郷土の相撲人=第4代押尾川(愛媛初代)
1771(明和8)年〜1809(文化6)年

郵政省の相撲シリーズ切手(上覧試合の陣幕〈押尾川〉と雷電;1978年)
初代押尾川巻右衛門は、宝暦年間の力士。以後、押尾川は代々襲名され、現代に至っている。
1771(明和8)年伊予国和気郡塩屋町(現愛媛県松山市三津2丁目)の灘屋喜太八(なだやきたはち)の8男として生まれた松山藩お抱えの力士(江戸時代の力士の多くは大名のお抱えであった)。
大坂(江戸時代は大坂〈おおさか・おおざか〉と呼ばれ、徳川幕府の直轄地として諸大名の蔵屋敷が集中、諸国の米や特産物の取引の中心地となり、天下の台所といわれた。1871〈明治4〉年に大阪と表記が改められた)へ出て大坂相撲の親方、陣幕(じんまく)長兵衛の弟子になり、陣幕島之助の四股名(しこな=力士の名前。「四股」は当て字で、まず両足を開いて構え、足を左右交互に高く上げ、このとき手をひざに当て、力を入れて地を踏む相撲の基本動作の一)で、1788(天明8)年8月、大坂・難波の勧進相撲(かんじんすもう=勧進とは本来、神社仏閣の建立・修繕、橋の架け替えなどの資金に寄付を勧めること。そのために神社の境内でプロ〈職業〉相撲が行われた。のちには勧進本来の意味は薄れ、生活資金を稼ぐ営利目的に代わり、営業興行が行われようになった。特に江戸初期には、江戸や大坂をはじめとして全国各地に江戸相撲・大坂相撲等の相撲集団が続々とできた)において西前頭4枚目のお番付で土俵に上がった(デビューした)。
1789(寛政元)年11月に江戸に下って(当時は天皇がいた京都が日本の中心で、京都に上がることを上洛〈じょうらく〉といった)、藤嶋甚助(ふじしまじんすけ)の門人となり、四股名を龍門鯉之助(りゅうもんこいのすけ)に改め、1790(寛政2)年3月に江戸は深川の富岡八幡宮(江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまるが、いざこざ〈トラブル〉が多くしばしば禁止令が出ていた。その後、禁止令が緩み、1684〈貞享1年〉江戸幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許される。その地が富岡八幡宮であったことから、江戸勧進相撲の発祥の地とされている)境内で行われた春場所で西関脇に付け出され、6勝3敗の好成績をあげる。
番付の編成替え大関格(江戸時代にあっては、横綱は免許を持つ大関に対する名誉称号だったため、番付では大関が最高位であった。その横綱は、1791〈寛政3〉年、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助と小野川喜三郎が行った純白の綱に幣〈ぬさ=祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛〈へいはく〉。紙・麻・木綿〈ゆう〉などを使う〉を垂らした土俵入りからである)となり、1791(寛政3)年4月の春場所から陣幕鴻之助(じんまくこうのすけ)、同年11月に陣幕嶋之助(じんまくしまのすけ)と改める。
同年6月の上覧(じょうらん)相撲(将軍の前で行われた相撲。これに対して、天皇の前で行われる相撲を天覧相撲という)で、雷電為右衛門(らいでんためえもん。1767〜1825。信濃の人出身の力士。大関在位17年。32場所中、254勝10敗、勝率9割6分以上の驚異的な成績を残した)を喉輪(のどわ)攻め(「裏刎〈うらばね〉=手を矢筈〈やはず=矢の末端の弓の弦【つる】を受ける部分〉の形にして相手ののどにあて、押して攻める方法)で破る大番狂わせを演じた力士としても有名(以後禁止技となる)。
郷里の松山藩主とは反りが合わず、1795(寛政7)年3月から3場所のみ阿波藩(徳島)の抱えとなった(なお、このとき領主にさえ見放されただめな男といて応じなかった〈『松山史談会』〉との説がある)。
1800(寛政12)年10月からは、第4代押尾川巻右衛門と名乗って江戸相撲をにぎわした(安永元年十一月場所二段目以下「前頭」頭書)。
1802(享和2)年11月の小結として大坂に帰った。
通算17場所 60勝22敗9分、14預、7無勝負、38休場。
1804(文化元)年6月勧進元(かんじんもと=芸能・相撲など興行一般の興行主・主催者)を務め、この場所限りで引退して世話人に、1806(文化3)年5月に頭取(とうどり=力士をまとめ、取り締まる役割の人)となった。
現役時代の身長189センチ(約6尺2寸5分)、体重146キロ(約39貫)。
1807(文化4)年7月場所限りで廃業。廃業後は郷里・松山に帰り土地相撲(江戸時代各地方では大衆娯楽としての土地相撲が発展、黄金期を迎える「勧進相撲」の母体となっていた)を指導した。
1809(文化6)年2月10日没する。享年38歳。
墓所は、松山市元町7(三津地区)。

お地蔵さんは、地域の守り本尊として1716(享保元)年7月24日建立。祭日は毎年8月24日or25日。地蔵の右の石塔は「南無阿弥陀仏為三界万霊演誉上人白誉清雲危」。祭日は7月14日。

お地蔵さんの裏に1884(明治17)年10月1日に建立された石碑がある。石碑は同年8月25日に突然三津浜海岸を襲った津波により犠牲となった「豫州溺死者招魂碑」。


第4代押尾川の墓
なお、同墓所には、三ツ湊(1860〈万延元年〉没)、千代の松(1889〈明治22〉年没)、打波(1837〈天保7年〉没)、6代目押尾川(郷里第2代目=1869〈明治2〉年没)、松之音(1874〈明治7〉)年没の墓がある。


第6代(郷里愛媛2代目)押尾川は愛媛県温泉郡重信町上林〈現東温市重信町上林〈かみばやし〉〉〉出身で、1869(明治2)年1月9日に死去(享年58歳)。郷里の初代と2代目の押尾川の墓を三津元町に建てたのが、第7代押尾川(郷里愛媛3代目)で、2人の追善相撲を三津海岸で興業している。
参考文献
ミニコミ紙『エリアサービス重信』2000年7月号
読売新聞『大相撲』1985年2月号