伊藤博文(いとう・ひろぶみ)

1841(天保12)年10月16日〜1909(明治42)年10月26日

 

 

日本の内閣の中で一番若い首相

首相就任時44歳。なお、最も高齢で就任したのは、戦前最後の第42代首相の鈴木貫太郎総理で就任時77歳

 

 

伊藤旧居(山口県萩市)

 

長州・周防(すおう)国熊毛郡束荷村(山口県熊毛郡大和町)字野尻の生まれの明治時代の政治家で、初代内閣総理大臣。

 

初名は俊輔。父は長州藩軽率伊藤直右衛門の庸人林十蔵。家が貧しく、12歳ころから奉公にだされた。14歳の時伊藤姓を名乗って松下村塾に学んだ後長崎で洋式操練を習得、1859(安政6)年、桂小五郎木戸孝允=きどたかよしに従って尊王攘夷運動に参加、1862(文久2)年12月品川御殿山英国公使館焼打に加わった。

 

翌年井上馨 (聞多)と共にひそかに渡英、帰国後、開国・富国強兵論に転向、第2次征長戦の際は、汽船や兵器の購入に尽力し、薩長連合結成に尽力した。

 

明治に入り新政府に使え、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となるが、1869(明治2)年4月に上京(東上=東京に赴くこと)、1869(明治2)年7月大蔵少輔、翌年民部少輔兼任となる。同年10月には財政幣制調査のため渡米、1871(明治4)年11月岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴した。

 

1871年12月、サンフランシスコ市長歓迎のパーティーで伊藤は、日本側を代表して英語で、「現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念をもって世界に人々から見られるようになるだろう」と日の丸を指しながら演説をした。

 

 帰国後、大久保利通の内治優先を支持して西郷隆盛や板垣退助らの朝鮮派遣(征韓論)に反対、1873(明治6)年10月に西郷らが下野(げや=政府の要職を辞して民間に下ること)した後、参議(1869〔明治2〕年、太政官に設置し、大政に参与した官名。左右大臣に次ぐ正3位相当したが、1885〔明治18〕年内閣制の創設とともに廃止される)兼工部卿(こうぶきょう=殖産興業政策推進のため設置された政府機関である工部省の長官)となり、大隈重信と共に大久保を補佐した。

 

 1878(明治11)年5月大久保が暗殺された後、参議兼内務卿(ないむきょう=警察・地方行政などを統轄した内務省の長官で初代は大久保利通が就任。1885年(明治18)内閣制度創設とともに内務大臣に名称変更)となる。このとき、漸進的な国会開設論を唱えて、大隈重信が左大臣(さだいじん=明治初期の最高官職の一で、1869〔明治2〕年に天皇を補佐して政治をつかさどるため、右大臣とともに設置されたが、1885〔明治18〕年の内閣制度の制定により廃止)の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)に提出した「立法・行政・司法の三権分立」の原則にたって、民選議院において多数の議席を獲得した政党の党首が首相に就くというイギリス型政党政治実現の意見に反対し、1881(明治14)年10月11日の御前会議で大隈を失脚させる(「明治14年政変」)

 

翌1882(明治15)年3月渡欧、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法調査を行い帰国後、1885(明治18)年12月に内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣(第1次伊藤内閣)となる(なお、伊藤が総理大臣に就任したときにはまだ、議会制度は存在しなかった)

 

 

 翌1886 (明治19)年に憲法草案起草に着手し、1888(明治21)年4月枢密院設置とともに議長となって憲法草案の審議にあたり、1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法を発布するとともに、皇室典範・皇室財産を確立する一方、自由民権運動には保安条例を制定して弾圧した。

 

伊藤が憲法を草案した夏島(左)

 

 1890(明治23)年10月貴族院議長(第1議会のみ)、翌年枢密院議長再任後、1892(明治25)年8月第2次伊藤内閣を組織、1894(明治27)年7月には日英通商航海条約を締結し、その直後に日清戦争(1894〜1895)を強行する。

 

 日清戦後は自由党と提携し、1898(明治31)年1月第3次伊藤(連立)内閣を組織し、地租増徴等増税案を議会に提出したが憲政党の反対に遭遇して総辞職、元老(げんろう=重要な政治問題について天皇の諮問に答える国家の最高機関的役割を果たした政治家。詔勅を受けて元勲優遇とされた者。実際は黒田清隆・伊藤博文・井上馨・西郷従道・大山巌・松方正義・山県有朋・桂太郎・西園寺公望の9人で、西園寺の死をもって消滅した)たちの反対を押し切って大隈、板垣を後継に押し、日本最初の政党内閣(第1次大隈憲政党内閣)を成立させた。

 

 1900(明治33)年9月に立憲政友会を結成して総裁に就任、第4次伊藤内閣を組織したが、山県有朋(やまがたありとも)系の官僚派と対立した。

 

 1903(明治36)年7月3度目の枢密院議長となり、対露開戦決定に参画、日露戦争後は大使として韓国に赴き、第2次日韓協約を結び、韓国統監府を設置、初代韓国統監となった。

 

伊藤と(和服を着せられている)韓国の皇太子

暗殺された現在のハルピン駅(右上)

 

1909(明治42)年6月統監を辞し、4度目の枢密院議長となり、同年10月満州視察と日露関係調整のため満州を訪れた際、ハルピン(「哈爾浜」=中国、黒竜江省の省都で、松花江中流の南岸に位置する都市。19世紀末にロシア人が建設し、鉄道交通の要地として発展)駅に迎えに出たロシアの大蔵大臣に頼まれてロシア兵の閲兵(えっぺい)した直後に駅頭で韓国の民族運動家安重根(あんじゅんこん)に射殺された(享年69歳)

 

翌1910(明治43)年8月に韓国併合(日韓併合=「日韓併合ニ関スル条約」により日本が韓国を併合し、韓国を日本の領土としたこと。日露戦争後、これまで日本は3次にわたる日韓協約により漸次韓国支配を強めてきたが、日韓併合以後は朝鮮総督府を置き1945〔昭和20〕年の敗戦まで完全支配した)が断行された。

 

 

 

韓国の英雄として記念切手になった安重根

 

1884(明治17)年に伯爵、1895 (明治28)年に 侯爵、1907(明治40)年に公爵となる。

 

なお、4度内閣を組閣した伊藤の在任期間は7年5月(2,720日)を超えたが、これは同じ長州出身の3度組閣した桂太郎内閣の7年9月(2,886日)、3度組閣した佐藤栄作内閣の連続7年6カ月(2,798日)に次ぐ第3位の記録である。

 

 

 

伊藤の花押

 

花押(かおう)

 

花押とは、署名又は特定の文字等を一定の方式に従って独特の筆法で形洋化したもので、別名「書き判」とも言われ、その形が花文様に似ていることから「花押」と呼ばれている。華押とも。

 

時代によってもその様相は変遷してきたが、そもそもは自署のかわりとして中国の明時代に発生したものであった。つまり署名の代わりに書いた一種の記号(草書体で書いた署名をくずしたもの。先ず天と地の両線〔上下の二線〕を横に引き、この天地の中間に自分で考えた文字を簡単な形にして作成している)で、日本では平安末期より実名の下に花押が書かれるようになり、江戸時代に実名と花押を連記する慣行が生まれた。

 

また、1885(明治18)年12月22日の内閣制度創始以来の閣議書に閣僚の意思を表わす花押を毛筆で書くことが慣習となっている。

 

 

  著作等(近代デジタルライブラリー収載)

帝国憲法皇室典範義解 / 伊藤博文著 金港堂等, 1889 <YDM31757>

帝国憲法義解 / 伊藤博文著 国家学会, 22.4 <YDM31742>

皇室典範義解 / 伊藤博文著 ; 国家学会編 国家学会, 22.4 <YDM31539>

伊藤侯演説集 / 伊藤博文述 日報社, 32 (日報社文庫 ; 1) <YDM27665>

維新風雲録 / 末松謙澄編 哲学書院, 33.10 <YDM6418>

 

 参考文献

長田偶得著『明治六十大臣 逸事奇談』(大学館 1901〔明34〕年12月)

春畝公追頌会『伊藤博文伝』全3巻

久米正雄『伊藤博文傳』 [偉人傳全集] (改造社)

『伊藤博文関係文書』全9巻

鳥海靖『明治を作った男たち』

坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』

佐々木隆『藩閥政治と立憲政治』

明治維新人名辞典(吉川弘文館)

幕末維新人名辞典(新人物往来社)

朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)

 

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