☆沖縄慰霊の日(6月23日)

 

日米安全保障条約発効の日

 

沖縄慰霊の日07年関連論調(学内限定)集団自決 沖縄県議会意見書

 

 

09年平和宣言(要旨)

 

 私たちの愛する郷土沖縄は、苛烈(かれつ=厳しく激しいこと)を極めた地上戦の場となり、20万人余りの尊い命が失われた。私たちはこの悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さ、平和の大切さという教訓を学んだ。戦後、私たちは焼け野が原から立ち上がり、懸命に復興に取り組んできた。

 しかし、戦後64年を経たにもかかわらず、依然として沖縄には広大な米軍基地が集中し、そこから派生する事件・事故が後を絶たないばかりか、今でも地中に残る不発弾に県民は危険にさらされ、不安を感じている。

 県民の目に見える形での負担を軽減するため、日米両政府に基地の整理縮小や日米地位協定の見直しを今後も粘り強く訴え、不発弾の早期処理についても政府と連携して取り組んでいく。

 慰霊の日にあたり、すべての戦没者の御霊(みたま)に哀悼の誠をささげる。沖縄戦の実相と教訓を胸に刻み、平和を希求してやまない「沖縄のこころ」を礎に、恒久平和の確立を目指し、県民の英知を結集し、ここ沖縄の地で全力でまい進することを宣言する。

 

麻生首相あいさつ(要旨)

 

 戦没者の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠をささげる。沖縄は一般住民を巻き込んだ苛烈(かれつ)な戦場となり、20万人もの尊い命が失われた。悲痛の念を禁じ得ない。

 沖縄は戦後、県民の努力により多くの困難を乗り越え、力強い発展を遂げた。我が国において最も出生率が高く、最も平均年齢が若く、アジアとの懸け橋として成長力を秘めた県でもある。政府として引き続き沖縄の振興に力を尽くす。

 1月、糸満市で不発弾事故が発生した。被害に遭われた方々に改めて心よりお見舞い申し上げる。沖縄の地に、いまだ多くの不発弾が埋没していることを心に刻まねばならない。「不発弾等対策安全基金」を設置したが、引き続き不発弾対策を着実に推進する。

 また米軍施設の集中は、県民の大きな負担となっている。負担軽減に向け、地元の切実な声をうかがいながら全力を挙げて取り組む。

 日本の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲の上に築かれていることを私は忘れたことはない。再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 

 

 

64年目の慰霊の日 被害と加害の再現許すまじ 「反軍隊」は譲れない一線(09年06月23日付『琉球新報』−「社説」)

 

県内5大学の学生に琉球新報社が実施したアンケートで、99%が沖縄戦を学ぶことは「大切」と答えたが、戦後の年数の正答は6割にとどまった。沖縄戦から64年の「慰霊の日」に沖縄戦を語り継ぐ意義を考えたい。
 アンケートでは日本兵の住民虐殺について学生の87%、学徒動員は93%が知っていた。「集団自決」について84%が「日本の軍事下で追い詰められた死」を選択し、教科書の「日本軍の強制」削除も9割が知っていた。
 知識不足の面もあるが、沖縄戦の本質への大まかな理解と平和を守る意識の高さをうかがわせる結果だ。
語り継ぐ沖縄戦教訓
 沖縄戦については1971年の県史「沖縄戦通史」を皮切りに多数の市町村・字史が出版された。多くの県民の悲惨な体験が掘り起こされ、沖縄戦研究の成果が学校の平和教育に生かされた。
 体験者の減少とともに「沖縄戦の風化」が懸念されている。その中で沖縄戦を忘れまいとする体験者の強い意志と、研究者や学校現場の取り組みが沖縄戦の教訓を次世代に伝えている。
 本紙の連載「語らねば、今こそ」は、長く胸に秘めたつらい沖縄戦体験を、高齢を迎え語り出した人々の思いを伝えた。
 沖縄師範健児之塔の慰霊祭は遺族の高齢化で2006年が最後となっていたが、仲田英安さん
(34)ら若い世代の遺族を中心に今年から復活する。
 活動が活発な遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」の代表具志堅隆松さん
(54)も戦争体験者の第2世代だ。
 “風化”を乗り越え、沖縄戦体験者から次世代に継承される沖縄戦の教訓、反戦平和の思想はどのようなものか。
 沖縄戦は本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石作戦」として県民に多大な犠牲を強いた。日米両軍の激戦が住民を巻き込み、20万人余に上る犠牲者数の多さ、日本兵の住民虐殺、日本軍が関与した住民の集団自決(強制集団死)などが特徴といわれる。
 「日本軍の加害」の記憶は県民に軍隊と戦争への深い嫌悪を抱かせ、「反戦・反軍隊」の県民感情を根付かせた。
 軍隊への根強い不信感は「軍隊は住民を守らない」、また何よりも命を尊ぶ「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が定着している。
 県民の「反戦・反軍隊」の思いを象徴するのが「平和の礎」だ。県民、日本軍、国籍、敵味方の区別もなく、すべての犠牲者の名前を刻み、平和を祈念している。
 軍隊を憎みながらも、戦没した一人一人の兵士を戦争の犠牲者として悼んでいるのである。
 「反戦・反軍隊」と「命どぅ宝」の思想の結実といえよう。
 しかし筆舌に尽くせぬ戦争体験を通し県民が培った「反戦・反軍隊」の思いは、「基地の島沖縄」の現実に裏切られ続けている。
軍事同盟の危うさ
 ベトナム戦に嘉手納基地からB52爆撃機が出撃し、沖縄はベトナムへの加害に加担する「悪魔の島」と呼ばれた。復帰後も広大な基地は存続し、湾岸戦争やイラク戦争に戦闘機やヘリが出撃した。
 1990年代の日米安保再定義から21世紀の在日米軍再編で、日米の軍事協力の対象が極東から世界に広がったといわれる。
 米軍再編に伴う沖縄の負担軽減は虚飾でしかなく、日米が軍事一体化する再編強化が進んでいる。
 政府の新「防衛計画の大綱」方針は中国の軍事台頭や北朝鮮の核、ミサイル開発をにらみ「敵基地攻撃能力」をも検討するという。
 北朝鮮の動向など国際情勢によっては、再び沖縄が加害の出撃基地となりかねない。
 沖縄が「敵基地攻撃」の拠点とみなされ、相手国の攻撃の被害を受ける可能性も否定できない。
 日本国憲法は戦争と武力行使の放棄を誓う。無軌道な軍事国家として太平洋戦争に突き進んだ反省に立つ憲法は、沖縄の「反戦・反軍隊」の思想に通じる。
 広島、長崎が原爆被爆の体験から核廃絶運動の拠点となったように、住民を無差別に巻き込む悲惨な地上戦の犠牲となった沖縄は、あらゆる戦争に反対する普遍的な反戦平和運動の拠点となる資格と責務を負う。
 沖縄が再び「被害」「加害」の地とならぬよう「反戦・反軍隊」の思いをかみしめたい。

 

09年06月23日付『琉球新報』−「金口木舌」

 

64年前の6月21日、本島南部で砲弾の雨の中をさまよっていたひめゆり学徒の北城良子さん(82)は、至る所に散らばる死体を眺めながらこう願っていた。「一発で、一瞬で死にたい」と。

北城さんの戦争体験を語る講演会が19日、今年も名護市立屋部小学校で開かれた。児童たちは、これまで想像したこともない生々しい戦争体験に、真剣なまなざしで聞き入った。

北城さんの左足は、手榴弾(しゅりゅうだん)の破片が刺さり不自由なままだ。足を引きずりながら演壇に立つ北城さんの姿は、戦場の恐ろしさをそのまま映し出す。しんと静まった体育館。児童たちも戦争とは何なのかを肌で感じたようだ。

北城さんは「思いやりと感謝の心を持ちなさい」と説いた。そうすれば自然に平和は生まれてくると。今も苦しみから逃れられないという北城さん。児童たちが最後に群読した北城さんの詩「六月が来るたびに」が、希望の光のように胸に染み渡った。

屋部小の児童たちは18日に執り行われた地域の慰霊祭に、千羽鶴で作った鳥のモニュメントを奉納した。毎年行われるこうした取り組みは、児童たちの心にしっかり刻まれていくだろう。

慰霊祭当日、米軍キャンプ・シュワブからは64年前を思い起こさせるような射撃音が鳴り響いていた。その容赦のない無神経さは「思いやりと感謝の心」からは程遠かった。

 

[慰霊の日]記憶する不断の試みを(09年06月23日付『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 今月9日午前10時すぎ、糸満市米須の山城ヨシさんが老衰のため静かに息を引き取った。94歳。婦人会活動を中心になって引っ張り、伝統行事のウスデークを指導するなど地域の信頼が厚かった。
 「日本の兵隊さんが、兵隊は最後まで残って戦わなければいけない、壕から出て行け、と言うんですよね。それを聴いたときは憤慨してですね…」「鰹節とお米を少し持って出ようとしたら、君たちが食べるもんではない、兵隊が食べるものだ、と言われ『はい』といって出たんです」
 糸満市内で13日開かれた映写会「記録された沖縄戦・語られる沖縄戦」。最後の激戦地、米須出身者11人の証言を、米軍撮影の映像と肉声を交え上映した。
 会場で三男山城義信さん
(69)=埼玉県、長女遠山多美子さん(66)=千葉県=はあふれる涙を止めることができなかった。ヨシさんは戦争当時30歳。子どもを抱え、親戚と最後の激戦地を逃げまどった。
 4日前に亡くなったばかり。若々しい母のよどみない声、ついきのうのように話す生々しい体験が目に浮かぶ。2人は高校卒業後、本土に渡ったため、母の戦争体験を聴くのは初めてだった。
 テープは1960年代半ばに県史のために録音されていた。編集担当者の家族から95年に県公文書館に寄贈され、存在が明らかになった。傷みが激しく横浜市の専門業者に依頼して修復されたものだ。
 映写会は糸満市教育委員会が主催した。自治会、県公文書館が協力し地元の三和中学校の生徒が積極的にかかわった。沖縄戦をどう継承していくか、多くの示唆を与える。
 女生徒3人はナレーションを担当した。最後に「10年、20年後に私たちは体験者の存在なしで、後世にうまく伝えられるでしょうか。沖縄戦を生き抜いた人たちから私たちに課せられた役割というのは、どのようなものでしょうか」と結んだ。証言者11人のうち9人は亡くなっている。
 「1週間で子どもたちは成長した。映像を見て、肉声を聞く。インパクトは強い。追体験しナレーションに心情がこもるようになった」と県公文書館の担当者は言う。
 証言者の録音が残る各地で同じ試みが始まろうとしている。「島クトゥバで語る戦世」を映像にまとめた写真家比嘉豊光さん、白梅学徒隊の体験を後世に伝えることを誓い「後輩宣言」をしている沖縄尚学高、琉球大の「学生平和ガイドの会」の活動もすそ野を広げるものとして心強い。
 苛烈な沖縄戦の体験に、後の世代が映像や音声などの記録を基に想像力を羽ばたかせれば、私たちの記憶はむしろ強固なものになっていくのではないだろうか。
 不発弾や壕など戦争を彷彿させる遺物はなお、身近に残る。「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書問題など最近の挑戦的な動向を、沖縄戦を見つめ直す好機ととらえ、日々その意味をとらえ直す努力を重ねたい。そうすることが死者を哀悼するとともに、戦争につながる一切のものを許さない行為につながるはずである。

 

09年06月23日付『沖縄タイムス』−「大弦小弦」


立ち木を揺らすようなせみ時雨も、死者を弔う静寂を演出する。私たちはきょう、多くの死者と向き合う。それはこの島に生まれた者すべてがかかわるものだ。

直木賞を受賞した小説「悼む人」(天童荒太著、文芸春秋)の主人公は、事件や事故の現場で死者を悼む旅を続ける。そして死者を知る人々に問いかける。誰を愛し、愛され、何をして感謝されたか―と。

碑に刻まれた幾多の人々もまた、愛し愛され、感謝された人たちだ。島の各地で、戦没者を知る人や子孫らが、その死を悼む。想像を絶する苦難の中にいたであろうことへの鎮魂の思いを込めて。

天童さんは米同時テロの報復攻撃に対し「本当の意味で死が悼まれていない」と感じた。それが「悼む人」執筆のきっかけになったという。沖縄戦の悲劇を繰り返させないために、私たちは「悼み」続けるしかない。

生き延びた人たちの語る体験を聞くことも死者を悼む行為の一つではないか。封印してしまいたいはずの辛い記憶。その扉を必死で開けようとする人たちの思いにもこたえたい。

しかし、世界で紛争は絶えない。外電は連日のように武力やテロによる犠牲を伝える。死者は数として報じられるが死に軽重はないはずだ。一人一人が誰を愛し、愛されたか、きっと誰かが問うていたはずだから

 

 

沖縄慰霊の日 記憶を風化させてはならない(09年06月24日付『愛媛新聞』−「社説」)

 

 戦争の、あの記憶が忘れられることは決してない。風化させてはならない。慰霊の日のきのう、沖縄全戦没者追悼式があった。全国民が平和への誓いを新たにした。
 第2次大戦の沖縄戦が終結して64年。恒久的な平和を願い、紛争が絶えない世界へメッセージを送る使命が、私たちにはある。
 大戦中、日本一の激戦地として島全体が戦場となった沖縄県。沖縄戦は1945年3月26日から始まった。
 住民を巻き込み、組織的な戦闘の集結とされる6月23日まで3カ月間続いた。犠牲者は20万人に上り、その半数が一般住民だ。
 悲惨さは語り尽くせない。「鉄の雨」と言われた艦砲射撃、軍による住民の暴行、殺害。女性への拉致、強姦などの証言も多数残る。
 一般住民の集団自決が相次いだ。日本軍の関与に関する訴訟や教科書検定など、いまだに大戦は影を落とす。
 1月には糸満市で不発弾が爆発し2人がけが。多くの不発弾が地中に残り、米軍基地を離発着する戦闘機の爆音と背中合わせの日々だ。
 沖縄戦は遠い過去のことではない。日本はしっかり現実に向き合うべきだ。
 政府はこうした問題を早急に解決する必要がある。
 仲井真弘多知事は追悼式で米軍がらみの事件・事故や不発弾の問題を指摘。日米両政府に基地負担軽減と戦後処理を訴えた。
 麻生太郎首相は「米軍施設集中は県民の大きな負担。切実な声を聴き、負担軽減に全力で取り組む」と述べた。
 しかし基地への最新鋭戦闘機配備などで騒音は激化している。一般論でなく、早急に基地問題の解決に取り組むべきだろう。
 平和祈念公園にある「平和の礎」には毎年、戦没者の刻銘が追加されている。24万人を超える刻銘には、アメリカや韓国の戦没者の名もある。
 式典には韓国人軍属の遺族約30人も参列。刻銘板の前で黙とうし、チマ・チョゴリの女性らが涙した。
 多くの国を巻き込み、加害者ともなった日本。被害を受けたアジアの人々。さまざまな思いが交錯した式典だ。
 そうした歴史を語り継ぐ人は年々、高齢化。直接的な戦争の証言、記憶はいずれとぎれるが、それを風化させてはならない。
 追悼式で詩を朗読した小学6年の比屋根憲太君
(11)。車いすの祖母から聞いた戦争の真実。「ぼくは車イスをおして 祖母のいのりを引きつぐ 戦争のない平和な国を」と訴えた。
 いまも、世界のどこかで戦争がある。沖縄の心を紛争地に届けたいという比屋根君の願いがかなう社会をつくるのは、私たち大人だ。

 

 

 

45年6月23日は、本土決戦の時間稼ぎのために「捨て石」とされた沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされる。住民は、家族ともども銃砲弾と火炎の中に追い込まれ、倒れていった。その15年後の同じ日には、新しい日米安保条約が発効した。すなわち、1950(昭和25)年に日米間で締結された安全保障条約が10年後の1960(昭和35)年6月19日、日本は引き続き日本全土に米軍基地を提供することを約定するなどの内容に改定され(国会承認)、6月23日に批准書が交換されて新条約の効力が発生したのである60年安保闘争

 

45年4月1日の米軍の嘉手納上陸から80数日、島を「鉄の暴風」と形容された砲弾の嵐(「1発の爆弾で、半径700メートル以内の住宅がすべて吹っ飛んだ。そんなのが1坪に4発も落ちてきた)が吹きすさび県民の4人に1人が犠牲になった戦闘は、沖縄の梅雨の季節に重なり、住民はガマと呼ばれる壕から壕へと命をつないでいった。ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んでいた住民が、敗走してきた日本軍に追い出され、砲弾の下をさまよった。日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していた。実際に、米軍に連れ去られて帰された少年と農民が日本兵に殺されるなど、スパイとみなされる住民が相次いだ。そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間(けらま)列島だけで犠牲者は700人にのぼる。『鬼畜米英』によって耳や鼻をそぎおとされ、女の人は辱めを受けると信じ込まされていた。それよりは、自らの手で愛する者の命を絶つことがせめてもの慰めという心理状況に追いやられた」。この世の地獄というほかない(05年06月23日付『朝日新聞』−「社説」&『毎日新聞』−「余録」)。

 

6月23日は、沖縄戦で失われた20数万の人々を慰霊する日だが、安保の名の下で、沖縄に多くの米軍基地を置き続けることが事実上決められた日でもある。戦後、日本が独立したのは、51年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。旧安保条約の調印もなされた。戦後は沖縄が米軍事戦略の「要石」といわれ続けた60年間だった。冷戦が終わってからも久しいのに、今日なお日本全国の米軍施設の75%は、日本国土の0・6%の沖縄県内に集中している「基地の島」。04年、米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落したが、日本の警察は現場検証が何日もできなかった。これでは、日本は果たして本当に独立しているのかという思いすら浮かぶ(05年06月23日付『朝日新聞』−「社説」)。

 

数々の悲劇を経験した沖縄県民には容認できない現実である。93年4月23日、即位後初めて沖縄を訪れた天皇陛下は「住民を巻き込む地上戦が行われ、20万の人々が犠牲になったことに対し、言葉に尽くせぬものを感じます」と述べられた。05年6月23日は、小泉首相も出席して沖縄全戦没者追悼式(正午の黙祷で始まり、献花、平和の詩の朗読、平和宣言などが行われ、平和への祈りを捧げた)が行われた。首相の靖国神社参拝には、日経世論調査で「反対」が「賛成」を上回ったが、沖縄での不戦の誓いには、だれもが共感できる(05年06月23日付『日本経済新聞』−「社説」&「春秋」)

 

 

太平洋戦争で唯一地上戦が行われた沖縄戦は、20万人を越す戦死者のうち、9万4,000人が、兵隊以外の一般県民や子供という、一般住民の間で多くの犠牲者をだした悲惨極まりのない、かつ戦略的には何ら意味のない戦闘であった(県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡、あるいは一家全滅した例などさまざまな戦死等があり、実数は今日に至るまで判明していない。また、人命ばかりでなく、21件も存在した国宝文化財をはじめとする多くの文化遺産がことごとく灰燼【かいじん=すっかり燃えて跡形もなく灰になってしまう】に帰した)

 

その沖縄戦は、沖縄防衛第32軍司令官牛島満うしじまみつる=1887〜1945。1887年7月31日生まれ。1937年歩兵第36旅団長として南京攻略に参加。1939年陸軍中将。1944年第32軍司令官となり沖縄に赴任中将と同参謀長の長勇ちょういさむ=1895〜1945。1895年1月19日生まれ。1930年橋本欣五郎らの桜会結成に参加、翌年革新派将校によるクーデターをくわだて失敗【10月事件】。日中戦争では中支那方面軍参謀、太平洋戦争では第32軍参謀長として沖縄戦に参戦中将が1945(昭和20)年6月23日未明の沖縄南部・糸満・摩文仁(まぶに)の丘の中腹にあった司令部壕内で自決したことにより、終結した。

 

つまりこの日、日本軍の米軍に対する組織的抵抗が終わったのである。しかし、日本が降伏した同年8月15日以後も沖縄は司令部の壊滅を知らされなかった兵士たちによる抵抗が続き、その日以後も多くの犠牲者が出た。

 

沖縄戦が公式(法的)に終結したのは、現在の嘉手納基地内の森根旧越来村【ごえくそん】字森根。同村はコザ村を経てコザ市に昇格。現沖縄市)で米軍第10軍司令部と琉球列島(沖縄)守備軍との間で沖縄戦の降伏調印式が行われた1945年9月7日のことであるが、沖縄市では1993(平成5)年この日を市民が平和を願うスタートの日として「沖縄市民平和の日」を制定(沖縄市民平和の日を定める条例)日本国憲法と核兵器廃絶平和都市宣言(1985【昭和60】年6月20日)の理念を基に、すべての市民が人間としての基本的人権が保障され、戦争の不安をとり除き、二度と戦争の惨禍を“繰り返さない”“許さない”ことを決意、平和の願いを広く世界へと発信し続けている。

 

 

沖縄市民平和の日を定める条例

1993(平成5)年4月1日

条例第18号

第1条(目的)

 この条例は、国内で唯一地上戦が行われた第2次世界大戦の教訓とそれに続く施政権分離下の生活体験を踏まえ、すべてのものを壊滅する戦争を繰り返さないとする市民の総意に基づき、日本国憲法と「核兵器廃絶平和都市宣言」の理念の下に、すべての人が等しく平和で豊かな生活がおくれるまちづくりを進めるために、沖縄市民平和の日を定めることを目的とする。

第2条(市民平和の日)

 沖縄市民平和の日は、9月7日とする。

第3条(記念行事等)

 沖縄市は、沖縄市民平和の日に、記念行事を行う。

2 沖縄市は、平和の尊さを広めるため平和月間を設けることができる。

第4条(委任)

 この条例の施行に関し必要な事項は、市長が別に定める。

附 則

この条例は、公布の日から施行する。

 

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沖縄市「核兵器廃絶平和都市宣言」

 

戦争の惨禍を防止し、世界の恒久平和と安全を実現することは、人類共通の念願である。

わが国は、世界唯一の核被爆国として、再び地球上にあの広島、長崎の惨禍を繰り返させてはならない。

また、わが沖縄県は、第2次世界大戦において、悲惨な地上戦を体験した唯一の県である。

平和の尊さと戦争の悲惨さを身をもって体験したわれわれは、世界のすべての国に対し、二度と戦争を繰り返してはならないことを訴えると共に、そのことを子孫に伝えねばならない。

よって沖縄市は、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、核兵器の廃絶を誓う全世界の人々と相携え、人類の恒久平和を実現することを決意し、ここに核兵器廃絶平和都市を宣言する。

 

昭和60年6月20日

 

沖縄市

 

 

牛島司令官は自決直前「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久(ゆうきゅう=はてしなく長く続いている)の大義(たいぎ=人間として踏み行うべき最も大切な道。特に、国家・君主に対して国民のとるべき道をいうことが多い)に生くべし」と命令を出したが、その2日前の6月21日、米軍はニミッツChester William Nimitz。1885〜1966。アメリカの海軍軍人。第2次世界大戦中、真珠湾で打撃を受けた太平洋艦隊の司令長官となり、陸軍のマッカーサーとともに対日作戦全般を指揮した元帥(げんすい=諸将を統率する最高官)の名で沖縄戦の勝利を宣言していた。

                       

1961(昭和39)年、当時米軍支配下にあった沖縄(本土復帰前の沖縄【当時琉球政府】)に日本の「国民の祝日に関する法律」は適用されなかったが、日本復帰運動が盛り上がる中、沖縄住民も「国民の祝日」を共有しようとの機運が高まり、当時の琉球立法院(日本の歴史上、ただ一例だけ、アメリカの大統領制型の自治制度を採用していた。当時の立法院は、予算編成権と立法権を独占していたが、復帰と同時に立法院は、そのまま沖縄県議会に改組されたと同時に、議会の予算編成権は剥奪され、行政側に条例原案提出権が移った)は6月22日(当初は6月22日であった)を、戦争犠牲者を追悼する「慰霊の日」と定めた。

 

琉球政府(1945年から1972年まで沖縄に存在したアメリカ軍によって創設された政権の名称で、沖縄諮詢会沖縄民政府群島政府琉球臨時中央政府との変遷を経て、1952年4月1日にこの名となったが、1972年に沖縄が日本に返還された際に消滅した)は、1965(昭和40)年にこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目ととらえ、縄戦の戦没者の霊を慰めて平和を祈る日として「沖縄慰霊の日」を制定、「休日」と定めた。だが、1972(昭和47)年の本土復帰後は当然日本の法律が適用となって「慰霊の日」は「休日」としての法的根拠がなくなり、「休日」として法的な根拠のないことになったが、1991(平成3)年、地方自治法が改正され、「慰霊の日」を「休日」と定める県条例が公布されたことによって、正式に「慰霊の日」は「休日」となった。

 

1995(平成7)年の「慰霊の日」には、糸満(いとまん)市の平和祈念公園内に建設された「和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。また、激戦地となった摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、また、沖縄戦当時そのままのようすを伝える洞窟などがいまなお各所に存在している。

 

ところで、牛島自決の日について、6月22日説と6月23日説がある。上述のように1961(昭和39)年当初は6月22日説を採用していたが、1965年に6月23日説に変更され、現在は、1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により6月23日を慰霊の日と定められている。

 

 

沖縄県慰霊の日を定める条例をここに公布する。

沖縄県慰霊の日を定める条例(1974【昭和49】年10月21日条例第42号)

第1条 我が県が、第2次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失った冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める。

第2 慰霊の日は、6月23日とする。

附 則

この条例は、公布の日から施行する。

 

 

1962(昭和37)年から、6月23日には沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ、沖縄戦犠牲者の遺族やその子孫などが集まり、式典中の正午には黙祷が捧げられる。また、この日は沖縄県平和祈念資料館が入場無料となる。

 

なお、6月23日は、日米安全保障条約が発効された日でもある。すなわち、1950(昭和25)年に日米間で締結された安全保障条約が10年後の1960(昭和35)年6月19日、日本は引き続き日本全土に米軍基地を提供することを約定するなどの内容に改定され(国会承認)、6月23日に批准書が交換されて新条約の効力が発生したのである60年安保闘争

 

その意味で6月23日は、日本の戦争と平和にとって忘れてはならない日であるといえる。

 

 

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