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明治天皇睦仁−むつひと−(在位1867〜1912) |
皇統譜上第122代天皇
1852(嘉永5)年〜1912(明治45)年
1852(嘉永〈かえい〉5)年9月22日生まれ。孝明(こうめい)天皇の第2皇子。母は中山慶子(よしこ)。
父の死により16歳で践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐことで、即位との区別はない)。その10ヵ月後幕府は大政を奉還。五箇条の誓文を公布し、政体書(1868〈慶応4〉年発令した明治維新政府の政治組織を定めた法で、五箇条の御誓文に基づき、太政官の権力集中、三権分立主義、官吏公選などを規定した)によって新しい政治制度の確立する等の新政府の基本方針を示した。
また、明治と改元して、天皇の代替わり合わせて元号を変更する「一世一元」とさだめ、京都から東京へ遷都。大日本帝国憲法や教育勅語・軍人勅諭などを発布して、立憲国家・近代国家確立を樹立した。

左;明治初年の明治天皇/右;晩年の明治天皇
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講談社『日本全史』より |
ご真影より |

天皇と皇后
1893(明治26)年2月1日=ご真影と教育勅語の奉置(保管)方を各区郡役場や学校に布達した際のもの(明治神宮所蔵)
1867(慶応3)年1月9日、父孝明(こうめい)天皇が前年の1866年12月25日(この月の5日、水戸徳川家出身の一橋慶喜〔よしのぶ=御三家にひとつ徳川水戸家烈公斉昭〔なりあき〕の7男で、御三卿のひとつ一橋家を継いだ〕が15代将軍になる〔30歳〕)、35歳で急死(死因は、流行性出血性痘瘡〔とうそう〕と推定されているが、岩倉具視〔ともみ〕を主犯とする毒殺の噂がある。なお、孝明天皇の妹和宮〔かずのみや〕は14代将軍家茂〔いえもち〕の正室)したため、第2皇子の当時16歳の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐことで、即位との区別はない)し、明治天皇睦仁(むつひと)となる(なお、明治天皇の即位の礼は1868〔慶応4〕年8月27日に行われ、同年9月8日には明治と改元され、一世一元の制度がここに確立されることになる)。

孝明天皇
その明治天皇は、1852(嘉永5)年9月22日、孝明天皇を父とし、公家・権大納言(ごんだいなごん=太政官〈だいじょうかん〉の次官。大臣に次ぐ官で、正三位相当。大臣とともに政務に参与し、大臣不参のときは代行した大納言権官〈定員外の大納言〉) 中山忠能(ただやす)の女(むすめ)の中山慶子(よしこ)を母として生まれた(孝明天皇の皇后〈英照皇太后〔えいしょう
こうたいごう〕=九条夙子〔あさこ〕〉を「実母」と公称した)。
「
中山慶子(1835〈天保6年〉〜1907〈明治40〉)
明治天皇は若年で即位したため、側近の岩倉具視(1825〜1883〔明治16〕 京都生まれの公卿・政治家で、当初公武合体に努め、のち、討幕運動に参加。維新後右大臣となり、特命全権大使として欧米視察。三条実美〔さねとみ〕や大久保利通らと並ぶ明治政府の最高の実権者の1人となり、自由民権運動の高揚に対して、天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用した。1881〔明治14〕年には井上 毅〔こわし〕に命じて帝国憲法の枠組みとなる「大綱領」を起草させた。絶対主義政府の専制支配者として内治優先・天皇制確立の政策を遂行した)らの主導で明治維新は推進されたが、公武合体(幕末期、朝廷の伝統的権威と結び付き、幕藩体制の再編強化を図ろうとした政治論)論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進むのであった。

岩倉と明治政府の重鎮
すなわち明治天皇は、1867(慶応3)年、徳川将軍徳川慶喜に大政奉還(将軍慶喜が征夷大将軍〔鎌倉時代以後、幕府政権の長たる者の称〕の職を辞し、政権を朝廷に返上することで、公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白による)の勅許を与えるとともに、薩長両藩主に討幕の密勅を下し、王政復古(朝廷政治から武家政治に移った後、再び朝廷政治に戻ること)の大号令を発して新政府を樹立、1868年1月からの戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府勢力を打倒、同年3月に五箇条の誓文を発し新政府の基本方針を宣言するとともに、1871(明治4)年6月に廃藩置県(全国の藩を廃して府県を置いたことで、当初、北海道を除き3府302県〔沖縄県の設置は1879年〕であったが、この年の末までには3府72県となった)を断行(274藩が奉還)して中央集権体制を実現し、1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布、帝国議会開設後は、政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清(広島の大本営に起居し、軍の統帥にあたった)・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たした。
日露戦後には韓国併合や満州経営を進め、植民帝国として膨張政策を推し進め、1911(明治44)年には、懸案の条約改正を完成させたが、このころから持病の糖尿病が悪化、翌1912(明治45)年7月30日に崩御(ほうぎょ=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語。昔は上皇・法皇にもいった)した(亨年61歳)。
なお、日常生活は質素を旨とし、自己を律すること厳しく、天皇としての威厳を堅持した。
1868年12月28日に一条美子(はるこ)と結婚。

明治天皇一家
上部左が皇太子(大正天皇)/前列左が皇太子妃(抱かれているのが
宮(みちのみや)親王〈昭和天皇〉)

国会(帝国議会)開設前年の1888(明治21)年7月10日、星亨(ほしとおる=1850〜1901。江戸の生まれの政治家。官吏侮辱罪や出版条例違反などの罪で入獄。衆議院議長を経て、立憲政友会の結成に参加し、第4次伊藤内閣の逓相。東京市会議長在職中に暗殺された)の「めざまし新聞」を譲り受けた「大阪朝日新聞」社主の村山竜平(りょうへい=1850〜1933。三重の生まれの新聞経営者。1881〈明治14〉年に大阪で「朝日新聞」を譲渡され、新聞経営に専心。また、「東京朝日新聞」を創刊。1940〈昭和15〉年に東西の朝日を合併)は、「東京朝日新聞」と改題して、東京進出を果たした。創刊号には、当時入手は出来なかった「明治天皇」の像を、また9月1日付では「皇后」(昭憲皇太后)像を掲載し、他の新聞をあっと言わせた。

明治天皇の崩御を報じる新聞
陵墓(りょうぼ=天子や天皇・皇后・太皇太后・皇太后を葬る所である陵と、その他の皇族を葬る所である墓。みささぎと、はか)は、伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)。

皇后は昭憲皇太后、側室は葉室光子・橋本夏子・柳原愛子・千種任子・園祥子。

明治天皇の御名(署名)と御璽(ぎょじ=天皇の印)
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