如己堂(にょこどう)

 

長崎市永井記念館パンフレット

 

P1070066.jpg

永井 隆 博士

爆死した妻のために半年間喪(も=死者を弔う儀礼に服した1946年当時の写真

1908年〜1951年

昭和時代の医学者

 

 1908(明治41)年2月3日生まれ。母校・長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の物療科部長のとき放射線障害を負う。1945(昭和20)年8月9日の原爆で被爆しながら、全力で負傷者を救護。1946年教授。カトリック教徒として原爆廃止を祈り、病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述した。1651(昭和26)年5月1日死去。43歳。島根県出身。

 

辞世の句

白ばらの花より香り立つごとくこの身

 

P1070074.jpg

 

1945年8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾に多くの市民とともに被爆し、白血病と闘いながら被爆者への救護活動を続け、原爆に関する医学的な研究と多くの著作を残した永井隆博士が過ごされた畳2枚の小さな住居「如己堂」。

長崎医科大学物理的療法科部長としての診療と研究による放射線障害と原爆による障害のため、病床にあった永井博士のために1948年春に浦上の隣人たちが博士に贈ったわずか2畳1間の家。博士は、家を建ててくれた人々の心を忘れず、自分もこの愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から、「如己堂」と名づけ、43歳の生涯を閉じた1951年5月1日まで、書斎兼病室として2人の子供とともに、ここに住んでいた。

また博士は、1948年、原爆で荒野と化した街に桜並木を取り戻そう(「花咲く丘」にしよう)と、著作の印税の一部を充てて、1200本のソメイヨシノの苗木を購入して、浦上天主堂山里小学校、城山小学校および民家などに贈った。この桜のほとんどは枯れたり代がわりしてしまったが、今なお「永井千本桜」(現在は計30本ほどしか残っていない)と呼ばれている。
 なお、この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「帳方屋敷」跡でもある。

 

P1070071.jpg

 

P1070055-1

 

P1070058.jpg P1070060.jpg

玉の緒の 命の限り吾はゆく 寂(さぶし)かなる 真理探究の道

P1070067.jpg

 

P1070068.jpg

 

P1070070.jpg

永井博士の遺徳をしのんで建てられた「長崎市永井隆記念館」。如己堂の隣。

 2000年に全面改築された如己堂に隣接する永井隆記念館には、博士の遺品、書画のほか関係写真などを展示している。年間を通し全国から訪れる来場者は15万人以上。永井隆博士の意志を発信し続ける全国の学生の平和学習の発信基地となっている。

 

P1070069- P1070075-

 

P1070056-1

 

 

=============================================

 

長崎原爆落下中心地の碑

長崎の鐘

浦上天主堂

浦上天主堂の移築された遺壁

長崎・原爆殉難教え子と教師の像

長崎平和祈念像

長崎被爆50周年記念事業碑(母子像)

長崎平和の母子像

長崎平和の泉

乙女の像=和平

人生への賛歌

あの子 山里小学校

長崎を最後の被爆地とする誓いの火

長崎原爆死没者追悼平和祈念館

長崎 折鶴の塔

 

=============================================

 

平和公園(広島)の碑

原爆投下目標選定委員会

リトルボーイ

ファットマン

千羽鶴

原爆の子写真集

峠 三吉

トップページ

目次

歴史のページ