ナポレオン1世、ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
(1769〜1821)
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『わが辞書に不可能はない』 (実際は『辞書から不可能という単語を削除しろ』だったとの説も) 「頼るべきものは人望ではなく、ただ己の力あるのみ」 |

27歳のナポレオン(『クロニック 世界全史』〔講談社〕より)
フランス第1帝政の皇帝(在位 1804〜1815)。
1769年8月15日コルシカ島アジャクシオのイタリア系下級(貧乏)貴族の家に生れた。
父はシャルル=マリー・ボナパルト、母はマリア=レティツィア・ボナパルト。1779年、ブリエンヌ陸軍用年学校入学、砲兵士官として1789年のフランス革命に参加、急進派のジャコバン派(1792年9月20日に招集された男子普通選挙で選出されたフランス議会〔国民公会〕で、議長席からみて右に穏健派のジロンド党のが、左に急進派のジャコバ派の議席が配置されたため、これ以後、「右」といえば保守、「左」といえば革新を意味する用語が定着したといわれている。なおこの時共和制が樹立された)支持の小冊子を発表して逮捕されるが、1795年 総裁府の要請でバンデミエールの反乱で王党派の鎮圧に活躍をして再起、1796年から1797年のイタリア遠征では司令官として戦功をあげ名声を得る。
1799年11月9日クーデター(革命暦のブリュメール18日=「ブリュメール18日」)により総裁政府に代わり統領政府を樹立、自ら第1統領となる。ここに、ナポレオンの軍事独裁が始まった。
権力を握ったナポレオンは、変幻自在のジョゼフ・フーシェ(1759〜1820。 フランスの政治家。ジャコバン派の恐怖政治下、反革命派の大量処刑を行う。ブルジョア党が反革命的社会秩序の形成を図った「テルミドール反動」に暗躍。ナポレオンのクーデター後彼の片腕となるが、ナポレオン没落後は王政復古【王朝政治の復活】に協力する等、謀略政治家の典型とされる」をパリ警視総監に留任させた。曲者(くせもの)にしかできない仕事を彼にあてがい、失敗すれば「それで自滅するもよし」と考えたナポレオンの深慮遠謀であるといわている(またこれは、「毒をもって毒を制す【悪い病気には毒性の強い薬で治療するように、悪人を成敗するのには悪人を使ったり、悪い事をおさえるのには悪い事をもって対応すること】」ということばの語源でもある)。
同年、米国の初代大統領ワシントン(George Washington。1732〜1799。アメリカ独立革命で植民地軍総司令官として独立を獲得、憲法制定会議議長を務め、1789年初代大統領に選出され、97年の引退まで国内諸勢力の調整・中立外交に努め、アメリカの基礎を固めた)の訃報(ふほう)に触れて、ナポレオンは、「彼の思い出は(中略)彼およびアメリカの兵士たち同様、「平等と自由」のために戦っているフランスの兵士たちに、いつまでも親しいものとして残るであろう」と記した。
政権の座に着いたナポレオンは、1802年8月2日、終身統領の是非を問う国民投票(男性普通選挙で、投票率は40%を超えた)で、350万票(反対8,000票)の圧倒的多数で信任され、専制政治に道を開く一方、1804年3月21日、フランス革命の成果である「人身の自由・法の下の平等(ただし「妻は夫に従うべき」とされた)・私的所有権の絶対性」をはじめて法的に確認する近代国家の法典の模範となる民法を制定(1807年に「ナポレオン民法)と改称される)する等、革命の原理を実現する一方、同年12月2日、35歳で皇帝に即位する。
1805年12月2日、チェコのアウステルリッツ(当時オーストリア領)でロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝フランツ2世の連合軍を撃破(アウステルリッツの会戦)、1806年凱旋門の着工を命じた。
1812年9月7日、ボロディノ会戦(モスクワ西方のボロディノでのフランス軍とミハイル・クトゥーゾフ元帥の率いるロシア軍との戦い。このフランス軍13万とロシア軍12万の規模の戦いでの戦死傷者はフランス軍2万8千に対してロシア軍5万2千であったが、ナポレオンは後に「余の生涯のうちで最も凄惨な戦いであった」と述懐している。ナポレオンのロシア遠征については、トルストイ〔1828〜1910〕の壮大な長編小説『戦争と平和』〔1864〜1869〕が詳しい。またロシアの大作曲家チャイコフスキー〔1840〜1893〕も、ナポレオンのロシア遠征を題材として
『序曲1812年』を作曲している)に勝利し9月14日モスクワに入城する等、列国と交戦を重ねイギリスを除く全ヨーロッパをほぼ制圧する。まさにナポレオンの全盛期であった。
しかしロシア軍壊滅までには至らず、1812年11月、逆にきびしい『冬将軍』に遭遇した上に、10万近くのロシア軍の追撃で、モスクワを退却するときには10万を誇ったナポレオン軍は、スモレンスクでは3.7万、ベレジナ川まで退却したときには3万に、そして11月26日に始まったベレジナ川渡河では8,500に、さらに12月10日、ニーメン川を渡り、ロシアを脱出したのはわずか5,000に激減していた(12月18日、ナポレオンはパリに戻る)。
これを契機に、ナポレオン支配に諸国が抵抗する戦争が1813年から開始され(いわゆる「解放戦争」)、1813年10月16日〜18日の3日間のロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突したライプツィヒ(Leipzig)での戦い(ライプツィヒの戦い=諸国民戦争)に、当初フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りもあり、ナポレオンは敗北、ナポレオンはパリに敗走、翌年1月ライン川を越え、3月31日パリに入城した。
1814年4月2日、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し、ナポレオンは同月11日、退位宣言に署名、同盟国側によって捕らえられ(このとき、同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取る。彼は皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」という流刑とは思えないほどの好条件であった)、5月4日、地中海のエルバ島(ナポリ王国領からフランス領に、1860年再びイタリアに帰属した。イタリア・ローマから車で2時間北上した街からフェリーで約1時間のところで、ナポレオンが生まれたコルシカ島の西48kmの島)に流される(流刑)。
こうした中、1791年以来国外に亡命していたルイ16世の弟が1814年5月に帰国、ルイ18世(在位1814〜24)となり、王政(ブルボン朝)が復活することになる。
だが、フランス革命で自由を得たフランス国民が王政の復活を歓迎するわけはなかった。ルイ18世の反動政治は当然のことながら市民の猛反発を受けた。
1815年2月26日、こうした状況をみてナポレオンは、密かにエルバ島を脱出し、1,000の兵士とともに3月1日にカンヌに上陸し、ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進撃を開始した。ルイ18世も軍隊を派遣、ナポレオンの討伐を命令したが、軍は特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将ネイ元帥をはじめ次々とナポレオン側に付いたため、3月20日、ナポレオンはパリに入り、再び皇帝位に就いた(いわゆる「百日天下」=復位からワーテルローの戦いに敗れ退位するまでの期間」〔1815年3月20日〜1815年6月22日〕をいう。転じて「つかの間の政権」をたとえていう語)。
ナポレオンは、わずか2ヶ月の間に25万の軍を集め、12万の兵を率いてパリを出発し、ベルギー方面へ進出し、6月16〜17日にプロイセン・イギリス軍連合軍と戦い、プロイセン軍に打撃を与えた翌6月18日午前11時30分ころ、ナポレオン軍7.4万と(後にイギリスの首相となる)ウェリントン(1769〜1852)率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突した(ワーテルローの戦い)。戦いは同日午後4時30分ころ、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍がイギリス軍に合流したことから連合軍が優勢に転じ、午後8時頃、ナポレオン軍の敗北は決定的となる(この戦いでのナポレオン軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2万以上であった)。
戦い敗れたナポレオンは6月21日、パリに敗走、翌日22日に退位。7月3日連合軍がパリに入城、8日、ルイ18世が再び即位する。
ナポレオンは連合軍の決議によって、1814年10月15日、アフリカ西岸のかなた約1,800キロにある絶海の孤島、イギリス領のセント・ヘレナ島(オーストラリアのアルカトラズ〔最高に厳重な警備で脱獄不可能と言われた悪名高き米国の刑務所〕と言われたが、現在は人気観光スポット)に流され、イギリス軍の厳しい監視下、6年後の1821年5月5日午後5時49分同島で死去(51歳。死因は胃潰瘍・胃ガン説が有力であるが、ヒ素による毒殺説もある)、同島のゼラニウムの谷に埋葬される。
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☆ ヒ素を使った毒殺か、病死かで論争が続くナポレオン1世の死因をめぐり、パリ警視庁の法医学研究所に所属するフランスの専門家3人が02年10月28日、ナポレオンの遺髪だけでなく、生存中に採取した(1821年に切った)髪と、1805、14年に側近らに与えた髪のヒ素濃度や分布を初めて放射光利用の精密解析装置で比較分析した結果、いずれも通常の人の髪に含まれるヒ素濃度の5〜30倍だったが、3つの年代で大きな違いはなく、髪の先端や根本にほぼ均等に分布しており、「皇帝は3回も毒を飲まされたのだろうか」として毒殺説を退け、毛髪のヒ素は、外部から付着したものと(胃がんの合併症による死亡の可能性が強い)と発表した(共同通信−02年10月30日付『日経新聞』)。 ☆ 胃がんが死因とされながら、毒殺か病死かで論争が続くナポレオン1世をめぐり、スイスの病理学者らがこのほど、死亡前に体重が急激に減少していたことを突き止め、死因は胃がんとあらためて結論づけた。研究発表したのは、スイスのバーゼル大学病院の病理学者リュグリ氏ら。ナポレオンが生前に着用していた9着のズボンのサイズなどから体重の変化を計算。1820年に身長167センチ、体重90.7キロだったナポレオンが、21年5月の死亡時には75.7キロまで体重を減らし、特に死亡直前の5カ月間に11キロもやせたことが分かった。毒殺説の根拠はナポレオンの毛髪から高濃度のヒ素が検出されたことだが、リュグリ氏らは、当時はワイン貯蔵用のたるなどを微量のヒ素で消毒しており、大のワイン好きだったナポレオンの体内にヒ素が残留していても不思議はないと説明している(05年05月09日配信『共同通信』)。 ☆ ナポレオンは、歯痛に悩まされたと言われているが、1815年にワーテルローの戦いで連合軍に敗れた後、幽閉されたセント・ヘレナ島で抜歯したとみられている上あご右側の犬歯が英国で05年10月10日に競売に掛けられた。専門家の見積もりで8000ポンド(約165万円)の値打ちがあるという。この歯は、当時のナポリ王の副官に渡り、現在の所有者は1956年に手に入れたという。なお、ナポレオンは当時、壊血病(かいけつびょう=ビタミン C が欠乏して起こる病気。歯肉からの出血・全身倦怠・衰弱などの症状がある)を患っていたとみられている(05年11月02日配信『共同通信』)。 ☆ フランス皇帝ナポレオンが、人の胃にすみつく細菌、ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)に感染していた可能性があるとの説を、米国の研究者らが専門誌に発表した。ナポレオンには毒殺説もあるが、今度の説は、ピロリ菌と関連する胃がんが死因だった、と主張している。ナポレオンの遺体の解剖記録を分析すると、胃に10センチ以上の腫瘍(しゅよう)があったことなどがわかった。その場所や形状などから、胃がんのリスクを高めるとされるピロリ菌の感染が示唆されたという。当時、戦争の間はその時代の保存手段だった塩漬けの食料などしかとれず、胃がんのリスクはさらに高まった可能性があるとみている。また、研究者は幽閉前にとられた毛髪からもヒ素は検出されているなどと指摘、当時はワイン樽(だる)をヒ素で消毒したとされており、毒殺は考えにくいという。
さらに、研究者は、分析された病状から「彼がたとえ幽閉先から解放されたり逃げたりしても、欧州の歴史の舞台で役割を演じ続けることはできなかったろう」と結論づけた(07年01月19日付『朝日新聞』)。 |
それから19年後の1840年、フランス議会は遺体のパリ移送を採択、同年10月8日、国王ルイ・フィリップの3男ジョワンヴィル公を代表とする派遣団がフランス軍艦でセント・ヘレナ島に到着、棺を掘り起こしてパリに移送、12月15日、棺を、ルイ14世の命令により建築された傷病兵の為の病院・看護・生活施設であったパリのアンヴァリッド廃兵院(現在は軍事博物館)に安置された(棺は、アンヴァリドの一番南側の金色のドームの真下にある)。
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アンヴァリッド廃兵院 |
ナポレオンが眠っている大理石の棺 |
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凱旋門(「エトアール凱旋(がいせん)門」=〔Arc de
triomphe de l'Étoile〕)
ナポレオンの死後15年目の1836年、パリのシャルル・ドゴール広場(当時・エトアール広場)に高さ49.54m、幅44.82m、奥行き22m、壁面はナポレオンの戦いや義勇軍の出陣を描いた彫刻(中でも右柱リュード作の「出陣」と左柱コルート作の「勝利」が有名)で、飾られている新古典主義建築の世界最大の門(巨大な記念碑)である凱旋門(古代ローマに多く見られた戦勝祝賀の記念碑)が完成した。
アーチの真下の床面に、第1次大戦の無名戦士の墓碑が据えられ、炎が燃え続け、献花が耐えないことでも有名なこの凱旋門は、1806年にナポレオンがフランス軍の戦勝を記念するため着工を命じたものであるが、完成には30年かかった。これは、ナポレオンが失脚してエルバ島に流されたためであった。
凱旋門は、シャルル10世(1830年7月革命で追放される)の時代に再開され、イタリアに亡命したシャルル10世の代わりに即位した、オルレアン家出身でフランス最後の王である、ルイ・フィリップ(1848年の2月革命で、英国に亡命、1850年に死亡)時代に完成した。まさに、フランスの激動の歴史を体験してきた記念碑でもある。
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(1808〜1873=Charles Louis Napoléon Bonaparte〕
フランス第2帝政の皇帝(在位 1852〜1870)で、ナポレオン1世の弟ルイの子として1808年に生まれる(ナポレオン1世の甥〔おい〕)。1836年10月30日にストラスブールでルイ=フィリップ(75歳)の7月王政(1830年に成立し、厳しい制限選挙制をしき、有権者は裕福な階層者だけの24万人に過ぎなかった)に対する反乱を起こすが、失敗、アメリカに追放される(のちにイギリスへ移住)。
ブルジョア階級と労働者階級の共闘によりルイ・フィリップ王政を倒し、第2共和制を成立させたいわゆる1848年の2月革命(24日。ドイツの3月革命など、諸国の革命運動を誘発しヨーロッパに革命の嵐が吹き荒れる)で亡命先から帰国し、第2共和制大統領に当選。3年後の51年クーデターを起こし、翌年皇帝に即位、自ら「ナポレオン3世」を名乗る(3世とはナポレオン2世であるナポレオン1世の実子が早死にしたためである。なお、第2共和政は1852年の第2帝政成立によって消滅)。反対勢力を抑圧し、産業保護・対外進出に力を入れ、以後約20年間、フランスの政治経済は順調に発展し、政治的にも安定し、ナポレオン3世は絶頂期にあった。
だが、1861年の植民地獲得競争にためのメキシコ遠征後、70年の普仏(ふふつ)戦争(独仏戦争。1870年から71年に行われた、プロイセンを中心とするドイツ諸邦とフランスとの戦争。ドイツ統一を進めるプロイセンと、それを恐れるナポレオン3世が対立し、スペイン王位継承問題を契機に開戦。プロイセンが大勝し、アルザス・ロレーヌなどを獲得。戦中、ドイツ帝国が成立しドイツの統一が完成した)に敗れて退位、イギリスに亡命し(1873〔明治6〕年に65才で死去)、その後フランスでは第3共和政(1940年対ナチス・ドイツ降伏後のビシー政権成立により崩壊)が成立した。
なお、1870年ナポレオン3世の帝政を批判した22歳の新聞記者が3世のいとこに射殺されが、プロイセン・フランス戦争がフランスの敗北に終わった直後の1871年3月28日に労働者階級を中心とした民衆が蜂起してパリ・コミューンが樹立される(フランスの革命的都市自治体政府【民衆の革命政権】。後年マルクスやレーニンによって、ロシア革命に先行するプロレタリア最初の社会主義革命【プロレタリア独裁】政府と規定された)。だが、政府軍の攻撃をうけて5月28日崩壊する(3月21からの1週間で2万人以上の死者をだす)。最後の拠点となったパリのペールラシェーズ墓地(Cimetiere de Pere-Lachaise=パリの北東部、面積約40ヘクタール)の壁の前で次々に銃殺されたが、その墓地の墓の上に、仰向けになった射殺された新聞記者青年のブロンズ像がある。
ナポレオン3世はパリの都市改造で今の「花の都」を造ったといわれるが、ボードレール(Charles Pierre Baudelaire;1821〜1867:近代詩の祖とされるフランスの詩人)は、そのパリの都市の形の変化の早さを、「ああ!人の心のそれにもまさる」とその詩で評している(『悪の華』【安藤元雄訳】)。
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