リトルボーイ(ちびっ子)=⇒一本の鉛筆原爆の子像

 

 

 激しい熱線、爆風、放射線。一瞬で命を失った人、生きて死の苦しみを味わった人、今に至るまで後遺症にさいなまれる人々。数十万に及ぶ死傷者の大半が普通の市民や子供だった。

広島には人類が初めて経験する地獄絵図が…そしてその3日後の8月9日には長崎で…!! 

 

1945年8月6日午前8時15分過ぎ。広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」機内はパニックに陥っていた。せん光、衝撃波で激しく揺れる機体。窓から広島市街を見た搭乗員は「見ろ、見ろ」と絶叫した。きのこ雲は数分間のうちに上空約1・5キロに達した。後日、ある搭乗員は「地獄を見ているようだった」「大釜の中でタールが沸騰しているようだった」と表現。「理解を超えている。われわれは一体、何人を殺したんだ」。搭乗員の一人は震える手で報告書にこう書いた(05年08月06日付『毎日新聞』)。

 2005年7月にAP通信と共同通信が日米で行った世論調査によると、米国人では原爆投下を「肯定する」と回答したのは48%と、「否定」の46%をわずかに上回る。一方で「戦争の早期終結のため避けられなかった」との回答は米国で60%、日本で35%。逆に「必要なかった」は米国39%、日本63%だった。

 

ritoru

 

 

広島型(ウラニウム235=材料は60キロ〔サッカーボールぐらい〕原子爆弾

 

Little Boy

 

リトルボーイ:1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾のコードネーム

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直径71cm,長さ3.05m,重量4.1トン,TNT火薬12.5キロトンに相当

 

 

 参考文献=『昭和―2万日の記録F廃墟からの出発』講談社(1990.1

 

 

Image6

 

広島

 

投下目標(点線が重なりあっている場所が相生橋/実施の爆心地

 

投下目標となった相生橋(T字橋)

 

被爆した路面電車

爆風により軌道より大きくづれた路面電車

 

 

 「いま私は死神になった。世界の破壊者だ」==最初の核実験に成功したとき、アメリカの原子爆弾製造に指導的役割を果たし、第2次世界大戦後、原子力委員会の要職を務め、「原爆の父」と称されて国家的英雄といわれていた物理学者オッペンハイマーJohn Robert Oppenheimer;1904〜1967)の心に浮かんだ言葉。オッペンハイマーは、1949年から1950年にかけての水素爆弾製造の是非をめぐる論争において、製造計画に反対したため、彼の影響力を怖れた米・原子力委員会は、1954年、彼の権威を失墜させる目的で、事実無根のスパイ嫌疑をかけ、彼が機密事項に関与することを許可しない決定を行った(いわゆる「オッペンハイマー事件」)。当時、アメリカ社会を支配したマッカーシズム(「赤狩り」)の流れのなかで引き起こされた事件である。1963年アメリカ政府は彼にフェルミ賞を授与し、この決定の誤りを認め、彼の名誉回復を図った。

 

ハンガリー生まれのユダヤ人でナチスの迫害を避けて米国に亡命、1941(昭和16)年から原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)に参画、第2次世界大戦後シカゴ大学物理学教授となるが、1949年から2年間、ロス・アラモス研究所の副所長として水素爆弾開発を指揮し、その後、スタンフォード大学の研究員となり、大統領レーガンが提唱した戦略防衛構想(SDI)の研究に携わったE・テラーEdward Teller;1908〜2003)は、広島、長崎への原爆投下は誤りだったとしながら核兵器を含むハイテクがなければスターリンが欧州を支配していただろう」と、核への信仰を捨てなかった。

 

 

 米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ(05年1月現在88歳)は、読売新聞に対して原爆投下に関する以下のコメントをしている(04年1月31日付『読売新聞』)。

 

 「原爆投下が必要だったとは思わない。賢明な選択ではなかった。ただ、戦争では、国の上層部がすべての動きを把握しているわけではない。これは私の強い印象だが、原爆投下決定を下したトルーマン大統領、マーシャル陸軍参謀総長、スティムソン陸軍長官の3人は、3月の激しい空爆で日本各都市がいかに大きな損害を受けたかを詳細に知らなかったのではないかと思う。原爆投下がなければ核競争の時代の到来は避けられたし、北朝鮮の現在の問題も起きていない」

 

なお彼は、ハーバード大準教授から太平洋戦線に駆り出され、第2次大戦後、フォード社に入り、シートベルト普及の立役者等として活躍、社長に就任。61年のケネディ政権発足とともに国防長官となり、次のジョンソン政権まで7年間在職、キューバ危機、ベトナム戦争に深くかかわり、68年から13年間、世界銀行総裁も務めた。95年に出版した回顧録では、「ベスト&ブライテスト」と言われたエリート集団がなぜベトナム戦争を間違った方向に導いたかを当事者として暴露し、大きな話題を呼んだマクナマラを主役にしたドキュメンタリー映画「The Fog Of War」(仮訳・戦争の霧)が、第76回アカデミー賞のドキュメンタリー賞部門でノミネートされた(04年1月31日付『読売新聞』)。

 

 

大本営は、原爆投下から1日たった1945年8月7日の午後3時30分

1.昨8月6日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり

2.敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり

と発表した。

 10日日本政府は、「従来のいかなる兵器、投射物に比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり」と米国に抗議したが、顧みられることもなく15日の無条件降伏に至った。

 

 

1945年8月8日付『朝日新聞』

 

午前8時過ぎ敵 B−29少数機が広島市に侵入し少数の爆弾を投下した。これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に各所に火災が発生した。敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したもののごとく、この爆弾は落下傘によつて落下せられ空中において破裂したもののごとく、その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある。

敵はこの新型爆弾の使用によつて無辜(むこ)の民衆を殺傷する残忍な企画を露骨にしたものである。敵がこの非人道なる行為を敢てする裏には戦争遂行途上の焦躁を見逃すわけにはいかない。かくのごとき非人道なる残忍性を敢てした敵は最早再び正義人道を口にするを得ない筈である。

敵は引き続きなほ今後もかくの、ことき爆弾を使用することが予想されるので、これが対策に関しては早急に当局より指示されるはずであるが、それまでは従来の防空対策、すなはち都市の急速な疎開、また横穴防空壕の整備など諸般の防空対策を促進する要がある。今次の敵攻撃に見ても少数機の来襲といへどもこれを過度に侮ることは危険である。

敵は新型爆弾使用開始とともに各種の誇大なる宣伝を行ひ、既にトルーマンのごときも新型爆弾使用に関する声明を発してゐるが、これに迷ふことなく各自はそれぐの強い敵愾心をもつて防空対策を強化せねばならぬ。

 

 

災地を視察して8日帰着した中部軍管区司令部赤塚中佐は“新型爆弾決して怖るに足らず”と冒頭して次の通り広島の教訓を語つた。

 

▽…広島市の戦災地区を視察した結論からいふと、敵の落下する新型爆弾決して怖るに足らず、従来の教訓を徹底すれば十分これに対抗し得るといふことだ。敵のこの新型爆弾はいはいよ“熱線風爆弾”とでもいふか、空中で炸裂すると同時に爆風とともに強烈な熱線を発し、熱線の威力は大体半径Oキロ、破壊威力は半径○キロに及ぶが熱線に対しては遮断すれば絶対であるが半袖シヤツに半パンツなど半裸体でゐる場合、この熱線に焼射されると忽ち皮膚面が火傷するし、薄シヤツを着てゐる場合でもシヤツを通して皮膚面に水泡が出来てゐる。だから半袖、半パンツは絶対に不可、ないし出来るだけ身体を出さないことが肝要だ。

 

▽…また硝子容器内の金魚は背面を火傷して死んでゐたし、窓際に面してゐた人たちは硝子を通して火傷してゐた点、この熱線は透明体を透すものと思はれる。だから何といつても警報が発令された場合は必ず完全な防空服を整へ熱線を皮膚面に受けぬやうにすることが肝要であり、頭部を守るための防空頭巾または鉄兜は絶対必要だ。

 

▽…熱線を受けた場合の瞬間の感じは全面的にかーつと熱くなるさうだが、火傷は熱線の直射を受けたところだけやられてゐて、局部的のもののやうだ。

 

▽…次に爆風の威力だが、一見強力なやうに思はれるが自分が視察したところでは日本家屋は殆んど全壊あるひは倒壊し、あるひは傾いてゐたが、鉄筋、鉄骨のビルは破壊されてゐなかつたし、街の待避壕はたこつぼ式の桟敷のないもので、しかし中心部に近いところのものでも全然破壊されてゐず、市電も完全に残つてゐた。だからこの爆弾の風圧に対しても壕さへ頑丈なものを作つてをれば絶対安全であることを確信する。そして壕は出来るだけ底蓋を強くすることだ。

 

▽…またこれは今後再検討を要する問題だが、通行途中などの突然の場合待避壕がない場合は矢張り伏せた方が効果があるやうだ。広島市の被害が比較的大きかつた原因は、警報解除の直後であつたために防空に対する気の弛みがあつたことと、この爆弾が全くの新型爆弾であつたためであると思はれる。これを要するに敵の誇称する新型爆弾は決してわれわれの想像を絶する如き強いものではなく、従来の戦訓を徹底励行し地下に潜ることに徹すれば何も怖るべきものではない。

 

▽…ただ注意せねばならぬことは少数機とへいども必ずしもラジオ情報の一言一区をよく注意していきき判断を怠らぬことが大切だ。

 

 

ビラ1 

 

ビラ2

原爆投下後にまかれた米軍のビラ

 

 

原爆の日(原爆忌)

 

「ノーモア・ヒロシマ」のスローガンが象徴する原爆反対の平和祭の日。

広島の歴史的悲劇を二度と繰り返さないように、毎年8月6日を原爆の日とし、広島をはじめとする各地で記念行事が行われている。

 

原爆の子==⇒千羽鶴

 

当時広島文理大学の学長であった教育学者の長田新(おさだあらた)の編集で、1951(昭和26)年に岩波書店より刊行されたさまざまな形で広島原爆を体験した子供たちの作文集。

 

被爆時に4歳より中学生までの年齢にあった子供たちの見聞や体験を、その6年後につづらせた作文100余編が収められており、子供の筆であったことから、多くの読者を感動させ、平和への強い証言となった。

 

1952年には、新藤兼人(かねと)監督の手で映画化が行われた。

 

 

   http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yougokaisetuheiwa.files/image003.jpg

  原爆の子−広島平和公園

 

Image8

台  座

 

原爆の子像

 

2歳の時被爆し、10年後に白血病を発病して亡くなった佐々木禎子(さだこ)さん。その死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、全国3100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、完成したのが、高さ9メートルのブロンズ像。  

 

 

ある少女の日記(細川浩史・亀井博編『広島第一県女1年6組森脇瑤子日記』より=一部要約)

 

【8月3日(金)晴れ】

  少しからだがつかれたような気がするが,このくらいは何でもない。

お姉さま方(かた)は,全部いろいろな方面で,いっしょうけんめいに,働いていらっしゃるのだ。

どうして,どうして「つかれた」などといわれようか。

 明日も農園に行く。いっしょうけんめいにやろう。(※お姉さま方=女学校の上級生)

 

【8月4日(土)晴れ】

今日も農園の作業である。昨日と同じように厚かったが、がまんしていっしょうけんめいやった。

帰宅とちゅう、桟橋で帽子を海に飛ばした。目の前でゆれているのだが,とれなかった。

せっかく,母が買ってくださったのにと思うと,残念でならない。

どうも気持ちがおもしろくない。

 

【8月5日(日)晴れ】

今日は、家庭修練日である。昨日叔父が来たので,家がたいへんにぎやかであった。

「いつも、こんなだったらいいなあ」と思う。

明日からは、家屋疎開の整理だ。

いっしょうけんめいがんばろうと思う。

 

 

少女の最期を看取った女性の記録

 

 あまりにもからだ全体のやけどがひどく,重傷でしたので,これでは助かりかねると思い,いっしょうけんめい,看護いたしました。‥中略…

「お母ちゃ−ん,まだ来てないん?」といくども聞いていらっしゃいました。「もうすぐ見えるよ,もうすぐよ,しっかりしていなさいね,がまんしてね」と、いくどなぐさめたかわかりません。

「お水ちょうだい」「お茶ちょうだい」「背中をなでて」「胸をなでて」「胸をさすって」「胸を軽くたたいて」「おばちゃん,手をにぎらせて」「暑い,あおいで」とおっしゃるので、手を取ってさしあげました。

 こうして、お母様のお見えになるのを、お嬢さんと一緒に待っていましたけど、とうとう、いらっしゃらないうちに永眠なさいました。

帝国書院『中学校歴史』より

 

  

 

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