第16代アメリカ合衆国大統領

 

☆エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)☆

 

1809(文化6)年1月2日〜1865(慶応元)年4月15日

 

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リンカーン

リンカーン記念館のリンカーンの大理石像

右手はL、左手はAの手話の形になっている。また、そのズボンは皺(しわ)だらけで折り目がない。体を動かし、額に汗して働く人の象徴

 

 

 「投票(バロット=ballotvoteは弾丸(ブレット=bulletより強し」

40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」

=リンカーンの金言=

 

 

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建国の父である初代大統領ジョージ・ワシントンや(アメリカ独立宣言の起草者)第3代大統領トーマス・ジェファーソンとともに、アメリカ合衆国国民に最も愛された大統領の1人。

 

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リンカーンは大統領になるまではあごひげは無かった。195センチの長身ではあったが、痩せていて、そのうえ、何かものさみしげな雰囲気を漂わせていた。これでは大統領選に勝てないとリンカーン自身が思っていたとき、「“あごひげ”を付けたほうが立派に見える」という内容の手紙をグレースと名乗る少女のからもらい、"あごひげ"を生やして見事大統領選に勝利した。

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リンカーンの系譜

 

1809年1月

ケンタッキー州の貧しい農場の、戸口が一つ、窓が一つ、そして暖炉の煙出しがあるだけの粗末な丸太小屋で出生(2日)。父はトーマス・母はナンシー

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丸太小屋

1832年5月

対インディアン戦争の義勇兵として入隊

1832年7月

ホィッグ党(Whig party=1834年に国民共和党が反ジャクソンの意味で改称したもの)から州議会に立候補(落選)

1834年

イリノイ州下院議員に民主・ホィッグ党の連立候補として初当選

1837年

独学で弁護士の資格を取得、イリノイ州スプリングフィールドで法律事務所を開設。

1842年

ケンタッキー州の名門の出であるメアリー・トッドと結婚(4人の男児)

1846年

イリノイ州の連邦下院議員(ホィッグ党)

1855年

上院議員転出に失敗

1856年

ホィッグ党が共和党(Republican party)に移行

1858年

イリノイ州共和党大会で連邦上院議員候補に指名

1860年11月

共和党の大統領候補に指名され、第16代アメリカ大統領に51歳で当選(6日)。大統領選のキャッチコピーが、「丸太小屋からホワイト・ハウスへ」であった。リンカーンは一般投票では、39.8%しか獲得できなかったが、選挙人等投票ではニュージャージー州を除く自由州の全てを獲得

1860年12月

南部サウスカロライナ州の州議会が満場一致で連邦から離脱を決定(20日)。以後、ミシシッピ、フロリダなどがこれに続き、翌、1961年にはジェファーソン・デービスを大統領とするアメリカ南部連合(Confederate States of America)が結成され、最終的には11州が南部連合(人口900万、内350万は奴隷。唯一の資源は綿花〕として連邦を離脱(北部は23州・2,200万、大西洋から太平洋にまたがり、各種の農工業資源を有していた)

1861年2月

25年間生活したイリノイ州から大統領としてワシントンD.C.へ(11日)

就任演説では、連邦統一を何より重視し、南部諸州の既存の奴隷制度に手をつける意図は、無いと述べた

1861年4月

サウスカロライナ州チャールストン港に孤立していた連邦のサムター要塞を救援する為に船隊を派遣。これに対して南軍が要塞を攻撃、4年間の内戦(Civil War in America=南北戦争)が勃発(1861年4月12日から1865年4月9日のアポマトックスの休戦まで)。北部で奴隷解放の声が強まる

1862年4月

アメリカ連邦軍(北軍)、南部最大の都市ニューオーリンズを占領(26日)

1862年12月

フレデリクスバーグ会戦で、南軍司令官ロバート・リー(Robert E. Lee)将軍圧勝(13日)。北軍の戦死者1万7,000人(南軍は半分)

1863年1月

「1863年1月1日の時点で合衆国に対して反乱状態にある南部諸州の奴隷は、ただちにすべて解放する」との内容の奴隷解放宣言(the Emancipation Proclamation)を発する

1863年7月

戦争のゆくえを決したペンシルヴェニア州の南部の交通の要衝(ようしょう)ゲティスバーグの戦い(南軍7万5,000人対北軍8万6,000人による3日間の戦闘での犠牲者は、南軍2万8,000人、北軍2万3、000人=史上最大の惨事)

1863年11月

ゲティスバーグの戦いでの戦死者を弔うゲティスバーグ(Gettysburg)の戦いの跡地に新しく建設する国立戦没者墓苑の墓地献納式において、わずか10の文で構成された272語・3分間の「人民の、人民による、人民の為の政治=The Goverment of the people, by the people,for the people 」の演説(19日)

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聴衆はざわめき、新聞は酷評か無視

『クロニック世界全史』講談社815ページ

「ゲティスバーグでの演説」

1863(文久3年−第14代将軍家茂〔いえもち〕の時代。この年『新撰組』が結成された)年11月19日

 

「いまから87年前、われわれの祖先は、この大陸に一つの新しい国を生み出しました。それは、自由の中にはらまれ、『すべての人間は平等に作られた』という主張にささげられた一つの新しい国でした。

いまわたしたちは、その国が---もしくは、このようにしてはらまれ、このような主張にささげられた、いかなる国にせよ---それがはたして長くつづき得るかどうかをテストする大きな国内戦に従事しています。そして、わたしたちはその戦争のなかの一大戦場に、いま、こうして集まっています。わたしたちがここにきたのは、この国が生きながらえるようにと願って、ここでいのちをささげた人びとのために、その最後の安らぎの場所として、この戦場の一部をささげるためであります。わたしたちが、このようなことをするのは、まったく適切でもあれば、当然でもあります。

しかし、もっと大きな意味では、わたしたちには、じつは、この土地をささげるなどということは、できないことなのです。この土地を神聖なものとして、この土地に栄光を与えることは、わたしたちにはできません。生き残ったと戦死したとを問わず、ここで戦った勇敢な人びとこそ、この土地を神聖な土地としているのです。わたしたちには、それに対して何かつけ加えることもへらすことも、とうてい、できません。全世界の人は、いまここでわたしたちの語っていることなどを、長くは記憶していないでしょう。しかし、あの勇士たちがここでしたことは、けっして忘れることができないでしょう。ここで戦った人びとが、ここまで、このようにりっぱに進めてきた未完の事業に、むしろ、生きているわたしたちこそ、ささげなければならないのです。 

わたしたちこそ、われわれの前に残っている偉大な任務に身をささげなければならないのです。そして、その未完の事業、偉大な任務とは、ほかでもありません。これら名誉の戦死者が最大限の献身をおこなった、あのたいせつな主義に対して、わたしたちがますます彼らから献身を学びとること、また、わたしたちが、これらの戦死者の死をけっしてむだ死にとはさせないことをここで高く決意すること、さらにまた、この国が神の御手(おて)のもとに、もう一度自由の新たな誕生をむかえるようにすること、そして、人民の、人民による、人民のための政治を、断じてこの地上から死滅させないこと、であります。」

(吉野源三郎全集4『エイブ・リンカーン』−ポプラ社より引用

1864年11月

大統領に再選(18日。55歳)

1865年4月

南軍ロバート・リー将軍が、北軍ユリシーズ・グラント(Ulysses S.Grant)将軍に降伏して内戦は、60万人を超える犠牲者を出して終結。350〜400万人の黒人奴隷達を解放

1865年4月

ワシントンのフォード劇場で“Our American Cousin”(『我がアメリカのいとこ」』)を妻のメアリーと2人のゲストとともに観劇中、狂信的南部主義者の俳優のジョン・ウイルクス・ブース(27歳)にピストルで狙撃(そげき)される(14日)。弾丸はリンカーンの左耳の下に当たり、脳を貫いた。観客の中にいた医師が大統領の傷を調べたが、すでに手のほどこしようがなかった。9時間後(翌15日午前7時22分)死亡(享年56歳。墓地は、第2の故郷であるイリノイ州スプリングフィールド市の北郊の州立の公園の中)。なお、ブースは「暴君の運命は常にこうなるのだ。南部の仕返しをしたのだ」といって逃走、4月26日、ヴァージニア州の田舎の納屋に潜んでいるところを北軍によって射殺された。

 

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ブース/ブースの手紙/フォード劇場

1865年4月

憲法修正第13条に基づいて合衆国内のすべての元奴隷に全ての公民権(公民としての権利。公職に関する選挙権・被選挙権、公務員として任用される権利などの総称=市民権)を確保する公民権法可決(9日)

 

備考;アメリカ憲法修正第13条(奴隷またはその意に反する苦役の禁止−1865年成立)

第1節 奴隷またはその意に反する苦役は、犯罪に対する処罰として当事者が適法に有罪宣告を受けた場合を除いて、合衆国またはその管轄に属するいずれの地域内においても存在してはならない。

第2節 連邦議会は、適当な立法によって本条の規定を執行する権限を有する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米国の第44代大統領に09年1月20日正午(日本時間21日午前2時)、民主党のバラク・オバマ前上院議員(47)が、連邦議会議事堂前での就任式で宣誓し、合衆国憲法の規定により、第44代大統領に就任した。任期は2013年までの4年間。黒人大統領は米国史上初めてで、民主党政権は8年ぶり。オバマ氏は「私たちの挑戦は新しい。成功は労働と誠実さ、勇気、忍耐などにかかっている」と「米国の再生」を誓い、「私たちに求められているのは、自らと国家、世界への義務を認識することだ」と呼びかけた。就任式の聴衆は会場内外で約200万人に上り、米史上最大の就任式になる見通し。宣誓後の就任演説は約20分間。オバマ氏は「我々が直面する挑戦は本物だ。容易に解決することはできない」と深刻な経済危機や対テロ戦争など米国を取り巻く環境の厳しさを指摘。その上で、「より良い歴史を選び、世代を超えて引き継がれた高貴な理念を実行するため、我々の不朽の精神を再確認する時が来た」と宣言した…オバマ氏は就任式に先立ち、ホワイトハウスでブッシュ大統領と会談。連邦議会議事堂西側正面の広場(モール)に面した特設会場へ移り、11時半からの就任式に臨んだ。ジョゼフ・バイデン新副大統領(66)に続き、ロバーツ連邦最高裁長官の立ち会いの下、正午前に「私は大統領の職務を誠実に執行することを心から誓う」と宣誓した。その際、第16代リンカーン大統領が1861年の就任時に用いた聖書を使用した。(09年01月21日付『毎日新聞』)

 

原子力空母クルマ深紅のバラと。三題噺(ばなし=1804〔文化元〕年に初世三笑亭可楽が創始した、客に三つの題を出させて、その場で一席の落語にするもの)のようで恐縮だが、ちゃんと共通点がある。答えは「リンカーン」だ。10万トンの軍艦もフォードの高級車も、そして強烈な香りを放つ大輪の1品種も、かの米国大統領の名をいただいている。地名や大通りの呼称となると、それこそ全米のいたるところにリンカーンがあるそうだ。学校の名にも少なくない。南北戦争で疲弊した国を統一に導き、奴隷解放を宣言した哲人への深い敬慕ゆえだろう。その偉大な指導者に自らを重ね合わせた初の黒人大統領、バラク・オバマ氏の刻む歴史がついに動き出した(09年01月21日付『日本経済新聞』−「春秋」)

 

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棺葬儀

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葬儀

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埋葬

 

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