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尾崎行雄(おさき・ゆきお)=≪憲政の神様≫・“議会政治の父” |


1858年12月24日(安政5年11月20日)〜1954(昭和29)年10月6日
「咢堂が雄弁は真珠玉を盤上(ばんじょう=盤の上。特に、碁盤や将棋盤などの上)に転じ、木堂(犬養毅)が演説は霜夜(そうや==空が晴れて霜の降りる寒い夜)に松籟(しょうらい=松の梢【こずえ】に吹く風。また、その音)を聴く」(真珠のころがる涼やかな音色や、松の梢に吹く風の音)と評された。
「国家のためだといって、結局は、国家も人類をも滅ぼすような、こんな大破壊をやるとは、人間というのは、なんと底なしのバカだろう」
「議事堂は名ばかりで、実は表決堂である」(政党本部で決めた「既定の表決を粉飾する虚偽の道具たるに過ぎない」)「政党及び議会の信用が今日ほど薄くなったことはない。政党が金力権力を乱用したのが原因だ。心ある者は反省せよ…
神奈川県津久井郡中野町又野(現・相模原市津久井町中野)に生まれ、号(画家・文人・学者などが、本名のほかにつける名)は咢堂(がくどう)。
1874(明治7)年慶応義塾(現・慶応大学)に入学するも、創立者(塾長)の福沢諭吉に反抗して退学、東大工学部の前身の工学寮に入学するが、西南戦争中に半年で退学する。79(明治12)年には福沢の推薦で『新潟新報』の主筆(しゅひつ=新聞社・雑誌社の記者の首席で、社説・論説など重要な記事を書く人)となる。
1881(明治14)年大隈重信の招きで統計院権少(ごんのしょう)書記官になったが、同年のいわゆる「明治14年の政変(憲法制定・国会開設に対する伊藤博文らとの対立と北海道開拓使の官有物払い下げ疑惑などで、明治政府の筆頭参議【さんぎ=1869〈明治2〉年、太政官に設置し、大政【たいせい=天下国家の政治】に参与した官名で、左右大臣に次ぐ、正三位相当する職。1885年廃止】だった大隈重信とその一派が明治政府から追放されたもの)」に遭遇、わずか2カ月で退官した。
翌、1882(明治15)年4月大隈を中心に結成され、犬養毅・小野梓・河野敏鎌らが参加した立憲改進党の創立に参加、1887(明治20)年条約改正反対の大同団結運動に奔走し、保安条例によって東京から追放される。
1889(明治22)年欧米視察旅行に出発。
1890(明治23)年第1回の総選挙において(日本最初の総選挙で山縣有朋内閣の下で行われた)父が隠居していた三重県宇治山田市(現伊勢市)から当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。
1898(明治31)年、いわゆる隈板内閣(わいはんないかく=第1次大隈重信内閣の通称で98年、自由党・進歩党が合同して成立した憲政党を中心とする最初の政党内閣。大隈が首相兼外相、板垣退助が内相を務めたためこう呼ばれたが、憲政党内における対立、貴族院・元老の圧迫などによりわずか4か月で崩壊した)文相に40歳で就任したが、「共和演説事件」(アメリカの共和政治=大統領についての演説)のため辞任した。
1903(明治36)年から1912(大正元)年まで東京市長。1912年に第1次護憲運動が開始されるやその先頭にたって東奔西走、桂内閣打倒の立役者になり、「憲政の神様」と称されるようになった。
1914(大正3)年、大隈重信の傘下に復帰し大隈内閣の司法大臣に就任。1916(大正5)年憲政会の結成に参加し、同党の筆頭総務となり、平和主義・デモクラシーの高まりのなか、民主主義・平和主義・国際主義の立場を表明、さらに普選運動にも参加するが、1921(大正10)年、普選問題で憲政会案に反対したため除名処分になる。同年軍縮運動を開始。翌年犬養毅らと革新倶楽部を組織し、議会内の急進派として活躍。
1924(大正13)年の第2次護憲運動にも参加、1925(大正15)年には治安維持法の制定に反対、革新倶楽部と政友会の合同に反対して同倶楽部を脱会、新正倶楽部を結成する。
1933(昭和8)年には、晩年の代表作『墓標に代えて』を執筆。
1935(昭和10)年、「永年在職議員」の表彰制度が始まり第1号の表彰を受け、国会の委員会室に肖像画(制作費は議員が出し合った)が飾られる。当時、尾崎は衆院当選18回、在職43年で、本会議で議長が表彰の決議文を朗読すると「満場拍手と起立をもって賛意を表した」と記録されているが、多くの議員から敬愛されていた証左である(その謝辞の一節に、「政党及び議会の信用が今日ほど薄くなったことはない。政党が金力権力を乱用したのが原因だ。心ある者は反省せよ…」とあるが、一言のヤジもなく、誰もが謹聴した)。
ファシズム(イタリアのムッソリーニが率いたファシスト党に始まる自由主義と民主主義を否定した一党独裁による専制主義政治体制。国内的には権力者に対する絶対の服従【全ての自由の圧殺】と反体制者に対する過酷な弾圧、国外的には侵略戦争を遂行するのを特色とする)下の1937(昭和12)年の第70帝国議会では辞世を懐中に軍部批判の演説(斎藤隆夫(1936【昭和11】年5月7日の粛軍演説や陸軍から「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜【ぼうとく】」であり、「非国民」と攻撃された1940【昭和15】年2月2日第75議会再開2日目の民政党の代表質問【反軍演説】)や浜田国松いわれる「腹切問答」演説と並ぶ昭和史屈指の名演説)を行った。
1942(昭和17)年には、翼賛選挙を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、また同志・田川大吉郎(たがわだいきちろう。1869〜1947。「報知新聞」「都新聞」記者を経て1908【明治41】年衆議院議員【以後当選9回】。国民党や憲政会などに所属。戦後は社会党)のために行った「政府に賛成する側の候補者にだけの便宜を与え、他の応援者を弾圧するのが『翼賛選挙』」という応援演説が不敬罪(天皇や皇族もしくは神宮・皇陵に敬意を払わず、礼儀を失することを意味する、不敬行為によって成立する罪で、日本国憲法の制定に関わる1947年の刑法改正により廃止された)にあたるとして逮捕・検挙された(裁判の結果は懲役8カ月、執行猶予2年であったが、尾崎は、「もし不敬という大罪を犯しているとすれば、刑が軽すぎる」として大審院に上告、1944年大審院は無罪の判決を下した)。
第2次大戦後は、反軍国主義・反ファシズムの姿勢を貫いた「議会政治の父」として時代の脚光を浴び、1945(昭和20)年11月27日開院の第89帝国臨時議会で、「世界連邦建設に関する決議案」を提出するとともに、1946(昭和21)年に『民主政治読本』(何よりもまづ、自分はいかなる政治を希望するかという自分の意思を、はっきり決めてかかることが大切である。選挙は国民の意思を国政に反映させるために行われるというが、有権者それ自身に政治的意欲がなければ、すなわち反映する本体がなくては、いくら投票しても意味がない=「投票の心得」)を発表した。
また、食糧メーデー(第2次大戦後の深刻な食糧危機の中の1946【昭和21】5月19日、皇居前広場【当時「人民広場」と呼ばれていた。戦前は宮城前広場】に約25万人が参加して行われた飯米【はんまい=飯【めし】に炊く米。食用米】獲得人民大会の通称)や2.1ゼネストを批判するとともに、1951(昭和26)年の講和(平和条約)・日米安保(日米安保条約)両条約にも賛成、オールド・リベラリスト(年取った自由主義者)と称された。
1953(昭和28)年4月の第26回衆議院議員総選挙で初めて落選、衆議院名誉議員の称号(衆院では、50年以上の議員在職者で「特に国家並びに憲政に顕著な功績」があれば名誉議員の称号を贈る申し合わせがあり、これまで贈られたのは尾崎氏と三木武夫元首相だけで、衆院の正面玄関に胸像が立っている)と東京都名誉市民第1号が送られた。
翌年1954(昭和29)年10月6日、96歳で死去、衆議院葬が仏式で盛大に行われた。

また1960(昭和35)年には、尾崎を記念して、尾崎記念会館が建設された(その後これを吸収した憲政記念館が設立され、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示している)⇒財団法人尾崎行雄記念館財団。
なお、相馬雪香(そうま ゆきか)尾崎行雄記念財団副会長・日韓女性親善協会名誉会長は、尾崎行雄と英国育ちで日英に血を受けた女性テオドラの子であり、1993年にエイボン女性大賞、1999年に読売国際協力賞(難民を助ける会)を受賞している(同氏は、08年11月8日午後6時20分、老衰のため長野県軽井沢町の自宅で死去。享年96歳)。


憲政記念館の尾崎像









妻繁子
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新憲法の花は、なんといっても、第2章の戦争放棄の大宣言であろう。 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達成するため、陸海軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」(日本国憲法第2章第9条) ・・・私も多年の平和論者であるが、正直に言って、かくまでに徹底してはいなかった。私はこの原案の作成者と、この原案の冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」という文句を加えて、これを可決した議会に心から敬意を表する。 この条文の審議にあたり、「我が国だけが戦争を放棄しても、他国がこれに賛同しない限り、その実効は保障されぬではないか」という委員の質問に対し、政府は「この規定は、我が国が好戦国であるという世界の疑惑を除去する消極的効果と、国際連合自身も理想として掲げているところの、戦争は国際平和団体に対する犯罪であるとの精神を、我が国が率先して実現するという積極的効果がある。現在の我が国はまだ十分の発言権を持って、この後段の積極的理想を主張しうる段階には達していないが、必ずや、いつの日にか、世界の支持を受けるであろう」と答えたと報せられたが、この答えもまことに結構である。ただ一言、老婆心を持って言っておきたいことは、この一片の文章を見ただけでは、我が国を好戦国であるとする世界の疑惑を取り除く事はできないであろうということである。このうえは、日本人の生活のあらゆる面において、我々が真の平和愛好者であることを、実践を通して証明しなければならぬ。 。 戦争放棄を新憲法の花とすれば、国民の権利義務を規定した第3章は新憲法の実である。その第11条以下第40条に及ぶ自由と権利の保障は、いかなる国家の人権宣言よりも、行き届いた徹底したものだといえるであろう。民主主義の基盤である自由平等、生活権の保障は、あげて第3章につくされている。 すなわち第3章において、「全ての国民は基本的人権を享有する。この基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」(第11条)ことが約束せられた。また「全ての国民は男女・貧富・貴賊・人種・宗教の別なく、全ての法の下に平等であって、政治的・経済的・社会的関係において差別待遇をせられない」(第14条)ことが約束せられた、また「全て国民は個人として尊重せられる。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」(第13条)ことが約束せられた。 思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社及び言論出版その他一切の表現の自由(第21条)、居住・移転・職業選択の自由及び国籍離脱の自由(第22条)、・・・その他、・・・抑留・拘禁・捜査・押収・拷問・虐待・自白の強要等、人の生命身体に関する不当の侵害を防止する約束がいたせりつくせりに書かれている。 尾崎行雄『民主政治読本』(1946)、『尾崎咢堂全集第10巻』38〜39頁より。 |
参考文献
『尾崎咢堂全集』12巻の他、以下の文献がある。
1.
英国議院政治論 <内閣執政篇>
アルフュース・トッド/著//尾崎行雄/訳
自由出版社 (1883.3)
2. 英国議院政治論
<総論並びに制度沿革史>
アルフュース・トッド/著//尾崎行雄/訳
自由出版社 (1882.10)
3. 英国議院政治論
<王権政府諸会議篇>
アルフュース・トッド/著//尾崎行雄/訳
自由出版社 (1882.12)
4.
咢堂回顧録 (上巻)
尾崎行雄/著
雄鶏社 (1951.11)
5.
咢堂回顧録 (下巻)
尾崎行雄/著
雄鶏社 (1952.3)
6.
咢堂自伝
尾崎行雄/著
咢堂自伝刊行会 (1937.2)
7.
銀行国営論
尾崎行雄,田川大吉郎/共著
日本評論社 (1931.8)
8.
政治読本
尾崎行雄/著
日本評論社 (1925.9)
9. 尾崎行雄 [人物叢書]
伊佐秀雄/著
吉川弘文館 (1987.7)
10.
尾崎行雄氏大演説集
大日本雄弁会/編
大日本雄弁会 (1925.10)
11. 近代日本の思想
(2) <徳富蘇峰・大杉栄・尾崎行雄> [有斐閣新書]
和田守/[ほか]著
有斐閣 (1979.3)