☆日中戦争支那事変・日華事変)☆ 詳細版

 

1937年(昭和12)7月7日夜半,盧溝橋(ろこうきょう=北京の南を流れる廬溝河に架かる橋)事件(「7・7事変」にはじまり,45(昭和20)年8月15日,日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国の戦争をいう。

盧溝橋事件発生当初,日本政府(第1次近衛内閣〔37年6月4日〜39年1月5日〕)は北支(ほくし)事変(事変」は戦時国際法の適用を回避するための措置で,宣戦布告なき戦争である)と呼んで戦線不拡大方針をとり,また陸軍中央でも不拡大論があったが,やがて中国の抗戦力を軽視した一撃論が台頭,排日姿勢を強めていた蒋介石(しょうかいせき)政権を倒して華北を第2の満州国にしようとする「華北分離論」をとなえる拡大論が大勢を占め,政府は,同年7月11日に現地停戦協定が成立したにもかかわらず,内地や関東軍・朝鮮軍から4個師団・2個旅団(合計約10万)の派兵を決定,現地軍も再度の衝突を契機に同月28日には総攻撃に出て北京・天津一帯を占領する。

さらに8月13日には,大山勇夫中尉射殺事件をきっかけに上海において日本の上海海軍特別陸戦隊が中国軍と衝突(第2次上海事変),同日,政府は上海派遣軍(2個師団)の派兵を決定するとともに,海軍も15日より長崎県大村基地からの南京空襲を開始,戦火は一挙に広がった。

しかし共産軍との内戦に勢力を裂いていた蒋介石は,西安事件(1936〔昭和11〕年12月12日,西安で張学良が蒋介石を監禁し,共産軍との内戦を停止し,抗日戦争に立ち上がることを要求した事件で,「双十二(そうじゅうに)事件」ともいう)を契機に内戦を停止,共産党との第2次国共合作を行い,共産軍とともに抗日戦争遂行へと戦略を変更したため,日本軍は中国軍の激しい抵抗にさらされることとなった。

こうして日本は宣戦布告のないまま,37年11月20日には日露戦争以来の大本営を設置するとともに,11月にはさらに第10軍(3個師団半)を投入し,12月13日には南京を占領する(その際,約20万〜30万の捕虜や非戦闘員の住民を殺害するとともに略奪・放火・暴行・強姦事件を多数ひきおこした=南京大虐殺)。

政府(近衛内閣)は国民政府の首都南京の占領(陥落)でたちまち強行姿勢に転じ,(対ソ戦を最優先に考え,また米英との最終戦争では日本は中国と共同で戦うことをもくろんでいたため,このときに中国軍と戦うことは得策ではないと思考していた)陸軍参謀本部の石原莞爾(かんじ)作戦部長らを中心する戦線不拡大派が主張するドイツ駐華大使トラウトマンを仲介とする和平工作(トラウトマン和平工作)を打ち切り,38年1月16日に「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と声明(第1次近衛声明),日本軍は,蒋介石政権打倒を目的に徐州・武漢・広東を攻撃する大規模な連続作戦を展開,中国大陸の大部分の工業地帯の占領に成功する。

だが敗退を余儀なくされた国民政府は降伏を拒否,首都を南京から重慶に移して徹底抗戦を続けたため,日本の軍事動員力の限界と相俟って,戦線は厳しい状態に至るのであった。満州事変が5ヵ月で終結した経緯から,中国全土を支配するのも短期間で可能と考えた極めて安易な作戦の,それは一定の結末でもあった。

そのため日本国内では,38年4月に国家総動員法が公布され,次第に経済統制が強化されるとともに,国民精神総動員運動などによるファッショ化がますます深刻化していた。

かかる日本の中国への侵略は,英米など諸外国の権益を侵すことを意味したが故に,それはそれまでのアジアで形成されていた米やヨーロッパ列強秩序の破壊であった。

そのため,英・米・ソは蒋介石政権を物的・人的に支援するところとなる。

日本軍は,重慶に対して海軍主体の戦略爆撃攻撃を反復するとともに,38(昭和13)年の後半からは蒋介石(重慶)政権の支援網を絶つための戦略を展開,39(昭和14)年には海南島・南寧・汕頭を占領,40(昭和15)年には仏印北部にまで侵略する。

これで日本と英米との対立は頂点に達するが,それはとどのつまり41(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦へとつながるのである。

対英米開戦後も日本軍による重慶攻略作戦は継続されるが,ガダルカナル攻防戦の激化により中止のやむなきに至り,その後日本軍は,中国共産党の軍隊である八路軍(はちろぐん)などのゲリラ戦に遭遇,結局敗戦まで,70万から150万の兵力を(旧満州を除く)中国戦線にはりつけなければならなかった。

そうした中で日本軍は,非人道的な「三光作戦」(日本軍が意のままにならない「敵性」地域において,一般民衆の生命・財産・生産基盤の徹底的破壊それ自体を目的として繰り広げた軍事作戦〔「無人区化政策」〕で,日本軍による殺しつくし〔殺光=さっこう〕,焼きつくし〔焼光=しょうこう〕,奪いつくす〔搶光=そうこう〕作戦を指す中国側の呼称。日本軍では燼滅〔じんめつ=焼きつくすこと。また,すっかり焼けてなくなること。滅びてなくなること〕作戦と呼んだ。つまり1940〔昭和15〕年,北京の北支方面軍司令部に,各師団長,旅団長が集められて『燼滅作戦を実施す』との作戦命令が下ったのがそれである。命令は「@敵地区に侵入した際は,食糧は全て輸送するか焼却し,敵地区に残さないこと,A家屋は破壊または焼却すること,B敵地区には人を残さないこと」であった。そして作戦は,山岳地帯で日本軍の進攻が鈍っていた山西省で開始された=平岡正明『日本人は中国で何をしたか』。なお,華北全体のこの作戦による被害者の数は,「不完全な統計」ながら,(将兵の戦死者を除いて)「247万人以上」といわれている=姫田光義著『三光作戦』)を敢行するとともに,毒ガスや細菌兵器まで使用し,さらには占領地(満州国〔1932年満州国ではアヘン法が公布され翌年施行された。表面上は旧来のアヘン漸禁策をとっているが,その実態はアヘンの吸煙の公認と専売をはかったものであった〕からその後の中国国内やシンガポール)に,大量のアヘンを流通させ,その利益を支配地域の重要な財源や日本の対敵謀略や工作の交渉費・買収費などに使用するといった残忍な行為に出るのであった(そのため,日中戦争は「もう一つのアヘン戦争」ともいわれる−江口圭一著『日中アヘン戦争』岩波新書)。

そして45年8月のポツダム宣言受諾にともない中国大陸の日本軍(支那派遣軍)は国民政府に降伏するが,この日中戦争での中国国民の死者は1,000万人余(一説には2,000万人ともいわれている)にものぼり,それは日本軍の戦死者は40万4,600人をはるかに凌駕する犠牲であった。

なお,00年4月24日森喜朗首相(当時)は,衆院予算委員会は「(日中)戦争については時代の背景によっていろいろな問題意識があったと思う。日本が侵略戦争をしたかどうかは,歴史の中でみんなが判断していくべきことだ」と答弁したが,1995(平成7)年8月に村山富市首相(当時)が出した談話(村山総理大臣談話)で「植民地支配と侵略」を「疑うべくもない歴史の事実」と認めていることと矛盾するとの批判を受けて,5月22日,衆院決算行政監視委員会における(社民党の保坂展人氏の「日中戦争は侵略戦争だったか」との質問に対する)答弁で,村山談話を引用し「不幸な歴史への反省に立って,当時の戦争は侵略戦争である,ときちっと認めている」と述べ,日中戦争は「侵略戦争」であることを認めた。

          

 

☆日満議定書☆

 

日本が,国際連盟のリットン調査団が報告書を発表する前の1932(昭和7)年9月15日,日本の傀儡(かいらい=操り人形)政権であった「満州国」との間で,新京(長春)で調印した(取り交わした)文書をいう。

これにより日本は「満州国」を正式に承認,国交を樹立することになる。

その第1条は,「満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民カ従来ノ日支間ノ条約,協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スヘシ」(「満洲国は将来日満両国間に別段の約定を締結せさる限り満洲国領域内に於て日本国又は日本国臣民か従来の日支間の条約,協定其の他の取極及公私の契約に依り有する一切の権利利益を確認尊重すへし」))と規定し,「満州国」が日本の既得権益を確認尊重することを約した。

また第2条では,「日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス之カ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス」(「日本国及満洲国は締約国の一方の領土及治安に対する一切の脅威は同時に締約国の他方の安寧及存立に対する脅威たるの事実を確認し両国共同して国家の防衛に当るへきことを約す之か為所要の日本国軍は満洲国内に駐屯するものとす」)と規定され,共同防衛がうたわれ上で日本軍が駐屯することとしていた。

これで満州国が日本の傀儡政権であることが名実ともに明らかになったが,調印前の同年3月には「満州国」執政溥儀(ふぎ)と本庄繁関東軍司令官の間で国防・治安維持の日本への委託,参議や地方官吏への日本人の登用と日本側への任免権付与が約束されていた。

なお,日満議定書と同時に交わされた秘密文書で鉄道・港湾・水路などの敷設・管理の日本側への委託,日満合弁の航空会社設立等が確認された。

 

☆リットン調査団☆

 

満州事変の調査と,事態解決方法検討のため派遣されたイギリスのサー・ビクター・リットン卿を団長とする国際連盟の調査団をいう。

1931(昭和6)9月,日本の満州侵略(満州事変)が開始されると,理事国(非常任)に選ばれたばかり中国は国際連盟に提訴し,それを受けた国際連盟理事会は同年12月10日,現地調査団を派遣することを満場一致で採択した。それに基づいて組織されたものが「リットン調査団(団長以下,米国代表マッコイ陸軍少将,フランス代表クローデル陸軍少将,イタリア代表外交官アルドロバンディ伯爵,ドイツ代表シュネー博士,日本側参与員吉田伊三郎駐トルコ大使,中国側参与員顧維鈞ほか随員46名)であった。

調査は翌年2月から開始され,リットン一行は2月末,東京に着き,日本各地を視察して,3月14日,上海入りをし,その後,上海・南京,「満州国」などを訪れた。

1932(昭和7)年10月1日に通告された報告書は日本の満州における既得権益を認めながらも日本の行動と「満州国」は承認しなかった。  

そして1933(昭和8)年2月14日の国際連盟臨時総会で,リットン報告書に基づいて日本軍の占領地域からの撤兵と中国の満州の統治権を承認する勧告案が採択されると,日本(斎藤実〔2・26(ににろく)事件で暗殺される〕内閣)は同年2月24日に国際連盟を脱退するところとなる。

 

 

☆第2次世界大戦☆

 

世界恐慌後,世界再分割をめざす後進資本主義国であり,かつ第1次世界大戦後の英・米中心の世界秩序であったヴェルサイユ・ワシントン体制の打破をめざした日(天皇裕仁)・独(アドルフ・ヒトラー)・伊(ベニート・ムソリーニ)のファシズム枢軸(すうじく)国(国家群)の侵略・膨張に対する,米(フランクリン・ルーズベルト)・英(ウインストン・チャーチル)・仏の先進資本主義国や社会主義国のソ連(スターリン),そして日本の侵略を受けていた中国(蒋介石)などが体制の違いを超えて連携して形成した連合国との間に起こった,1939(昭和14)年9月3日(実際は1日)から1945(昭和20)年9月2日(実際は8月15日)までの全世界的規模の戦争(第2次大戦)をいう。

すなわち,39年9月1日早朝,ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が突如(ドイツは,1934〔昭和9〕年1月に10年間の不可侵条約をポーランドと締結したが,39年4月28日にその無効を通告した)ポーランドを侵略(ヒトラーは150万人の兵力と2000輌の戦車・2000機の航空機を動員した),これに対して,同月3日に英・仏がドイツに宣戦布告する(英・仏の「宥和(ゆうわ)政策」の破綻)。

第2次世界大戦の幕開けである。そのドイツは40年4月より北欧・西欧へ電撃作戦を展開,破竹の進撃で,6月にはフランスを屈服させ,ヨーロッパ大陸からイギリス軍を駆逐するとともに,イギリス本土上陸目的のための英本土空襲をはじめた。

イギリス本土空襲を受けてアメリカは大量の軍需物資をイギリスに送ってこれを支援したため,ドイツは英本土上陸を断念,これと引き換えに独ソ中立条約を無視して41年6月22日にソ連への侵略作戦をはじめた。

中国大陸への侵略を繰り返していた日本は,ドイツの快進撃でヒトラーによる新た世界秩序の確立を確信,独・伊と同盟し,英・米に対抗する新世界秩序形成の一環を担う戦略を取り,40年9月27日,日・独・伊の三国同盟を結び(ベルリンで調印),アメリカヘの譲歩を拒否,41年4月13日に日ソ中立条約を締結(満州及び外モンゴルの領土保全と不可侵)するともに,41年12月8日の真珠湾奇襲攻撃で対英米戦争へと突き進んでいくことになる。

日本の攻撃に呼応して独・伊もアメリカに宣戦布告,ここでヨーロッパ戦線とアジア戦線が一体化して,第2次世界戦争は,日・独・伊(枢軸国側)と「反ファシズム」で結束した英・米・ソ・中(連合国側)の全面対決といった,新たな段階へと展開する。

奇襲により緒戦に勝利をつかんだ枢軸国側の勢いは,しかし長くは続かなかった。戦争の長期化は,戦争遂行の潜在的経済力の差を明らかにし,それはやがて戦力の差となって現れ,戦況は連合国側が有利に展開された。

ヨーロッパ戦線では,43年2月2日,スターリン率いるソ連軍がスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で独軍を破った(独軍の死体は14万7,000人を超えた)ことが転機となり,ドイツ軍は守勢・撤退に追い込まれ,アジア・太平洋戦線では,42年6月,ミッドウェイ海戦(4〜6日)で大敗北をきっしていた日本軍が43年2月1日にガダルカナル島撤退に追い込まれた(7日撤退終了。日本軍2万4,000人が飢えとマラリアのためジャングルの中で次々と倒れた。なお,アメリカ軍は前年の8月7日にガダルカナル島上陸,それ以後,戦闘はアメリカ優位で展開されていた)。

同年(43年)9月8日の伊(バドリア政権)の無条件降伏(政権を追われたムソリーニはドイツの助力を得てイタリア北部にファシスト国家「サロ共和国」を樹立)を受けて連合国側は,43年11月22日のカイロ会談(ルーズベルト・チャーチル・蒋介石)・28日のテヘラン会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン),45年2月4日のヤルタ会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン),7月17日のポツダム会談(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)などを通じて,戦争遂行の戦略と戦後処理について協議を重ねていた。

そして44年6月6日,(後の米国大統領)ドワイト・アイゼンハワー総司令官率いる米・英を中心とする連合国軍が,対独第2戦線を形成し,北仏ノルマンデイーに上陸作戦(41年12月のアメリカ参戦時にソ連が提案した作戦)を敢行,「砂漠の狐」との異名をとったエルヴィン・ロンメル将軍のドイツ軍殲滅に成功,ヨーロッパ戦線での連合国側の勝利を決定的した。

 

 

ポツダム会談

(左チャーチル・中ルーズベルト・右スターリン)

 

 

日本海軍最大・最重武装戦艦『大和』の最期(さいご

 

勝利を目前にしたアメリカ大統領ルーズベルトが,45年4月12日,ジョージア州の別荘で脳溢血にて63歳で死去する(同年1月に就任したばかりの副大統領ハリー・トルーマンが大統領に就任)中の4月25日,東側からドイツに攻撃をかけていたソ連軍と西側からドイツ軍を攻撃していたアメリカ軍が,エルベ河畔のトルガウで出合い,お互いが抱き合って勝利を祝うと共に,二度と戦わないことを誓った(「エルベの出会い」「エルベの誓い」)。

その3日後の同年4月28日にはムソリーニが愛人のクララ・ペタッチと共にイタリアのパルチザンに捕らえられ,イタリア北部の小村のドンゴで処刑されてガレージのたる木につるされ,それから2日後の4月30日,ヒトラーがベルリンの地下壕で愛人エヴァ・ブラウンと自殺,そして同年5月8日にドイツも無条件降伏に追い込まれるのであった。

残る日本も,45年4月7日,日本海軍の象徴であった不沈戦艦「大和」を失い,6月23日に沖縄戦で惨敗,東京・横浜・大阪を中心とする大都市がB−29の空襲で焦土と化しつつあったが,軍部は無謀な本土決戦(一億総玉砕)を叫び,おびただしい犠牲を積み重ねていた。だが,8月6日広島と9日の長崎への原爆投下とヤルタ協定にもとづく8日のソ連の参戦(9日ソ連軍北満・北鮮・樺太侵攻)で,ついに15日にポツダム宣言を受諾・無条件降伏,9月2日降伏文書に調印し,第2次世界大戦は終結するのである。

第2次世界大戦での死者は,各国政府の公式発表によれば,連合国側がイギリス約40万人,フランス約25万人,オランダ約23万人,アメリカ約55万人,ソ連610万人以上,中国1,000万人余,枢軸国側が日本310万人以上,ドイツ約325万人,イタリア約38万人に及んだが,この数字は,人類史上最大のものであった。

 

☆疎開☆

 

戦争の被害を軽減し,生産力を維持するための軍事施設や工場・人員及び児童の生命を守るための都市部から地方への移転・分散をいう。

疎開には,空襲から軍事工場や生産設備を守るための疎開である「工場疎開(生産疎開)」,都会に働き手を残した家族,あるいは子供たちだけで縁故を頼って農村や山間部に移住していった人員疎開」,大都市の大事な建物や交通機関,工場が延焼しないように周辺の家を壊して(木造の家は,綱で引いて倒した),防火地帯(防火道路や空地)を作るための建物撤去を意味する「建物疎開」,国民学校単位の児童の集団疎開である「学童疎開」等があった。

 戦局の悪化から政府は,ドイツ(ハンブルグやベルリンは,連合軍の空襲で徹底的に破壊された)やソ連の疎開事例を参考に,1943(昭和18)年12月に「都市疎開実施要綱」を決定し,翌44年1月から京浜・名古屋地区の工場疎開を,また44年3月には「一般疎開促進要綱」を決定して,3月より都市部の人員疎開,6月より学童疎開を始めようとしたが,当面の生産増強と疎開先の受け入れ準備不足のため,疎開は進まなかった。

だが,44年11月の東京・京浜地区への空襲が始まったこと(初期空襲)により工場疎開(鶴見が一番最初)が,さらに続く大空襲により人員・学童疎開が急速に進み,45年6月の時点で東京の人口は1年前のおよそ3分の1に激減した。しかし疎開者の少なくない人々が生活習慣の異なる農村になじめず,また農村民の厳しい目や,なれない農作業,食糧不足,戦局の極度の悪化による将来の見通しのない心理状況の中で,辛い毎日を送らざるを得なかった。

 

☆学童疎開☆

 

第2次大戦末期に大都市の国民学校初等科(小学校)児童を個人または集団で農山村や地方都市へ集団移動させたことをいう。すなわち連合軍による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年12月の閣議で「都市疎開実施要綱」が決定され,都市施設の地方分散がはかられた。

その後,B−29による大都市空襲が激しくなる最中の44年6月に,児童の生命を守るために「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。これにより東京ほか12の該当都市が指定され,翌月から縁故疎開を原則としながらも,それが不可能な場合には,学校ごとに国民学校初等科3〜6学年の児童を半強制的に近郊農村地帯へ集団疎開させたのである(45年春には全国で約45万人を超える児童が疎開したが,障害者などは疎開の対象から外された)。

十分な準備もなく親もとから離れて農村や山間部の寺社,公会堂,旅館などに収容された疎開学童たちの生活は,教師や寮母などが付き添っていやとはいえ,到底授業など満足にできるはずもなく,食料,衣料,衛生用品の不足のために病気やノミ,シラミの発生などに悩まされつづけたばかりか,疎開先の住民との軋轢(あつれき)と相俟って,戦局悪化にともなう追い詰められた心理状況の下で多くの混乱,対立,不信,苦悩を生み出したといわれている。

さらに,疎開中家族を失った児童は敗戦と同時に戦災孤児,浮浪児となる受難の歴史が待っていたのである。戦争が生み出した悲劇の一こまである。 

2004年10月20日に古希の70歳を迎えた皇后陛下は,お言葉の中で,「戦時と戦後,特に疎開をはさむ数年間が,とりわけ深い印象を残しており…」といったが,皇后もまた,米軍機の空襲から田舎へ逃れた“学童疎開世代”の 1人だった(小学校4年生の時,母親に連れられ妹・弟とともに3度も疎開先を転々とした)のである。

なお,芥川賞作家・高井有一著『少年たちの戦場』は,疎開学童たちの悪戦苦闘を描いた長編小説である。

 

 

創氏改名(そうしかいめい)

 

民族性を奪う皇民化=「内鮮一体」化政策が進められていた朝鮮において,その仕上げとして行われた新たな日本式「氏」の創設と日本式「名」への改名を強制した政策をいう。

 

1939(昭14)年11月10日,朝鮮総督府(南次郎朝鮮総督)は制令第19号「朝鮮民事令中改正ノ件」(氏制度と養子縁組制度の創設等)と同20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」(氏名の制限)公布,これを40年2月11日より施行した。もともと朝鮮人の名前は,先祖の出身地(本貫=ほんがん)と男性血統を示す標識である「姓」と個人別の「名」から成り立っており,名前は終生不変,夫婦別姓(家族内に複数「姓」あり)であったが,創氏改名は,全朝鮮人に対して,従来の「姓」とは別に「氏」(家族は同一「氏」のみ)を作り,あわせて日本式に「名」を改める(「氏・名」を公式名称にする)ことを意味した。創氏は法的に強制され(義務),改名は任意とされたが,現実には改名も事実上強制された。

 

5000年の朝鮮文化を否定するこの政策は,朝鮮民族に計り知れない苦痛をもたらしたが,届出期間(6カ月以内)の40年8月10日までに約8割・322万戸の創氏改名がなされた。中には抗議の自殺,日本人高官をもじったり,「犬糞食衛」「犬馬牛豚」などに創氏改名して抵抗する人々もいた。創氏の届け出がない場合も,従来の「姓」が新しい「氏」とされ,そうした人々にはあらゆる場で差別と虐待が繰り返されたが,その目的は,家制度を韓国式から日本式に改めることにあった。

 

なお,1936(昭和11)年8月に朝鮮総督に就任した南次郎は,その直後に神社規則を改正し,1邑面(町村)1社を目標に神社建設を行い,翌1937(昭和12)年の7月7日の日中戦争開始からは毎月1日を愛国の日として神社参拝を強制した。さらに同年10月には,「皇国臣民の誓詞(ちかい)」(「1.私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス 2.私共ハ心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス 3.私共ハ忍苦鍛錬(にんくたんれん)シテ 立派ナ強イ国民トナリマス〔小学校用〕)を定めて,学校・官公庁をはじめ全ての職場でその唱和を義務付け,同年12月23日には,全朝鮮の初等学校と中学校に御真影(天皇・皇后の写真)を下賜(かし)し,その伝達式を行う等の皇民化=「内鮮一体」化政策(ただし参選権等日本人と同じ権利を保有することは否定)を推し進めていった。その後,1941(昭和16)年3月31日には国民学校での朝鮮語による学習を廃止,1943(昭和18)年には兵役法を改正し朝鮮に徴兵制を施行した。

 

これに関連して,自民党の麻生太郎政調会長は03年6月2日夕の記者会見で,5月31日の東京大学学園祭で講演した際に「創氏改名は朝鮮人が望んだ」との趣旨の発言をしたことについて,6月6日の盧武鉉韓国大統領の来日を目前に韓国メディアなどに反発が広がったことから「日韓関係の重要性が私の発言から齟齬(そご)をきたすのは誠に申し訳ない。韓国国民に対して率直におわび申し上げる」と陳謝した。しかし,発言そのものを撤回するかどうかについては「双方で色々な認識があり,学者等々で続いている話だ。その経過を見守らないと,きちんとした発言はできないということだと思う」と語るにとどめた。

麻生議員の発言内容は,以下の通り

(「中国や韓国と外交をするうえで,歴史問題をどうすればいいと思うか」との質問にえて)「歴史認識を一緒にしようといっても,隣の国と一緒になるわけがない。たとえば朝鮮人の創氏改名の話。日本が満州国をやる前に創氏改名の話が出たことは一回もない。しかし,当時,朝鮮の人たちが日本のパスポートをもらうと,名前のところにキンとかアンとか書いてあり,『朝鮮人だな』と言われた。仕事がしにくかった。だから名字をくれ,といったのがそもそもの始まりだ。これを韓国でやりあったら灰皿が飛んできた。そのときに『若い者じゃ話にならない,年寄りを呼んでこい』と言ったら,おじいさんが現れて『あなたのおっしゃる通りです』と。ついでに『ハングル文字は日本人が教えた。うちは平仮名を開発したが,おたくらにそういう言葉はないのか,と言ってハングル文字が出てきた』と言ったら,もっとすごい騒ぎになった。その時もそのおじいさんが『よく勉強しておられる。あなたのおっしゃる通りです」と言って,その場は収まった。やっぱり,きちんと正しいことは歴史的事実として述べた方がいい』。

 

麻生発言を受けて福田官房長官は03年6月2日午後の記者会見で,「わが国政府は,橋本首相が96年に訪韓した時に金泳三大統領との共同記者会見で『創氏改名がいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは,想像にあまりあるものがあります』と申し上げている。政府としてはそういう考えだ」と述べた。

 

☆太平洋戦争による国内の被害☆

死者

185万4793人

財産総額

497億円

艦艇

734隻

航空機

6万5588機

鉄道・軌道(距離)

1838キロ

自動車

2万1907台

非軍事船舶

1万5518隻

一般道路

458万平方メートル

国宝史跡名勝

7億7500万円

       

 49年の経済安定本部調べ。金額は45年8月現在の時価。死者などはさらに多いという指摘がある(05年08月15日付『朝日新聞』)。

 

 

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