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日中戦争(支那事変)のきっかけとなった中国軍と中国に駐留していた日本軍との軍事衝突事件。
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の南を流れる永定河(廬溝河)に架かる橋の盧溝橋(ろこうきょう=大理石の橋で、マルコ・ポーロが13世紀に欧州に紹介したので、マルコ・ポーロ橋ともいう。なお、橋のたもとには乾隆帝〔けんていりゅう〕の「蘆溝暁月」の碑がある)付近で、中国の中心部北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が中国側に通告なしに夜間演習を実施していた、その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかった(足りなかったのは兵士1名が下痢で演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していた)。 「これは中国軍(宋哲元の第29軍)の奇襲に違いない!やられた兵士の仇を討つのだ!」と騒ぎになり、事態を重視した牟田口廉也(むたぐちれんや)連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃したのである。 7月9日には停戦が行われ、11日には日中両軍間で停戦協定が調印されて事態は収拾されたかに思えたが、日本政府は同日、「華北派兵に関する声明」を発表、中国に対し「平和的交渉に応ずるの誠意なく」と決めつけ、「北支(中国北部)治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事」として、派兵決定を内外に発表、一発触発の状況の中で日本軍は現地での軍隊同士の小競り合い理由に7月28日から、朝鮮に駐屯していた朝鮮軍や「満州国」に駐屯していた関東軍が次々に侵攻し、北京・天津地方を占領、ついに8月15日政府(第1次近衛内閣〔37年6月4日〜39年1月5日〕)は、「支那軍の暴戻(「ぼうれい」=乱暴で道理がない)を膺懲(「ようちょう」=こらしめる)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言、約10万の大部隊の華北派兵を決定、中国軍も態度を硬化させ部隊を華北に移動させて全面的な攻撃を開始し、上海方面にも戦線を拡大、12月には南京を攻略、このとき日本軍は一般住民や捕虜を大量虐殺した「南京大虐殺事件」をおこした。 「暴支膺懲」を口実とした日本の侵略に対して中国では、中国共産党と国民党が協力して抗日戦争をたたかう態勢をとり、国をあげての徹底抗戦にたちあがった。日中全面戦争の始まりであった。 昭和天皇も同年9月、「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争の責任を押しつけ、「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するための武力行使だと強弁した。 翌1938年1月11日、天皇出席のもとで開かれた御前会議は、「支那事変処理根本方針」決定、「1.『満州国』の承認 2.中国北・中部などへの日本軍駐留 3.日本と「満州」、中国の経済一体化」などを中国政府に要求した。 そして同年1月16日、近衛内閣は、国民政府の存在を否認し、日本の作り上げた傀儡政権との連携を強める政治姿勢を明確にするため、「国民政府対手ニセズ」なる政府声明を発表、これにより、日本は完全に和平交渉の道を閉ざしのである。 ところで盧溝橋事件の前年の1936年、日本は、「支那駐屯軍」の兵力を約1,800人から約5,800人へ3倍もの増強していた。当然、中国は強く抗議したが、それを無視した日本は、増強部隊を盧溝橋にも近い北京近郊の豊台に駐屯させた。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍が配備されていました。互いの兵営の距離はわずか300メートル、挑発行為であることは明白であった。 このことは、事件当時、陸軍参謀本部第一部長で、日本が1931年謀略的に仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖【りゅうじょうこ】事件)をきっかけに軍事行動を引き起こした「満州事変」の中心人物の一人石原莞爾が、「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と証言していることからも明らかである。 なお、現地の日本兵の間では、「七夕の日は何かがおこる」という噂(うわさ)が飛んでいた(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会)。
また、靖国神社は現在、盧溝橋事件から日中が全面戦争となった「背景」について、「日中和平を拒否する中国側の意志があった」とし、全面戦争にいたったのも「日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石(国民党指導者)」に責任があると描いている(『靖国神社 遊就館図録』)。
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☆ 盧溝橋事件に関する政府声明(日本政府「断固たる措置」声明) ☆
1937(昭和12)年8月15日
1937(昭和12)年8月15日午前1時10分発表
帝国夙ニ東亜永遠ノ平和ヲ冀念シ、日支両国ノ親善提携ニ力ヲ致セルコト久シキニ及へり。燃ルニ南京政府ハ排日抗日ヲ以テ国論昂揚卜政権強化ノ具ニ供シ、自国国力ノ過信卜帝国ノ実力軽視ノ風潮卜相俟チ、更ニ赤化勢力ト苟合シテ反日侮日愈々甚シク以テ帝国ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。近年幾度カ惹起セル不詳事件何レモ之ニ困由セサルナシ。今次事変ノ発端モ亦此ノ如キ気勢力其ノ爆発点ヲ偶々永定河畔ニ選ヒタルニ過キス、通州ニ於ケル神人共ニ許ササル残虐事件ノ因由亦茲ニ発ス。更ニ中南支ニ於テハ支那側ノ挑戦的行動ニ起因シ帝国臣民ノ生命財産既ニ危殆ニ瀕シ、我居留民ハ多年営々トシテ建設セル安住ノ地ヲ涙ヲ呑ンテ遂ニ一時撤退スルノ巳ムナキニ至レリ。
顧ミレハ事変発生以来屡々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件ノ不拡大ヲ方針トシ、努メテ平和的且局地的ニ処理セソコトヲ企図シ、平津地方ニ於ケル支那軍屡次ノ挑戦及不法行為ニ対シテモ、我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為其ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出テタルニ過キス。而モ帝国政府ハ夙ニ南京政府ニ対シテ挑戦的言動ノ即時停止卜現地解決ヲ妨害セサル様注意ヲ喚起シタルニモ拘ラス、南京政府ハ我カ勧告ヲ聴カサルノミナラス、却テ益々我方ニ対シ戦備ヲ整へ、厳存ノ軍事協定ヲ破リテ顧ミルコトナク、軍ヲ北上セシメテ我カ支那駐屯軍ヲ脅威シ又漢口上海其他ニ於テハ兵ヲ集メテ愈々挑戦的態度ヲ露骨ニシ、上海ニ於テハ遂ニ我ニ向ツテ砲火ヲ開キ帝国軍艦ニ対シテ爆撃ヲ加フルニ至レリ。
此ノ如ク支那側カ帝国ヲ軽侮シ不法暴虐至ラサルナク全支ニ亙ル我カ居留民ノ生命財産危殆ニ陥ルニ及ンテハ、帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎クル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ。
此ノ如キハ東洋平和ヲ念願シ日支ノ共存共栄ヲ翹望スル帝国トシテ衷心ヨリ遺憾トスル所ナリ。然レトモ帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携ニ在り。之カ為支那ニ於ケル排外抗日運動ヲ根絶シ今次事変ノ如キ不祥事発生ノ根因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ挙ケソトスルノ外他意ナシ、固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラス。又支那国民ヲシテ抗日ニ踊ラシメツツアル南京政府及国民党ノ覚醒ヲ促サントスルモ、無辜ノ一般大衆ニ対シテテハ何等敵意ヲ有スルモノエアラス且列国権益ノ専童ニハ最善ノ努力ヲ惜マサルヘキハ言ヲ俟タサル所ナリ。
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