特 攻特攻(特別攻撃隊)

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1937(昭和17)年03月07日付『東京日日新聞』(現・毎日新聞)

 

帰るなき 機をあやつりて 征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと(鶴田正義)

 

鹿屋市特攻慰霊塔知覧特攻平和館

 

 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会によると特攻戦死者は5,843人(開戦時の特殊潜航艇乗員も含む)とされる。

 

軍省は,1944(昭和19)年10月28日特攻出撃を軍艦マーチとともに特別放送で流した。翌10月29日付『朝日新聞』は,「神鷲の忠烈万世燦たりー神風特別攻撃隊敷島隊員 敵艦隊を捕捉し必中必殺の体当り」との見出しで報じ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻424頁),またアサヒグラフは,「銀翼の神々ー忠魂薫る神風特別攻撃隊」との見出しをもって,「機,人もろとも爆弾となって適機に突進する神鷲。若冠,紅顔の若人は莞爾として続々この壯途にのぼり,敵を侵駭戦慄せしめつゝある……」との解説付で載せ,特攻第1号の海軍大尉関行男(リンク)攻撃隊長(愛媛県西条市出身−享年23歳)とその未亡人の写真を掲載した(朝日新聞社編『アサヒグラフに見る昭和の世相−−5』186頁)⇒44年10月29日付『毎日新聞』西条市楢本神社(特攻「五軍神慰霊碑」)川島高峰論文(リンク) 

以後関大尉は,軍神として祭り上げられたが,神風(当初「し〈じ〉んぷう」と呼んだ)特別攻撃隊の任務は,戦艦大和をはじめとする連合艦隊がレイテ湾へ突入する(レイテ沖《湾》海戦【日本側呼称は比島沖海戦−捷1号作戦】)のを助けることだった。連合艦隊の突入は不沈戦艦「武蔵」を失った翌日の44年10月25日,したがってそれまでにアメリカ空母に体当たりして,撃滅しなければならなかったが,関率いるゼロ戦5機は出撃する度に敵艦隊を発見できず,4度出て4度帰った。10月25日5度目の出撃で敵空母を捕捉し,護衛空母セント・ローに体当たりするのであった(『決定版・昭和史−−破局への道』第11巻176〜178頁)。以後「特攻」「カミカゼ」は,体当たり攻撃の代名詞になった。

関行男大尉

関 行男大尉

 そもそも特攻は,第1航空艦隊司令長官大西瀧次郎(リンク)中将(かつて連合艦隊司令長官山本五十六の命令で真珠湾奇襲攻撃の戦術を練った1人)の発案で,その根幹思想は「若者に死に場所を与える」という精神主義であった。だがそれは,三菱航空(現重工)製造の零式艦上戦闘機(零戦――日本の軍用機として最も多い1万425機製造された)という本来空中戦専用の戦闘機に,搭載能力をはるかに超える250キロの爆弾を抱かせて敵艦に体当たりするといった無謀な戦術であったがために,零戦の巡行速度と飛行および戦闘能力を極端に落とすこととなり,その上に最新のレーダーを備え,かつ原爆に匹敵する新兵器となったVT信管の開発により,対空砲火の威力を飛躍的に増していたアメリカ機動部隊には歯がたたず,ただただ若い命を無駄に散らすだけの無意味な人的消耗戦を意味した(全特攻作戦期間中,特攻実施機数海軍1,298機,陸軍1,185機,体当たり機数244機,至近弾となった機数166機,奏効率16・5%,被害艦延隻数358艦であった――安延多計夫『南溟の果てに』277頁)。

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ゼロ戦=日本海軍の零式艦上戦闘機-39年4月初飛行,40年に日中戦争に投入され,太平洋戦争では海軍の主力戦闘機となった。最高時速530キロ,航続距離2200キロ,20ミリ機関砲・7.7ミリ機関銃各2門を装備。攻撃主体で空中戦での運動能力に優れていたが,低馬力と軽装甲のため防御に弱く,優秀な操縦者を相次いで失ったことともあいまって,やがて米軍に対抗出来なくなっていった。なお,「零(ゼロ)戦」は,ちょうど皇紀2600年に開発製造されたため,「2600」の「00」をとって「零戦」と名付けられた。真珠湾攻撃で名声を得たゼロ戦である。

だが,“名機”とうたわれたゼロ戦21型を改良して登場した後継機32型に欠陥があった。新型の32型は,戦局打開の切り札として前線に投入されたが,燃料タンクの容量が満載状態で75リットルも少なく,航続距離が逆に1000キロも短くなっていた。この欠陥が1947(昭和17)年,ガダルカナルの攻防戦で,ラバウルの海軍基地からガダルカナルまで32型が飛ぶことができず,従来の21型を投入せざるを得ないといった大きな問題を生んだ。しかも,前線から「欠陥機」とする報告を受けながら,海軍は有効な対策を講じなかったのである(NHK05年8月13日放送「ETV特集

復元されたゼロ戦(鹿屋航空基地史料館保存)⇒拡大写真

ゼロ戦のプロペラ(愛媛・護国神社)

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もとより,レイテ沖でアメリカ軍を一気に撃滅しようとした日米海戦は,残存機動部隊連合艦隊の退却あるいは全滅で終わり,日本連合艦隊は海上決戦の戦闘力を失い壊滅状態となった。そして,新たな生産が全く不可能な経済状態と戦闘員が枯渇していた国内の状況では,当然のことながら,日本の連合艦隊の決戦力が二度と回復することはなかった。

 大本営は,10月27日午後4時50分レイテ沖海戦の総合戦果を,「撃沈・航空母艦8隻,巡洋艦3隻,駆逐艦2隻,輸送船4隻,撃破・航空母艦7隻,戦艦1隻,巡洋艦2隻,撃墜約500機,我方の損害,沈没・航空母艦1隻,巡洋艦2隻,駆逐艦2隻,中破・航空母艦1隻(この他戦艦1隻沈没,1隻中破)」と発表した(1944年10月28日付『読売新聞』)。

だが,実際のアメリカ軍の損害は,沈没・航空母艦1隻,護衛空母2隻,駆逐艦3隻,潜水艦1隻,損傷・護衛空母7他計15隻に対して,日本の損害は,沈没・武蔵を含む戦艦3隻,空母4隻(参加空母全滅),重巡洋艦6隻,軽巡洋艦3隻,駆逐艦6隻,損傷は参加艦船のほとんど全部に及んでいた(『太平洋戦争(5)』−−現代史資料(39)812頁)。

 この結果,日本の保有海軍兵力は,開戦時アメリカ海軍に対して69.5%であったのが,マリアナ海戦後28.3%,レイテ沖海戦後18.0%,沖縄作戦前には実に13.8%までに低下することになる(『太平洋戦争(5)』−−現代史資料(39)解説)。

 太平洋戦争末期。本土防衛の最前線となった鹿児島には,多くの特攻基地が設けられた。中でも有名なのは,知覧基地であるが,最後には支援戦闘機もなく,片道燃料で沖縄近海に向け飛び立った。飛行時間,約2時間。最年少の操縦士は17歳だった。こうした特攻出撃による海軍だけで死者2,500人を超え,陸軍を含めると5,000人に上る。

特に1945(昭和20)年3月に入ってからは,神風に続いて800キロの大爆弾を積んだ体当たりグライダーの「桜花」や頭部に炸薬を装填した変形モーター・ボートの「震洋」など苦肉の”新兵器“も登場した。しかしアメリカ軍に対して現実にある程度戦果をあげたのは「回天」である。回天は九三式魚雷を改造し,全長14・5メートル,直径1メートル,総重量8トン,頭部に1・6トンのTNT炸薬を充填し,搭乗員1人が操縦,敵に接近すると潜水艦から発進して全速力突入する体当たり人間魚雷であった(鶴見俊輔・橋川文三編『記録現代史・日本の百年』3−−「果てしなき戦場」271頁)。

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http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kamikasetooko.files/image016.jpg  

「散るさくら,残るさくらも,散るさくら」

特攻2

女子学生の見送りを受けて飛び立つ特攻機

特攻3

別れの杯を交わす特攻隊員

特攻1

無謀な特攻攻撃で若い命が無惨にも散った。 

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関連資料

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