☆重慶無差別爆撃☆

 

〈骨と肉はコークスとなり、かたくくっついて引離せない。ああ、やさしい母の心は、永久に灰にはできないのだ〉

郭沫若(かくまつじゃく=1892〜1978。四川省生まれの中国の文学者・歴史学者・政治家。日本に留学中、文筆活動を開始。日中戦争勃発と同時に抗日救国に活躍。中華人民共和国成立後、政務院副総理・中国科学院院長・中日友好協会名誉会長などを歴任。詩集「女神」、戯曲「屈原」、著作「中国古代社会研究」など。クオ=モールオ)は、死んだ母子をと怒りを込めて表した(上原淳道訳)(『大空襲三一〇人詩集』(コールサック社))

 

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1938(昭和13)年2月から1943(昭和18)年8月まで続いた重慶への爆撃は、中国側のまとめで218回に及び、空襲による直接の死者だけで1万1885人。

1940年6月に重慶を訪れた米国の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーAgnes Smedley=1892〜1950。1928年中国に渡り、紅軍に従軍して革命運動を報道した。1949年にはゾルゲ事件に関連した容疑を受けた。同年秋、中国行きを目ざしてロンドンに渡ったが、50年5月6日病没。遺言により、北京《ペキン》西郊八宝山の革命墓地に納骨された。朱徳の伝記『偉大なる道』が遺稿となり、1955年世界に先駆けて日本で出版された。ほかに自叙伝『女1人大地を行く』《1929年》、『中国は抵抗する』《1938年》、『中国の歌ごえ』《1943年》などがある)は「毎日のように、人間のふくれあがった死体が揚子江をプカプカと流れてゆく」と書き残している。

 

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爆撃される重慶市街

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爆撃を行った海軍九六式陸上攻撃機

 

 

日本は、中国の重慶に対して無差別絨毯爆撃を実行した。

 

それは、「蛮行(ばんこう=野蛮な行為。乱暴で無作法な行為)」として世界からに非難された戦時国際法戦時に適用される国際法の総称で、交戦国間の関係を定める交戦法規と、交戦国と中立国間の関係を定める中立法規がある。「戦時国際公法」とか「戦時公法」ともいい、最近では「国際人道法」ともいわれている。無差別な空爆は、【発効されなかったが】1922年のハーグ空戦規則によって戦争であっても「非人道的」であるとして禁じられていた違反のナチス・ドイツ空軍コンドル軍団によるスペイン・ゲルニカ無差別爆撃を見習ったなったものであったが、空爆は、主に海軍によって行われた(1939年−重慶第100号・1940年−重慶第101号・1941年−重慶第102号作戦。なお、1940年の重慶第101号作戦から「零式艦上戦闘機」【零戦】が登場する)

 

 

1978(昭和53)年に発効したジュネーブ条約第1追加議定書は「文民を攻撃の対象としてはならない」「無差別攻撃を禁止する」「攻撃は厳格に軍事目標に限定する」と戦闘方法の制限を明文化した。この重要な国際人道法に日本は2004(平成16)年、162番目の締約国として加入したが、米国はまだ締約していない。

 

 

空爆によって都市を破壊し、一般市民をも戦禍に巻き込むことで、敵国民の抗戦意思を削ぐことを主たる目的としたのが無差別絨毯爆撃であったが、「飛行団ハ主力ヲ以テ重慶市街ヲ攻撃シ敵政権ノ上下ヲ震撼(しんかん=ふるい動かすこと)セントス」と陸軍の命令書に見られように、人間としての良心一欠片もない破壊が長期的に継続して敢行されれば、どのような大国でも長く抵抗し続ける事はできないこととなるという考えに基くものであった。

 

日本は、第1次近衛内閣下の1938(昭和13)年2月18日、小手調べ程度の空爆を重慶に対して敢行、翌1938年2月19日付『東京日日新聞(現『毎日新聞』)』は上海発の1面記事で前日の初爆撃を「長駆、重慶初空襲」「重慶市民狼狽(ろうばい)」の見出しで報じたが、同年12月26日には、市街地を狙った「戦略爆撃」の先駆けとなる本格的な重慶空爆を開始する。

 

 

戦略爆撃の思想は、第1次世界大戦のあと、空軍誕生とともに欧米で生まれたが、その端緒は、1921年のイタリアの将軍ドゥーエが発表した「航空機で敵国都市を爆撃すれば決定的な勝利を得る」という戦略爆撃絶対論である。兵士と兵士が塹壕(ざんごう)に立てこもり、陣地を奪い合う第1次世界大戦のような戦闘を過去のものにするこの発想は、当時の最新武器である航空機万能論を前提にしており、かつ空軍の存在意義の主張でもあり、たちまち各国の軍人に広がっていった。

 

アジア・太平洋戦争以後も、ベトナム戦争の北爆、湾岸戦争のイラク空爆、北大西洋条約機構(NATO)軍によるセルビア爆撃…と戦略爆撃は延々と続いている。しかも実行者は国家だけではなくなった。アルカイダによる9・11テロは、国際テロリスト組織が無差別都市攻撃の意思と能力を持つ現実を示したのである。

 

 

これを皮切りに、平沼内閣下の1939(昭和14)年5月3日に大空爆を敢行、以後3年の長期(継続的に行われた1941年8月まで。なお、断続的に行われた1943年までを含めると実に5年に及ぶ)にわたり波状攻撃(波が寄せて返すように、ある間隔をおいて何回にもわたって繰り返し行われる攻撃で、「重慶定期便」とまでいわれた)を行うこととなる

 

東京日日新聞上海発の記事は、39年5月3日の空爆では「一瞬の大爆撃の結果、少なくとも千名に達する死傷者を出したことは確実」との外国特派員の目撃談を伝えたが、米大統領ルーズベルトは、日本軍の重慶空爆を国際法違反として激しく攻撃した(また、同米大統領は、ドイツがポーランドに侵攻した1941年6月22日にも、人道的見地から市民を襲う都市空爆をしないよう呼びかけた)

 

すなわち、1937(昭和12)7月7日夜半の盧溝橋(ろこうきょう=北京の南を流れる廬溝河に架かる橋事件(「7・7事変」)にはじまった日中戦争の最中の1938(昭和13)年11月20日、国民政府中国国民党の指導下に1925年に広州で樹立された中華民国国民政府のこと。中国北部【華北】の軍閥【辛亥〈しんがい〉革命後の中国で私的軍事力をもって地方に割拠した封建的支配勢力】政府をとの戦争【北伐】の途中、南京政府と武漢政府に分裂したが、蒋介石【しょうかいせき】のもとに統一された。1949年中華人民共和国の成立で台湾に逃れた)は、日本軍の南京(なんきん/ナンチン)侵略を前にして首都を漢口(かんこう/ハンコウ=中国、湖北省武漢市の一地区)から中国内陸部の四川(しせん/スーチョワン)省の四川盆地の長江(ちょうこう/揚子江/チャン-チアン)と嘉陵江(かりようこう)の合流点に位置し、水陸交通の要地(揚子江河口から2,400キロメートルも奥地にありながら、相当大きい汽船がさかのぼれた)の重慶(じゅうけい/チョンチン)に移した(重慶「遷都宣言」)

 

 重慶が日本軍の前線(最も敵陣に近く、敵と直接交戦する戦線で、「第一線」ともいう)からはるか遠く離れており、地形的に日本軍が軍隊を派兵するのが困難であるばかりか、アメリカ・イギリスからの援助をビルマ(現ミャンマー)経由で得るのに便利な地であったためである。

 

重慶には1937年11月から1946年5月1日に南京に遷都(せんと=都を他の地へうつすこと)されるまで政府が置かれたが、日本政府と軍部は国民政府(蒋介石政権)の中国に対する全国支配を否認し、一地方政権にすぎないとみなす立場から、あえて「重慶政府」という呼称を用いた。

 

日本軍は、1938年10月27日大作戦の結果、武漢三鎮ぶかんさんちん=〔「鎮」は都市の意〕湖北省にある武昌・漢口・漢陽の総称で、現在の武漢市)や広東カントン /コワントン。珠江の流域を占め、南シナ海に臨む省で、省都は広州)等の要衝(ようしょう=商業・交通・軍事などの点で、重要な場所)を占領したが、補給線(前線に兵員・兵器・食料などの軍需品を輸送するための陸・海・空の交通路)の確保と占領地確保の困難さに遭遇しており、その上、軍事動員力も限界に達し、戦況は手詰まりの状態であった、

 

その打開策が、つまり頑強に抵抗する国民政府壊滅のために取った戦術が、海軍航空部隊による首都重慶に対する無差別空爆であった。

 

当初空爆は、飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶は霧が立ち込める日が多かった(それゆえ、「霧の重慶」としても有名)ことと相まって、さらなる戦果を求めて1940(昭和15)年6月中旬以降、海軍陸攻隊は稼働全兵力をあげて連日連夜無差別攻撃を敢行、家屋密集した地域(重慶は、「山城」と呼ばれるように、山腹に住宅地が密集していたに落とされた爆弾焼夷弾)は毎日、50トンから800トンにも達した。

 

1939(昭和14)年は5月から10月、1940(昭和15)年には5月から10月、1941(昭和16)年は5月から8月までの3年の長期にわたる重慶空爆であったが、このうち、1940年の空爆は、出撃回数182回、使用爆弾4,333トンに達しており、1939年5月3日と4日の2日間の爆撃での死者は4,000人といわれている(佐々木隆爾編「昭和史の事典」)。

 

5月3・4日の大規模空襲当時、前線からはるか後方の重慶では空襲もの経験がなく、その破壊力の恐ろしさも知らなかったことから、戦争準備は整っておらず、防空施設がきわめて不十分であった。このことが被害を増幅させたが、この空爆以後、重慶市民は郊外に緊急避難を始めると同時に、全市的に防空地下トンネルを掘り始めた(防空地下トンネルは現在地下鉄として生まれ変わり、平和のために使用されている)

 

1941年6月5日の6時間に及ぶ空爆では防空壕に避難していた2,500人の中国市民が死亡した(「6.5重慶防空壕大爆撃【轟炸】」/「6・5随道惨案」。)

 

また、1941年6月24日から29日までの6日間には記録的な連続爆撃が行われたが、同年8月20日の「最後の(継続した)空爆」は、海軍陸攻90機、陸軍の重爆撃機18機、合わせて108機という大編隊による同時攻撃で、これで重慶の市街地は灰燼(はいじん=すっかり燃えて跡形もなく灰になってしまう)に帰し、惨憺たる光景を呈した(漢口の基地から重慶に飛んだ海軍の重爆撃機は、延べ2,400機、投下した爆弾は15,000トン。2万3,600人の市民が犠牲【行方不明者も含め3万5000人以上−推定】になった。なお、日本側の資料では、1939年5月の1回の攻撃で1万2,000人が死亡したとの情報を日本の上海駐在武官が入手していたとの記録もある−05年03月09日付『毎日新聞』)

 

当時、重慶では世界各国のジャーナリスト達が取材していたが、彼らは目撃した重慶の惨状を世界に配信、日本はドイツ同様、国際的非難を浴びることとなる。

 

まさに重慶の市民にとっては、「悪夢」以外の何者でもなかったが、この空爆は、重慶を壊滅させれば国民政府は屈服するであろうという、何らの根拠もない日本軍部の安易して空虚な、ほとんど願望に近い思い上がった非人道的戦術であった。

 

当然のことながら、日本軍部が意図した戦果はあがらず、ただ爆弾を消耗するといった状況下で、日本は無謀にも米英と開戦、海軍航空隊は南方戦線に転進せざるを得なくなり、重慶爆撃はここで一段落するが、空爆そのものはその後も断続的に行われ、重慶最後の空爆は1943年8月23日に敢行された。

 

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日本軍の爆撃を受けた重慶の市街地=1941年8月23日付け『大阪朝日新聞』夕刊1面=「日本空軍が軍事施設を狙った猛爆の跡はまさに地獄絵図である。家屋は爆撃で消滅し、引きつづく猛炎で余すところなくやけくずれてしまった。爆撃がやむと避難壕(ごう)から市民の大群が潮(うしお)のように飛び出してくる。市民達はもやは焼土を復興させようといふ気力さえ失(う)せたように見えた」記している。

 

しかして、重慶の地上に一兵卒たりともその姿を現さなかった日本軍による重慶空爆は、ただひたすら上空から爆弾を無差別に投下する作戦であったが、それは、来る陸上戦を有利に運ぶための前哨戦として、敵の軍事基地などを攻撃するといった、かつての陸上戦をサポートする空爆から、主要軍事施設・生産施設・物資貯蔵所・交通網や政治・軍事の中枢などに対する爆撃、つまり、相手の戦争継続能力と敵に対する抗戦意欲を削ぐことを主たる目的とする、それまでの戦争になかった「戦略爆撃」への転換を意味した(前田哲男『戦略爆撃の思想』)

 

そしての悪夢は、1944年10月10日10.10沖縄空襲の沖縄諸島を皮切りに、1945年3月から8月にかけて、東京横浜大阪、名古屋等で日本国民が追体験(他人が体験した事柄を、解釈作業などを通して自分の体験として再現すること)するところとなる。

 

まさに、「重慶の遺産」であった。

 

 

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