川上音二郎一座 「オッペケペー」

川上音二郎(おとじろう)=1864(文久4)年〜1911(明治44)年=
|
1864(文久4)年1月1日、筑前(ちくぜん=福岡県) 博多中対馬小路(現:福岡市博多区対馬小路)の大きな藍問屋に生まれる。本名は音吉。落語家桂文之助に入門、明治20年代に自由民権運動をからませた「陣羽織」(じんばおり=近世、武士が陣中で、当世具足〔とうせいぐそく=槍や飛び道具から身を守るため、従来の胴丸を鉄板製とし、全身を覆うための籠手【こて】・脛【すね】当てなどの小具足を付加したもの〕の上に着用した上着)を着てハチマキを締め、日の丸の軍扇(げんせん=武将が陣中で指揮に用いた扇)をもって、はかまをはいた」出で立ち(身ごしらえ)で唄った「オッペケペー節」で一世を風靡(ふうび=風が草木をなびかせるように、広い範囲にわたってなびき従わせること)した(主義主張を歌詞にした街頭での演説調の歌い方から「演歌」といわれた。演歌は後年、演歌は政治色が薄くなり、悲恋・心中の人情歌をバイオリン・アコーディオンなどに合わせて歌う遊芸になり、「艶歌」とも書かれるようになった)。 中江兆民のアドバイスから1891(明治24)年書生芝居を旗揚げし、「日清(にっしん)戦争」などで当たりをとり新派の基礎を築いた後、才女の誉れが高く、美貌で諸芸に優れ伊藤博文や西園寺公望などの明治の元勲(げんくん=明治維新に大功のあった西郷隆盛・木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通、明治政府の中枢となった伊藤博文・山県有朋らをいう)の贔屓(ひいき)を受けていた東京・日本橋葭町(よしちょう)の美人芸者貞奴(さだやっこ)と結婚。 1896(明治29)年に東京・神田に川上座を創設したが、衆議院議員選挙立候補して落選、選挙資金返済のため川上座を売却せざるをえなくなった。 他方、貞奴らと欧米を巡業し1900(明治33)年にはパリ万博でオッペケペ節を披露し、大好評を博した。 帰国後、正劇(せいげき=オセロ」上演に際してこの芝居に冠した呼称で、西欧のドラマの意味。1906年の「祖国」上演までこの名称が用いられた)運動と銘打って興行形態を改革し、『オセロ』『ハムレット』などを上演するなどして興行師として成功するが、病気のため大阪で没した。享年47歳。 なお、貞奴の邸宅を移築した資料館「文化のみち二葉館」が2005(平成17)年2月8日、名古屋市東区にオープンした。建物は、色鮮やかなステンドグラスが目を引く和洋折衷の2階建てで、木曽川の電源開発で「電力王」と呼ばれた福沢桃介と貞奴が同居していた東区の邸宅を、市が所有者から譲り受けて、移築・復元した。 |

記念切手=1999年―川上音次郎・貞奴
東芝EMI¥2,548(1997年)

井上正夫作(愛媛県砥部町・真砂屋本店内の井上正夫記念館)
ままにならぬは 浮世のならい 飯(まま)になるのは米ばかり
ア オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー
不景気極まる今日に 細民(さいみん=下層の人々。貧しい人々)困窮かえりみず
目(ま)深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計
権門(けんもん=位が高く権勢のある家柄き)貴顕(きけん=身分が高く、名声があること)に膝を曲げ 芸者幇間(たいこ=宴席などで遊客の機嫌をとり、滑稽な動作・言葉によって座をにぎやかにすることを職業とする男。ほうかん)に金を撒き
内には倉に米を積み ただし冥土(めいど=死者の霊魂が行く暗黒の世界)のお土産か
地獄で閤魔(えんま)に面会し 賄賂(わいろ)使うて極楽へ
行けるかえ 行けないよ
オッペケペー オッペケペッポー ペッポツボーィ
親が貧すりや緞子(どんす=経〔たて〕繻子(しゆす)の地にその裏組織の緯〔よこ」繻子で文様を表した光沢のある絹織物)の布団 敷いて娘は玉の輿(こし)
「オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー
「娘の肩掛け立派だが 父つァん毛布(ケット)を首に巻き
どちらもお客を乗せたがる 帰り車は駆け引きだ
本当に転覆(かえ)しちゃ危ないよ オヤいけないね
オッペケペー オツペケペッポー ペッポッポーィ
![]()