(かんば)美智子

 

美智子さんの遺影

 

1937(昭和12)年11月8日〜1960(昭和35)年6月15日

 

東京生まれの戦後の学生運動家。

 

1957(昭和32)年東大文科入学。同大文学部学友会副委員長として安保闘争をリードする。

 

1960(昭和35)年全学連全日本学生自治会総連合の略称。1943【昭和23】年9月,全国の145大学の自治会によって全国の大学の学生自治会の連合機関として結成され,1960年まで学生運動の中心的存在として日本の反体制運動や革新運動の一翼を担った。しかし,60年安保闘争以降は,分裂に分裂を重ね,今日まで複数の全学連組織に分解,急速に力を失っていったの安保反対国会デモで国会南通用門にて警官隊と激突し死亡する。享年22歳。

 

遺稿集に『人しれず微笑まん』がある。父親は,樺俊雄中央大学教授。

 

「一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば」

歌人、土屋文明(つちやぶんめい=1890〜1990。群馬の生まれ。伊藤左千夫に師事。処女歌集「ふゆくさ」で認められ、「アララギ」の中心歌人として活躍。文化勲章受章。歌集「山下水」「自流泉」、研究書「万葉集私注」など氏が、樺さんの死を悼んで詠んだ歌。

 

 

1960年6月15日,安保条約反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突人,警官隊と激しく衝突し,東京大学文学部国史学科の学生樺(かんば)美智子さん(22)が警宮隊との衝突のなかで虐殺された。

 

 この日の午前中,総評・中立系労組111組合580万入が参加した第2波実力行使が行われたが,大きな混乱はおこらなかった。

 

 事態は,タ方になって急展開した。午後5時20分ごろであった。参議院第2通用門付近にいた全学連反主流派と労組,新劇人などのデモ隊に対して,右翼の児玉誉士夫(こだまよしお。1911〜1984。福島県生まれの昭和時代の右翼運動家。天皇直訴事件で入獄後,外務省や参謀本部の嘱託として中国で暗躍,1941【昭和16】年上海でいわゆる『児玉機関』を組織し,重につくり軍事物資を調達した。敗戦後の1945【昭和20】年A級戦犯に指名される。釈放後は『児玉資金』をバックに政財界の黒幕になり,保守政権に深く食い込む。1976【昭和51】年ロッキード事件に連座,脱税容疑で起訴され,1981【昭和56】年には懲役3年6月の求刑を受けたが,病気のため判決は無期延期となり,1984【昭和59】年1月17日死去【公訴棄却】。享年72歳)率いる維新行動隊が突人した。

 

 右翼の行動隊は女性参加者の多いデモ隊をねらって襲いかかった。信じられないことであるが,警官隊は右翼の行動を放任した。右翼は警官隊の目の前で,女優たちに暴行の限りを尽くしたのである。

 

一方,この日約8,000人を動員して国会へのデモを行っていた全学連主流派は,右翼による暴行事件発生の知らせを国会南通用門付近で聞き激怒,5時50分,国会への突入を開始した。

 

 警備に当たっていた警官隊は放水車2台で学生に応戦し,約20分に及ぶ攻防戦の結果,一度は学生を構外に押し出したが,再び衝突がおこり,7時10分,約4,000人が国会内に再突人した。この衝突の中で樺さんが殺されたのである。学生は国会の中庭を占拠し,警察に対する抗議集会を開くなど気勢を上げた。

 

 午後10時7分,実力排除を開始した警官隊は,逃げる学生を後ろから警棒で乱打し,10分ほどで全員を外に押し出した。降りしきる雨で足をとられる負傷者を手当たりしだいに捕まえ,救急車で応急手当をしたのち,護送車に送って逮捕していった。

 

 門外へ押し出されたデモ隊には再突入の力はもはやなく,ただ国会を取り囲むのみだった。ところが16日末明,警官隊はさらに催涙弾を発射し,警棒を持ってこれらの人々に襲いかかったのである。

 

美智子さんが死亡したのは午後7時10分から15分ごろと推定される。

 

家族の希望で解剖を行った医師は,「眼にひどいうっ血があった。これは首を強くしめつけられたため。ひどいすい臓出血は上から踏みつけられたもの」と,警官隊の暴行による死亡を示唆した。

 

あんぽ3

 

強行採決の日(1960年6月15日)の国会前で対峙(じ)する左警察,右デモ隊

 

「警官隊によっていま,…首をつかまれております。いま実況放送中でありますが,警官隊が私の顔を殴りました」という,ラジオ関東(現ラジオ日本)島碩弥(ひろや)アナウンサーの叫びによって生々しく伝えられる。

 

一連の衝突で死者1人,負傷者は重傷者43人を含め589人にのぼり,また逮捕者は182人を数えた。

 

 

安保6

 

安保10

 

1960年6月18日,東京・日比谷公園野外音楽堂での追悼抗議集会には5,000人の学生が集まった

 

あんぽ4

 

1960年6月23日,慰霊祭で挨拶する美智子さんの父親,樺俊雄中央大学教授

 

 

墓碑は多磨霊園

 

 

美智子 墓誌

 

「最後に」(1956【昭和31】年 美智子作)

 

誰かが私を笑っている 向うでも こっちでも 私をあざ笑っている

 

でもかまわないさ 私は自分の道を行く 笑っている連中もやはり

 

各々の道を行くだろう よく云うじゃないか 「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と

 

でも私は いつまでも笑わないだろう いつまでも笑えないだろう それでいいのだ

 

ただ許されるものなら 最後に 人知れずほほえみたいものだ

 

いくらかの熱を帯びて顧みる日が、各世代にある。60代半ばから上には1960(昭和35)年6月15日もその一つだろう。半世紀前のきょう、日米安保条約の改定に反対する学生デモが国会構内に突入、警官隊との衝突で22歳の東大生樺(かんば)美智子さんが死んだ▼控えめだが芯のある女性だったという。全学連の活動家として、読書と集会に明け暮れる日々。そろそろ卒論を、と話していたそうだ。死に顔はほほえんでいるようだったと、肉親の手記にある▼新条約は成り、岸首相は退いた。続く池田内閣は所得倍増を掲げ、戦後は経済の季節へと移る。『樺美智子 聖少女伝説(文芸春秋)を著した江刺昭子氏は、日本人の意識や生活は、皇太子妃と樺さんの「二人の美智子」から変わったと見る。一人は命を捨てて重い扉を開いたと▼雨上がりの午後、彼女が眠る多磨霊園を訪れた。墓碑に刻まれた高校時代の詩「最後に」は、こう結ばれる。〈でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないだろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえみたいものだ〉▼学生運動は全共闘(全学共闘会議」の略。1968〜69年の大学紛争の際、既成の学生自治会組織とは別に、無党派学生らが各大学で結集してつくった運動組織。のち、新左翼諸党派も加入)などに受け継がれたが、もはや大衆を熱くすることはなかった。片や、冷戦後も極東には緊張が残り、米軍はそこにいる。沖縄が示す通り、異常も長く続けば日常にすり替わる▼あの頃、幼子までが口ずさんだ〈安保反対〉の声は弱い。日米同盟を「国際的な共有財産」とたたえたのは、ほかならぬ全共闘世代、菅首相である。樺さん、まだほほえんでおられようか。

10年6月15日付『朝日新聞』−「天声人語」

 

生きていれば72歳。静かに年輪を重ねた思慮深いまなざしの女性の姿を想像する。ちょうど50年前、安保闘争の国会突入デモで亡くなった東大生樺(かんば)美智子さんのことだ▼北原白秋、山本五十六ら著名人の墓が並ぶ東京の多磨霊園に、美智子さんの墓がある。入学前につくった詩が墓誌に刻まれている。<誰かが私を笑っている 向うでもこっちでも 私をあざ笑っている でもかまわないさ 私は自分の道を行く>▼当時、学生や労働組合員以外にも多くの市民が連日、国会周辺を埋め尽くした。日米安保条約の具体的な改定内容より、岸信介首相の強権的な政治手法への怒りが爆発したのだ▼岸首相は条約の自然承認後に辞任。やがて始まる高度成長時代の下、日本は戦後の平和と繁栄を享受した。基地を押し付けられた沖縄などを除けば、安保は「空気」のように日常に溶け込んでいる▼「米国に依存し続ける安全保障が50年、100年続いていいとは思わない」。鳩山前首相が辞任の際に語ったのは正論だが、自らの言葉の軽さで腰をすえた議論もできないままに終わった▼美智子さんの詩はこう結ばれている。<ただ許されるものなら 最後に 人知れずほほえみたいものだ>。国会を囲んだデモは歴史になった。自動延長される安保条約の前で、思考を止めている私たちの姿に彼女がほほ笑むことはないだろう。

10年6月15日付『東京新聞』−「筆洗」

 

「安保は重い」と言われていたのだという。後に「60年安保の年」としてくくられる50年前を、政治学者の丸山真男はそう振り返っていた。「安保は難しすぎる。もっと切実な経済問題でなければ大衆は動かない」といった趣旨だった。▼ところが、5月20に日米新安保条約批准が衆院で強行採決されると、「突如として大爆発」が起きた。多くの市民が、時には子の手を引いて、国会議事堂の周りを幾重にも埋めた。そしてきょうが、デモに参加し国会内で警官隊と衝突して死亡した東大生、樺(かんば)美智子(当時22)の50回目の命日ということになる。▼樺は活動家だった。同時に普通の女子学生だった。当日昼過ぎまで、ガリ版刷りの資料を配り鎖国をテーマにゼミで熱心に発表していたという。「反安保」の主張や運動の形については、いまだに根強い批判もあろう。ただ、普通であることと政治的であることが当たり前に両立する、そんな時代ではあったのだ。▼先日の日経俳壇に「議事堂に弔旗なくとも樺の忌」(宇井偉郎)とあった。彼女は偶像であり続けている。樺の死後、安保改定を見届けて岸信介首相は退陣した。そういえば、鳩山由紀夫首相が辞任したのは安保をあまりに軽々に扱ったからだろう。50年たったところで、安保が国の大事であることは変わらない。

10年6月15日付『日経新聞』−「春秋」

 

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