☆日米修好通商条約☆

 

1858(安政〈江戸末期、孝明天皇の時の年号。1854年11月27日〜1860年3月18日〉5年)6月19日〈グレゴリオ暦7月29日〉)に、日本(江戸幕府)と米国との間で結ばれた通商航海条約(国家間の通商活動を円滑にするため、通商・航海などに関して結ばれる条約(単に「通商条約」とか、「江戸幕府とアメリカ合衆国との間の条約ともいう。また、津年に調印された蘭〈オランダ〉・露〈ロシア〉・英〈イギリス〉・仏〈フランス〉)との同内容条約と共に、「安政5ヶ国条約」あるいは、「安政仮条約」と総称される)

 

自由貿易、関税はあらかじめ両国で協議、内外貨幣の同種同量による通用、相手国民の入国・居住、領事の交換などのほか、片務的最恵国待遇(さいけいこくたいぐう=通商航海条約や通商協定において、締約国の一方が他方に対し、通商・関税・航海などの事項について最も有利な待遇を与えている第三国よりも不利でない待遇を与えること。最恵国待遇については、当初アメリカ側からは双務的な最恵国待遇を提案されたものの、鎖国政策を出来るだけ維持して、一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある裁判・税金・契約や団体への参加、事業活動などに関して、相手国の国民を自国民と同等に待遇する内国民待遇について規定する。

 

そのほか、公使の交換、伊豆下田・北海道箱館(現函館)のほか神奈川(実際の開港は神横浜港)・長崎・新潟・兵庫(実際の開港当時漁港であったは神戸)の開港、商業活動の為に、外国人の江戸(現東京)・大坂(江戸時代は大坂〈おおさか・おおざか〉と称し、幕府の直轄地として諸大名の蔵屋敷が集中、諸国の米や特産物の取引の中心地となり、天下の台所といわれた。1871〈明治4年〉大阪と表記されることになった)の滞在を認める〈開市〉)、開港場の外国人居留地の設定などについて定められた。

 

だが、領事裁判(領事〈外国において、自国の通商促進や自国民の保護、その他の証明事務などの業務を行う国家機関。専任領事と名誉領事とがあり、階級としては、総領事・領事・副領事の区別がある。領事官ともいう〉が、本国法に基づいて、その駐在国にいる自国民の裁判を行う制度で、19世紀にヨーロッパ諸国が、司法制度の確立していないアジア諸国などで行っていた制度で、当然、今日では廃止されている)権を規定し、関税自主権を否定関税自主権の欠如)日本の自主的改正は不可など、日本側にとってはきわめて不利な不平等条約で、おおよそ近代国家同士の条約とはいえなかった。

 

日本側は下田奉行老中〈ろうじゅう=江戸幕府の最高の職名で、将軍に直属して政務一般を総理した〉の支配に属し、下田港の警衛および出入船の監督にあたったの井上清直(いのうえきよなお)や目付(めつけ=江戸時代、老中に次ぐ重職で、旗本および老中支配以外の諸役人を統轄した若年寄に属し、旗本・御家人の監察などに当たった)の岩瀬忠震(いわせただなり)、アメリカ側の全権は駐日総領事タウンゼント・ハリスとで神奈川沖のポウハタン号上で調印した(批准は1860〈万延1〉年、米国首都・ワシントンで交換)。幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ=1815〜1860。彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、1850〈嘉永3〉年4月大老になる。13代将軍家定の後継者を慶福〈のちの家茂〉に決定し、反対派の一橋慶喜(後の14代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を実施。安政7年3月、江戸城外桜田門外において、水戸、薩摩の浪士らに暗殺される〈桜田門外の変〉)による、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可を得ない独断専行での条約締結であった。

 

その背景には、ハリスが、アロー号事件(イギリス船アロー号が清国の官憲に臨検した事件)に抗議して、イギリス軍が広東(かんとん=中国南部の省。省都は広州。南シナ海に面し、高温多雨の気候に恵まれ、米・サトウキビ・果物・ゴムなどの生産が盛んを占領し、天津(てんしん=中国河北省東部の河港都市。政府直轄市。海河支流の合流点にあり、水陸交通の要衝。貿易・商業や紡織・製鋼などの工業が盛んに侵入した戦争(1857年から1860年にかけて清国とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争で、最終的に北京条約〈天津において、清国と諸外国間に締結された17条約である天津条約〈内容は、(1)九竜半島の割譲(2)公使の北京駐在(3)外国船の内地河川航行の許可(4)賠償金の支払い(5)片務的最恵国待遇〉の批准交換と追加条約〉で終結し、清国の半植民地化が決定的なものとなった。きっかけとなった事件から、単にアロー号事件や、阿片戦争に続くという形で第2次アヘン戦争ともいう〉で清国に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略すると可能性を示唆、日本が英・仏の半植民地化を回避するにはあらかじめ、日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと、強行に主張したことにあった。

 

こうした状況から、ハリスと日米通商交渉に当たり、米との条約締結をやむないものとした老中堀田正睦(ほったまさよし1810〜1864。下総〈しもうさ〉佐倉〈現千葉県佐倉市〉の藩主。ハリスと日米通商交渉に当たり、また、将軍継嗣問題で一橋慶喜を支持した)は勅許をうるべく孝明天皇(1831〜1831。第121代天皇。在位、1846〜1866。仁孝天皇の第4皇子。名は統仁〈おさひと〉。攘夷〈じょうい〉を主張したが公武合体策をとり、皇妹和宮〈かずのみや〉の将軍徳川家茂〈とくがわいえもち〉への降嫁〈こうか=高貴なお方の嫁入り〉断行、倒幕派を退けた)への取次ぎを武家伝奏(ぶけでんそう=諸事にわたり、朝廷と武家との連絡にあたる江戸時代の朝廷の職名役。江戸時代には定員2名で成人後の天皇を補佐して政務をつかさどった重職の関白に次ぐ要職。納言・参議から選ばれた。単に「伝奏」ともいう)に願い出た。

 

その際、中山忠能(なかやま ただやす。1809〜1888。江戸末期の公家。明治天皇の母方の祖父〈外祖父〉。岩倉具視らと王政復古〈政権が朝廷に戻すこと〉の議に参画した幕末の朝廷の攘夷派〈外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想を持った集団。のちに尊王論〈皇室を神聖なものとして尊敬することを主張した思想。古代の天皇神聖の思想が近世において展開し、幕末には攘夷論と結び、維新には王政復古論として現れ、明治以後の絶対主義的天皇制の基礎となった〉と合流して討幕運動の主潮をなした〉の代表的人物・岩倉具視(1825〜1883。公卿・政治家。京都の生まれ。幕末に公武合体を説き、のち、王政復古の実現に参画。明治維新後、右大臣。特命全権大使として欧米の文化・制度を視察。帰国後は内治策に努めた。大日本帝国憲法〈明治憲法〉の制定に影響力を行使した)ら中・下級公家88人が抗議の座り込みを行ったことから(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件〈ていしんはちじゅうはちきょうれつざじけん〉」)、孝明天皇が「先祖に申し訳ない」と頑強にこれを拒否したため勅許獲得は失敗に終わった(その責任をとり堀田が辞職)

 

すなわち直弼は、こうした動きに危機感を持ち、天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切ったのである。

 

なお、幕府は同様の条約を、オランダ(1858〈安政5〉年7月10日)・ロシア(同年7月11日)・イギリス(同年7月18日)・フランス(同年9月3日)とも結んだ(アメリカとのそれを含めた「安政5ヶ国条約」という。また、天皇の許可がなかったことを理由に、「安政の仮条約」ともいう)

 

1899(明治32)年7月17日の関税自主権が完全に回復した日米通商航海条約(1939〈昭和14〉の日本の中国侵略に抗議してアメリカは破棄を通告。1940〈昭和15〉年1月20日失効した)の発効で失効した(なお、現行の日米通商航海条約は、サンフランシスコ講和条約発効に伴い、1953〈昭和28〉年調印)

 

 

日米修好通商条約(抜粋)

 

原文は片仮名・旧字体・句読点はない。

 

第3條

 (上略)此ヶ條の内に載たる各地(開港場)は、亞墨利加(アメリか)人に居留を許すへし。居留の者は、一箇の地を價を出して借り、又其所に建物あれは是を買ふ事も妨なく、且住宅・倉庫を建る事をも許すへしといへとも、是を建るに托して、要害の場所を取建る事は決して成さるへし。(中略)双方の國人、品物を賣買する事總て障りなく、其拂方等に付ては日本役人これに立會はす。諸日本人、亞墨利加人より得たる品を賣買し、或は所持する、倶に妨なし。(下略)

 

第4條

 總て國地に輸入輸出の品々、別册の通、日本役所へ運上を納むへし。

 日本之運上所にて荷主申立の價を奸ありと察する時は、運上役より相當の價を付、其荷物を買入る事を談すへし。荷主もし之を否む時は、運上所より付たる價に從て運上を納むへし。承允する時は其價を以て直に買上へし。(下略)

 

第5條

 外國の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし。金は金、銀は銀と、量目を以て比較するをいふ。双方の國人互に物價を償ふに日本と外國との貨幣を用ゐる妨なし(中略)日本諸貨幣は銅貨を除く、輸出をする事を得。并に外國の金銀は、貨幣に鋳るも鋳さるも、輸出すへし。

 

第6條

 日本人に對し法を犯せる亞墨利加人は、亞墨利加コンシュル裁斷所にて吟味の上、亞墨利加の法度を以て罰すへし。亞墨利加人へ對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。

 

 

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