☆ルイ14世(Louis
)☆

1638〜1715
フランス王(在位1643〜1715)。大王le Grandまたは太陽王le Roi Soleilと称されたブルボン王朝(Bourbon=フランス絶対主義期の王朝〔1589〜1830〕で、バロア朝断絶後のアンリ4世の即位に始まり、フランス革命で一時中断したが、王政復古で再興し、いわゆる「7月革命」〔1830年7月、パリ市民が起こしたブルボン復古王朝打倒の革命。シャルル10世の反動政治が終わり、大ブルジョア中心のルイ=フィリップによる立憲君主制〔七月王政〕が成立した)まで続いた)最盛期の王(江戸幕府第5代将軍徳川綱吉〔1646〜1709)とほぼ同時代〕)。
大王は、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの第1王子として1638年10月5日にサンジェルマン・アン・レ宮殿で生まれた。5才の時に父のルイ13世が死亡したためフランス王に即位。幼少であっため、母親のアンヌ・ドートリッシュが摂政(せっしょう)となり、1642年宰相に枢機卿(すうききょう=ローマ-カトリック教会の教皇に次ぐ聖職位〔教皇の最高顧問〕)マザラン(Jules Mazarin=1602〜1661。イタリアから帰化。ウェストファリア条約などにより領地を拡大した)を登用した。
大王が10歳の1648年に、マザランによる王権強化に対してパリ高等法院の反抗が契機となりパリの貴族と民衆が蜂起した「フロンド(fronde=投石具の意)の乱」が起きる。内乱は、市民にまで波及したが、内部分裂により1653年に鎮圧されたが、大王はこのときパリを脱出、国内を転々とする。この幼少期に直面した反乱の不安と恐怖は、その後の大王の人間形成に根深い影響を与え、貴族と高等法院を憎み、騒乱の地パリそのものを嫌悪する感情を植え付けたといわれている。
1618年5月23日プロテスタント(新教派)貴族が、反プロテスタン政策を推し進めるボヘミア(現チェッコ)プラハの王の代官を窓外へ投下したことが契機となって始まりヨーロッパ諸国を巻き込んだ「30年戦争」終結のために、1648年、ドイツのウェストファーレン(Westphalia。ウェストファリアは英語名)においてフランスとドイツ・スウェーデンとの間でウェストファリア条約を締結、フランス・スウェーデンの領土拡大、スイス・オランダの独立を承認させるとともに、ドイツ分裂を決定的にしたマザランは、1659年11月7日、1635年から戦争状態にあったスペインと1658年の「砂丘の戦い」でフランス軍の勝利を契機に講和(ピレネー〔平和〕条約)を結ぶ。
また大王は翌年、50万エキュの持参金付のスペイン王女マリア・テレサ(1638〜1683)と政略結婚をする。
その翌年のマザランの死去を契機に、大王は23才で政治の舞台に登場、自ら統治することを宣言、側近のコルベール(J ean-Baptiste Colbert〔1619〜1683〕)を財務総監に付けて重商主義政策(自国の輸出産業を保護育成し、貿易差額によって資本を蓄積して国富を増大させることを政策目標とする16世紀末から18世紀にかけて西ヨーロッパ諸国において支配的であった経済思想とそれに基づく政策)を推進して国家財政の確立、貿易・産業の振興を図る一方、アカデミーを創設し、芸術と科学等の学芸保護にも尽力した熱意を示した。
一方、大王は、その紋章に太陽を選ぶ。すなわち、平和と芸術の神アポロンを意味する太陽は、万物に生なる恩恵を与える天体であり、東から昇り西に沈む規律正しさそのものであるが、戦いに勝利して平和をもたらし、芸術を保護した大王は、太陽(神)のようにすべての恩恵を施す者であるとの意味である。さらに大王は、規則正しい執務ぶりや、公の場での起床と就寝の儀などにより、太陽(神)との類似性をも強調するところとなる。
「朕(われ)は国家なり」と豪語した(王がこの語を発したという証拠はない)大王は、この言葉がふさわしい政治状況を一時作り出すこと成功する。
そして大王は、パリの南西およそ20キロメートルのベルサイユに宮廷として造営したが、それは、フランスの絶対主義王制を象徴する建造物であった全長550メートル、1万人を収容するベルサイユ宮殿である。豪華絢爛を装った宮殿は、その権力や財力を内外に誇示することを意味したが、それは政治的にも重要な意味をもつものであったが、宮殿の装飾は、肖像画や国王の紋章(Louis のダブルの頭文字、王冠、王杖、裁きの杖)に神の象徴 (月桂樹、竪琴、三脚床机)が到るところで見られる。
そうした中、フランスの同盟者であったイギリス国王のジェームズ2世(1633〜1701〔在位1685〜1688〕。カトリックの復活と絶対主義の再興をはかって議会と対立した)が名誉革命で失脚すると、諸国は一斉に反フランスの戦い(「プファルツ戦争」)を開始、戦争は1697年、ライスワイクの講和をもって終わる。
さらに、「唯一の宗教」を目ざす大王は、1685年に新教徒の信仰の自由と政治上の平等を認めたナントの王令(1598年にフランス国王アンリ4世がフランス西部、ロアール川の下流北岸に臨む河港都市「ナン」トで発した勅令で、永続的に廃止されないとされていた)を廃止し、異端に対する大弾圧を開始する。それは当然、諸外国の厳しい批判を引き起こし、国際的に孤立する。国内においても激しい抵抗を招くことになる。
1700年、王孫アンジュー公がスペイン王位を継承すると、ふたたび反フランスの戦い、いわゆる「スペイン継承戦争」が開始された。戦争は泥沼の長期戦となる。その上、1702年には南フランスのユグノー農民による「カミザールの大反乱」が勃発する(〜1709年)。
こうした内外状況に1709年の大厳冬による大飢饉(ききん)が加わり、ここに、大王の威光は急速に衰え、大王圧政政策は終わりを告げ、大王は、1715年9月1日、77歳で没することになる。
大王死去により、ルイ15世が5歳でフランス国王に即位、後継のルイ16世時代にフランス革命が起き、有名な人権宣言が発せられるのである。
なお、現在、ベルサイユ宮殿はその中央部や礼拝堂・劇場などを除いて、豊富な美術品が展示されている南北両翼部は庭園とともに、歴史美術館として一般に公開されている。また、1979年に宮殿、庭園ともに
なお、1598年、フランス国王アンリ4世がナントで発した、新教徒の信仰の自由と政治上の平等を認めたナントの勅令(ナントの王令)は、ユグノー戦争を終結させたが、ルイ14世によって1685年によって廃止された。

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