二宮 敬作

1804〜1862
江戸末期の蘭方(らんぽう=江戸時代、オランダから伝わった医術・薬学)医。
1804(文化元)年5月10日、伊予国(現愛媛県)磯崎浦(現八幡浜市保内町磯崎〈いさき〉)に生まれる。号は如山(じょざん)。

生家跡

1819(文政2)年16歳の時、長崎に渡り苦学すること3年、オランダ商館付医官のドイツ人医師博・物学者P・F・B・シーボルト(オランダ東インド会社の日本駐在員)の鳴瀧塾(なるたきじゅく=1824年に、シーボルトが長崎郊外に設けた木造2階建ての私塾で、診療所も兼ねていた。庭にはシーボルトが日本各地で採取した薬草類が栽培された。同門に、高野長英や江戸の3大蘭方医といわれ幕府の奥医師〈おくいし=江戸幕府の職名。将軍や奥向きの人々の診療にあたった医者。「奥医」ともいう〉となる伊東玄朴〈いとう げんぼく。官医界における蘭方の地位を確立〉や戸塚静海〈とつか せいかい〉らがいた)入門し、蘭語や欄方医学(オランダ医学)を学び、門下生中最も信頼されていた。
以後、つねにシーボルトの身辺にいて調査・翻訳にあたり、1826(文政9)年オランダ商館長江戸参府にも随行、同年、シーボルトの指示で気圧計を用い、富士山の高さの測定をする。日本で西洋式の高度測量を試みたのは、彼が初めてである。また、敬作が採取した植物にシーボルトは「ケイサキイ(九州の高山に自生する土佐ミズキ〈5月ごろ、白い小花を散房状に密生してつけ、黒い実を結ぶ〉属の一種。詳細はシーボルトの著「日本植物誌」)」と命名している。
1828(文政11)年のシーボルト事件に連座した。
シーボルト事件とは、シーボルトが帰国する際、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。ところが、シーボルトがオランダへ持ち帰ろうとした荷物のうちに、伊能忠敬(いのうただたか)作成の日本地図など多くの禁制品(国禁)のあることが発覚した事件のことである。
江戸と長崎で行われて幕府の取調べは長引き、シーボルトはおよそ1年間出島(でじま=鎖国時代唯一の貿易地。1634〈寛永11〉年に江戸幕府が長崎商人に命じて長崎港内に築かせた4000坪ほどの扇形の小島。初めポルトガル人を住まわせ、のち平戸のオランダ商館を移転させた。明治初年に埋め立てられ、現在は長崎市の市街地の一部になっている。なお、当時遊女のほか女性は出島へ入ることができなかった)に拘禁され、1829年9月25日(陽暦10月22日)「日本御構(おかまえ)」(追放)の判決を受け、同年12月日本より追放された。このおり敬作は、同門の阿波(徳島)出身の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装し小舟に乗って旅行くシーボルトを見送った。
この事件に日本人も連座し、江戸では書物奉行(しょもつぶぎょう=江戸時代若年寄に属し、徳川将軍の文庫である紅葉山文庫〈もみじやまぶんこ=蔵書の大部分は現在国立公文書館内閣文庫に所蔵〉の図書の保管・出納や写本の作成などをつかさどった)兼天文方(てんもんがた=江戸時代若年寄に属し、天文・暦術・地誌・測量・洋書翻訳などを担当した)高橋作左衛門景保(かげやす)が入牢(にゅうろう)や奥医師の土生玄碩(はぶげんせき)が家禄(かろく=主君がその家臣である武士に与えた俸禄。家について支給され、江戸時代には世襲化していた。高禄の者は領地を、普通の武士は米穀が支給された)・屋敷没収された。
また、長崎では門人の敬作や高良斎のほか、出島絵師川原登与助(とよすけ)はじめ、通詞(つうじ=通訳。江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官)の馬場為八郎から召使いに至るまで50数人が処罰された。
敬作は、半年の入獄の後、富士山の測量もわざわいして江戸を追われ(江戸立ち入り禁止)、長崎からも追放されたため、1830(天保1)年宇和郡卯之町(うのまち=現・西予市宇和町)に帰郷、喜多(きた)郡上須戒(かみすがい)村(現大洲市)で開業する。
1833(天保4)年、宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり。1818〜1892。伊予・宇和島藩主として、薩摩の島津久光・土佐の山内豊信〈とよしげ=容堂〉らと公武合体〈江戸末期、朝廷と幕府とが一致して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。大老井伊直弼[いいなおすけ]の死後、老中安藤信正らが主張、和宮[かずのみや]降嫁[こうか]が実現したが、のち、戊辰[ぼしん]戦争で討幕派に圧倒された〉を推進。維新後は民部卿兼大蔵卿、清国への欽差〈きんさ=勅命によってつかわすこと〉全権大使などを歴任した)の命により卯之町で開業し、のちに宇和島藩医となり、種痘の普及に尽力、情にあつく、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖(いせい=大変すぐれた医者。迷信や呪術を排して臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いた古代ギリシアの医師ヒポクラテスに代表される聖人として崇拝されるほどの名医)」として慕われた。
幕府の外国との接し方を批判した書物を書いて幕府から追われた蘭学者・高野長英(1804〜1850。陸奥〈むつ〉国水沢〈現岩手県奥州市水沢【旧二戸市】附近〉の人。名は譲〈ゆずる〉、のち長英。号は瑞皐〈ずいこう〉。長崎でシーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織、開港論を唱えて投獄されたが脱走。沢三伯と称して江戸に潜入、医療・訳述に専念したが、幕吏に襲われて自決した。著「夢物語」ほか、蘭書の翻訳も多い)をかくまい、村田蔵六(のちの大村益次郎〈ますじろう〉=明治政府の兵部〈1872【明治5】年に陸軍省・海軍省となる〉大輔〈だいふ=次官〉として近代兵制確立した)とも交流があった。

宇和町
シーボルトが日本を去る際に、2歳8ケ月の娘楠本イネ(愛称は「おらんだおイネ」。戸籍の名は「イ子」。「楠本」は母・楠本瀧の姓。瀧は出島に出入りしていた遊女・其扇〈そのぎ〉。シーボルトは、彼女を「おたくさん」と呼んで寵愛した)の養育を託されていた敬作は、1840(天保11)年には、14歳のイネを長崎から宇和町に呼び寄せ、オランダ語・西洋医学を教え、女医としての能力を授けた。日本最初の女医の誕生である。
敬作はイネに産科を学ばせるため19歳のとき備前(岡山)で産科を開業していたシーボルト時代の同門石井宗賢〈そうけん〉のもとに派遣、イネは産科学を学んで長崎に帰り、宗賢との子「たか(高子)」も出産した。
宗賢との件を激怒した敬作は、1854(安政元)年、宇和島藩の軍艦建造調査団とともに長崎を再訪、イネを再び宇和町に招き、その地で開業させた。
敬作は、1855(安政2)年1月17日宇和島藩より御徒(おかち=主君の外出時、徒歩で身辺警護を務めた下級武士)格に列せられる。
1856(安政3)年3月イネを同道し、3度(みたび)長崎に赴く。
1857(安政4)年54歳の時に再び長崎に出て開業。
1858(安政5)年の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消されたシーボルトは翌年30年ぶりに再来日(渡来)、敬作の計らいで、滝、イネ親子と感激の対面を果す。また、娘イネに西洋医学を教える。
イネは、宇和島時代に長州(現山口県)を逃れて滞在していて長州藩の医者の村田蔵六(後の大村益次郎。明治政府の兵部大輔として近代兵制確立した)から蘭語を学び、彼が襲撃された後、治療、その最期を看取った。
敬作は、その後、故郷へ帰ることなく、長崎で中風を患い、シーボルトが長崎を去った日の1862(文久2)年3月12日に病没する。享年59歳。葬儀では、当時の錦織幹長崎市長が格調高い祭文を読んだ。
死後、正五位(せいごい=位階の5番目。正五位と従五位とがある)を贈られている。
墓所は楠本瀧 楠本イネの墓もある長崎の町と港が一望できる高台に位置する長崎市晧臺寺(こたいじ)。墓碑はイネが建てたものである。
ちなみに敬作の甥(おい)でその門人であった三瀬周三(大阪医学校〈現大阪大学医学部〉教授)はイネの娘(シーボルトの孫にあたる楠本たか〈高子〉。イネは、終生独身を通した)婿。
1991(平成3)年3月、八幡浜市保内町磯崎(いさき)の国道沿線の生家跡を望む近くの高台に「二宮敬作記念公園」が完成し、銅像が建てられ、同じ保内町出身の横綱前田山栄五郎の銅像か建てられた1992(平成4)年11月13日は、二宮敬作生誕200年祭が、保内町や宇和町で行われた。





参考文献
長井音次郎『愛媛県先哲偉人叢書第2巻二宮敬作・三瀬諸淵』 愛媛県教育会 1934年
二宮敬作傳 / 長井音次郎著. -- 大政翼賛会愛媛県支部--愛媛先賢叢書;3 1931年
呉秀三『シーボルト先生その生涯及び功業』平凡社(東洋文庫117)1968年
ヴェルナー・シーボルト著;酒井幸子訳『シーボルト、波瀾の生涯』どうぶつ社 2006年
シーボルト 石山禎一・ 牧幸一訳『シーボルト日記−再来日時の幕末見聞記』 八坂書房 2005年
板沢武雄『シーボルト』 吉川弘文館 1960年
影山昇『伊予の蘭学』 青葉図書 1975年
二宮直一『二宮敬作とその周辺』 保内町教育委員会 1982年
影山昇『愛媛県の教育史』 思文閣出版 1983年
三好綾子『文化の里 二宮敬作の研究』 三好綾子 1983年
愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第13巻 二宮敬作・三瀬諸淵・矢野玄道』 愛媛県教育会 1986年
宇和郷土文化保存会人物伝編纂委員会『宇和の人物伝』 宇和町教育委員会・宇和郷土文化保存会 1993年
宇和島市医師会医学史編集委員会『宇和島藩医学史』 宇和島市医師会 1998年
『県民メモリアルホール人物探訪 第3集』 愛媛県生涯学習センター 1999年