☆2・26(ににろく)事件(1936【昭和11】年2月26日)☆
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北一輝(きたいっき=1883〜1937。新潟・佐渡生まれ国家主義者。本名、輝次郎。革命日本の建設やアジア民族の解放などを掲げた大川周明らの猶存社【ゆうぞんしゃ。後に北と大川の対立により1923年に解散】に参加。著書「日本改造法案大綱」は陸軍青年将校に深い影響を与えた。2.26事件に連座して死刑)の国家改造思想に影響を受けた陸軍・皇道派の青年将校が起こした(国家改造=昭和維新断行の)クーデター事件。
当時陸軍には、皇道派と統制派の厳しい派閥対立があった。天皇が神であるという説にもとづき、当時の腐敗した財界や政界をクーデターのような過激な直接行動で天皇親政(しんせい=皇帝や天皇がみずから政治を行うこと)による国への国家改造を目指していた皇道派の派閥人事や急進的青年将校の運動に反発した中央幕僚層を基盤とし、軍中央による統制下に国家改造を画策したのが統制派で、その中心人物は永田鉄山(てつざん)少将であった。
対立は、1934(昭和9)年に起きた11月事件(士官学校事件=2.26事件の首謀者村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、証拠不十分で不起訴になった)をきっかけとして表面化し、翌1935(昭和10)年7月に皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こるや、皇道派の相沢三郎中佐は、永田軍務局長が「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意、1935年8月12日白昼斬殺するに至った。相沢は翌1936年7月死刑になったが、この事件が2・26事件へと発展したのである。
1936(昭和11)年2月26日、その日の東京は30年ぶりの大雪になっていた。未明の午前5時過ぎ、野中四郎・安藤輝三らの陸軍将校20人に率いられた歩兵第1・第3連隊、近衛歩兵第3連隊の兵1、376人が首相官邸などを一斉に襲撃(岡田啓介首相は義弟の私設秘書松尾伝蔵大佐と間違えられ、奇跡的に一命が救われるが、松尾は射殺される)、斎藤実内大臣(私邸)・高橋是清蔵相(私邸)・渡邊(辺)錠太郎教育総監(私邸)の3人の重臣と警備の警官ら計9人を殺害、天皇側近の鈴木貫太郎侍従長(官邸)に重傷を負わせ(銃弾は一生体の中)、首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁など永田町一帯を占領した。
左が岡田啓介/右が松尾伝蔵大佐

銃殺された渡辺
渡辺錠太郎は拳銃で応戦し、全身に十数カ所の傷を負い、体には銃弾43発が撃ち込まれ、軽機関銃に狙い撃ちされた片足は、骨と皮だけになっていた。渡辺は、天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとしていた軍の一部を批判していたことから、青年将校らは激しく反発していた。また彼は、ながく海外駐在の武官を務め、第1次世界大戦のヨーロッパカ国の惨状を目のあたりにしたことから、「戦争だけはいけない」と家族に話していた。なお、杉並区荻窪にあった渡辺の自宅は08年2月27日に解体されたが、その1階部分が、同区立郷土博物館で復元・保存されている。事件当時9歳だった次女の渡辺和子は現在(09年5月。82歳)のノ−トルダム清心学園の理事長。当時9歳だった和子は、自宅の物陰に隠れてその一部始終を見ていた(09年05月06日付『朝日新聞』)。
磯部浅一(元陸軍一等主計)、村中孝次(元陸軍歩兵大尉)、香田清貞(歩兵第一旅団副官)たちは川島義之陸軍大臣(陸相)の官邸を包囲して面会を強要した上で、「今にして国体破壊の不義不臣(ふぎふしん=正義・道義にもとる天皇に使える者)を誅戮(ちゅうりく=罪ある者を殺すこと)し、稜威(みいつ=天皇の威光。りょうい)を遮(さえぎ)り御維新(いしん=すべてのことが改められて、すっかり新しくなること)を阻止し来れる奸賊(かんぞく=心がねじけ策謀にも長じた悪人)を芟除(せんじょ=除き去ること。さんじょ)するに非(あら)ずんば、皇謨(こうぼ=天皇の計画)を一空(いっくう=すべてなくなってしまうこと)せん」との檄文(げきぶん=自分の主張を述べて同意を求め、行動を促す文書)の「蹶起(けっき)趣意書」を発表、彼らが首相にしたいと考えていた皇道派の真鍋甚三郎陸軍大将(前教育総監)や荒木貞夫陸軍大将らを通じて「陸軍大臣要望事項」を陸相に手渡し、陸軍首脳に昭和維新の断行を迫り、「速やかに天皇陛下に奏上し御裁断を仰ぐ」ことを要求したのである。
政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、(皇道派青年将校たちは、自らを「尊王義軍」と称し、決起を天皇が承認してくれるものと信じていたが)側近らを襲撃された上に統帥権を犯された天皇は、「朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿(まわた)にして、朕が首を絞むるに等しき行為なり」と激怒し、「朕自ら近衛師団を率い、此れが鎮定(ちんてい=乱をしずめ、世をおさめること)に当らん」との決意で武力鎮圧を命じ、海軍も蜂起部隊との対決姿勢をとったため、陸軍中央も鎮圧に乗り出さざるを得ず、28日午後には蜂起部隊を反乱軍と規定し、28日午前5時8分にだされた「奉勅命令」(御聖断=天皇の命令)を盾に降伏を迫り、29日朝から、「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、飛行機、戦車、アドバルーンや宣伝ビラ(傳單)を繰り出して「今からでも遅くはない」という帰順勧告が開始された。投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉のピストル自決(未遂)を最後に、全員投降し、同日4日間の反乱(クーデター)は鎮圧された。
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ラジオ放送「兵に告ぐ」 敕命が發せられたのである。既に 天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に 天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したならば夫は敕命に叛抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて 天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて歸つてこい。 戒巖司令官 香椎中將 この「兵に告ぐ」は、NHKの愛宕山放送局から中村茂アナウンサーの潤いのある声で放送された。 |
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伝(傳)單 下士官兵に告ぐ 1.今からでも遲くはないから原隊に歸れ 2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する 3.お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いてをるぞ 2月29日 戒巖司令部 「今からでも遲くはない」は流行語となった。 |
3月4日の緊急勅令により4月28日から非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議におけるわずか約2か月の審理の後の7月5日、主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑が言い渡され、
また、翌1937(昭和12)年8月19日、磯部・村中とともに北・西田が処刑された。だが、青年将校に同調した起訴され真崎甚三郎陸軍大将は、同年9月25日、証拠不十分で無罪となり、さらに、彼らの運動に理解を示し、利用もした皇道派の将官たちも不問とされ、事件の全てが終結した(事件の黒幕の真崎の無罪は「昭和史の謎」
)。
その後岡田啓介内閣にかわり、陸軍の影響力の下で組閣された官僚中心の広田弘毅(こうき)内閣は、「軍の統制を保持し粛軍の徹底を期するには大臣に現役大中将に、次官に現役少将に限定する」との陸軍の要求で、軍の内閣介入(軍部の政治介入)を意味した軍部大臣を現役の軍人とする「軍部大臣現役武官制」を23年ぶりに復活させる(1936〔昭和11年5月18日、陸海軍の「大臣及次官ニ任セラルル者ハ現役将官トス」との勅令第63号・64号−即日施行)ところとなる。このことは、軍が内閣の生殺与奪権を把握したことを意味したが、それは宇垣一成内閣の流産や米内内閣総辞職等でいかんなく発揮されるのであった。
その後、粛軍(しゅくぐん=軍の規律を正すこと)の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った東条英機に代表される統制派には「日本軍が断固たる一撃を加えれば中国軍は降伏する」といった「中国一撃論(対中一撃論)」の思想が根強く浸透していた。つまり、ここで中国を叩いておけば、きたるべき対ソ戦に備ることができ、国防を完璧にできる考え方であるが、かかる防衛戦略にもとづき、1937(昭和12)年7月7日には、蘆溝橋事件(「7・7事変」)を勃発させ、ここに日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになるのである。
だが、甘く見ていた中国軍との戦闘は、米英の中国に対する全面的援助もあって、中国一撃論は破綻、日本の占領はかろうじて「点と線」のを維持するのみであった。戦況は長期化し、はてしない泥沼化に突き進むこととなる。
なお、事件当時、岡田首相の娘婿で秘書官を務め、首相の救出に奔走した故・迫水(さこみず)久常氏が事件について語った「政治談話録音」のテープと速記録が02年11月25日、収録から30年ぶりに国立国会図書館で公開されたが、迫水氏は、事件を「日本で起こった本格的なたった一つのクーデター」と位置付け、「若い連中が真崎甚三郎大将辺りの扇動に乗って、真崎大将が自分たちの統領になってくれると確信してスタートしたが、真崎大将は統領になろうとしなかった。指導者のないクーデターだったから失敗したんだと思う」とし、真崎大将には「非常に事件に責任がある」と指摘している。また事件当日、宮中に参内した陸軍上層部や閣僚の対応を「けしからん」「頼りない」などと批判、特に「マレーの虎」こと山下奉文(ともゆき)少将については「反乱軍擁護派」「際立って反乱軍的に行動した」「一番けしからんと思った」として痛烈に論難している。さらに、大角岑生(おおすみ
みねお)海軍相に岡田首相が生きていることを打ち明けて協力を要請したとき、海相に「その話は聞かんことにしておく。何も聞かなかったよ。君の言ったことは聞こえなかったよ」と拒まれ、「頼りがないなあ、とがっかりした」と語っている。
蹶起(けっき)趣意書(1936【昭和11】年2月26日)
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謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。 此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕せしむは火を賭るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。 皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを! 昭和拾壱年弐月弐拾六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 注;野中四郎(1903〜1936)=岡山県出身、陸軍士官学校卒、1933(昭和8)年陸軍大尉、歩兵第3連隊第5中隊長となる。約500名の兵をひきいて警視庁を占拠。反乱失敗後の同年2月29日陸相官邸で自決。享年34歳。 |
この事件で、処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が05年7月、69年ぶりに見つかった。処刑前に入っていた陸軍刑務所の看守にあてたものなどで、自宅に保管していた人(77)から、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられ、70回忌が営まれる05年7月12日、東京・港区の賢崇寺で関係者に公開された。
見つかった遺書は、軍法会議で死刑判決を受けた19人のうち、民間人の北一輝と西田税(みつぎ)・元陸軍少尉を除く17人分で、遺書には「大君(おおきみ=天皇を敬っていう語)に 御國(おくに/みくに=日本国を敬っていう語)思ひて 斃(たお)れける 若き男乃子(おのこ)の心捧(ささ) げん」(栗原安秀中尉)、「流れ星惜しくも消えしあかつきに 差し出で給へ朝の御光(ごこう=グローリー【glory]=周囲の開けた山頂に霧があり、太陽光線が水平に近い角度で入射するとき、太陽を背にして頂上に立つと、その人の影が前面の霧の壁に映り、影の回りに光の輪が現れる現象】のこと。見られる場所によって山の御光・海の御光・稲田の御光などと呼ばれる。後光) 謝御厚情(こうじょう=あついなさけ。思いやりのある心) 花淵警査殿」(中島莞爾少尉)などの辞世の句や漢詩、さらに、世話になった看守に向け「入所中ノ御厚情ヲ深謝シ奉ル 只吾人ノ真精神ハ兄等ノミゾ知ル」(丹生誠忠中尉)といった言葉が署名とともに毛筆で書かれている(05年07月12日付『読売新聞』)。