沖 縄 戦(1945【昭和20】年の沖縄戦における日米両軍の動向)/10.10沖縄空襲

 

 

 沖縄戦の戦没者や遺骨,県内にある壕の統計で,国と県の把握数が食い違っていることが分かった。戦没者は県が約1600人多く,遺骨収集数は国が約2100柱上回り,未収骨は県が約3700柱多くなっている。政府は08年12月9日の閣議で,照屋寛徳衆院議員(社民)の「沖縄戦犠牲者の未収遺骨と防空壕等に関する質問主意書」に対し,戦没者の総「計は約18万6500人,2008年3月までに収集した沖縄での戦没者の遺骨数は18万6142柱,未収集の遺骨数は約350柱とする答弁書を決定した。一方,08年12月8日の県議会で照屋大河氏(社民・護憲)の質問に対する県の答弁では,推計として戦没者の総計18万8136人,収骨数は18万4031柱,未収集の遺骨数は4105柱とした。沖縄県内に存在する旧日本軍などが築造した地下壕の数は,国が248カ所としているのに対し,県の答弁では壕が301カ所,自然壕(ガマ)は194カ所としており,大きな差がある。国の答弁書によると,地下壕の数は,国土交通省と農林水産省が05年度に共同で行った特殊地下壕実態調査で,県から報告を受けた数としており,うち旧軍によるものが144カ所,旧軍以外67カ所,不明37カ所とした。照屋寛徳氏は「国と県の連携が取れておらず,認識が離れすぎている。沖縄戦の実情を明らかにしようという姿勢が双方に欠けている」と批判した(08年12月10日付『琉球新報』)

 

 

「戦争の醜さの極致だ。それ以外どうこれを説明しようもない,凄惨(せいさん)を極めた戦は捨石戦」

 

「日本軍が沖縄県民に集団自決を強要したり,スパイよばわりして虐殺した沖縄戦」

 

「軍と住民が混在した地域が戦場となった戦争」

 

「これまでの軍隊同士の戦争と異なり,住民を軍の指揮下に置き(巻き込み),敵兵の盾にし,犠牲を強いた戦争」

 

「海に陸に空に激烈を極めた戦争」

 

「米軍の砲撃は間断なく島を耕した」「戦争の冷厳な極致。死闘は古今未曽有」

 

米軍の砲撃は,「鉄の暴風」といわれ,45年6月だけ撃った砲弾や銃弾は680万発。当時,主に戦闘があった本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり約50発。

 住民が「ありったけの地獄」を経験した沖縄戦(米軍報告書)

 日本軍は45年5月下旬,首里(しゅり)城の地下に置いた司令部と軍の主力を本島南部に撤退させた。そこには大勢の住民が避難していた。住民は必然的に戦火に巻き込まれた。地下壕(ごう)に逃げ込んでいた住民を日本の軍人が追い出したり,敵に見つかるからといって泣いている赤ん坊を殺したりもした。

 

「『軍隊は第一に軍隊を守る,住民は二の次ぎ,三の次ぎ』という軍隊の本質をものの見事に立証した戦争」(生き残った住民は,「米軍より日本軍が怖かった」と語る)

 

しかし,「沖縄県民斯く戦えり」戦争が終わり,平和憲法ができても,沖縄は戦略の島として……!!

 

〈捨て石(囲碁で,より以上の利益を得るために作戦としてわざと相手に取らせる石)といわれた沖縄

今,〈要石〉といわれている

 

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沖縄戦とは?

 

1.先の大戦において,日本国内で住民をまきこんだ唯一の地上戦。

2.沖縄戦は,大本営にとっては当初から<捨て石作戦>であり,本土防衛の準備が完了するまでの単なる時間稼ぎの展望のない絶望的な戦い。

3.本土決戦(1億玉砕)に備えての兵力温存方針下で,兵力を現地で調達する「自給総動員体制」の戦い⇒住民を法的根拠なく防衛隊員,学徒隊員に徴用,女性や学校の生徒も勤労奉仕隊などに動員,国民学校(小学校)の児童までも土石運びに駆り出された住民総力戦。

4.「軍民共生・共死」をスローガンに(住民は,軍と共生・共死しようとしたが,本土の人間で構成された正規軍は,共生・共死を破った)積極的に住民を戦争に駆り立てた⇒住民を守る事をせず,住民を盾にした戦い。戦うことが可能なすべての住民が動員された戦い⇒「国土防衛義勇隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり部隊(従軍看護婦)」らがそれである。

5.日本軍によって,多くの住民がスパイ容疑で殺害され(日本軍は参謀長名で,「沖縄の方言を使う者は間諜(スパイ)と見なし処分する」と命令した。その背景には,「厳然たる措置をとらねば,米軍にやられるより先に,島民にやられてしまう。だから,断固たる措置が必要だった」という蔑視思想があった。例えば,沖縄本島北部で米軍に降伏した国頭(くにがみ)支隊の秘密戦大綱には「本島ノ如ク民度低ク……」記されている)。また,各地で住民の「集団自決」を強要した戦い⇒それは,軍命として出された「悠久の大儀に生きよ」や,戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」などの思想教育の賜物(たまもの)であった。

 

 

1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦で敗北した日本軍は,太平洋戦線からの後退を余儀なくされた。攻勢に転じた米軍は,日本が占領する太平洋上の島々を次々と制圧し,日本本土攻略をめざし北上した。

 

こうした戦況のなかで台湾と沖縄の基地の重要性が高まり,1943(昭和18)年夏ごろから,沖縄本島,伊江島,宮古島,石垣島など10数か所に,日本軍の飛行場建設のための突貫工事が行われるともに,翌44(昭和19)年3月には,南西諸島の防備を強化するため,沖縄守備軍(第32軍)が創設され,同年6月から中国戦線や本土からの実戦部隊が配置された。同時に,沖縄戦に備えるため本土からも将兵が派遣された。その途中の同年6月29日,独立混成第44旅団・第45旅団の将兵約4,600人を乗せて鹿児島から沖縄へ向かっていた軍用船・富山丸が徳之島海上で,米潜水艦に撃沈され,約4,000人が帰らぬ人となった。 

 

また同年7月には,老幼婦女子の疎開計画が実行され,8月中旬から学童疎開が始まり,8月22日には825人の学童を含む約1,500が「対馬丸」に乗り込み出航した。しかし米潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け沈没,乗員は,暗闇の海に呑みこまれていった(船体と犠牲者の遺体は現在も水深800mの海の底に眠ったままである)。

 

米軍は,沖縄戦をアイスバーグ(氷山)作戦と名づけ,約1,500隻の軍艦と,戦闘部隊と補給部隊を合わせて54万8,000人もの兵員を動員して沖縄戦略を展開するが,その一環として,同年10月10日,米軍によるB−29爆撃機など延べ900機による9時間にわたる激しい空襲(10・10−じゅうじゅう−空襲)が那覇・首里をはじめ宮古島,石垣島,大東島などに敢行された。この空襲で,548人が死亡し,家屋1万1,451戸を焼失,那覇の市街地の90%が焦土と化した上,県民の1月分の食糧を意味する30万の米俵を失ったばかりか,貴重な歴史的遺産が数多く焼失した。

 

10・10空襲の後,第32軍から最精鋭の第9師団(武部隊)が,台湾防備の強化戦略ため移動させられたため,沖縄守備軍の兵力不足は深刻さを増した。そのため日本軍は,1945(昭和20)年の2月から3月にかけて法的根拠もないまま,16歳から45歳までの男子を司令官命令で招集し,陣地構築や飛行場の建設等に動員するばかりか,戦場にもかりだした。

 

さて米軍は,1945年3月9日夜から10日にかけてサイパン,グァム,テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるBー29で東京を夜間に大空襲,この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり,江東地区は全滅,約23万戸が全焼し,100万以上の人が家を失い,12万人以上の死傷者を出した。

 

焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが,このころより本土空襲が激化,11日には名古屋,14日には大阪(13万戸が焼失),18日から20日にかけては九州各地,つづいて四国,呉が空襲された。高度1万メートルからの爆撃では地上の高射砲は全く役立たず,迎撃用の日本の戦闘機は既になく,国民はただ逃げ惑うことしかなすすべがなかった。

 

米軍は3月26日に,沖縄西方25キロの慶良間(けらま)諸島に上陸,激しい戦闘が展開される。慶良間諸島は大小約20の島々からなるが,住民の多くが住んでいたのが渡嘉敷(とかしき)島と座間見(ざまみ)島であった。

 

いうまでもなく慶良間諸島上陸は,水上機基地・補給基地としての戦略的価値を重視したニミッツ元帥の戦術であった。艦船からの猛砲撃後の米軍の上陸で,島の住民たちは窮地のたち,追い詰められた。日本軍は海岸地帯に食糧を保管していたため,米軍の上陸でそのすべてを失ってしまった。それゆえ日本軍は,住民から食糧を強制的に供出させ,米軍の攻撃に備えて日本軍は壕の中に陣取った。すでに壕に避難していた住民を追い出してである。そのため住民は裸同前で米兵の前に放り出されることとなった。

 

米軍との持久戦を想定した日本軍にとって,住民は足手まといになるばかりか,食糧不足の要因にもなる。そこで軍は,住民に集団自決を強いるところとなる。その結果,700余人が自決する。悲惨(残酷)極まりない話(事実)である。

 

米軍は3月29日までに,同諸島を制圧し,米国海軍軍政府布告第1号・「南西諸島における日本のすべての行政権,司法権を停止し,最高行政の責任は占領軍司令官の権能に帰属させる」を公布(ニミッツ布告)した。

 

本土空襲を続けながら,米軍は4月1日午前8時36分,第24陸軍と第3海兵隊を主力(このほかH・ロウリングス中将の率いる英国太平洋艦隊が,米第5艦隊に所属して参戦)とする米太平洋艦隊司令官兼太平洋方面部隊指揮官チェスタール・W・ニミッツ大将配下の,サイモン・B・バックナー中将の率いる将兵18万2,000人を擁した第10軍が沖縄本島中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷)に上陸作戦を敢行する。迎え撃つ日本の沖縄守備軍・第32軍は,第24師団(山部隊),第62師団(石部隊),独立混成第44旅団(球部隊)のほか,いくつかの砲兵部隊を主力とする陸軍8万7,000人・海軍1万人,それに沖縄県民義勇隊2万2,000人(米軍の約4分の1)に過ぎなかった。日本軍が水際作戦を放棄したことと,米第2海兵師団が南部から上陸しようとみせかける陽動作戦に,日本軍が完全にはまり中部戦線が手薄になってもあって,わずか1時間内で1万6,000人の兵士は無血上陸に成功する。米軍はまさに「ピクニック気分」で上陸作戦を完了できたのである。

 

しかしその後の戦闘は雨季とかさなり,悲惨を極めることとなる。そしてそれ以後3カ月間にわたり,戦略的に何の意味もない絶望的な戦いが展開されるのであった。

 

もとより米軍の沖縄(当時の沖縄の人口は約45万人弱)本島上陸の目的は,日本の一部を占領するといった事実を日本帝国に突きつけるという決定的な意義とともに,沖縄を基地化することにより米軍が完全に南西諸島の制海権と制空権を確保し,日本本土の攻略に備えるという戦略的な意義があった。

 

やすやすと米軍の上陸を許した戦力的に劣勢の日本軍は,持久戦に備え,守備軍司令部のある首里を防衛するため,主力部隊を首里近郊の地下陣地などに集結させるため,読谷の北飛行場,嘉手納の中飛行場を放棄せざるを得なかった。その結果米軍は,上陸日の午前中には両飛行場を占領するともに,東海岸沿い進撃し,4月3日には沖縄本島を南北に分断することに成功する。

 

南北に分断したあと,北部に向かった米軍は,4月13日には北端の辺戸まで進撃,17日までに北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧し,20日ごろには本島の北部全域を占領する。

 

  4月16日からは,伊江島で飛行場をめぐって日米軍の激しい戦闘が始まった。当時伊江島には約2,700人の日本軍が駐屯していたが,この正規軍だけでは兵員不足は明らかであった。

 

そのため住民の中から防衛隊,青年義勇隊,女子協力隊など称して,1,200人を動員するところとなる。いわゆる「根こそぎ動員」である。

 

攻防は実に1週間に及んだが,圧倒的武器・兵員の前に日本軍は全滅し,防衛隊員や女子協力隊員も爆雷や手榴弾を持って体ごと米軍の戦車に突撃していった。

 

伊江島での日本人の犠牲(戦死)は4,706人に達した(米軍も日本軍や住民の予想外の抵抗で,1,120人の死傷者がでた)が,そのうち約1,500人は地元住民であった。そのうえ,島の壕(アハシャガマ)では100人余の住民の「集団自決」も起こった。あまつさえ,北部戦線で敗走した日本軍の敗残兵は国頭の山中を転々と逃げ延びていたが,各地で住民から食糧を強奪,その上,住民をスパイよばわりして虐殺した。

 

上陸後,沖縄本島を南下した米軍は,4月7日に牧港・嘉数・我如古・和宇慶を結ぶ日本軍陣地前面に到達したが,ここで初めて日本軍の猛烈な反攻に遭遇するところとなった。日本軍は体に爆雷をかついで米軍戦車に体当たりしたり,闇夜にまぎれて米軍陣地に切り込む等の玉砕戦術で米軍に抵抗した。特に首里北方の嘉数高地と前田では40日余り一進一退の激闘が続いた。

 

5月3日以降,日本軍は2度の総攻撃を行ったが,米軍の圧倒的な近代兵器と将兵の軍門に下った。この時点で,日本軍は主力部隊3個師団の約85%に相当する6万4,000人の戦死者を出し,大部分の兵員を失った。完全敗北は火を見るより明らかであったが,捨石戦である沖縄戦,絶望的な戦いは5月中旬から下旬にかけても続くこととなる。日本軍の玉砕戦術で米軍の被害も甚大で,米第6海兵師団は那覇市安里の北側丘陵地での9日間「シュガーローフ」の戦いで2,600人を超える戦死者と1,300余人の戦闘恐怖症による精神障害者をだした。

 

悲惨な戦いの最中,九州・台湾の日本軍は,7,800機の航空機で沖縄航空特攻作戦(「菊水作戦」)と,日本海軍のシンボルであった不沈戦艦「大和」を中心とした海上特攻作戦を敢行したが,効果なく,4月7日大和はあえなく九州の南方海上で藻くずとなる。それは日本海軍の壊滅を意味する象徴的な出来事であった。

 

日本軍の主力である第32軍司令部は,首里城の地下に堅固な陣地壕(通称「天の岩戸戦闘司令所」)を築いて,そこで牛島満司令官,長勇参謀長,八原博道高級参謀などの軍首脳部が作戦指揮にあたっていたが,5月下旬,司令部は北・西・東の三方から米軍に包囲されて袋のねずみとなる。完全に包囲された司令部では,例によって「玉砕」か「降伏」かの論議の後5月22日,南部の喜屋武半島への撤退を決定する。「玉砕」でも「降伏」でもない,持久戦術であったが,それは捨石戦である沖縄戦を引き伸ばす(本土決戦への単なる時間稼ぎの)ための作戦を意味した。

 

5月27日,日本軍首脳は司令部壕を放棄し,南部の摩文仁(まぶに)へ撤退を開始,5月31日,司令部壕は米軍の手に落ちた。だが,小禄飛行場(現那覇空港)の大田実司令官率いる海軍部隊は撤退せず,6月6日米軍の攻撃をうけて全滅する。

 

第32軍が撤退した沖縄本島の南部一帯には自然壕が多く,米軍の攻撃から見を護るため,当然のことながら沖縄住民の多くはこうした壕に避難していた。そこへ敗走した日本軍兵士と,軍と共に南部へ移動した中部地区の人々が入ったため,喜屋武岬一帯の東西10q足らずの地域に,約3万人の将兵と10万人余の住民がひしめく大混乱状況をきたした。

 

6月初旬米軍は,海からは艦砲射撃,空からは飛行機の爆撃や機銃掃射,陸は戦車を先頭に,火炎放射機を中心とする火器を使用して掃討作戦を展開する。おびただしい犠牲がでたことはいうまでもなかった。

 

そして6月17日までに米軍は,摩文仁岳の日本軍司令部壕まで前進してきた。18日には米軍のバクナー中将が,牛島司令官に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを拒否し,第10方面軍宛に訣別電報を送る。そのバクナー中将も,真栄里部落で日本軍との砲撃戦で戦死する。

 

またこの日,第3外科配属のひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げる。 決別の電文送信の翌19日,牛島司令官は,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決をした。その2日前6月21日,米軍はニミッツ元帥の名で沖縄戦の勝利を宣言していた。牛島司令官自決の日6月23日は,日本軍の組織的抵抗が終了した日を意味した(沖縄慰霊の日。なお,米軍はその日を6月21日と記している)==⇒平和の礎(いしじ)

 

降伏沖縄

降伏文書に署名する南西諸島の日本軍代表(45年9月7日)−米軍撮影

 

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  沖縄戦参考文献    

沖縄戦−痛恨の日々 [戦争を知らない世代へ]
創価学会青年部反戦出版委員会/編
第三文明社 (1975.6)

沖縄戦記録写真 (2) <続・日本最後の戦い> [太平洋戦争記録写真集]
月刊沖縄社 (1978.4)

沖縄戦―国土が戦場になったとき
藤原彰/編著
青木書店 (1987.8)

沖縄戦と天皇制
藤原彰/編著
立風書房 (1987.11)

沖縄戦敗兵日記 [シリーズ・戦争の証言]
野村正起/著
太平出版社 (1974.10)

沖縄戦・母の祈り−娘が綴る母親の記録 [戦争を知らない世代へ]
創価学会青年部反戦出版委員会/編
第三文明社 (1977.6)

沖縄のこころ−沖縄戦と私 [岩波新書(青版)]
大田昌秀/著
岩波書店 (1972.8)

これが沖縄戦だ−写真記録
大田昌秀/編著
琉球新報社 (1983)

戦場の乙女たち−沖縄戦従軍看護隊の証言,生と死の交差点。白衣の目に映った戦争の地獄絵図!もう再び戦争の手記は書きたくない
瑞ケ覧道子/[ほか著]
閣文社 (1989.3)

総史沖縄戦−写真記録
大田昌秀/編著
岩波書店 (1982.8)

天王山−沖縄戦と原子爆弾 ()
ジョ―ジ・ファイファ―/著
早川書房 (1995.6)

天王山−沖縄戦と原子爆弾 ()
ジョ―ジ・ファイファ―/著
早川書房 (1995.6)

泥と炎の沖縄戦−あるマリン兵の回想
E.B.
スレッジ/著
琉球新報社 (1991.12)  

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シムクガマ

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ひめゆりの塔(東映)

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