☆日清戦争☆

 

1894(明治27)年7月から翌年4月にかけて主に李氏朝鮮朝鮮李朝500年も続いていた李朝政府。李成桂【りせいけい】が936年来の高麗【こうらい】を倒して建国【1392〜1910】。国号は朝鮮。都は漢城【ソウル】。領土を朝鮮半島全域に拡大し、第4代世宗【せいそう】の時に全盛をむかえる。1897年に国号を大韓【だいかん】と改めたが、日露戦争後、日本の保護国化、1910【明治43】年の韓国【日韓】併合で消滅をめぐって日本と清国(しんこく=中国)との間の戦争(中国では「甲午こうご=干支(えと)の一。きのえうま。1894年は甲午の年中日戦争」と呼ぶ)。戦費総額は2億円、兵力動員は24万人、戦傷者1.3万人(戦死者は数百人)、期間10ヶ月。

 

 

戦争で死亡した兵士より脚気(かっけ=ビタミンB1を含まない精米された白米が普及し、副食を十分摂らなかったことで非常に多くの発病し、将軍や天皇等の富裕層から一般庶民に至るまで多くの犠牲者がでて、結核と並んで2大国民病といわれた)で死亡した兵士の数がはるかに多かった(一説によるとその数は4倍といわれている)

脚気を栄養障害の一種と断定したのが旧薩摩藩(現・宮崎県高岡町)の出身で慈恵会医科大学創立者の高木兼寛(たかきかねひろ。日本最初の医学博士)であるが、そもそも脚気の原因を巡ってはドイツ系の学派が細菌による感染症説を、英国系の学派が栄養障害説を主張していた。

創設以来、ロシアを仮想敵国とみなした陸軍と、米英を仮想敵国とみなした海軍との間に深刻な対立を構造的に持っていた日本の軍隊では、陸軍においてはドイツ系学派の医者と、海軍においては英国系学派の医者と提携するという対立構図が存在していた。

英国に留学した海軍軍医であった高木は、麦飯の食用で脚気を予防できると主張、海軍はこの説を取り入れたことから、海軍では脚気を撲滅した。だが、陸軍ではドイツに留学した東京大学医学部教授の緒方正規(おがたまさのり)や青山胤通(あおやまたねみち)、陸軍軍医の石黒忠悳(いしぐろただのり)や森林太郎(森鴎外)らが、科学的根拠がないことを理由に麦飯の食用に強硬に反対したため、脚気により大きな犠牲を出し続けた(石黒は晩年その間違いを認めたが、青山はこれをあくまで否定した)

ちなみに、日露戦争では脚気患者25万人中、病死者2万7800人、戦死者は4万7000人であった(戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推定されている)

 

日本は明治政府成立の直後から、朝鮮侵略政策が政府の重要な対外政策となっていた(いわゆる「征韓論」【せいかんろん】=西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した政策で、同年欧米視察から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後「征韓派」は下野【げや=官職を辞して民間に下ること】し、士族反乱や自由民権運動を展開する

 

1875(明治8)年には、朝鮮の開国を要求して示威中の日本の軍艦雲揚号が、江華島(こうかとう/カンホア-ド。現代の韓国の北西岸、漢江かんこう】の河口に位置する島)砲台と交戦し、一時占領するといった事件(江華島事件)を引き起こし、翌76(明治9)年には閔妃びんぴ)と朝鮮の開国(釜山ほか2港の開港)や日本の一方的な領事裁判権を定めるなどの不平等な日朝修好(しゅうこう=国と国とが交流すること)条規(江華条約)を結ばせた。

 

一方日本は、宗主権そうしゅけん=他国の主権を従属的に制限する権能。国家が独立する過程で、本国が独立する国に対してもつことが多い)を主張する清国と挑戦をめぐって厳しく対立していた。

 

当時の朝鮮民衆は、豊臣秀吉の朝鮮侵略によって受けた民族的苦痛が長く人民の間に記憶されていた上に、朝鮮政府の重税政策、官僚たちの不正腐敗の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。加えて、1890年代の初めには旱魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。

 

これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのが、1894年の6月、地方官の悪政に対する抵抗に始まった、朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)であった東学とうがく=李朝末期に崔済愚【さいせいぐ=1824〜1864】が創始した新興宗教団体。西学【キリスト教】に対し、固有の民間信仰をもとに儒教・仏教・道教の三教を折衷したものの信徒が主導した甲午農民戦争こうごのうみんせんそう=東学党の乱。内乱)である。

 

この戦争を格好の材料に日本軍(日本海軍連合艦隊)は、中国・清(しん)の勢力の朝鮮半島からの排除を目的に、つまり、朝鮮を支配することをねらって、朝鮮独立、公使館警護と在留邦人保護を大義名分にして大軍を動員する。

 

日本海軍は1894年7月23日に佐世保港を出港し、同月25日、第1遊撃隊が朝鮮半島西岸の豊島(ほうとう)沖で清国北洋艦隊と遭遇し、海戦となる(豊島沖海戦。付近を清兵を乗せて航行中の英国船籍の輸送船を撃沈したため、日英関係が一時緊張する。さらに、同月29日には日本陸軍が牙山(あさん)で清国陸軍を攻撃する(こうした中、朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、同年6月10日農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した【全州和約】)

 

8月1日、日清両国が宣戦布告戦争開始の宣言をすること。正式には戦争宣言ないし開戦宣言とよばれ、相手と戦争状態に入る旨の意思表示つまり戦意の表明を行う一方法。単に「宣戦」ともいうする。日清戦争の開戦である。

 

9月13日に大本営を広島に移し(同月15日には明治天皇も広島入りする)日本軍は、准軍(その後北洋軍)と北洋艦隊を動員した清国に、9月15日の平壌の戦いと同月17日の黄海(こうかい=中国大陸東部と朝鮮半島との間の海域で黄河の河水で黄濁している)海戦で勝利、11月21日には、大山巌(いわお=1842〜1916。薩摩生まれの.陸軍軍人で、西郷隆盛の従弟【いとこ】。陸相・参謀総長を務め、日露戦争では満州軍総司令官。元帥)率いる第2軍が清国北洋艦隊の基地で守備隊13,000人を擁した旅順りょじゅん/リューシュン=中国、遼寧省大連市の一地区。遼東半島南端にあり、黄海に臨む港湾地区。日露戦争後、日本が租借し中国進出の拠点とした)を陥落させ、翌1895(明治28)年3月までに大連・遼東半島(りょうとうはんとう=中国、遼寧省の渤海(ぼつかい)と黄海の間に突き出た半島。南端に旅順がある、さらに山東半島(さんとうはんとう/シャントン半島中国、山東省の黄海北部に突き出た半島で、青島・煙台・威海などの良港があるの威海衛いかいえい=中国、山東半島北東端の港湾都市。明代には倭寇【わこう=13世紀から16世紀、朝鮮半島・中国大陸の沿海地域を侵犯・略奪した日本人に対する朝鮮・中国側の呼称の侵入を防ぐ根拠地として知られている。現在は、威海市)まで占領、1895(明治28)年2月13日、清国が降伏した。

 

このときに日本軍の清国(中国)兵に対する虐殺事件が起き、そのニュースが世界を駆け巡った。だが、その責任は放置され、これが、閔妃びんび)殺害とともに以後の日本軍による南京大虐殺等の大量虐殺行為の原点となった。

 

旅順を攻撃する日本兵

 

1895年4月17日、下関で日清講和条約締結(下関講和条約。馬関条約

 

条約の調印は、日本全権伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)と清国全権李鴻章りこうしょう/リー=ホンチャン。1823〜1901。太平天国の乱鎮圧で功績をあげ、直隷総督・北洋大臣となる。洋務運動を推進。特に下関条約のほか、義和団事件【ぎわだんじけん=1899〜1900。列強の進出に抗した中国民衆の排外運動で、山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃に発展、日・英・米・露・独・仏・伊・墺【おう=オーストリア】連合軍の出兵を招き、鎮圧された】など清国末期の多くの外交上の難局の処理に当たった)間で行なわれた。

 

条約締結で、清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島ほうこしょとう/ポンフー諸島中国、台湾海峡にある64の諸島からなる。サツマイモ・落花生が主たる生産物)の日本への割譲、賠償金2億両(テール。約3億円)の日本への支払い、沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港などを認めた。

 

しかし、調印直後、帝政ロシアを中心とする仏・独の三国干渉のため、日本は遼東半島を返還せざるを得なかった。

 

なお、朝鮮の農民軍20万人は日本の勢力に対抗するため、1894年10月なかばになって再決起するが、近代的な装備の日本軍と朝鮮政府軍の前に、1894年11月末に忠清道広州での会戦で敗れ壊滅していった。

 

 

 

『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』  1894(明治27)年8月1日

 

 天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス

 朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス 朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ 苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

 惟フニ朕カ即位以来茲ニ20有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ 何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

 朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ

 朕ハ明治15年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ清国ハ翻テ種々ノ辞ネヲ設ケ之ヲ拒ミタリ 

 帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ 

 則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ 疑フヘカラス 熟々其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス

 事既ニ茲ニ至ル 朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ 汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

 

(御名御璽)

 

 

 

日清(下関)講和条約

 

大日本帝国全権 伊藤博文首相、陸奥宗光外相

大清帝国全権  李鴻章

1895(明治28)4月17日 調印

1895(明治28)4月20日 批准

 

第1条

清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス 因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ

 

第2条

 清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割与ス

 1. 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地

鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、営口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル処ハ該河ノ中央ヲ以テ経界トスルコトト知ルヘシ

遼東湾東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ属スル諸島嶼

 2. 台湾全島及其ノ附属諸島嶼

 3. 澎湖列島即英国「グリーンウィチ」東経119度乃至120度及北緯23度乃至24度ノ間ニ在ル諸島嶼

 

第3条

清国ハ軍費賠償金トシテ庫平銀2億両ヲ日本国ニ支払フヘキコトヲ約ス 右金額ハ都合8回ニ分チ初回及次回ニハ毎回5千万両ヲ支払フヘシ 而シテ初回ノ払込ハ本約批准交換後6箇月以内ニ次回ノ払込ハ本約批准交換後12箇月以内ニ於テスヘシ

残リノ金額ハ6箇年賦ニ分チ其ノ第1次ハ本約批准交換後2箇年以内ニ其ノ第2次ハ本約批准交換後3箇年以内ニ其ノ第3次ハ本約批准交換後4箇年以内ニ其ノ第4次ハ本約批准交換後5箇年以内ニ其ノ第5次ハ本約批准交換後6箇年以内ニ其ノ第6次ハ本約批准交換後7箇年以内ニ支払フヘシ(下略)

 

 

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