2009年4月10日は、天皇・皇后ご結婚50周年

 

50年前の1959(昭和34)年の日本

 

日本の人口は、92641(男45504・女47137)千人。1人の女性が生涯に産む子供の数を示す合計特殊出生率は2.04。実質経済成長率は約9%。当時の日本は岩戸景気(1959年から1961年まで続いた大型好景気のことで、1955年から翌年にかけての景気の有史以来の好景気の神武景気を上回るところから、日本神話に登場する岩で出来た洞窟の「天の岩戸」以来という意味で名づけられたと呼ばれた好景気の真っただ中にあった。

第1次池田勇人内閣が10年間で国民所得(国民純生産から間接税を控除し補助金を加えたもの)を2倍に増やす「所得倍増計画(1961年度からの100 年間に実質国民所得を倍増する目標であったが、現実の日本経済はこれ以上の率で成長した」を打ち出したのは(60年安保闘争後の)翌1960年のことだ。

白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の「三種の神器家庭になくてはならない大切なものとの理想を込めていわれた3種の品物。1954年ごろから言われ、当時は電気洗濯機・真空掃除機・電気冷蔵庫をさした)」がもてはやされ、国民の労働意欲を誘った。

中でもテレビは、当時の庶民の憧れの的であり、豊かな生活象徴が、屋根の上のテレビアンテナであった。日本人はみな、より豊かな生活を求めて一生懸命働き、日本経済は高度に成長した。 

1955(昭和30)年当時、都市銀行の行員の給料が1カ月平均12、000円に対して、テレビは7万円(現在の金額で100万円以上)もしたため、一生一度のお買い物が当時の宣伝文句(キャッチコピー)であった。 

1957(昭和32)年当時、電気洗濯機の普及率は20%、電気冷蔵庫は3%、テレビは1%未満。その後、高度経済成長とともに急速に家庭に広がり、1970年代にはいると90%を越えた。

 

皇皇后両陛下御結婚満50年に際して会見全文(宮内庁HP)

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2009年4月8日/会見場所:宮殿 石橋の間

 

 

天皇、皇后両陛下は2009年4月10日、ご結婚50年を迎えた(陛下は75歳、皇后は74歳)。お2人はこの日、首相・両院議長・最高裁長官の「3権の長」や皇族方、賓客らのお祝いを受けたほか、皇太子ら家族と会食などをした。

これに先立ち、天皇陛下は4月8日夕、記者会見に臨んだ。会見で、「私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを誠にうれしく、深く感謝しています。ただ国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢のさなかのことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。顧みますと、私どもの結婚したころは、日本が、多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から、日本国憲法の下、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました」と語り、言葉を詰まらせる場面もあり、皇后さまについて、「本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間には、たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います」と述べた。

これに対して皇后は、「陛下は誠実で謙虚な方でいらっしゃり、また、常に寛容でいらしたことが、私がおそばで50年を過ごしてこられた何よりの支えであったと思います。…50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りましたとき、不安と心細さで心が一杯でございました。今日こうして陛下のおそばで、金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います。結婚以来、今日まで、陛下はいつもご自分の立場を深く自覚なさり、東宮(とうぐう)でいらしたころには将来の象徴として、後に天皇におなりになってからは、日本国、そして国民統合の象徴として、ご自分のあるべき姿を求めて歩んでこられました。こうしたご努力の中で、陛下は国や人々に寄せる気持ちを時と共に深められ、国の出来事や人々の喜び悲しみにお心を添わせていらしたように思います」と語った。

両陛下は1957年8月、軽井沢のテニスコートで出会い、友人たちに支えられ、約1年8カ月後に結婚した。民間(当時の日清製粉社長正田英三郎の長女。現日清製粉グループ本社会長の正田修〈英三郎の次男〉は皇后の実弟)から嫁(とつ)いだ皇后さまは常に国民の注目の的となり、ミッチーブームが社会現象となった。

 

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私のプロポーズの言葉は何かということですが、当時何回も電話で話し合いをし、ようやく承諾をしてくれたことを覚えています。プロポーズの言葉として一言で言えるようなものではなかったと思います。何回も電話で話し合いをし、私が皇太子としての務めを果たしていく上で、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました。承諾してくれたときは本当にうれしかったことを思い出します。

 

また、両陛下は繰り返し口にしてきた「国民とともに」の言葉通り、即位後15年で全47都道府県を回るなど公務にも積極的に取り組んできた。同時に、大きな災害の現場には常に出向いて被災者を励まし、福祉関係施設への訪問は通算450カ所以上に及び、親善の海外渡航にも積極的で、公式訪問した国はお二人合わせて48カ国に上る。

さらに陛下は、沖縄戦終結の日広島長崎の原爆投下の日、終戦記念日――。これらは「どうしても記憶しなければ(忘れては)ならない4つの日」として毎年黙祷(もくとう)をささげ、戦後50年と60年の節目には沖縄や広島、サイパンに慰霊の旅を続けた。

なお、2009年11月12日には、即位の礼(天皇が践祚〈せんそ=皇嗣〈こうし=天皇・天子のよつぎ。皇位継承の第一順位にある者。皇太子〉が皇位を継承すること。皇位の継承には、先帝の崩御による場合と譲位による場合との2つがある〉の後、皇位を継承したことを公に示す皇室最高の儀式。諸外国における戴冠〈たいかん=王が即位のしるしとして王室伝来の王冠を頭にのせること〉式にあたる)から20年目の節目を迎える。

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即位の礼

 

 

 

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「テニスコートの恋」「昭和のシンデレラ」

 

 「人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて15年経つ」。「幸(さき)くませ真幸(まさき)くませと人びとの声渡りゆく御幸(みゆき)の町に」=04年の歌会始(毎年1月に皇居内で行われる新年最初の歌会。一般国民の詠進歌から選ばれた和歌が、天皇・皇后・皇族の詠歌とともに披講される。現行の形式は1869〈明治2〉に始まる)のお題の「幸」の天皇陛下の御製(ぎょせい)と皇后陛下の御歌(みうた)。天皇陛下は、国民の幸せを祈りながら重ねた旅の15年を振り返られている。皇后陛下は、前年に手術を受けられた天皇陛下とともに訪れた町々で、陛下の健康と幸せを願う人々の声に迎えられる様子を、歌にされている09年04月09日付『産経新聞』−「産経抄」

 

09年4月10日、天皇・皇后は結婚50周年昭和天皇、香淳皇后に続き、2代続けての金婚式)。即位20周年(09年11月には政府主催の式典)

 

「みなさんとともに日本国憲法守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と、(終戦の時11歳だった天皇陛下は、現憲法下で即位した初の天皇となった)陛下は即位にあたってこのように宣言した。天皇は新憲法で日本国と国民統合の「象徴」と位置づけられた。しかし実際に、新たな皇室像をつくり、国民の心をつかんでいったのは、昭和天皇を支えたお2人だった。…テニスコートでの出会いとカトリックのミッション系大学出身の民間からの皇室(天皇家は神道〈しんとう・しんどう〉)入りは、新時代の象徴だった。テレビ局の開局や週刊誌の創刊ラッシュというメディアの隆盛も重なり、ミッチーブームという言葉も生まれた。天皇を神とした時代は遠い過去になった。「皇室は大衆によって敬愛されるスターの聖家族となった」(中央公論、59年4月号「大衆天皇制論」)…。戦後50、60年の節目には、そろって長崎広島沖縄東京都慰霊堂、激戦地のサイパンへと慰霊の旅を重ねた。被災地への励ましも欠かさなかった09年04月09日付『朝日新聞』−「社説」

 

天皇陛下の考える象徴天皇とは、常に国民の幸福を願い国民とともにある存在ということだろう。その役割を果たすため、骨身を惜しまれることはなかった。そして、傍らにはいつも皇后陛下の姿があった(09年04月09日付『日本経済新聞』−「社説」

 

皇后さまは初めて民間から皇太子妃となられた。宮中(きゅうちゅう=天皇の居所)の慣習だった乳人(めのと=母親の代わりに乳を飲ませて子を育てる女。うば))制をやめ、3人のお子さまをお手元で育てられた。お2人の歩みとともに、新しい時代の親しみやすい皇室像が国民の間に浸透していった。陛下は常々、最も悲しい出来事は先の大戦で多くの命が失われたことだと語られている。戦後50年の1995年には、長崎広島沖縄東京都慰霊堂へと「慰霊の旅」をされた。阪神大震災などの災害が起こるたびに現地に入られ、被災者を慰め、励まされてきた。最近の不況で国民が困難な状況にあることにも、心を痛められている。一貫しているのは、「国民と苦楽をともにする」というお考えだ。…その陛下は75歳、皇后さまは74歳になられた。皇太子さま、秋篠宮さまの次の世代の男子皇族は、秋篠宮さまの長男の悠仁(ひさひと。2006年9月6日誕生。皇位継承順位は第3位さまお1人だ。どのような皇室制度が望ましいかは、政府の今後の検討課題である09年4月09日付『読売新聞』−「社説」

 

 

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09年04月09日付『朝日新聞』−「社説」=両陛下結婚50年―時代が導く皇室のかたち

09年04月10日付『朝日新聞』−「天声人語」

09年04月09日付『読売新聞』−「社説」=ご成婚50年 「国民とともに」を貫かれて

09年10月10日付『読売新聞』−「編集手帳」

09年04月09日付『日本経済新聞』−「社説」=新しい皇室おふたりで築く

09年04月11日付『日本経済新聞』−「春秋」

09年04月10日付『毎日新聞』−「社説」=両陛下の半世紀 「象徴」のあり方求め続け

09年04月10日付『毎日新聞』−「余録」=両陛下ご結婚50年

09年04月10日付『産経新聞』−「主張」=ご結婚50年 皇室の弥栄を考える機に

09年04月09日付『産経新聞』−「産経抄」

09年04月10日付『東京新聞』−「社説」=御成婚50年 二人で築かれた平成流

09年04月11日付『東京新聞』−「筆洗」

09年04月10日付『北海道新聞』−「社説」=両陛下の50年 戦後憲法と歩み重ねて

09年04月10日付『河北新報』−「河北春秋」

09年04月11日付『西日本新聞』−「社説」=両陛下の50年 お2人の後ろにできた道

09年04月12日付『奥羽日報』−「社説」=「国民とともに」の道歩む/両陛下結婚50年

09年04月10日付『北日本新聞』−「天地人」

09年04月11日付『北国新聞』―「時鐘」

09年04月10日付『岐阜新聞』−「分水嶺」

09年04月11日付『信濃毎日新聞』−「社説」=両陛下会見 憲法への思いがにじむ

09年04月10日付『神戸新聞』−「社説」=ご結婚50年/新しい皇室の姿をめざし 

09年04月11日付『山陽新聞』−「社説」=両陛下 「象徴」を模索された50年

09年04月11日付『愛媛新聞』−「地軸」=ご結婚50年

09年04月09日付『四国新聞』−「コラム」=テニスコートに始まった

09年04月10日付『熊本日日新聞』−「社説」=両陛下金婚式 「国民と苦楽ともに」の50年

 

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09年04月09日付『朝日新聞』−「社説」=両陛下結婚50年―時代が導く皇室のかたち

 

 馬車の列の映像が、できたばかりの東京タワーから流れた。それを機にテレビの普及が進んだといわれる。

 天皇、皇后両陛下はあす、結婚50年を迎える昭和天皇、香淳皇后に続き、2代続けての金婚式)。今年はまた即位20年の節目でもある(09年11月には政府主催の式典)。同じ時代を生きてきた多くの国民が、自らの半生をこの年月に重ね合わせているに違いない。

 婚約が固まる数カ月前のことだ。皇后さまの母である故正田富美子さんは、本紙の記者にこう漏らしていた。

 「民主化が行き過ぎるということはないのでしょうか」

 戦争に負け、民主国家に生まれ変わって10年余。花嫁の母が案じていたのは、民間から皇室へ入るという日常の劇的な変化だけではなかった。

 「民主化の行き過ぎ」というオブラートにくるんだ表現で吐露したのは、皇室そのものの将来への不安だった。その直前にはイラクの王制が武力で倒されたこともあり、皇室の行く末への心配を口にしていたという。

 ■「大衆天皇制」の誕生

 天皇は新憲法で日本国と国民統合の「象徴」と位置づけられた。しかし実際に、新たな皇室像をつくり、国民の心をつかんでいったのは、昭和天皇を支えたお二人だった。

 「大衆天皇制」。政治学者の(法政大学名誉教授)松下圭一氏は、このころ一気に盛り上がった皇室への関心をこう評した。

 テニスコートでの出会いと民間からの皇室入りは、新時代の象徴だった。テレビ局の開局や週刊誌の創刊ラッシュというメディアの隆盛も重なり、ミッチーブームという言葉も生まれた。

 

注;カトリックのミッション系大学(聖心女子大学)出身者の民間人である正田美智子(当時。日清製粉社長の長女)さんと皇太子・明仁親王((当時)とが軽井沢の「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったことを契機に、1958年から翌年にかけて生まれた社会現象(人間の社会生活や社会関係から生じる、経済・道徳・法律・宗教・芸術などのすべての現象)。結婚パレードのテレビ中継を契機に、三種の神器の一つの白黒テレビが普及するなど戦後日本の経済、マスメディア、ファッションなどのあらゆる領域で、大きな影響を与えた。                           

 

 天皇を神とした時代は遠い過去になった。「皇室は大衆によって敬愛されるスターの聖家族となった」(中央公論、59年4月号「大衆天皇制論」)

 もちろん、国民から支持されたのは、何よりお二人が人々の思いに寄り添ってきた結果である。

 「みなさんとともに日本国憲法守り、これに従って責務を果たすことを誓う」 陛下は即位にあたって宣言した。

 戦後50、60年の節目には、そろって長崎広島沖縄、激戦地のサイパンへと慰霊の旅を重ねた。被災地への励ましも欠かさなかった。

 失意の時もある。皇后さまは、雑誌の心ない批判記事などが相次いだ93年に言葉が出なくなった。

 5年後、国際児童図書評議会のビデオ講演で、だれもが多くの悲しみを抱えて生きているという新美南吉〈1913〜1943。愛知の生まれの児童文学者。素朴な善意や人生の哀歓を詩情豊かに描く。他の代表的作品に「ごんぎつね」「おぢいさんのランプ」などがある)童話「でんでんむしのかなしみ」との出会いに触れた。自らの悲しみの記憶は、弱い人々への思いをより深くしたに違いない。

 平和への思いと弱者へのいたわりを、両陛下はその時々に言葉や行動で刻み続けてきた。それこそが憲法の理念を体現してきたように映る。

 ■ご一家の苦悩深く

 象徴天皇制は、右肩あがりの戦後社会とともに歩んできた。

 そしていま、皇室は新たな苦悩に覆われている。

 皇太子さまは04年、体調を崩した雅子さまについて「人格を否定するような動きがあった」と述べた。

 触れると切れそうな言葉が、雅子さまへの同情を越え、波紋を広げた。天皇陛下は「初めて聞く内容だ」と皇太子さまに国民への詳しい説明を求め、秋篠宮さまも「残念」と述べた。宮内庁長官が記者会見で、皇太子さまへの苦言を表明したこともあった。

 皇室から聞こえ始めた不協和音。驚き、戸惑う人もいるだろう。皇室の危機だと憂慮する人も少なくない。一方で「大衆天皇制」の帰結だと受け止める人もいるかもしれない。

 だが、いつの時代にも皇室は様々な課題を背負っていたはずだ。そして時代と社会の変化に合わせて、皇室もそのありようを変えてきたのではないだろうか。

 それにしても両陛下にとって、家族の問題で国民から心配されるのはどれほどつらいことか。皇太子ご夫妻も同じだろう。雅子さまの体調のことも含めて温かく見守りたい。

 未来を見据えれば、皇位をどうつないでいくのかという難問もある。

 母方だけに天皇家の血を引く女系天皇を、歴史上初めて認めるかどうか。

 

注;母が天皇であることを主な根拠として即位する天皇で、結果的に男性の女系天皇が誕生する可能性があるが、これまで即位の例はないとされている。これに対して、女性天皇(女帝)とは文字通り女性の天皇で、推古天皇・皇極天皇・斉明天皇・持統天皇・元明天皇・元正天皇・孝謙天皇・称徳天皇・明正天皇・後桜町天皇等、これまで10代8人が即位している。なお、愛子さまの子が天皇になった場合、予想としては女系天皇になると考えられる。その理由は、現在皇族方の子は非常に少なく、愛子さまの結婚相手は皇族ではない可能性が高いと思われるからである。そのため、愛子さまの子が天皇になった場合は、母が天皇であるということになるので、女系天皇になる。

 

 41年ぶりに男子皇族が誕生(悠仁=ひさひと。2006年9月6日誕生。皇位継承順位は第3位したとはいえ、いくつもの世代にわたっての皇位の安定を望むのであれば、心もとないともいえる。一方で、皇位継承の根幹を変えることへの反発も根強い。

 女系天皇を認めることは民意と時代の流れに沿ったものであり、基本的に妥当な道だろう。ただ、皇室の姿を大きく変えることも疑いない。伝統と時代の変化にどう折り合いをつけるのか。本格的な議論を始めたい。

 新しい風の行方は

 皇后さまは60歳の誕生日を迎えるに当たって、「両陛下が皇室に新風を吹き込んだのでは」との記者団からの質問に文書でこう答えている。

 「きっと、どの時代にも新しい風があり、また、どの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」

 「世紀のご成婚」から半世紀がたった。皇室への国民の支持は幅広い。しかし、皇室が岐路を迎えつつあることも事実だろう。

 これからの時代にどんな皇室のかたちがふさわしいのか。新しい風の行方を見定めるのは、主権者である私たちであることを改めて思う。

 

09年04月10日付『朝日新聞』−「天声人語」

 

新美南吉(にいみ・なんきち)の童話に「でんでんむしのかなしみ」がある。背中の殻に悲しみが詰まっているのに気づいた一匹が、もう生きていられぬと友達に相談する。ところが、みんなの殻も悲しみでいっぱいだった。

98年、インドであった国際児童図書評議会でのビデオ講演で、皇后さまがこの本に触れた。「自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終わっています」

民間出身の初のお妃(きさき)として、言葉に余るご苦労もあったろう。静かな笑みの下の悲しみは殻に納め、あるいは陛下と分かち合って歩んでこられた。「よく耐えてくれたと思います」という夫君の感慨が、50年の起伏を物語る。

あの日、馬車パレードを取材した渡辺みどりさん(74)は、間近の美智子さまに打たれた。「お顔がむき身のゆで卵のようにピカピカで、胸のあたりはピンク色をして、はじけんばかりの美しさでした」。その花嫁は何より、戦後日本の新時代を告げていた。

一番の旧家にも新風が吹き込んだ。浩宮さまをご自分の母乳で育てたのも一例だ。〈含(ふふ)む乳(ち)の真白きにごり溢(あふ)れいづ子の紅の唇生きて〉の歌が残る。平和憲法の下で皇室と大衆を近づけた、ご夫妻の功は大きい。

ピカピカ、ピンク色の日本は戻らなくても、半世紀の平和が残したものは数知れない。皇室の姿をめぐる自由な論議もその一つだろう。祈ること、継ぐこと。悠久の時が紡いだ遺産を託され、思案を重ねる家族を思う。生身の男女を思う。

 

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09年04月09日付『読売新聞』−「社説」=ご成婚50年 「国民とともに」を貫かれて

 

 天皇、皇后両陛下はあす10日、ご成婚50年を迎えられる。一般に言う金婚式である。心よりお祝いを申し上げたい。

 今年は天皇陛下が即位されてから20年の年でもある。これを記念して11月には政府主催の式典が予定されるなど、二つの節目の年に当たり、様々な催しが企画されている。

 陛下は年頭のご感想で「歳月の流れにいろいろと思いを致しております」と述べられた。皇后さまとお二人で半世紀の時を刻んでこられたことに、深い感慨がおありのことだろう。

 ご成婚は、その後の国の発展を予感させるような、列島を輝かす出来事だった。

 皇后さまは初めて民間から皇太子妃となられた。宮中の慣習だった乳人(めのと=母親の代わりに乳を飲ませて子を育てる女。うば)制をやめ、3人のお子さまをお手元で育てられた。

 お二人の歩みとともに、新しい時代の親しみやすい皇室像が国民の間に浸透していった。

 陛下は常々、最も悲しい出来事は先の大戦で多くの命が失われたことだと語られている。戦後50年の1995年には、長崎広島沖縄東京都慰霊堂へと「慰霊の旅」をされた。

 阪神大震災などの災害が起こるたびに現地に入られ、被災者を慰め、励まされてきた。最近の不況で国民が困難な状況にあることにも、心を痛められている。一貫しているのは、「国民と苦楽をともにする」というお考えだ。

 心配なのは、お二人の健康である。天皇陛下は03年に前立腺がんの全摘手術をされた。昨年末には胃と十二指腸を患われた。皇后さまも慢性のせき、胸部や背中の鈍痛などに悩まれてきた。

 陛下は75歳、皇后さまは74歳になられた。くれぐれも、お体をいたわっていただきたい。宮内庁は公務の負担を軽減する見直しを進めている。お二人の意向に沿って最善の対応をしてほしい。

 昨年末の陛下のご病状について宮内庁は「ご心労、ご心痛」があると説明した。その一つに皇位継承問題があるという。

 皇太子さま、秋篠宮さまの次の世代の男子皇族は、秋篠宮さまの長男の悠仁(ひさひと。2006年9月6日誕生。皇位継承順位は第3位さまお一人だ。どのような皇室制度が望ましいかは、政府の今後の検討課題である。

 陛下は、ご結婚について「温かみのある日々の生活により、幸せを得たばかりでなく、自分を高めたように感じています」と話されたことがある。いつまでもむつまじく、お元気で。それが多くの国民の願いだろう。

 

09年10月10日付『読売新聞』−「編集手帳」

 

〈もしもし/ベンチでささやく お二人さん〉の「若いお巡りさん(曽根史郎)」も、〈君を頼りに 私は生きる〉の「ここに幸あり(大津美子)も」昭和30年代初期の歌である。

“二人”が主題の歌はほかにもあり、孤独が基調の大衆歌謡史に異彩を放つ――とは演出家、鴨下(かもした)信一さんの指摘である。文春新書「誰も『戦後』を覚えていない。昭和30年代篇(へん)」に書いている。終戦から10年余を経て迎えた「小さな幸せ」願望の時代であったと。

あの日、列島が沸き立ったのも、恋の実りという平和あっての「小さな幸せ」に皇室と国民の心が共振したからだろう。天皇、皇后両陛下のご結婚から、きょうで50年になる。

震災があれば避難所の床に膝(ひざ)をつき、被災者の手を握っていたわりの言葉をお掛けになる。悲しむ人に寄り添い、祈ってこられた両陛下の半世紀である。お疲れもあろう。どうかご無理をなさらずに。

やはり当時の歌に、「喜びも悲しみも幾歳月(若山彰)」(映画がある。〈妻と二人で沖行く船の/無事を祈って灯(ひ)をかざす〉。思えば人の世は嵐の海、人はそれぞれに「小さな幸せ」を載せた船をこいでいる。お二人の姿にその詞が重なる。

 

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09年04月09日付『日本経済新聞』−「社説」=新しい皇室おふたりで築く

 

 天皇皇后両陛下が明日、結婚50周年を迎えられる。昭和天皇、香淳皇后に続き、2代続けての金婚式である。お祝いを申し上げる。
 両陛下は昭和から平成にかけ、いわば車の両輪となって象徴天皇制を定着させ、新しい皇室の姿を築き上げてこられた。皇室の歴史の中で、こうした例はなかろう。その長い歩みに敬意を表したい。
 終戦の時11歳だった天皇陛下は、現憲法下で即位した初の天皇である。20年前の即位の際には「皆さんとともに日本国憲法守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と国民に訴えかけられた。象徴天皇制の中で自身の役割を一心に務めるという決意の表明であった。
 天皇陛下の考える象徴天皇とは、常に国民の幸福を願い国民とともにある存在ということだろう。その役割を果たすため、骨身を惜しまれることはなかった。そして、傍らにはいつも皇后陛下の姿があった。
 被災地や福祉施設の訪問などを通じて発信し続けてきた、国民を思い国民のために祈る、というおふたりの強いメッセージは、皇室を国民にとってより身近なものにした。
 両陛下には戦没者の慰霊にも特別のお気持ちがある。2005年6月にサイパン島を訪れ、バンザイクリフで深々と頭を下げられた姿は、人々の心に焼きついている。

 

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バンザイクリフ

島の北端に2つの絶壁があり、追いつめられた日本の兵士や民間人の多くが、「天皇陛下、万歳」などと叫んで身を投げた。わが子を殺して自決した人もいた。「バンザイクリフ(Bánzai Clíff =絶壁)」、あるいは「スーサイド(suicide=自殺)クリフ」と今も呼ばれている。

 

 皇后陛下は民間から皇太子妃として皇室に入られた。以来50年、天皇陛下を支え、3人のお子様を育て上げ、さらに児童文学者、歌人としても足跡を残されてきた。こうしたことの一つ一つが、清新な皇室像を定着させるうえでどれほど貢献したか、計り知れない。
 これまでの道のりは平たんではなかった。今も天皇陛下は病を抱え、宮内庁長官は昨年末、皇位継承問題などがご心労になっている、と発言している。皇后陛下も皇太子妃時代に健康を害し、皇后になって声を失われたこともあった。
 走り続けてきた半世紀にさまざまな感慨をお持ちだろう。

 今年は即位20年の節目の年でもある。これを機に、両陛下のご負担軽減のためにも、皇室の中での公務分担のあり方などが真剣に議論されることも望みたい。

 

09年04月11日付『日本経済新聞』−「春秋」

 

人口は9300万人。1人の女性が生涯に産む子供の数を示す合計特殊出生率は2.04。実質経済成長率は約9%で、実質的な経済規模は日本のおよそ9分の1。どこの国だろう。50年前の日本である。

1959年、日本は岩戸景気と呼ばれた好景気の真っただ中にあった。池田勇人内閣が10年間で国民所得を2倍に増やす「所得倍増計画」を打ち出したのは(60年安保闘争後の)翌60年のことだ。白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の「三種の神器」がもてはやされ、国民の労働意欲を誘った。平均月給が2万円そこそこだった時代だ。

敗戦の傷跡から立ち直り、高度経済成長路線をひた走った日本。ひいては世界第二の経済大国に押し上げた原動力は何だったのか。未来への希望か、明日は今日よりきっと良くなると信じた勤勉さ、ひたむきさか。成熟社会を迎えた今の日本が忘れた熱気があったような気がする。

天皇、皇后両陛下が結婚50年を迎えられた。旧皇族、華族出身でない正田美智子さんを皇太子妃に選んだ明仁皇太子。新時代の予兆に日本中が熱狂したあのころ。両陛下の結婚50年を機に自らの半世紀を振り返り、昔を懐かしむ方も多いだろう。だが熱気はうせても成熟社会にはそれなりの価値観がある。両陛下には平成の世を永く見守っていただきたい。

 

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09年04月09日付『産経新聞』−「産経抄」

 

 2004(平成16)年の歌会始のお題は「幸」だった。「彼と手をつなげることが幸せでいつも私が先に手のばす」。成人式を迎えたばかりの大学生、松本みゆさんの歌は、やはり初々しい。「いとけなき日のマドンナの幸(さっ)ちゃんも孫三(み)たりとぞe(イー)メイル来る」。召人(めしうど)に選ばれた詩人の大岡信さんの歌は、「俵万智」風の軽さで笑いを誘った。

 「和歌にもいろいろあるな」と、聴いていた文芸評論家の竹本忠雄さんは、天皇陛下の御製(ぎょせい)と皇后陛下の御歌(みうた)が朗詠されるや、戦慄(せんりつ)が走ったという。「人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ」。「幸(さき)くませ真幸(まさき)くませと人びとの声渡りゆく御幸(みゆき)の町に」。

 天皇陛下は、国民の幸せを祈りながら重ねた旅の15年を振り返られている。皇后陛下は、前年に手術を受けられた天皇陛下とともに訪れた町々で、陛下の健康と幸せを願う人々の声に迎えられる様子を、歌にされている。竹本さんは、「幸」の意味が、両陛下と一般詠進者の作品では、本質的に違っていることに気づいた。

 一般人にとって幸とは、個人的な幸福であり、英語の「ハッピネス」に当たる。皇后陛下は、それを超えた「何物か」を詠(うた)われた。天皇陛下が表明されているのは、まさに「道徳的高みからの国民の幸福」だ、と(『祈りの御歌(みうた)』扶桑社)。すなわち、「私」のない両陛下には、個人的幸福などあり得ないということだろう。

 両陛下のご結婚50年を記念して明日、皇居で開かれる祝賀行事に、今年、金婚式を迎える夫婦101組が招かれるという。それぞれ形は違っても、幸福な人生を送っているカップルに違いない。

 この日ばかりは、両陛下の「ハッピネス」を、国民みんなでお祝いしたいものだと思う。

 

09年04月10日付『産経新聞』−「主張」=ご結婚50年 皇室の弥栄を考える機に

 

 天皇、皇后両陛下がご結婚50年を迎えられた。皇室の歴史で、在位中に50年を祝われるのは昭和天皇と香淳皇后に次いでお二組目である。心よりお慶(よろこ)び申し上げたい。

 お二人が結婚されたのは1959(昭和34)年、日本が先の大戦による荒廃から立ち直り、高度経済成長に向かうころだった。

 皇后さま、当時の皇太子妃美智子さまはそれまでの皇室の慣例を破る「民間」のご出身で、天皇陛下とは「恋愛」によるご結婚だった。しかも結婚の儀の後の馬車パレードは、普及しかけていたテレビで全国に中継された。ご結婚が国民と皇室との距離を急速に縮めたことは間違いない事実だ。

 そればかりではない。この50年間、お二人は常に国民の生活や安全に心を砕いてこられた。即位後だけでも47都道府県すべてを訪問され、阪神大震災、新潟県中越地震など大災害のたびに、被災地を訪ね、人々を励まされた。

 その一方、宮中祭祀(さいし)を中心に、皇室の伝統の継承にも熱心につとめ、国民のために祈る姿勢を貫いてこられた。

 こうしたことが、どれほど国民を勇気づけ、日本人としての誇りを持たせたか計り知れない。日本がまがりなりにも戦後の繁栄を保ち続けられたのも、両陛下の力によるところが大きい。

 両陛下のそうしたお心に応えるためにも、今度は国民の側が皇室の将来の繁栄について、真剣に考えなければならない。

 両陛下はご結婚後、皇太子さまをはじめ、3人のお子さまと4人のお孫さまに恵まれた。2006(平成18)年には、41年ぶりの男子皇族として秋篠宮家に悠仁(ひさひと)さまが誕生されている。だが若い男性の皇族が少ない現状では、皇位継承の将来に不安を残したままである。

 政府は小泉政権時代、女性天皇や女系の天皇も認める皇室典範改正案をまとめた。その後、悠仁さまの誕生もあって国会には提出されなかったが、そうでなくとも、125代にわたり続いてきた男系による皇位継承の伝統を破るものとして批判は強かった。

 伝統を守りつつ、弥栄(いやさか=ますます栄えること)をはかるには旧皇族の復帰など皇室の拡充を真剣に考えるべきだ。そのことは、過重な両陛下のご公務を軽減することにもつながる。

 政府も民間も一体となり、一刻も早くそうした検討を始めるべきだ。そのことがご結婚50年への何よりのお祝いとなるのだ。

 

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09年04月10日付『毎日新聞』−「社説」=両陛下の半世紀 「象徴」のあり方求め続け

 

 天皇、皇后両陛下が金婚の日を迎えられた。お二人がともに足跡をしるした50年は、この国が大きく変転した時代であり、皇室のあり方も絶えず注目されてきた。この慶事に自分や家族の半生を重ねて思い返す人も多いだろう。

 ご結婚の日、毎日新聞の社説は、「こぞってめでたさをよろこびあう日は、敗戦このかたはじめてではなかろうか」と列島のお祝いぶりを評した。旧時代、政府が形式を押しつけ津々浦々で同じ行事をさせた「奉祝」とは全く異なる、めいめい自由な祝福。屈託のない「ミッチーブーム」。社説は「今後の皇室のありかたについて、暗示を受ける思いをする」と将来へ目を向けている。

 戦後の「象徴天皇制」の皇室が国民の間にどう受け止められ、根差しているか。判然としない中、お二人の婚約、結婚は予想以上の好感をもって迎えられた。高度経済成長へ走り始めたころであり、テレビ普及や週刊誌創刊などメディアも広がった。そうした時代の躍動感があの華麗な馬車パレードの光景と重なる。

 民間から皇太子妃という初の出来事は新風を皇室に吹き込んだ。一方で壁もあった。今回の記者会見で陛下は「2人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います」と振り返った。

 そうした中で、慣習を改めて子供は手元で育てるなど、お二人で新たなライフスタイルをつくっていくことに時代と社会は共感した。

 その姿勢は今、よりはっきりしている。陛下は、今回の会見で「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めてこんにちに至っています」と語っている。宮中祭祀(さいし)など古い伝統文化は守る一方、後に始められた行事などは形より意義を重視したいという。例えば、学士院賞受賞者らとの茶会は、お二人が受賞者全員と懇談できるように変えた。

 日々の行事だけではなく、陛下が皇后さまと心を傾ける戦争犠牲者慰霊、大災害被災者慰問など、多くの事柄はお二人の「常に国民とともに」という考え方が貫かれている。

 すべてが平たんではない。

 ご健康問題は公務負担減などできちんと対策を講じてほしい。将来を見据えた皇位継承問題は制度上先送りできない課題だ。また、一般の家庭と同様に、考え方や価値観の違いが身近な間で出ることもあろう。

 大切なのは、そうしたことがむやみにタブー視されたり、逆に興味本位で騒がれたりせず、開かれた論議をし、温かく見守る姿勢だろう。

 

09年04月10日付『毎日新聞』−「余録」=両陛下ご結婚50年

 

 「私は今でも、1959(昭和34)年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります」。皇后陛下が5年前に述べた言葉だ。それは「あの日……」と続く。

民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に常にあったと思います」。

 

この日、お二人のパレードは、普及し始めたテレビの中継で1500万以上の人々が見つめた。日本社会がまだ見ぬ明日へむけ経済成長の坂道を一気に駆け上がろうとした時代だ。「時代の幸福」−−そんな言葉も浮かぶパレードの記憶だ。

この数年前、当時20代の皇太子だった天皇陛下は東宮参与の小泉信三に結婚相手について語ったという。「自分は生まれや環境から世間の事情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうしても人情に通じて、深い思いやりのある人に助けてもらわねばならない」。

その陛下は婚約内定の時、こんなお歌を詠んだ。「語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」。お二人の語らいが開いた窓からは、やがて親子が家族のぬくもりを共にし、国民と心通いあう新しい皇室の形が生まれた。

その後の戦没者慰霊や被災地訪問などで国民と苦楽を共にし、その幸福や平和への祈りを絶やさない両陛下の50年はご存じの通りだ。かぐわしい風の通う窓は人々の心にも開かれた。

 

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09年04月10日付『東京新聞』−「社説」=御成婚50年 二人で築かれた平成流

 

 軽井沢での運命的な出会いを経てのご結婚から50年の慶事、国民の目に映るのは象徴天皇の公務に精励される天皇、皇后両陛下のお姿だ。国民のために祈りともに歩むお二人は求道的ですらある。

 1988(平成元)年1月9日の新天皇即位後の朝見の儀での陛下のお言葉は「日本国憲法および皇室典範の定めるところにより、皇位を継承しました」だった。記者会見では「現代にふさわしい皇室」「象徴として望ましいあり方を求めていきたい」とも述べられている。

 日本国憲法は第1条で天皇を国家・国民統合の象徴とし、その地位については「日本国民の総意に基づく」と定めた。象徴天皇として皇位についた初の天皇にとってあるべき象徴天皇像の模索は憲法によって定められた宿命だった。また主権者たる国民の支持こそが天皇制の基盤ともうたう憲法は、皇室の進むべき方向が国民とともに歩く道であることを示していたともいえよう。

 1959(昭和34)年のご成婚は新しい皇室の門出を告げる歴史的イベントだった。初の民間出身の画期、清楚(せいそ)で聡明(そうめい)、気品あふれる皇太子妃は国民の祝福を独占した。美智子妃人気を軸にした開かれた皇室路線や3人の子供を手元で育てるなどの宮廷内改革、敗戦で存続の危機にあった皇室をよみがえらせる皇太子妃の功績は大きかった。

 平成に入って両陛下の公務最優先の姿勢は一段と強まり、平成流天皇スタイルも次第に形となって表れてきた。その代表例が普賢岳火砕流や阪神・淡路大震災などの被災地への見舞いと、広島長崎沖縄東京サイパンへの戦争犠牲者「慰霊の旅」だ。

 そこには「尊い犠牲は一時の行為や言葉であがなえるものではない。長い年月をかけて記憶し、心を寄せ続けていくこと」という皇太子時代と変わらぬ心が込められているのだろう。

 しかし、天皇に尊厳や神聖を求める勢力は国民に仕えるお二人のスタイルに批判的だ。それが時に皇后バッシングと失声症の原因になったとされる。

 そんななかで「私自身にとり、深い喜びをもたらしてくれたのは皇后との結婚」と語る天皇と「陛下のお側(そば)にあってすべてを善かれと祈り続ける者でありたい」と願う皇后。二人の深く固い結びつきが国民を慰め安堵(あんど)させる。

 両陛下の永(なが)らくの心労は皇統問題とされる。皇室典範論議の放置中断はもう許されない。

 

09年04月11日付『東京新聞』−「筆洗」

 

賢妻なら「山内一豊の妻」。その逆に、悪妻と言えば「ソクラテスの妻」ということに、世間ではなっている。

妻クサンチッペに関(かか)わるソクラテスの逸話はいくつかあるが、これも有名な一つ。ある時、夫に怒鳴り散らしたクサンチッペはまだ収まらず水を浴びせかけた。が、さすができた夫、いや哲人。少しも騒がず言ったとか。「雷には大雨がつきものだ」。

ソクラテスはこうも語ったという。「若者は結婚すべし。相手が良い人なら幸福になれる。もし、そうでなくても哲学者になれる」。苦労はあったにしても、どうも、悪くない取り合わせの夫婦だった気がしてならない。

フランス人は時に、料理やチーズとワインの相性を「マリアージュ」と呼んで結婚にたとえるようだが、蓋(けだ)し巧みな表現である。1+1が3にも、4にも。それぞれの味が、相俟(あいま)って一層引き立つ。それこそが結婚の妙味であろう。

きのう、天皇、皇后両陛下が結婚50年を迎えられた。全国から同じく今年、金婚式の夫婦を宮殿に招き、懇談されたようだ。それぞれの夫妻がいかなる「マリアージュ」であったかは問うまでもない。ともに歩んだ時間、半世紀という歳月が、その十分な答えである。

無論、快晴続きとはいかない。雷や雨の日もあっただろう。だが、確かなことは一つ。結局、誰も「哲学者」にはなれなかったということである。

 

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09年04月10日付『北海道新聞』−「社説」=両陛下の50年 戦後憲法と歩み重ねて

 

 天皇、皇后両陛下は結婚50年を迎えた。その日々は、象徴という日本国憲法の抽象的な天皇像が目に見える実像に結ばれていく過程だったといってよい。

 それは両陛下が「国民とともに」を実践してきたからだろう。

 代表的な言葉は、20年前、即位に当たっての「皆さんとともに日本国憲法を守り責務を果たしていく」との宣言ではないか。

 実際、公務を何よりも大切にしている。戦没者追悼式などの式典や国賓を迎えて述べる「お言葉」を、役人任せにせず自分で書く。

 奥尻島などの被災地を訪れた場面でも「らしさ」が浮かぶ。床にひざをついて被災者の嘆きに耳を傾け、激励する。皇后さまも相手の手を取り肩を抱くなど、ごく自然なスキンシップを繰り返す。

 国民はそうした一つ一つのしぐさから、同じ目線に立とうとする両陛下の意思を感じ取ってきた。

 また、戦争への反省と平和を祈る思いも明確に読み取れる。

 皇太子時代に、国民にとって記憶すべき4つの日として沖縄戦終結の6月23日、8月の広島、長崎の原爆の日と終戦の日を挙げた。

 これらの地を戦後50年、60年などに慰霊に訪れている。

 象徴としての在位期間は昭和天皇の半分に満たない。しかし国民との距離は、戦争責任論がついて回った昭和天皇よりはるかに近い。

 皇后さまは皇族でも旧華族でもない民間人から皇室に入った。

 テニスコートの出会いに始まる皇太子の恋−。「ミッチーブーム」に沸く国民は温かく見守った。

 皇族を含めて強い反対論はあったが、人気の高さが上回った。

 開かれた皇室に対しては現在も容認論だけではなく、威厳の面から異を唱える意見もある。

 とはいえ、象徴というイメージを確立したのは両陛下なのだ。開かれた皇室の実践が天皇制への支持を広げたことは否めない。

 一方には重い課題が残っている。皇位継承問題である。政府の有識者会議は女性天皇の容認を打ち出したが、秋篠宮家長男の悠仁さま誕生で立ち消えになったらしい。

 だが、問題はいずれ再燃する。皇室典範の「男系の男子」規定が続く限り、皇族妃は男の子を産まねばならない圧力に苦しむ。そんな理不尽を放置すべきではあるまい。

 即位20年の記念式典も11月に催される。ただ、両陛下は70代半ばを迎え、健康に不安もある。

 宮内庁は昨年末から公務軽減に乗り出した。いつまでもお元気で、と願う国民のため、負担は極力減らしていくことが望ましい。

 

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09年04月10日付『河北新報』−「河北春秋」

 

天皇、皇后両陛下がきょう、金婚式を迎えた。お2人の結婚は1959年4月10日。戦後の新しい皇室を象徴するカップルとして、半世紀を共に歩まれた。

結婚当日の夕刊を見た。「全国民こぞって祝福」「沿道に喜びのまなざし」「雨雲晴れて…さわやかな門出」の見出しが並ぶ。結婚パレードで、馬車の上から沿道の歓声に笑顔で応えた、若いご夫婦の写真がほほ笑ましい。
 
結婚式の模様がテレビ中継されたのに合わせ、テレビが爆発的に売れた。58年の生産台数120万台から、59年には280万台に急増した。当時、大卒男子の平均初任給は1万4000円。これに対し、14型白黒テレビは平均6万円もした。月給の4倍という高価な買い物だった。

ちょっと頑張れば手が届く家庭用品。天皇家に代々伝わる3つの宝物(鏡、剣、玉)になぞらえて、「3種の神器」と呼んだのもこのころが始まり。
お2人が結婚した50年代は、白黒テレビに洗濯機、冷蔵庫。60年代はカラーテレビ、クーラー、カー
(自家用車)の「3C」が3種の神器だった。

今の時代はさしずめ、薄型テレビにパソコン(インターネット)、DVDプレーヤーか。お2人がダイヤモンド婚(結婚60年または75年)を迎えるころは、何が3種の神器に取って代わっているかしら?

 

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09年04月11日付『西日本新聞』−「社説」=両陛下の50年 お2人の後ろにできた道

 

 天皇、皇后両陛下はきょう、結婚50年、金婚の記念日を迎えられた。今年は天皇即位20年でもある。お2人の半世紀の歩みは、道しるべのない道を行くようなものだったろう。

 「国民に親しまれ、愛される新しい皇室像」を築くには、筆舌に尽くし難い困難と苦悩があったはずだ。この日に際し、記者会見では、両陛下の間で温かいねぎらいと感謝の言葉が交わされた。

 両陛下は1957年の夏、軽井沢でテニスを通じて出会った。「テニスコートの恋」「昭和のシンデレラ」などと大々的に報じられ、59年の挙式後、皇居から東宮御所まで馬車でパレードする姿が、当時はまだ高価で広く普及してはいなかった白黒テレビで実況中継された。

 日本の高度経済成長時代初期を華やかに彩ったこの慶事も、「初の平民出身皇太子妃」をめぐって皇族間にあった異論を乗り越えてこぎ着けたものだった。

 両陛下は、現皇太子をはじめとする子育てを、それまでの皇室の伝統となっていた乳人(めのと)(乳母)任せにしなかった。自分たちの考えに基づいて育てようと覚悟を決めて臨んだ育児を含め、国民は、戦後の新しい時代を象徴する理想的な家族像と受け止めた。

 もっとも、市民にとってはごく普通の育児法であり水入らずの家族だんらんでも、旧来の皇室ではやはり「道なき道」に属することだけに、人知れぬ気苦労もあったに違いない。

 両陛下は、誕生日などの折に所感を述べられることがあるが、立場上、個人的な心情を社会に率直に吐露する機会はあまりない。

 その中で、皇后さまが1998年9月、インドのニューデリーで開かれた国際児童図書評議会(IBBY)世界大会で、ビデオ映像を通じ英語で語った基調講演「子供の本を通しての平和」は、人々の記憶に印象深く刻まれている。

 とくに、幼年期に聞かせてもらった話として触れた新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」の部分が思い出される。「ある日突然、自分の背中の殻に、かなしみが一杯つまっていること」に気付いたカタツムリの物語である。

 少し大きくなってこの話を思い出すたびに、「生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安」を感じることもあったと、皇后さまは語っている。

 この講演は、本がいかに子どもの大切な友になるかを語り、子どもと本を結ぶ仕事に携わる人々の励ましになった。同時に、背に大きな悲しみを負った「でんでん虫の忍耐心」は両陛下にとって、この半世紀を歩むうえで欠かすことのできないものでもあったろう。

 〈僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る〉−高村光太郎の詩「道程」のように、お2人の歩みの後ろに初めて「現代の皇室像」の道ができたのだった。

 

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09年04月12日付『奥羽日報』−「社説」=「国民とともに」の道歩む/両陛下結婚50年


 「テニスコートの恋」が実って結婚した1959年4月10日から満50年。天皇、皇后両陛下が金婚式を迎えられた。

 皇后さまは、旧皇族・華族出身ではない初めての民間出身の皇太子妃だった。両陛下は宮中のしきたりにとらわれず、母乳中心で子どもを育て、教育は一般家庭と同じように学校に任せた。国民の多くは、そうした姿に親近感を抱いた。

 金婚式を記念する皇居での行事には、本県の二組を含む全国の金婚夫婦が招かれ、陛下は「皆さんは戦争のさなかに育たれ、戦後は今日の日本を築くのに寄与された」とねぎらった。
 行事に先立って行われた記者会見で、陛下は結婚当時を「日本が多大な戦禍を受け、日本国憲法の下、自由と平和を大切にする国として立ち上がった時期」と振り返っている。
 敗戦直後、焼け野原になった東京を11歳で見たという陛下は「国民と苦楽をともにする」のが皇室のあり方と何度も述べている。
 これらのお言葉や皇室に新風を吹き込んだことから浮かんでくる両陛下の50年は、平和と国民の幸せを願いながら「国民とともに歩む」道を歩もうとしてきた半世紀にみえる。
 その思いは、先の戦争で亡くなった多くの人を悼んで慰霊する旅への強いこだわりから伝わってくる。戦後五十年の九五年に広島、長崎、沖縄を、戦後60年の2005年には日米の激戦地・サイパン島(米自治領)を訪れている。
 皇太子時代に沖縄慰霊の日、広島と長崎の原爆投下の日、終戦記念日を「記憶しなければならない四つの日」と話していた陛下と皇后さまは長年、当日に黙とうをささげてきたという。
 また、両陛下は、天皇に即位して1年後の1990年、三沢市で開かれた全国豊かな海づくり大会で来県された際、青森市にある養護老人ホーム「安生園」を慰問した。同じように、両陛下は即位後15年で全都道府県を回り、その先々で障害者や高齢者の施設を必ず訪れている。
 91年に長崎県で起こった雲仙・普賢岳噴火に伴う被災地訪問以来、大きな災害のたびに現地に入ってきた。こうした行動の底に、弱っていたり困っている国民に寄り添おうという思いが流れている、と宮内庁幹部は語っている。
 天皇が主権者だった戦前の大日本帝国憲法と違い、主権者は国民、天皇は象徴と定めた戦後の日本国憲法を「皆さんとともに守る」と天皇即位時に明言した陛下には、国民とともに、の意識が常にあるようだ。
 そんな思いや行動が象徴天皇としてふさわしいかどうか。東奥日報社が加盟する日本世論調査会が3月に行った全国調査によると、8割が肯定的に評価していた。国民から広く支持されていると言える。
 ただ、この調査では、20代の7割以上が皇室に関心を持っていなかった。若い人たちの皇室離れが進んでいることが分かった。
 一方で、70代半ばになり健康不安も抱える両陛下の公務負担が重い問題や、憲法が世襲と定める皇位の継承問題などもある。そうした課題をどうすればいいのか。皇室だけでなく国民も、ともに考えたい。

 

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09年04月10日付『北日本新聞』−「天地人」

 

 「皇太子さまは嬉(うれ)しそうなお顔をこちら側へ向けて、手をおふりになった。(中略)妃殿下は、ああ、なんと初々しい」−。幸田文さんの随筆「お行列」である。
 皇太子殿下と美智子妃殿下が乗った馬車のパレードに53万人の群衆が詰めかけた。「民間初の妃殿下」を見ようと結婚直前に、家庭のテレビ普及率は一気に跳ね上がり、1500万人が中継にくぎ付けになった。美智子さまが身につけられていたヘアバンドやブローチも大流行した。
 天皇、皇后両陛下がきょう結婚50年を迎えられた。心からお祝いしたい。両陛下の半世紀は開かれた皇室を目指し、国民と苦楽を共にされた日々だった。「障害者や高齢者、災害を受けた人々らに心を寄せるのは、私どもの大切な務め」と陛下は述べておられる。お二人の社会的弱者に向けられたまなざしは優しい。
 平和への思いも熱く、「慰霊の旅」として長崎や広島、沖縄、サイパンを訪ねられた。平和の礎となった多くの人々の死を心に刻み、この平和が二度と損なわれぬことを願ってのことだ。時には心労を重ねられたこともあったろう。だが常に仲むつまじく支え合ってこられた。
 ご婚約が決まった1958
(昭和33)年の陛下のお歌。「語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」。お喜びのほどが今も伝わる。両陛下の末永いご健康をお祈りしたい。

 

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09年04月10日付『岐阜新聞』−「分水嶺」

 

50年前のきょう、“ミッチーブーム”で日本国中は沸きに沸いた。社会現象にもなったこのカタカナ言葉を体感した世代も、もう熟年以上ということになる。

天皇、皇后両陛下がご結婚50年を迎えられた。“ミッチー”は皇后美智子さまの名から取られ、流行語にもなった。戦前ではありえなかったこうした呼称は、高度経済成長をひた走ってきた戦後日本社会の皇室観の一つの姿勢を示したものだろう。

この半世紀、日本は戦後復興、経済成長からバブル期、さらに現在の世界同時不況と続いている。特にその前半はミッチーブームの華やかさと重なりながら東京五輪(1964年)、大阪万博(70年)と繁栄を謳歌(おうか)していく。

その一方で、ご結婚の59年の秋には戦後最大の台風災害となった伊勢湾台風が東海地方を襲い、ほぼ1週間後に昭和天皇に代わって、ご結婚間もない皇太子さまが県内被災地を見舞われている。

この50年とそれ以前の50年は、皇室はもとより国民と皇族の関係も激変した。行事や大会などへのご出席とともに災害時のお見舞いは常となり、近年では地震災害などの被災地慰問が印象に残る。

皇室の在り方や皇位継承をめぐる論議の一方で、戦後即位のお二人は国民生活にそった皇室の一つの形を作り出してきた。ミッチーブームが新たに開いた皇室を見守りつつ歩むのも国民の務めだろうか。

 

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09年04月11日付『信濃毎日新聞』−「社説」=両陛下会見 憲法への思いがにじむ

 

 結婚50年に合わせて、天皇、皇后両陛下の記者会見が行われた。両陛下は憲法を順守する考えをあらためて示すとともに、家族を思いやる気持ちを率直に話された。“平成流”ともいえるその姿勢に、共感する国民は多いはずだ。
 「日本国憲法の象徴という規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました」。50年の歩みについて、天皇陛下はこう述べられた。
 今の天皇は、現憲法下で即位した初めての天皇だ。即位のときにも首相らを前に「皆さんとともに憲法を守り、これに従って責務を果たす」と宣言している。
 平和憲法の下、国民に理解され支えられる皇室でありたい−。陛下のそんな思いが、今回の言葉にもにじんでいる。それは国民大多数の願いでもある。
 天皇陛下は皇太子だったころから「記憶しなければならない四つの日」として、沖縄戦終結の日、広島、長崎の原爆の日、そして終戦記念日を挙げている。節目の年には広島、長崎、沖縄だけでなく、先の戦争の激戦地、サイパン島や硫黄島も訪ねている。
 平和を願い慰霊を重視するその姿勢は、昭和天皇がかかわった戦争の歴史に対する償いの気持ちからでもあるのだろう。
 会見で両陛下は、互いに「感謝状」を贈りたいと述べられた。民間から嫁いできて「たくさんの悲しいことやつらいこと」を耐えてくれた妻に対して夫から、そして、夫の日ごろの心配りに対して妻から贈る感謝状だ。
 皇室に対しさまざまな思いを抱く人たちや組織、団体に、両陛下は囲まれている。重圧は大変なものだろう。皇后さまは一時、声が出せなくなったことがある。
 そうした環境の中、金婚式を迎えたお二人が感謝状を贈り合った。これから先、平穏な日々が両陛下に続いてほしい、との思いがあらためて込み上げる。
 両陛下が心を痛めている一つに皇統の継承問題があるといわれる。皇太子ご夫妻にとっては、さらに切実な課題である。
 「伝統の問題は引き継ぐとともに、次世代に委ねていくものでしょう」。皇室の新しい在り方と伝統についての質問に、皇后さまはこう答えている。
 仮に女性天皇が容認されれば、継承問題に新しい状況が開ける。女性天皇論議は秋篠宮家に男子が生まれたことで下火になっているが、問題がなくなったわけではない。検討作業を急ぎたい。

 

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09年04月10日付『神戸新聞』−「社説」=ご結婚50年/新しい皇室の姿をめざし 

 

 天皇、皇后両陛下はきょう、結婚50周年を迎えられた。長い歩みを思い、心からお祝いを申し上げたい。

 あの日、「結婚の儀」を終えた盛装姿のお二人を見ようと、馬車パレードの沿道は人波で埋まった。直接目にしなくても、テレビに映った華やかな行進を記憶している人は多いに違いない。

 当時、マイカーはもちろん、テレビもあまり普及していない。日本が敗戦の傷を残しながらも、本格的な経済復興に向かいつつあった時期である。初めての民間出身の皇太子妃誕生に、国民は新しい風を感じて沸いた。馬車パレードは、戦後史の中でも印象に残るシーンだった。

 慣習にとらわれない姿勢は、結婚後も続く。翌年に誕生した長男浩宮(現皇太子)さまを、一般家庭と同じように手元で育てたことにも信念がうかがえた。

 それが、皇室と国民の間にあった距離を縮めたことは確かである。

 20年前、象徴天皇を規定する現憲法下で、最初の天皇として即位した。その後も「国民とともに」の考えは変わらない。

 その姿から、国民も両陛下の胸にあるものを感じ取ってきた。なにより平和への強い願いだ。広島、長崎の原爆の日と終戦記念日、沖縄戦終結の日は「記憶しなければならない四つの日」として、戦後50年の節目には「慰霊の旅」を行った。

 弱い立場の人に向けた視線も印象深い。お年寄りやハンディをもつ人々に声をかけ、阪神・淡路大震災のような災害が起きると現地に足を運んで被災者を励ました。

 外国との親善などを含め、常にそばには皇后さまの姿があった。二人三脚で新たな皇室像をめざす日々だったといえる。

 そんな陛下の体調不良が、最近になって明らかになった。原因として、心身のストレスがあると伝えられる。陛下が皇位継承や皇室の現状を気にかけているという宮内庁長官の所見も示された。

 昨年2月には、皇太子ご一家が両陛下を訪ねる機会が増えていないことに、長官が「苦言」を呈したこともある。異例ともいえる動きに、国民は戸惑うしかない。

 この半世紀で一段と国民に開かれた存在になった皇室が、いま新たにあり方を問われていることは確かだろう。

 陛下は今年初め、結婚50年に触れて「皇后とともに、これからも、国と国民のために尽くしていきたい」と記した。お元気で、その思いを実践されることを願う。

 

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09年04月11日付『山陽新聞』−「社説」=両陛下 「象徴」を模索された50年

 

 天皇、皇后両陛下が結婚から50周年を迎えられた。今年は天皇即位20年の節目の年でもある。多くの人がそれぞれの歩んできた人生を重ね合わせているのではないか。
 結婚された1959年は、日本が敗戦からの復興を果たし、高度経済成長に向かう時期だった。初の民間からの皇太子妃に、国民は親しみを込めてニックネームで「ミッチー」と呼び、大きなブームになった。
 宮中の慣習にとらわれず、一般家庭と同じように子どもを手元で育てた。新しい皇室の姿に新鮮さと親近感を覚えた人は多いだろう。
 象徴天皇制の下で初めて即位した天皇陛下は、結婚50周年に際しての記者会見で「象徴とはどうあるべきかということはいつも念頭を離れず、望ましい在り方を求めて今日に至っています」と述べた。
 皇太子時代から、お二人で全国の障害者や高齢者らの施設訪問を重ねた。大きな災害が起きると、現地に赴き被災者たちを励ました。弱者に向ける温かいまなざしが感じられた。
 先の大戦に対する思いも深く、沖縄や広島、長崎などを歴訪した。これらは象徴天皇として「国民とともに歩む皇室」を模索する行動といわれる。
 特に印象深いのは、被災地の訪問である。避難所で床にひざをついて被災者の手を握って激励する姿が話題になった。当初は「陛下がひざまずくなんて」との批判もあったが、「国民とともに」という強い意思の表れといえよう。
 皇位継承問題が検討課題となる中、お二人はともに70代の中盤を迎えた。健康不安が取りざたされる。健やかに暮らしていただくために、宮内庁は公務の負担軽減に向け適切に対応してもらいたい。

 

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09年04月11日付『北国新聞』―「時鐘」

 

お互いに「感謝状」を贈りたいと述べられた天皇、皇后両陛下の会見は、50年前のご成婚を知る世代のひとりとして心打たれた。昭和から平成につながる、日本の変化と自分たちの戦後を重ねた年配者も少なくなかったろう

1985(昭和60)年、北陸を訪問された両陛下を取材する機会があった。ある街で歓迎の人垣が崩れ、あっという間に両陛下が町民に取り囲まれることになった。お二人が満面の笑みで一人一人にうなずかれていた姿を、驚きとともに覚えている

それ以前、警備の不手際から沖縄のひめゆりの塔前で火炎瓶を投げられた事件があった。警備陣も思わぬ歓迎に焦ったろうが、国民とともにある皇室の象徴的な光景だった。慰霊の旅でサイパンの海に頭を垂れる両陛下の姿とともに思い出す

皇室の未来が重く両陛下にのしかかっている現実を察しないわけにはいかないが、「皇室は祈りである」との言葉通り、半世紀のご努力と行動の中に次代への答えはあり、そう案ずることはないと思うのである

両陛下のご健康を祈り、茶会に招かれた100組の夫婦の喜びと感慨をともにしたい。

 

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09年04月11日付『愛媛新聞』−「地軸」=ご結婚50年

 

 きのう朝、散りゆく線路脇の桜の下を歩く老夫婦を見かけた。ゆったりした足どり。そろいの白い帽子に、握り合った手。二人の歳月を凝縮していた。

 「平和な仲のよい夫婦ほどお互いにむずかしい努力をし合っている」。漱石門下の小説家、野上弥生子の言葉は、夫婦道の奥深さを言い当てている。しかも、要する努力はともに重ねた時間に比例する。常に注目され、伝統と新時代の調和に腐心する身ならなおさら。

 世紀のロマンスで両陛下が結婚されてきのうで50年。「不安と心細さで心がいっぱいでした」。当時を皇后さまがそう振り返れば、天皇陛下も「たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれた」。心中には同じ場面が去来していようか。

 被災地で避難者に耳を傾け、広島や長崎、沖縄、サイパンを慰霊で訪ねた。その姿は親しみを呼び「国民とともに歩む」「開かれた皇室」を実感させた。皇位継承や皇太子家との関係が議論になり、ときに心労を招いたが、これも開かれた証しにちがいない。

 銀婚の折、皇后さまを「努力賞」とたたえた陛下。今度は互いに感謝状を贈りたいと一致した。生きる世界はちがっても、円満の秘訣(ひけつ)は普遍なのかもしれない。そんなところも親しみを呼ぶ▲
 夫婦道の後方を歩む人々に実践で示す。両陛下がはぐくんだ平成の皇室像の一つだろう。

 

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09年04月09日付『四国新聞』−「コラム」=テニスコートに始まった

 

 先月、74歳の皇后さまが左ひざの靱(じん)帯を損傷された。全治数カ月から半年との診断結果に心配しつつ、原因を聞いてほおを緩めた人もいたのではないだろうか。けがをしたのは、あのテニスの最中だった。

 誰と試合をしていたのかは伝えられていないが、1歳上の天皇陛下もご一緒に楽しまれていたであろうことは想像がつく。軽井沢のテニスコートで生まれた愛は、今なおはぐくまれているのだろう。そのお二人は明日、ご成婚から50年を迎えられる。 当時、日本中が沸き立った。初の民間からのお嫁入り。空前のミッチーブーム。パレード見物に50万人が繰り出し、テレビが200万台しかないのに、中継を見た人は全国で1500万人いたという。
 県内でも、体育館のテレビに黒山の人だかりができ、どこの商店街も記念セールで大にぎわいだった。長嶋茂雄さんが天覧ホームランを打ち、南極から生還したタロとジロに胸を打たれた年の話だ。
 ご成婚を祝うように日本は高度成長期に入り、世界第2の経済大国になっていく。テニスと聞いてほおが緩むとすれば、今も変わらぬ仲の良さが浮かんだからだけでなく、上向きだった日本とあのころの自分を思い出すせいもあるだろう。
 半世紀後、テレビは一家に何台もある時代になったものの、景気は見る影もないほど下向いている。人々の顔も曇りがちだ。お二人が早くテニスコートに復帰できるよう願うとともに、日本が元気に走り回る日が早く戻ってくるよう願う。

 

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09年04月10日付『熊本日日新聞』−「社説」=両陛下金婚式 「国民と苦楽ともに」の50年

 天皇、皇后両陛下はきょう10日、結婚50周年を迎えられた。「国民とともに」の思いで歩んできたお二人の金婚式である。
 「テニスコートの恋」が実って両陛下が結婚した1959
(昭和34)年4月10日、お二人を乗せたきらびやかな馬車パレードはテレビ中継され、敗戦からの復興を成し遂げつつあった国民は皇室に吹き込む新風を感じ取り熱狂した。当時のテレビはカラーではなく白黒の画面だった。そのことが、50年の長い歳月を感じさせる。
 皇太子妃となった美智子さまがそれまでの旧皇族、華族ではなく民間出身だったこともあり、人々は「ミッチーブーム」に沸いた。
 二男一女に恵まれた両陛下が望まれたのは、できる限り一般家庭に近い環境での子育てだった。戦前までの天皇家は親子別居だったが、お二人は子どもたちと同居し、乳母に任せる「乳人[めのと]制度」も廃止して美智子さまの母乳で育てた。
 平成時代に入り、天皇、皇后両陛下となってから、雲仙・普賢岳噴火や阪神大震災、新潟県中越地震などの被災地を頻繁に見舞い、避難所の冷たい床にひざまずき、被災者たちに手を差し伸べてこられた。また、敬老の日にちなんで毎年のように高齢者施設を訪問されている。
 こうした振る舞いは、常に「国民と苦楽を共にし、国民の幸福を願うことが皇室の務め」というお二人の信条を体現したものと言える。庶民との触れ合いを大切にする両陛下の姿勢を、国民の80%以上が評価しているのもうなずける。
 さらに、平和祈念もお二人の大切な仕事である。両陛下は皇太子時代から「お慎みの日」として終戦記念日、広島、長崎の原爆の日、沖縄戦終結の日に家族そろって黙とうをして戦争犠牲者に心を寄せてこられた。昭和天皇が深くかかわった戦争への償いの気持ちからである。
 沖縄国際海洋博が開かれた75年夏、お二人は昭和天皇が戦後の全国巡行で果たせなかった沖縄訪問を実現。この時は、両陛下がひめゆりの塔に祈りをささげた直後、過激派に火炎瓶を投げつけられたように危険を冒しての訪問でもあった。
 お二人はこれまで8回も沖縄に足を運ばれている。天皇となってからは、異論もある中、歴代天皇として初めて中国を訪問したほか、戦争の傷跡が残るサイパン島、硫黄島を訪れた。
 両陛下は10日の結婚50年を前に記者会見。贈る言葉を問われると、お二人とも「感謝状を」と互いに頭を下げ笑みを交わされた。「たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれた」
(陛下)、「50年の道のりは長く、時に険しくございましたが、陛下が日々真摯[しんし]に取るべき道を求め、指し示してくださいましたので今日までご一緒に歩いてくることができました」(皇后さま)と労をねぎらい、感謝の言葉を述べられた。
 不安定な皇位継承の問題や健康不安など両陛下の歩く道は決して平たんではないだろうが、お二人の過ぎし50年は充実したものだったと思う。国民を見守られながら、穏やかな日々が続くことを祈りたい。

 

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