憲法改正の歌=⇒句碑

 

1956年 中曽根 康弘作詞

 

 

 

鳴呼(ああ)戦(たたか)いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す

平和民主の名の下に 占領憲法強制し

祖国の解体計りたり 時は終戦6ヶ月

 

 

 

占領軍は命令す 若(も)しこの憲法用いずば

天皇の地位請け合わず 涙をのんで国民は

国の前途を憂(うれ)いつつ マック憲法迎えたり

 

 

 

10年の時は永くして 自由は今や還りたり

我が憲法を打ち立てて 国の礎(いしずえ)築くべき

歴史の責を果たさんと 決意は胸に満ち満てり

 

 

 

国を愛す真心を 自らたてて守るべき

自由と平和民主をば 我が憲法に刻むべき

原子時代に遅れざる 国の理想を刻まばや

 

 

 

この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり

マック憲法守れるは マ元帥の下僕(げぼく)なり

祖国の運命拓(ひら)く者 興国(こうこく)の意気挙(あ)げなばや

 

 

 

中曽根 康弘

(1918〔大正7〕年〜)

 

nakasone

 

−戦後60年のうち55年を衆院議員、5年を首相として務めた−

 

 

1918(大正7)年5月27日生まれの群馬県高崎市末広町出身の政治家。ニックネームは「風見鶏(かざみどり=鶏をかたどった風見で、俗に、時流に合わせることの巧みな人のたとえ」―若手議員のころのニックネームは「青年将校」)。民主党から国民民主党、その後改進党を経て日本民主党、1955(昭和30)年民主党と自由党との合併で自由民主党(55年体制)

 

東京帝大卒後、1941(昭和16)年4月内務省にはいり、終戦時は海軍主計(しゅけい=軍隊で、会計・給与などを取り扱う軍人)少佐(しょうさ=佐官の最下位で、中佐の下にして大尉の上)

 

1945(昭和20)年10月に内務事務官、1947(昭和22)年4月衆議院議員に初当選。以後当選20回。現在の選挙区は、比例北関東ブロック。

 

1959(昭和34)年6月18日〜1960(昭和35)年7月19日、科学技術庁長官、原子力委員長として初入閣第2次岸信介内閣)、1967〜1968(昭和43)年11月30日 運輸大臣(第2次佐藤栄作内閣)、1970(昭和45)年1月14日〜1971(昭和46)年7月1日防衛庁長官(第3次佐藤栄作内閣)

 

1966(昭和41)年、中曾根派を結成。

 

1972(昭和47)年7月7日〜1972(昭和47)年12月22日 通産大臣、科学技術庁長官、原子力委員長(第1次田中角栄内閣)、1972(昭和47)年12月22日〜1974(昭和49)年12月9日 通産大臣(第2次田中角栄内閣)

 

1974(昭和49)年12月4日、金脈問題で田中首相退陣、「椎名裁定」により三木武夫が両院議員総会で第7代自民党総裁就任、幹事長を総裁派閥から出さない申し合わせにより中曽根が就任

1980(昭和55)年7月17日〜1982(昭和57)年11月27日 国務大臣行政管理庁長官(鈴木善幸内閣)、1982(昭和57)年11月27日〜1987(昭和62)年11月6日にかけて、3度中曽根内閣(第71・72・73代)を組閣し、国鉄の分割・民営化を実現する。

 

首相在任中の1983(昭和58)年1月の訪米で「ソ連に対抗するための)日本列島不沈空母化」中曾根首相はこれを一度は否定したが、その後肯定)・(当時、日本とっての最大の脅威であったソ連と交戦状態に入った場合には、自衛隊によって、宗谷、津軽、対馬の三海峡封鎖(三海峡を通らないとソ連軍は日本海へ出られない」構想を提起し、アメリカの対ソ戦略構想に日本を組み込む方針を明確にし、武器輸出三原則を放棄してアメリカへの武器技術供与の道を開き、海上交通路防衛に関する日米共同作戦研究に着手した。同時に、予算編成における防衛費の突出を認めた。また、国内政治では1983(昭和58)年3月の臨時行政調査会最終答申を受けて同年5月に行政改革大綱を決定し、政改革(行革)を最大の内政課題とした。

 

翌、1985(昭和60)年8月15日敗戦の日には、戦後初めて靖國神社を公式参拝して内外の批判を浴びた。

 

1988(昭和63)年、(財)世界平和研究所会長現在に至る。江藤・亀井派(比例代表搭載名簿終身第1位)

 

1997(平成9)年4月29日、大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)

 

2003(平成15)年10月、自民党の「終身比例1位」で衆院議員の地位を保証されていたはずなのに、総選挙直前、首相小泉純一郎から自民党公認をはずされ、「政治的テロ」と反撃したが通じず、結局引退。

 

 

「明るかった明治」「傲慢の昭和」そして「萎縮の戦後」「日露戦争であれだけ勝ったものですから、日本は非常に傲慢(ごうまん=思い上がって横柄なこと。人を見下して礼を欠くこと)になってしまった。大国意識になって、中国に21カ条の要求を突きつけた。それが中国民族の反感を買って今日の反日の原点をつくった。日本は世界的に孤立、戦争の滝つぼに落ちていった」 … 「だが、大東亜戦争の後は、こんどは萎縮(いしゅく=縮こまって小さくなること。しなびて小さくなることしてしまった。米国の占領下、隷属的進路、生活体系を移し替えられてずっと来たわけです。日米同盟にすがりついたともいえる」 =中曽根康弘の言葉(05年07月26日付『朝日新聞』)。

 

 

 

 

中曽根-靖国

 

1985年8月15日;靖国神社を参拝する中曽根首相(当時)

 

 

1985年8月9日、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(靖国懇)が「「国民や遺族の多くは総理大臣が公式参拝することを望んでいると認められる。公式参拝を実施する場合には、政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきだ」(藤波孝生官房長官の私的諮問機関の報告書)との報告書を提出。「中曽根首相は、首相としての資格で靖国神社を参拝する。憲法の政教分離原則との関係は強く留意しており、公式参拝が宗教的意義を持たないものであることを参拝方式などで明らかにする。(かしわ手を打たず、玉ぐし料でなく、供花料を公費から支出するなどの)今回の方法であれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断した。」藤波孝生官房長官談話(14日)。「戦没者に対する追悼を目的として本殿または社頭で一礼する方式で参拝することは(憲法20条の)規定に違反する疑いはないとの判断に至った」と衆院で藤波官房長官が説明(20日)、政府、公式参拝へ。

 

【85年8月9日、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書】(中曽根内閣)

 

 「津地鎮祭事件に関する最高裁判決によると、憲法20条3項の「宗教的活動」に関して、禁止されない国及びその機関による宗教的活動または宗教上の行為が存在しうることは明らか」「祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者の追悼を行うことは、祖国や世界の平和を祈念し、また、肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教・宗派、国家の別などを超えた人間的な情感ある。このような追悼を、国民の要望に即し、国及びその機関が国民を代表する立場で行うことも、当然であり」「一般に戦没者に対する追悼それ自体は、必ずしも宗教的意義を持つものとは言えないであろうし、例えば、国家、社会のために功績のあった者について、その者の遺族、関係者が行う特定の宗教上の方式による葬儀・法要等に、内閣総理大臣等閣僚が公的な資格において参列しても、社会通念上別段問題とされていない」「公式参拝する場合には、社会通念に照らし、追悼の行為としてふさわしいものであって、宗教との過度の癒着をもたらして政教分離原則に抵触することがないと認められる適切な方式を考慮すべきだ」「A級戦犯とされた人々が合祀されていることなどには問題が残る」 「政府は、以上の懇談会の意見を検討の上、閣僚の靖国神社公式参拝について適切な措置を取られたい」

 

 

 

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