空襲で飛行機、地上施設を、上陸時には猛烈な艦砲射撃で地上陣地のほとんどを破壊した。米軍上陸を聞いた豊田副武(とよだそえむ)連合艦隊司令長官は、直ちに「ア号作戦発動」を命令したが、第一機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗していため、サイパン島の守備隊は孤立した。
東条英機内閣は、サイパンを太平洋戦争での日本の最終防衛線を意味する「絶対国防圏」の要としていた。
大元帥の昭和天皇は、6月18日、宮中に東条首相を呼び、「万一『サイパン』を失うようなことになれば、東京空襲もしばしば行われることになる。何が何でもサイパンを確保せよ」と厳命した。
サイパン守備隊は徹底した水際作戦を取り、激烈な抵抗を行ったが、資材不足の上、防御陣地の不備とも相まって、海、空からの支援を受けたアメリカ軍によってしだいに圧倒された。
天皇のこの命令は当然のことながら、同夜、米軍の圧倒的な兵器と兵員の前に敗走に敗走を重ねていたサイパンの部隊に打電された。
精神論ではいかんともしがたい状況の中、天皇は軍にサイパンへの増援を命じたが、もはや増援の兵器や兵員持たない軍は、6月24日、増援の断念を天皇に上奏した。
にもかかわらず、天皇は納得せず、6月25日に元帥会議を召集して再度増援をとサイパン奪還策を諮ったが、結局、断念せざるをえなかった。
以後、高松宮(昭和天皇の弟。大正天皇の第3皇子宣仁〈のぶひと〉親王。1905〜1987)は、東条内閣の打倒、終戦内閣実現への動きを始めることとなる。
7月5日、南雲司令長官と斉藤中将は総攻撃を決め、「明後7日、米鬼を索(もと)めて前進し、1人よく10人を斃(たお)し、以て全員玉砕せんとす」との命令を出した上で、7月6日、サイパン島の皇軍将兵に告ぐ 「太平洋の防波堤として、サイパン島に骨を埋めんとす。『戦陣訓』に曰(いわ)く生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか=罪やわざわい、ふしあわせ)の汚名(おめい=不名誉な評判。悪名)を残すこと勿(なか)れ」 との訓示(玉砕命令)を発して自決した。
大本営(戦時における陸海軍の最高統帥機関)は、非戦闘員の扱いは現地の司令部に一任したが、南雲らは民問人の保護等には何の方針も出さなかった。民間人は見捨てられたのである。
「絶対国防圏」の要のサイパン陥落で、日本の敗北は決定的となった。
島の北端に追いつめられた住民約5000人は、マッピ岬の断崖から身を投じ、米軍はこれを「バンザイクリフ」「シューサイトクリフ」と呼んだ。
「戦陣訓」や『鬼畜米英』によって耳や鼻をそぎおとされ、女の人は辱(はずかし)めを受けると信じ込まされていたため、それよりは、「自らの手で愛する者の命を絶つことがせめてもの慰めという心理状況に追いやられた」のである。
洞窟などに隠れる住民に対し米軍は投降勧告を行ったが、日本軍兵士は「『恥を知れ』」「『どうせ殺されるんだから、俺が射ち殺してやる』」と、住民の投降を制した。
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部下が、米軍の艦砲射撃弾で重傷を負っても、なお立ち上がろうとしながら果てる姿を目撃した元日本兵山内武夫は、その著『怯兵(きょうへい)記−サイパン投降兵の手記』(大月書店)で、「玉砕の軍隊」を生んだものへの怒りを以下のようにしたためている。
「彼らの死が犬死であったと言ってすませてしまうのはあまりにもやりきれない。その死を無駄にしない道は、かつての日本国家のたどった道をふたたび歩まないことである」「庶民個々人の人権よりも『国家』を担ぎまわる人々を警戒し、願い下げにする」 |
日本は、この戦闘で軍民約5万5000人が命を失った。
生き残った非戦闘員約1万5000人は、米軍によって収容され、生き残った軍人・軍属5000人と朝鮮人1300人は別々に収容され、軍人は米本土やカナダの収容所に送られた。
サイパンの戦闘は、住民(非戦闘員)を巻き込む悲惨な闘いであり、米軍に追いつめられた兵士や住民たちは手榴弾(しゅりゅうだん=手で投げる小型の爆弾。手投げ弾。てりゅうだん)などで相次いで自殺した。
民間人を犠牲にした「サイパンの悲劇」は、テニアン、グアム、そして沖縄や硫黄島でも繰り返されたのである。
米軍の同島占領は、アメリカ軍にと取っては有力な航空基地の確保を意味し、同年末からはB−29による本格的な日本本土の無差別空襲が開始されることになった。

1944(昭和19)年
6月11日…米機動部隊、マリアナ諸島に来襲。
6月15日 米軍サイパン島上陸
6月19日〜20日 マリアナ沖海戦。米軍対象。日本の第1機動部隊壊滅的敗北。
7月 6日…サイパンの日本軍守備隊、大本営へ訣別電を発信。
7月 7日…サイパンの日本軍守備隊、玉砕。
7月 7日〜7月21日…米軍、グアム島に上陸(8月11日日本軍玉砕)。
7月24日…米軍、テニアン島に上陸(8月2日日本軍玉砕)。
なお、1944年の壊滅的な戦禍後、サイパン島はアメリカ信託統治時代に急速に復興し、1978年北マリアナ連邦成立とともにその首都になっている。