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1809年1月
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ケンタッキー州の貧しい農場の、戸口が一つ、窓が一つ、そして暖炉の煙出しがあるだけの粗末な丸太小屋で出生(2日)。父はトーマス・母はナンシー

丸太小屋
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1832年5月
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対インディアン戦争の義勇兵として入隊
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1832年7月
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ホィッグ党(Whig party=1834年に国民共和党が反ジャクソンの意味で改称したもの)から州議会に立候補(落選)
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1834年
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イリノイ州下院議員に民主・ホィッグ党の連立候補として初当選
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1837年
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独学で弁護士の資格を取得、イリノイ州スプリングフィールドで法律事務所を開設。
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1842年
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ケンタッキー州の名門の出であるメアリー・トッドと結婚(4人の男児)
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1846年
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イリノイ州の連邦下院議員(ホィッグ党)
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1855年
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上院議員転出に失敗
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1856年
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ホィッグ党が共和党(Republican party)に移行
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1858年
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イリノイ州共和党大会で連邦上院議員候補に指名
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1860年11月
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共和党の大統領候補に指名され、第16代アメリカ大統領に51歳で当選(6日)。大統領選のキャッチコピーが、「丸太小屋からホワイト・ハウスへ」であった。リンカーンは一般投票では、39.8%しか獲得できなかったが、選挙人等投票ではニュージャージー州を除く自由州の全てを獲得
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1860年12月
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南部サウスカロライナ州の州議会が満場一致で連邦から離脱を決定(20日)。以後、ミシシッピ、フロリダなどがこれに続き、翌、1961年にはジェファーソン・デービスを大統領とするアメリカ南部連合(Confederate
States of America)が結成され、最終的には11州が南部連合(人口900万、内350万は奴隷。唯一の資源は綿花〕として連邦を離脱(北部は23州・2,200万、大西洋から太平洋にまたがり、各種の農工業資源を有していた)
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1861年2月
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25年間生活したイリノイ州から大統領としてワシントンD.C.へ(11日)
就任演説では、連邦統一を何より重視し、南部諸州の既存の奴隷制度に手をつける意図は、無いと述べた
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1861年4月
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サウスカロライナ州チャールストン港に孤立していた連邦のサムター要塞を救援する為に船隊を派遣。これに対して南軍が要塞を攻撃、4年間の内戦(Civil
War in America=南北戦争)が勃発(1861年4月12日から1865年4月9日のアポマトックスの休戦まで)。北部で奴隷解放の声が強まる
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1862年4月
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アメリカ連邦軍(北軍)、南部最大の都市ニューオーリンズを占領(26日)
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1862年12月
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フレデリクスバーグ会戦で、南軍司令官ロバート・リー(Robert E.
Lee)将軍圧勝(13日)。北軍の戦死者1万7,000人(南軍は半分)
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1863年1月
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「1863年1月1日の時点で合衆国に対して反乱状態にある南部諸州の奴隷は、ただちにすべて解放する」との内容の奴隷解放宣言(the
Emancipation Proclamation)を発する
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1863年7月
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戦争のゆくえを決したペンシルヴェニア州の南部の交通の要衝(ようしょう)ゲティスバーグの戦い(南軍7万5,000人対北軍8万6,000人による3日間の戦闘での犠牲者は、南軍2万8,000人、北軍2万3、000人=史上最大の惨事)
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1863年11月
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ゲティスバーグの戦いでの戦死者を弔うゲティスバーグ(Gettysburg)の戦いの跡地に新しく建設する国立戦没者墓苑の墓地献納式において、わずか10の文で構成された272語・3分間の「人民の、人民による、人民の為の政治=The
Goverment of the people, by the people,for the people
」の演説(19日)

聴衆はざわめき、新聞は酷評か無視
『クロニック世界全史』講談社815ページ
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「ゲティスバーグでの演説」
1863(文久3年−第14代将軍家茂〔いえもち〕の時代。この年『新撰組』が結成された)年11月19日
「いまから87年前、われわれの祖先は、この大陸に一つの新しい国を生み出しました。それは、自由の中にはらまれ、『すべての人間は平等に作られた』という主張にささげられた一つの新しい国でした。
いまわたしたちは、その国が---もしくは、このようにしてはらまれ、このような主張にささげられた、いかなる国にせよ---それがはたして長くつづき得るかどうかをテストする大きな国内戦に従事しています。そして、わたしたちはその戦争のなかの一大戦場に、いま、こうして集まっています。わたしたちがここにきたのは、この国が生きながらえるようにと願って、ここでいのちをささげた人びとのために、その最後の安らぎの場所として、この戦場の一部をささげるためであります。わたしたちが、このようなことをするのは、まったく適切でもあれば、当然でもあります。
しかし、もっと大きな意味では、わたしたちには、じつは、この土地をささげるなどということは、できないことなのです。この土地を神聖なものとして、この土地に栄光を与えることは、わたしたちにはできません。生き残ったと戦死したとを問わず、ここで戦った勇敢な人びとこそ、この土地を神聖な土地としているのです。わたしたちには、それに対して何かつけ加えることもへらすことも、とうてい、できません。全世界の人は、いまここでわたしたちの語っていることなどを、長くは記憶していないでしょう。しかし、あの勇士たちがここでしたことは、けっして忘れることができないでしょう。ここで戦った人びとが、ここまで、このようにりっぱに進めてきた未完の事業に、むしろ、生きているわたしたちこそ、ささげなければならないのです。
わたしたちこそ、われわれの前に残っている偉大な任務に身をささげなければならないのです。そして、その未完の事業、偉大な任務とは、ほかでもありません。これら名誉の戦死者が最大限の献身をおこなった、あのたいせつな主義に対して、わたしたちがますます彼らから献身を学びとること、また、わたしたちが、これらの戦死者の死をけっしてむだ死にとはさせないことをここで高く決意すること、さらにまた、この国が神の御手(おて)のもとに、もう一度自由の新たな誕生をむかえるようにすること、そして、人民の、人民による、人民のための政治を、断じてこの地上から死滅させないこと、であります。」
(吉野源三郎全集4『エイブ・リンカーン』−ポプラ社より引用
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1864年11月
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大統領に再選(18日。55歳)
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1865年4月
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南軍ロバート・リー将軍が、北軍ユリシーズ・グラント(Ulysses
S.Grant)将軍に降伏して内戦は、60万人を超える犠牲者を出して終結。350〜400万人の黒人奴隷達を解放
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1865年4月
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ワシントンのフォード劇場で“Our American Cousin”(『我がアメリカのいとこ」』)を妻のメアリーと2人のゲストとともに観劇中、狂信的南部主義者の俳優のジョン・ウイルクス・ブース(27歳)にピストルで狙撃(そげき)される(14日)。弾丸はリンカーンの左耳の下に当たり、脳を貫いた。観客の中にいた医師が大統領の傷を調べたが、すでに手のほどこしようがなかった。9時間後(翌15日午前7時22分)死亡(享年56歳。墓地は、第2の故郷であるイリノイ州スプリングフィールド市の北郊の州立の公園の中)。なお、ブースは「暴君の運命は常にこうなるのだ。南部の仕返しをしたのだ」といって逃走、4月26日、ヴァージニア州の田舎の納屋に潜んでいるところを北軍によって射殺された。

ブース/ブースの手紙/フォード劇場
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1865年4月
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憲法修正第13条に基づいて合衆国内のすべての元奴隷に全ての公民権(公民としての権利。公職に関する選挙権・被選挙権、公務員として任用される権利などの総称=市民権)を確保する公民権法可決(9日)
備考;アメリカ憲法修正第13条(奴隷またはその意に反する苦役の禁止−1865年成立)
第1節 奴隷またはその意に反する苦役は、犯罪に対する処罰として当事者が適法に有罪宣告を受けた場合を除いて、合衆国またはその管轄に属するいずれの地域内においても存在してはならない。
第2節 連邦議会は、適当な立法によって本条の規定を執行する権限を有する。
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